どんな岩石にも物語があり、地球の歴史を読み解く貴重な証拠に満ちている。岩石や地質現象が秘めている魅力的な歴史的・文化的背景、それらが人間の地球に対する考え方や暮らしをどう変えたのかを、地質学の謎解きに魅入られ翻弄された人びとの逸話をまじえ、主な岩石・有名な露頭・重要な地質現象に焦点をあてて解説する
エキゾチックアメリカ―岩石に秘められたパラドックス‐彷徨う化石と移動するテレーン
大地のジグソーパズル―アルフレッド・ウェゲナーと大陸移動説
望郷の白亜の崖―白亜紀の海と温室気候になった地球
イリジウム濃集層―恐竜、滅びる
天然磁石―プレートテクトニクスの基礎になった古地磁気学
青色片岩―沈み込み帯の謎
トランスフォーム断層―地震だ!サンアンドレアス断層
地中海、干上がる―地中海は砂漠だった
氷河の落とし物―詩人、教授、政治家、用務員と氷期の発見
アバロニア大陸
ローレンシア大陸
バルティカ大陸
アルフレッド・ウェゲナー
が推定した大陸の移動速度(年間250cm)はあまりに速すぎで、今日では多くのプレートはその1%の速度(年間2.5cm)でしか移動しないことがわかっている。
彼がその速度を提案した1915年頃は、地質年代の決定はまだ始まったばかりで、超大陸パンゲアが成立していたペルム紀がどのくらい過去のことだったかは誰にもわかっていなかった。
北極圏に近いため11月23日から1月20日は太陽が昇らない。
ウェゲナーの埋葬地点を発見し、十字架を立てて再び埋葬した。
彼の遺体は今なお100mの氷の下にあって、グリーンランド氷床の流動とともに移動しているのだ。彼は50歳の誕生日の直後、地質学界から知られることも哀悼されることもなく死去した。もしもう30年生きていたら、自分の仮説が立証されるのを目の当たりにできたかもしれない。
ウェゲナーと南半球の多くの地質学者を納得させた証拠とは何だったのだろうか?
その証拠には2つの大きなポイントがある。
南半球の大半の大陸にあるペルム紀の地層と、より古い先カンブリア紀の基盤岩層である。
最も鮮明な証拠のひとつは超大陸ゴンドワナを構成していた基盤岩、つまり南アメリカ、アフリカ、オーストラリア、インド、南極大陸だ。
ドーバーの白亜の崖
その崖は、要塞の島というイギリスのイメージを象徴するもので、心理的には大陸からの侵入者に対する城壁あるいは防護壁としての働きがある。崖は堂々として見え、侵入者たちはそれを回避する道をつねに探していた。
イギリスでの戦闘の間、白亜の崖はドイツ空軍機の波状襲来の監視所として軍事上重要な位置を占め、また侵入するドイツ軍機をイギリス軍が十分に前もって探知できる秘密のレーダー監視塔の設置場所でもあった。
ドーバー海峡の白亜の崖の色はチョークと呼ばれる地層に由来する。
現在の黒板用の「チョーク」の大多数は、棒状に固められた粉末の石膏でできている。
現在の北ヨーロッパのチョークの丘陵地帯は9,000万年前、広い海底に沈積する石灰質の軟泥だった。チョークは電子顕微鏡を使った観察が必要で、ほとんどすべてが円石藻でできている。
円石藻が死ぬと、数百万年の間に相当な厚さの地層がしだいに積み重なって、上に重なった堆積物の重みで、最終的には固まって岩石になる。
チョークは地球規模の現象の産物でもある。
それは白亜紀後期の全球的な温室気候だ。
恐竜時代の後半、地球は非常に温暖な気候になり、恐竜が北極圏や南極圏を闊歩していた。
大気中の二酸化炭素濃度は2,000ppmもあったので、(現在の濃度は400ppm超え)当時は氷河や積雪はどこにもないと言ってもいいくらいだった。すべての極氷が融解して海水面が極端に高くなり、浅い海が大陸の大部分をおおって沈水させた。
イリジウム濃集層、恐竜滅びる
