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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
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まなざしは、ゴールの先を見つめている。

鉄条網の歴史   自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明

2020年12月31日 15時57分22秒 | 読書・戦争兵器


誕生から140年余、農牧場を囲うために生まれた鉄条網は、敵と味方、支配と従属、富者と貧者を分離する冷徹・無比なテクノロジーとなった。鉄条網が辿った「外敵排除」の近現代史を明らかにする。

第1章 西部開拓の主役―鉄条網が変えたフロンティアの景色
第2章 土地の囲い込みと土壌破壊―大恐慌に追い討ちをかけた黄塵
第3章 塹壕戦の主役―第一次大戦の兵器となった鉄条網
第4章 人間を拘束するフェンス―鉄条網が可能にした強制収容所
第5章 民族対立が生んだ強制収容所―「差別する側」と「される側」
第6章 世界を分断する境界線―国境を主張する鉄条網
第7章 追いつめられる先住民―鉄条網で排除された人びと
第8章 よみがえった自然―鉄条網に守られた地域

鉄条網がこれだけ自由を拘束できるとは思ってもみなかった。
鉄条網はフランスと米国でほぼ同時期に発明され、米国では1867年に最初の特許が認められた。
米国発明学会がまとめた年代別の大発明の1860年代の頃には、
「リチャード・ガントリングの機関銃」
「ウエスタン・ユニオン社の大陸横断電信網」
「パスツールの殺菌法」
「ノーベルのダイナマイト」
「現行キーボードのタイプライター」
と並んで、この鉄条網が挙げられている。

こんな単純な構造にもかかわらず、「短時間に、広大な面積を、安価に、厳重に囲い込む」という機能は、今もって鉄条網に代わるものはない。鉄条網だけは発明当時とほとんど変わらない。

鉄条網の当初の最大の目的は、農牧場を囲うためだった。
開拓時代の米国西部では願ってもない機能を兼ね備えていた。
「六連発銃」「電報」「風車」「機関車」「鉄製犂(すき)」とともに西部開発の強力な脇役になり、爆発的に普及していった。
このために、カウボーイが放牧の牛を追っていく姿はあっという間に米国西部から姿を消し、鉄条網で囲われた農牧地が取って替わった。

鉄条網がひとたび強欲と結びつくと、土地を不法に占有し、収奪する道具となった。
牛の群れを囲う機能が、人間に向けられるのは時間の問題だった。
鉄条網は人間を狭い空間に押し込めて無力化し、家畜のように扱える。
鉄条網がなかったならば、ナチスドイツの強制収容所であれだけ大規模な殺戮を成し得たかは疑わしい。拘禁と暴力の象徴。

鉄条網は国と国を隔てる国境だけでなく、国内でも敵味方、人種、民族、宗教、貧富・・・などを分け隔てる壁でもある。原発は厳重な鉄条網のフェンスで十重二十重に守られている。

「世界一の鉄条網博物館はこちら!」:人口1300人の町ラクロス
米国では、趣味で鉄条網を収集するコレクターが多い。
特許が認められた530種を含めて、2000種類以上の鉄条網や関連のグッズが展示されている。

「鉄条網のケガ用。人にも動物にも効用あり」
「グリッデン型鉄条網」


19世紀半ば以降、欧州から移住者の大波が米国に押し寄せてきた。
第一波は、1840年代のジャガイモ飢饉を逃れてアイルランドからやってきた移住者だ。ジャガイモの病気が大流行して凶作になった。約110万人が死亡したと言われる。約100万人が米国に逃れてきた。1838年に、大西洋航路に帆船に代わって蒸気船が登場して速く安全になったこともあって、欧州各地から移住者が殺到した。
1815年から1920年までの間だけで、主として欧州から3500万人が移住してきた。
人類史上最大級の人口移動だった


「ポグロム」というユダヤ人の大量虐殺や略奪が起き、多数のユダヤ人が亡命してきた。

移住者による人口急増に支えられ、独立戦争から南北戦争を経て米国は大国へと成長していった。建国当時390万人だった人口は、1800年に530万人、1880年には5000万人、1920年に1億570万人と爆発的に増えていった。

