龍神村に生まれて

僕は和歌山県龍神村に生まれ、13歳まで龍神村で育った。大人になって、龍神村について何も知らないことに気がついた。

身は高野、心は東寺に納めおく 3

2015-06-25 16:37:38 | Weblog
皆さんは知らんと思うけど、平安時代は大変な時代やってん。

基本的に国にお金がなかってん。

天候が悪く、農作物はできない。
平安遷都の前に長岡京に遷都をしたにもかかわらず、洪水に見舞われたり暗殺や不吉な出来事が多発したので10年で平安京に遷都したから財政的にかなりきつかってん。

当時を思い出すだけでも辛いです。

更に、東北以北で勢力を広めていた蝦夷(えみし)の制圧にもお金がかかっていたんですね。


そんな中、西寺の守敏は、国立のお寺を貫いていました。
印象としては守敏はプライド高そうです。
しかし、空海はというと民間のお寺にしようと思い切った改革を行ったのです。

まるでかつてのJALとANAに雰囲気が似ています。

空海は意外と天皇と仲が良かったので、天皇も許してくれたんですね。
平安時代初期の三筆といえば空海・橘逸勢・嵯峨天皇ですからね。

空海と嵯峨天皇は筆友だったんですね。


僕が思うには、守敏は空海より位も高く年齢も上ということで、国立の寺を真面目に守らなあかんと思っていたように思います。
自由な空海に対して、ひょっとしたら“傲慢”な心があったのではないこと想像します。
傲慢の対義語は『謙虚』です。


倒産した会社の社長が良く口にする言葉は、『当時私は傲慢だった。』という言葉です。
そういう傲慢さが守敏にはあったように思うのです。



実は平安遷都から西寺も東寺も何度も焼けています。
主には落雷による火事です。

火事になったら建て直さなければならない。
じゃ、誰が金出すの?ってなります。

お金のない国の運営である西寺、一方民営化に成功して密教の聖地と化し熱烈なサポーター(大師信仰)を多く持っていた東寺。


『西寺と東寺、ひとつでいいじゃないの?』と思う人もいたでしょう。

実は西寺は平安時代に2度の火事にあい、平安時代にすでに廃寺同然になっていたという情報もあるくらいです。


後に、東寺には織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの強烈なサポーターが付きます。
しかし、権力者の一時的な大金だけでは東寺を維持することはできません。


平安時代、天皇の後押しもあって民営化(一時期だけ国の援助を受けていた。民営化した直後のお坊さんの給料だけ。)に成功して、庶民に身近な密教の聖地化に成功した東寺。

その後の権力者だけでなく多くの庶民をも強烈な支援者としたことが、現在東寺が京都駅の南に現存する大きな理由だったのではないかと結論づけました。


謙虚にお客様の望む運営をする。


いつの世にも共通する経営の基本ではないかと感じました。
非常に、えらっそ~に。

そう感じてんもん。

なんか、わかったようなやからんような結論になってしもた。





身は高野、心は東寺に納めおく。

皆さんも、是非弘法大師空海が何度も行き来した東寺~高野山に足を運んでください。
そして、疲れた足を休める為に、高野山からちょっくら南下して龍神温泉まで足を伸ばしてみてください。

僕は今大阪に仕事で来ています。

次回は10月末~11月1日まで大阪に仕事に来るので11月2日と3日は龍神温泉の季楽里龍神を予約しています。

秋には龍神いぬで!







身は東京、心は龍神村!

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