実用的な発明の中の、インクジェット式プリンター、コーンフレーク、安全ガラス、耐熱ガラス、ゴムの加硫はすべて偶然の産物だ。
パーシー・スペンサーは第二次世界大戦後に余剰品となったマグネトロンの別の活用方法を探していて、彼の実験着のポケットに入れていたキャンディーバーをマグネトロンが溶かしたのをたまたま見て、電子レンジとして利用できることを発見した。
「科学は実用的で役立つものでなければならない」というこの完全に間違った考えの悲しい皮肉は、科学における最も優れた発見の多くが予想や計画されていたものではなく、偶然に起こっているというところにある。たいていの場合、とても重要な新しい事実を発見した科学者はそれを探していたのではなく、何か他のことを追求していたときに偶然、大発見をしたのだ。
アイザック・アシモフ
「科学の世界で聞いて最もワクワクする言葉は、新しい発見を告げるもので、『見つけた!』ではなく、『そいつはおかしいぞ・・・』なのだ」
イリジウム;原子番号77、元素記号はIr
ついに彼らは、イリジウムの異常値が白亜紀末に地球に落下した直径10~15kmの小惑星の衝突に由来すると計算した。その小惑星は、広島、長崎に投下された原子爆弾の10億倍以上のエネルギーに相当する、TNT火薬1億メガトンのエネルギーをもっていたことになる。
(ルイス・アルバレスは、広島に向かうエノラゲイに同行した2機目のB29爆撃機に科学観測者として搭乗して原爆投下を実際に目撃している。また原子爆弾を製造したマンハッタン計画で仕事をはたし、彼自身の業績でノーベル賞も受賞しており、物理学の世界ではすでに有名だった)
このような小惑星の衝突によって宇宙起源の宇宙塵が地上にまき散らされただけではなく、より重要なことは、衝突によって太陽光線が遮られて陸上・海中の植物を枯死させてしまい、食物連鎖を底辺部分で破壊する「核の冬」効果を招く粉塵の雲が大気に充満する点だ。
これらの考えのすべてがまとめられて、1980年ついに「サイエンス」に公表された。
しかし異常に高濃度のイリジウムがデンマークのマテウンスの断崖と深海底の掘削コア堆積物からの発見されるに及んで、その異常値が局地的なものではないことがわかった。
プラチナや金の指輪にはK/Pg境界の試料以上に高濃度のイリジウムが含まれている。
地球史2番目の規模のデカン噴火
この噴火は莫大な量の火山塵と火山灰を大気に放出し、「小惑星衝突による核の冬」仮説に似た効果を発生させた可能性がある。マントルに由来するキラウエアのような火山にも多量のイリジウムが含まれていることがわかると、話はがぜん面白くなった。
最大の問題は「動かぬ証拠」--要はK/Pg境界での衝突クレーターが見つかっていないことだった。1,970年代後半に遡って、グレン・ペンフィールドという石油地質学者が、巨大なクレーター状の地形がメキシコのユカタン半島北部のジャングルの下に埋もれていることを示す地球物理学的データを発見した。
しかし、巨大なデカン噴火がこの天体衝突と同時か、そのわずか前に始まっていたことがわかっているので、これら2つのイベントの影響をどのように区別するのかというさらに難しい問題が残っていた。
最新の研究によると、K/Pg境界のずっと以前から恐竜は衰退していて、少数のトリケラトプスとティラノサウルスが生き残って地球への火球落下を目撃したと考えられている。しかし陸上動物のほぼすべて;ワニ・カメ・ヘビ・トカゲ・淡水魚・カエル・サンショウウオはほとんど絶滅することなく、地獄のような「核の冬」をうまく生き延びた。
はっきりしているのは3つの出来事がほぼ同時に起きたことである。
天体衝突、火山噴火、海水面低下だ。
3つすべてが大量絶滅に影響したに違いなく、すべての結末を説明するには単一の原因では不十分だ。
天然磁石