その後、製鉄でも成功してのちに鉄鋼王になったJPモルガンに会社を売り渡した。

鉄条網による防御をさらに強固にしたのが機関銃の配備だった。
鉄条網と機関銃はほぼ同時期に実用化された。陣地の前面を鉄条網で固め、その隙間から機関銃で攻撃するというこの二つの組み合わせは最強の守りになった。
機関銃がはじめて実用化されたのは1861年に米国のガトリングが発明した「ガトリング砲」である。6本の砲身を束にした多銃身で、ハンドルを回転させて連続発射した。当時としては、毎分350発という驚異的な発射数を誇った。
このガトリング砲は、発明された6年後には日本の戦場に登場した。
長岡藩の家老、河井継之助が米国から2門を輸入した。
ちなみに「機関砲」の命名者は彼である。


単銃身のマクシム機関銃→ヴィッカース機関銃

機関銃がはじめて本格的に実戦に投入されたのは日露戦争である。
日露戦争は機関銃、鉄条網、塹壕、地雷などが登場し、近代戦の先駆けにもなった。
日本はフランス製ホッチキス式機関銃、
ロシアは米国製マクシム式機関銃をそれぞれ装備していた

ロシア軍は地雷原と鉄条網に守られた塹壕にこまり、機関銃の扱いにも習熟していた。
日本軍は終始、ロシア軍の機関銃に悩まされ、「そのために死んだ者は1万人を超えたかもしれない」と司馬遼太郎は『坂の上の雲』で書き記している。

~~日本軍が手を焼いた鉄条網~~
日露戦争の最大の悲劇は「白襷(しろだすき)隊」であろう。
探照灯で照らしだされて浮かび上がった白たすきを的に機関銃で掃射され、突撃開始からわずか1時間ほどで壊滅した。

~~第一次世界大戦勃発~~
機関銃の製造は当時、英国のヴィッカース社と米国のホッチキス社が独占していた。
ヴィッカース社の機関銃は1分間に745発も発射することができた。
戦争開始以来数ヶ月で、まず変わったのがヘルメットだった。それまでの皮製から鉄製になった。機関銃の弾や大砲の破片から頭部を守るためである。
間もなく、西部戦線で奇妙な穴が掘られ始めた。
それまで銃弾から身を守るのは、土を詰めた袋を積み上げた土塁などの防壁が主だったが、ここで史上はじめて大規模な塹壕戦がはじまった。
開戦2ヶ月にして北の端は北海にまで達した。
塹壕の全長は700キロにおよんだ。

鉄条網は軽量であることが、戦術的に重用された最大の理由である。
草や木の枝などでカモフラージュされることが多く、しかも硝煙のなかを突撃する兵士からは見えにくく、鉄条網に絡まって動けなくなったところを塹壕から撃ち殺された。
もうひとつの利点は、安価なことだった。
こうして塹壕・鉄条網・機関銃の防衛戦術の3点セットが確立した

長引く塹壕戦ではさまざまな装備が生まれた。
腕時計がはじめて将校の標準装備に加わった。
寒い冬の戦いには防水の効いた軍用コートが必要になり、このためイギリスで発明されたのがトレンチ(塹壕)コートだった

大戦末期になるとさまざまな鉄条網対策が生まれた。
1912年にイギリス陸軍が開発したのが、「バンガロー爆薬筒」である。火薬を詰めた1.5mの鉄パイプだ。必要に応じて何本か連結して、1本の長い爆薬筒として使うことができた。

==戦車の発明==
「このまま膠着状態が続けば英国はジリ貧になる」と危機感をつのらせたのは、当時英国の海軍大臣だったウィストン・チャーチルだった。
彼はキャタピラー式の農業用トラクターに目をつけた。
「これは防弾鋼鈑を張った動くシェルターである。機関銃を搭載し、トラクターの重量で簡単に鉄条網を突破することができる」
1916年に第一号戦車「マークⅠ」が完成した。
この新兵器の名前は、秘密にするために「タンク(水運搬車)と名づけられ、それ以来、戦車はタンクと呼ばれるようになった。

故障も多かったが、この奇怪な車はドイツ兵たちを恐怖に陥れるのに十分だった。
第一次世界大戦で使われた砲弾は13億発、これは日露戦争で使われた砲弾の500倍にも相当する。

はじめて航空機が戦争に登場した。
飛行機が偵察用に導入された当時、敵味方のパイロットは互いに手を振り合ってすれ違った。やがて機関銃が取り付けられ空中で戦うようになった。さらに爆弾が積み込まれて空襲もはじまった。

第一次世界大戦は1918年11月11日に終戦を迎えた。
大戦末期から欧州戦線でスペイン風邪が大流行してそれが世界に広がり、最近の研究では8000万~1億人が死亡した。多くの人が「神の下した鉄槌」(旧約聖書)と信じた。

極東では第二次世界大戦の前哨戦として、ノモンハン事件が起きていた。
この戦闘で特筆すべきは、ソ連軍が鉄条網の使用にさまざまな工夫を凝らしていたことだ。たとえば、日本の戦車部隊が悩まされた「低張鉄条網」である。直径40~50cmほどの輪状や格子状にした鉄条網を敷き詰めたものだ。そこに、日本の戦車が突っ込むと、キャタピラーを動かしている起動輪や転輪に絡みついて動きがとれなくなる。とくに、草原に隠すように幾重にも設置された場合には効果は絶大で、立ち往生したところをしばしば速射砲で撃破された。

==人間を拘束するフェンス、鉄条網が可能にした強制収容所==

南アフリカ、世界最大のダイヤモンド産出国
のちにデ・ビアス社を創設するセシル・ローズ。
130年にわたって世界のダイヤモンド市場を独占して、高価格を維持してきた。
A Diamondo is Forever(ダイヤモンドは永遠の輝き)」の名キャッチコピーで、婚約・結婚でダイヤモンドの指輪を贈る習慣を世界的に広めた。

~ナチスの強制収容所~
第二次大戦の開戦とともに鉄条網は、拘束施設には欠かせないものになっていた。
1963年の米国映画『大脱走』では、捕虜収容所を囲む鉄条網が重要な脇役となった。脱走不可能とされるドイツ軍の捕虜収容所から集団脱走を試みる連合軍捕虜たちの物語である。
主人公のスティーブ・マックーインは脱走に成功したもののナチスの監視兵に追いかけられ、巧みにオートバイを駆って国境に張られた鉄条網に沿って逃げ回る。クライマックスは、二重になった鉄条網を飛び越えるシーンだ。鉄条網に絡まって動けなくなり、再び収容所に逆戻りになる。はからずも、自由と拘束を分け隔てる鉄条網の存在を描き出した。

~ホロコーストと犠牲者~
ホロコーストは、古代ユダヤ教の祭事である「動物の丸焼きの供物」、つまり燔祭(はんさい)を意味していた。戦中から戦後にかけて、ユダヤ人の間で「ドイツがユダヤ人を生きたまま焼き殺している」とする噂が広がり、ここから転じて、大虐殺、大破壊などを意味するようになった。

ホロコーストの背景には「優生学」がある。
心身障害者やある種の病気などが遺伝すると信じられていた。
とくに、ドイツではこの説の信奉者が多く、ナチスが政権を握った1933年から「精神的、肉体的に不適格」と認定された数十万人に強制断種や強制的安楽死が強行された。とくに、ユダヤ人がそのターゲットになった。

ポーランド軍将校の捕虜1万数千人が射殺された「カチンの森の虐殺」

1941年12月4日にヒトラーが「夜と霧作戦」を命じて以来、秘密裏に拉致されて強制収容所に送られて殺害された人の総数は、900万~1000万人とみられる。
このうちユダヤ人が約6割を占めると推定される。
全欧州のユダヤ人の3分の2が犠牲になった。

収容所内で行われた陰惨な人体実験の記録も展示されている。
被験者を零度近い冷水に3時間以上浸けて生き残った者に蘇生の方法を実験したり、マラリアを感染させて新しい治療薬の効果を試すというものだった。
なかには、高度2万m以上に相当する物理条件下で人体がそこまで耐えられるか実験した記録や写真もある。

終戦までに8カ国で29ヵ所に建設された。
そのうち15ヵ所は強制労働収容所だが、他は根絶収容所を兼ねていた。

アウシュヴィッツ収容所で殺害された犠牲者数は、戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判では約400万人と認定した。だが近年の研究ではアウシュヴィッツⅠとⅡで殺戮された人は推定110万~150万人という説が有力だ。そのうち9割までがユダヤ人だった。