プレートテクトニクスの基礎になった古地磁気学
12世紀には、中国の航海士はコルクに刺した磁針を水に浮かべて、原始的な羅針盤にする方法を見つけていた。
地球磁場の本当の成因は、地球物理学者が地球の核は大きい鉄ーニッケルの合金でできているのだという結論に達した20世紀半ばまで発見されなかった。
数千年から数百万年ごとに磁場が逆転。
「正帯磁」
「逆帯磁」
榛名デイサイト
謎・海洋底の縞模様
ハリー・ヘスは、その過程で深海底からそびえ立つ巨大な海山などの重要な地形を数多く発見した最初の人物だった。これらの海山には山頂部が平たくなったものもあった。
このような海山を「ギヨー」と名づけた。
海軍での仕事から、海山がおそらく一度は海面上で噴火し、その後、時間の経過とともに徐々に深く沈降していった火山だということがヘスにはわかっていた。
本当のロゼッタストーンは、1799年にナポレオンのエジプト遠征のときにある兵士がナイルデルタで発見した黒い花崗閃緑岩の大きな石碑だ。
石碑には、碑文が象形文字(上)、民衆文字(中)、ギリシャ文字(下)で書かれた3つの異なる訳文がある。これは象形文字を解読する手がかりを研究者に提供し、それが次にエジプトの古代史を理解する糸口となった。
ロゼッタストーンはついに1822年、フランスの考古学者、ジャン・フランソワ・シャンポリオンによって解読された。解読を終えたとき、彼は象形文字、さらには古代エジプトの歴史を解明する鍵を見つけた。
海洋の大きな謎のひとつはマリー・サープの地形図に鮮やかに現れていた。
それは海溝といわれる途方もなく深い海域だ。
世界中には海溝が約50あり、総延長が5万kmに及ぶが、それらは延長に対してたいへん幅が狭く、海底の0.5%の面積を占めるにすぎない。
ほとんどの海溝は太平洋の周縁部にある。
多くの海溝は3,000~4,000mの深さだが、マリアナ海溝は水深11,034m。
1872年~76年に世界中の海洋を航海して、水深測量と試料のドレッジ採取を行った草分け的な海洋調査船チャレンジャー号によって発見されている。
チャレンジャー海溝
1960年、深海潜水艇「トリエステ号」がマリアナ海溝の最深部に到達した。
サープとヒーゼンは多くのこのような海溝を記載したが、1950年代にはその起源は謎だった。
ベイニング・マイネスの最もめざましい成果のひとつは、海溝下で重力がたいへん小さいことだった。重力測定の基本原理に従うと、これは海溝下の地殻が予想よりもはるかに密度が小さいことを意味するものであった。対照的に、薄い海洋地殻のすぐ下には高密度のマントルの岩石が存在するため、ほとんどの海域での海底の密度はたいへん高かった。言い換えると、海溝下の深部では、低密度の地殻物質のような何かが高密度のマントル物質の代わりに存在しているに違いなかった。
1920年代後半から1930年代にかけて、互いに独立して研究していたカルフォルニア工科大学の地震学者ヒューゴ・ベニオフと日本の地震学者の和達清夫が、地震が発生した地下の位置(震源)の深さを明らかにする手法を揃って開発した。次に彼らは海溝付近で発生する多くの地震の震源をプロットし始めた。驚いたことに、明確なパターンがあったのだ。
浅発地震(震源の深さが70kmまたは60km未満の地震)は海溝の直下と大陸の末端で発生していた。しかし、震源が深くなればなるほど、大陸の末端の下と海溝から離れた位置で地震が発生していた。
1964年のアラスカ地震
1946年3月27日、マグニチュード9.2、
アメリカで観測・記録された中では最も強い地震であった。
この5年前にアラスカは州になったばかりだった。
アラスカ州南部ではいくつかの町が壊滅し、いくつかの地域は海に沈んで消滅した。
巨大な津波が沿岸のあらゆるものを流し去り、その一方で液状化現象に飲み込まれて沈降した地域もあったし、大規模な地すべりがジェットコースターのように住宅を運びさった場合もあった。この地震は活動中の沈み込みの存在を最初にはっきりと示したものだった。
トランスフォーム断層
地震だ!サンアンドレアス断層
サンアンドレアス断層は概して明確なばかりか、まるでおなかの手術の跡のような大移動の踏みならされた通り道が見えるのだ。
1906年のサンフランシシコ地震
マグニチュード7.8
とくにヘイワード断層はとりわけ危険だと考えられている。
要するに、サンフラシスコ市の地震の危険は終わっていないのだ。
巨大地震は長年の懸案で、それは人口と社会基盤の激増によって、1906年の地震よりもはるかに壊滅的なものになるだろう。
巨大地震を引き起こすサンアンドレアス断層は、それは世界で最も有名な断層だ。
サンアンドレアス断層は、1895年にカリフォルニア州大学、バークレー校の地質学者、アンドリュー・ローソンによって認識された。
サンアンドレアス渓谷にちなんで命名した。
サンアンドレアス断層は年代測定の最初の段階では、地震発生間隔が137±8年だということがわかった。その後の研究では145±8年だと述べている。
2017年がフォート・テホン地震から160年になる。
1857年のフォート・テホン地震のように数秒間に10mのずれを生じるだろう。
それは長い間カリフォルニア州南部の人々が身構え、恐れてきた「巨大地震」になるだろう。
ディブリーとヒルは、1953年、彼らは並外れた結論に達し、画期的な論文を発表した。
サンアンドレアス断層は、ジュラ紀(わずか1億4,000万年前)以後、200~300kmも移動したというのだ。彼ら以前のほとんどの地質学者は、断層のズレはせいぜい4~5kmに過ぎないと主張してきた。
カリフォルニア州の西側半分がいかに遠くまで移動したのかというこの驚くべき話
中央海嶺と海溝をつなぐトランスフォーム断層
プレートテクトニクス理論の総仕上げ
地中海、干し上がる
地中海は砂漠だった
モホロビチッチ不連続面;「モホ面」
1940年代の後半、地震学者は世界各地で地殻の厚さを確定した。
その結果、海洋地殻は比較的薄く、マントルの上に載っている地殻がわずか10kmでしかないことを発見した。一方、大陸地殻は厚さが50~150kmの範囲に及び、海洋地殻と比べると少なくとも5~15倍は厚かった。
掘削調査船ちきゅう号
とても大きく、全長210m、全幅38mで、掘削櫓の海面からの高さは120m。
ヘリコプター甲板があり、航続距離は27,000km以上。
200人が乗船可能で、水深1万m以上の深海底を掘削することができる。
2012年4月27日、ちきゅう号は水深6,898mの海底を掘削し、世界記録を樹立した。
世界で最も注目すべき場所のひとつは、シチリア島とイタリア本土の間にあるメッシーナ海峡だ。いちばん狭いところでは幅3.1kmで、地中海の海生生物だけではなく、陸生生物にも大きな影響を与えている。
地質学者にとっては「メッシーナ」は別の意味がある。
石膏と塩類でできた途方もなく厚い地層を発見した。
これらは湖か海の堆積盆で水の蒸発によってできる鉱物で、わずか数センチメートルの厚さの塩類や石膏を沈殿させるには大量の海水を蒸発させる必要がある。ところによっては、塩類と石膏の堆積物は1,500m以上の厚さがあって、それは膨大な量の海水が蒸発しなければならなかったことを意味している。塩類と石膏が古代世界の各地に船で輸送された価値の大きい産物だった頃、古くからシチリア島民はこれらの塩類堆積物を採掘していたのだ。
ナイル川は自然の強大な力だ。
1956年、ナイル川でのダム建設の資金調達のために、ガマール・アブドゥル=ナーセルは収益を得ようとスエズ運河を国有化した。これは世界恐慌のきっかけになった。