奇跡の生還を遂げた人々も、極限まで傷めつけられた肉体や精神が耐え切れずに、その後多数の生存者が自殺した。収容所内の自殺率は10万人あたり2万5000人になる。救出された生存者は4人に1人という高率である。その理由で共通するのは「なぜ自分だけが助かったのか」という「生存者症候群」だという。

収容者の増加につれて施設は拡大していった。
1941年には、アウシュヴィッツから約3キロ離れたビルケナウに二つ目の収容所が建設され、「アウシュヴィッツⅡ」と呼ばれるようになった。
高圧の通電鉄条網に飛び込んで自殺する者が多かったことでも知られる。

アウシュヴィッツⅡは、1944年8月の最大時には収容者は男女合わせて10万人に達した。この収容所には給水施設がなくて衛生状態がきわめて悪く、ネズミが大発生して生活環境は最悪だった。はじめから殺戮を主目的として、農家を改造した4棟の焼却炉・ガス室、死体を焼くための野外焼却炉など大規模な設備があった。

所内には、収容者をさらに痛めつけるための鉄条網で囲われた檻があった。
「バラの庭園」と称された。
ここに放り込まれるとほとんど身動きができず、他の収容者が見守るなかで、夜間の冷え込みで凍死するか餓死した。

シャワー室のコンクリートの壁には、断末魔のときにかきむしった爪の跡が、細かい模様のように覆っていた。苦しみのなかで、この世に残した最後の痕跡である。毒ガスで絶命しない場合には、生きたまま焼却炉に放り込んだ。
屋外には、何人もまとめて首を吊った巨大な物干し台のような集団絞首台があり、弾痕で大きくえぐられた銃殺場跡の「死の壁」があった。

~~旧ソ連の強制収容所~~
ドイツと並んで、強制収容所をもっとも組織的に建設・運営した国は旧ソ連である。
金・銀・白金・銅の採掘のために大量動員された東シベリアのコルイマ収容所は、アウシュヴィッツ収容所と並んで史上最悪なものに挙げられる。「金の延べ棒1本をつくるために一人が死んだ」「収容所の平均寿命は3週間」などと言われたほど残虐な扱いを受けた。

1987年に制作された英国映画『遠い夜明け』は、この一連のアパルトヘイト反対闘争を描いたドキュメンタリー映画である。監督はリチャード・アッテンボロー。南アでも公開されたが、右翼勢力による上映劇場の爆破が相次いだ。

大都市では、「集団地域法」によって人種ごとに住む地域が決められていた。黒人居留地区地域は「タウンシップ」とか「ゲットー」とよばれた。商工業のある地区はすべて白人専用になって、非白人はその地域に住むことを許されなかった。
黒人居住区のなかで最大だったのが「ソウェト」だ。

~集団墓地になった五輪会場~
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで見た墓地で、思わず足がすくんだ。
墓、墓、墓。
イスラム教独特の細長い板状の墓石が、8,000以上も視界いっぱいに広がっている。
わずか20年前に突如として出現した墓地である。


第二次大戦中の1943年に、乱立していた国家がまとまってユーゴスラビア社会主義連邦共和国として独立した。しかし、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という複雑きわまりない連邦国家だった。
1991年、連邦を構成する6つの共和国にうち、もっとも西に位置するスロベニアが独立、次にクロアチアが独立を宣言した。これに対し連邦政府は軍事力で独立を阻止しようとして、連邦軍と各共和国軍との間で戦闘がはじまった。

7カ国に分裂した旧ユーゴスラビア
スロベニア
クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
モンテネグロ
セルビア
コソボ
マケドニア