イギリス、フランス、イスラエルがエジプトに侵攻し、スエズ運河をめぐって世界はほとんど戦争というところまでつき進んだが、最後にアメリカとソビエトが圧力を加え、ついに軍隊は撤退した。エジプトはそれ以来スエズ運河を支配してきた。
大多数の掘削コアで、地中海の底が干し上がり、そのあと再び短期間の満水が起こり、そして再び干し上がりと、これを何度も繰り返していたことを示す、塩類と石膏が通常の海成堆積物と厚く互層していることも発見した。
この塩類の量は現在の地中海が含んでいる量の50倍にあたる。
すなわち、少なくとも地中海は50回連続して干しあがることが必要で、満水と乾燥の急速な変動は劇的なものだったに違いない。
アラビア半島とアフリカがアジアに衝突した2,000万年前、地中海は当初、東の端が閉じられていた。そのため、海水を流し込み、蒸発した水を補うことができるのは狭いジブラルタル海峡だけだった。596万~533万年前、地中海は完全に干し上がり、その後ジブラルタル海峡を通って一時的に海水が流れ込んで再び満水になり、これを交互に少なくとも50回にわたって繰り返していたのだ。
ライアンとシューは、100年で地中海を満水にするには1年間に3万4000立方kmの海水がジブラルタルの滝(海峡)から流れこむことが必要だったと計算した。
海水の体積と水圧はたいへん大きく、その流入速度なら轟音は音速の壁を破っただろう!
地球の自転軸は黄道(こうどう)面に対して直立しているのではなく、23.5度だけ傾いている。
黄道・・・天球上での太陽のみかけの軌道
その傾斜角度はいつも一定というわけではなく、約22度から24.5度の間で変化する。
傾斜角度が大きく、24.5度だった場合、両極地域は日射量が大きくなって雪氷が融解する。
傾斜角が小さく22度のときには、両極が受ける日射量はより小さくなって、極氷が形成される。これは事典軸の傾きの周期的変化として知られ、22度から24.5度まで完全な周期で進行し、同じ傾きに再び戻るのに約4万1,000年かかる。
地球の公転軌道の「離心率」周期
太陽を回る地球の公転軌道が円ではなく楕円。
その楕円軌道はほぼ円形からもっと長方形へと、非常にゆっくりと変化する。
それにはおよそ10万年かかることがわかっている。
9万5000年、
12万5000年
40万年周期など
紀元前130年のヒッパルコスの時代から知られているもうひとつの周期は、地球の自転軸の「歳差運動」または「ゆらぎ」の周期だ。古代ギリシャ人が知っていたように、地球の自転軸は違う方向を向くコマのようにゆらぐのである。
自転軸が違う方向を向くので、それによって両極が受ける太陽光線の量に差が出る。
これが自転軸の歳差運動または「ゆらぎ」の変動による周期であり、約2万1000年~2万3000年の周期が卓越する。3つの周期の中では最も速い。
十分なコア試料が解析され、世界中のすべての海洋のデータが比較されると、科学者たちは氷期ー間氷期の変動がたった4回か5回ではなく、過去200万年に20回以上あったことを発見した!
どうやら陸上には氷河の最大の前進をもたらした最大の変動だけが記録されていて、短い周期の痕跡はその後のより大きな氷河の前進によってかき消されてしまっていたのだ。しかし深海堆積物の記録にはすべての周期が保存されており、海水温度変化の正確な時期と変動幅を精密な海水温度変化曲線として表示することができた。
案の定、海水温度変化曲線のデータに隠された3種類の正弦波の周期とは、
11万年周期の離心率の変化
4万1000年年周期の自転軸傾斜角の変化
2万1,000~2万3000年周期の歳差運動の変化
であり、30年以上も昔にミランコビッチが予測したとおりだった。