最終的に、NATO軍の空爆などの軍事的圧力を経て、1995年に内戦が終結した。セルビアと連合国家を形成していたモンテネグロも2006年に独立して、最終的に7つの独立国に分裂した。この内戦で、セルビア人勢力がイスラム教徒に対して行った残虐行為が報じられて、国際的な大きな関心をよびおこした。とくに「民族浄化」は残忍をきわめた。大量虐殺、強制収容所への監禁、組織的な集団レイプ、資産の没収、家屋への放火、略奪が横行した。
たとえば、1992年、セルビア人の支配地域では、男性は強制収容所に収容され、拷問され虐殺された。数百人の若いイスラム教徒が強姦され、妊娠が判明してから解放された。一部の女性は性的奴隷として売られた。彼女らを監禁した建物は後に「強姦収容所」と称されるようになった。

~~サラエボの花~~
組織的強姦をテーマにした映画『サラエボの花』2006年公開
ドキュメンタリー『女性と戦争と平和』2011年公開
「ハーグ裁判」
『レイプ、戦争の武器と殺戮』

ハーグ裁判では、数多くの女性の検事や判事が加わり、「戦争犯罪としての性暴力」ははじめて俎上に載った。裁判ではボスニアで集団レイプされた女性は2万人におよんだことが認定された。これとは別に、国際人権団体は5万~6万という数字を発表している。あまりの生々しさに女性の検事が涙を流すシーンもある。

女性を拘束して強姦直後に殺害するか、妊娠を確認して中絶できない時期まで拘束してから解放した。熱心なイスラム教徒にとっては、強姦であっても未婚女性が妊娠することは絶対に許されない行為である。一部のイスラム教国では、こうした女性に対する石打ちによる死刑などの厳罰が残っている。強姦で妊娠させるのはきわめて悪辣な行為である。
あるいは、捕まえた敵を片足ずつ別の車にしばりつけて、2台の車を逆方向に走らせて引き裂いた、といった言語に絶する虐待も聞いた。

==世界を分断する境界線、国境を主張する鉄条網==

~ベルリンの東西分断~
鉄条網の最大の機能は、空間の「遮断」である。
それは政治的な分断にも威力を発揮してきた。
鉄条網は紛争のあるところには必ず顔を出し、今も昔も政治的な境界の主役である。



~貧困を隔てる最長の国境~
米国とメキシコを隔てる3141キロの境界は、豊かな国と貧しい国を分断する最長の国境線でもある。米国側の4つの州とメキシコ川の6つの州が国境をはさんで接し、20本以上の国境横断道路で結ばれる。

頑丈な鋼鉄柵はブッシュ政権時代に建設がはじまった。
とくに、カリフォルニア州とアリゾナ州に接する国境の605キロは、密入国や麻薬密輸の通り道になっている。歴代の米国の政権は不法移民の流入を阻止する政策を何度となく打ち出してきたが、この長大な国境の監視は困難で効果もあまりなかった。

「2006年安全フェンス法案」

~世界最大の麻薬密輸ルート~
この国境は世界最大の麻薬の密輸ルートでもある。
コロンビアで生産されたコカインの90%、それ以外の中南米諸国でつくられた麻薬の70%が、メキシコ国内のさまざまなルートを経由して米国に流入する。

19世紀半ば、大草原にはスー・シャイアン・コマンチ・ナバホ・アパッチなど狩猟生活をおくる30万人近い先住民が住んでいた。大草原の草原地帯にはポイソンの大群が生息し、先住民は生活のすべてをパイソンに依存していた。肉を食べ、血を飲み、皮はテントや服や靴に、筋肉の筋は縫い糸、骨は針、フンは燃料、膀胱は水筒になった。大自然を神とする彼らは、パイソンを同じ大地から生まれた兄弟と信じ、必要以上に殺すことはなかった。

第二次大戦末期に日本軍がインド北東部に侵攻したインパール作戦では、ケニアなどの英国植民地で多くの若者が徴発され、短期間の訓練だけで兵士として対日戦線に送りだされた。
北部の農村で高齢の元従軍兵士から当時に話を聞いたことがある。
路上でいきなり英国兵に捕まり、2週間の特訓でインパール戦線に送られた。英国兵の命令で戦場に放置された日本兵の死体を捜し、日本軍の陣地から見えるように小高い丘の上に運んで死体をばらばらにし、食べるマネをさせられたという。日本兵の恐怖を煽って、戦意をくじくのが目的だったとみられる。英国はアフリカから約12万人の兵士を徴用したとされる。その老兵は「マラリアでフラフラになって痩せ衰えていた日本兵が、気の毒で見ていられなかった」と語っていた。

同様にフランスも、アフリカの植民地から数十万人の兵士を戦線に送り込んだ。ナチスのフランス占領で、このうち約3,000人のアフリカ兵が捕虜となったが、その大部分がナチスによって殺害された。植民地兵の死者は81,000人に及んだ。

19世紀後半まで、大英帝国内のコーヒー産地の中心はセイロンだった。
ところが、アジア一帯でコーヒーのサビ病が流行し、1868年にはセイロンでも流行して10年ほどで全滅した。その後は紅茶生産に切り替えられ、コーヒーの主産地はブラジルに移った。
世界のコーヒー生産に占めるブラジルの割合は、1850年は50%超だったのが、1910年代には75%も独占するようになった。

英国はブラジルへの依存度を下げるために、1907年以降ケニアでコーヒー栽培を奨励、1922年には700を超える白人の農場でコーヒーが栽培された。この頃のコーヒー園を舞台にしたのが、ロバート・レッドフォード主演の『愛と哀しみの果て』である。アカデミー賞7部門を獲得した。原作はカレン・ブリクセンの『アフリカの日々』

ケニアは今なおサイザル麻の世界的産地である。
こうした大農場方式の経営は、地元の労働力と環境を搾取することで成り立っていた。
「ホワイト・ハイランド」
首都ナイロビの北西方向の中央州に広がる、海抜1,500~2,500mの高原地帯だ。
赤道直下にありながら、高地のために気候は温暖で熱帯病は少なく、アフリカ大陸ではもっとも生産力が高い農地である。

白人支配に対する反発から反植民地運動に火がつき、1944年にはケニア・アフリカ人同盟KAUが結成された。アフリカ民族主義のはしりである。
植民地政府はこの秘密結社を「マウマウ団」と呼んだ。
ゲリラ戦の中核になったキクユ族の村は、その支援を絶つ目的で鉄条網によって封鎖し村人の移動を制限した。1955年10月には854の村が封鎖されて約150万人が閉じ込められた。
各地に鉄条網で囲った収容所がつくられた。
5mほどの高さの鉄条網が張りわたされ、外側には底に逆茂木(さかもぎ)を埋め込んだ堀をめぐらせた。英国への敵対行為をしたとして絞首刑に処せられた者は、記録に残るだけで1,090人に及んだ。

とくに若い女性は、警備兵の待機所に連れて行かれて集団でレイプされた。
抵抗すると、乳首をペンチでつぶされ性器に銃身を突っ込まれた。
「ナチの強制収容所さながらに、日常的に拷問が行われていた」
紆余曲折を経ながらも1963年に独立を果たした。

オーストラリア映画『裸足の1,500マイル』
原作は『ウサギの防除フェンス』
この背景にあるのは、オーストラリアで強行された先住民に対する白人同化政策だ。
1869年からはじめられ、公式には1969年まで100年間続いた。
先住民と白人の混血児は強制的に家族から引きはなされ、収容所や孤児院などの施設に送られた。

タスマニア島では1804年以降、先住民と欧州人の衝突が激しくなり、一方的に虐殺され捕まえられて、危険な獣のように鉄条網の柵内に収容された。この島の先住民人口は、18世紀末には3,000~5,000人あったとされるが、1830年代には300人に減ってしまった。
生き残った人々は、本土とタスマニア島の間にあるフリンダーズ諸島に強制的に移住させられた。そこでも迫害が続き、1843年には43人に減り、1876年には最後の女性が息を引き取ってタスマニア島の先住民は根滅させられた。

韓国の天然記念物に指定されるジャコウジカは、ロシアから、インド、中国、朝鮮半島全域の森林または低木地帯に生息していた。しかし、年間1万~5万頭も殺され1960年代にはほとんど姿を消した。乱獲されたのは、オスの腹部の香嚢から分泌するジャコウをとるためだ。ジャコウは香料や薬の原料として高値で取引され、とくに香料の香り成分としてきわめて重要だった。また、日本や中国で伝統薬として使われてきた。
合成香料のムスクに取って代わられた。

チェルノブイリ原発は、ウクライナ共和国の首都キエフから130キロ北にある。










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