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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

軟部腫瘍闘病記 右腕切断

2020年04月29日 09時31分36秒 | 病気
気が向いたら徐々に書いていこうと思ってます。

2014年正月明け、風呂に入ってて右肘に腫れが出てるのに気付いた。
毎日風呂入るから、たぶんその日をさかえに一気に大きくなったんだろ。

まずは・・・
街の皮膚科
→街の整形外科、すぐに大きな病院に行けと紹介状
→大きな県立病院
→面接(おいおい6時間待ち)
→数日後MRIなどの検査
→悪性の可能性大だから大学病院へ紹介状
→金曜日に大学病院、すぐに入院しろと、ベットひとつ空いているからだって。
→「心の準備できてません」とお断り、月曜日に入院しますと。
→週末は酒飲み大会!


正式な病名は「悪性末梢神経鞘腫瘍」
12万に一人の割合で発祥するらしい「軟部腫瘍」のひとつ。

病理診断は針生検ではなく、局所麻酔のオペ

CT,
MRI,
PETCT,
骨シンチ
受けてないのは脳心臓のシンチ検査くらいかな。

切断前にムダだと思いながら
(放射線科の女医さんは筋肉には放射線は効かないって言ってたW)
放射線治療20回、
それと・・・1セット三週間の抗がん剤を2回
ほんとは3回予定だったのをあまりの右腕の痛みと高熱42℃以上で・・・
切断を早く行って欲しいと。
2014/4/10に手術

右腕に15センチ以上の巨大な腫れ
こんなに大きかったら自分でも腕の温存はかなり難しいだろうって。
最初の問診から
「切断はもう考えています」と先生に言ってたくらい。
仮に温存しても肘あたりは薄々になるのは明らかだったし
指まで神経が行き着くことは期待できんだろって。
主治医も腫瘍を取り除く手術は
「神経科」の先生も立ち会うとの話で
かなりチャレンジャーなオペになるだろうと。

相当に悪性度が強く生存率も50%以下、まずは命優先。
セカンドオピニオンも考えたが、こんなに腫れてしまったんでは
どこでも切断しか選択肢ないのかなって思い受診せず。

オペは朝8:30~14:00
麻酔時間5:30
手術3:00
ちょっとちくっとしますよ、と脚に麻酔打たれ気絶。
なんで覚えているかといえば
手術室で目が覚めたとき電光掲示板みたなものが目にはいったから。

抗がん剤中、点滴漏れで左腕が火傷したような痕が出来た。
漏れるのはもう嫌だし安心して眠れない
よって勧められたポート埋め込みをオペ後2週間後にやる

また抗がん剤開始
眠くてだるくて食欲なくての生活は変化なし
喫煙所に通う習慣だけはきちんと守る。
抗がん剤3回の予定だったのを2回の見切り打ち止め

4ヶ月入院して友達もできた。
しかし・・入院中に同じ病気の27歳の子が5年の闘病生活の末に亡くなってしまった。
先月は57歳の女性が亡くなられた
肺がんで入院してて喫煙所で仲良しになり、退院してから玉川温泉に行ったりもした。
彼は49歳。昨年10月末に亡くなってしまった。

車の運転は可能
ハンドルにノブ
ウィンカーは左手用の部品着用
ライト点滅はオートライト
免許書のウラにはそれらの条件付が書かれてる

腕切断後に幻肢痛に毎日悩まされてる
モルヒネ、オキノームとか飲んではいたが、いまはやめてる。

転移はいつやってくるかわからん
やってきたらヴォトリエント服用間違いないだろう
半端ない高価な抗がん剤

2014年11/4に左胸に埋設されてたポート除去手術を一泊の入院でしてきた。
切断してから1年半ものあいだお友達だった。
名残惜しいかったけど先月のCTで異常なかったら抜くという担当医との
約束守っただけ。
手術台に乗るのはこれで四回目。
もう緊張なんてしなくもなった。


幻肢痛・・・24時間年中無休で痺れがある。
気圧低くなったり寒くなると痺れを通り越して痛みに変化する。
切断した右手が痛いんだから困ったもの。
脳が覚えているらしく・・・一生付きまとう。

オペ前に「遺言」で担当医に「右腕の重さ」計っておいて、って頼んだのに
忘れて火葬業者に持っていってもらいましたとさ。

体重の誤差知らないと・・・だいたい4キロくらいらしい。
当たり前にゴミとして身体の一部は捨てることができません。
押入れに「骨壷」入ってて
本体が死んだら右腕の骨とめでたく合体できるシステム。

オイラの右腕の握力、80以上あったんだよなぁ
大学時代は90超え
左は60以上。

2020年より半年に一度のCT検査を
9ヶ月に一回に訂正

2020・11・12記 「伊庭八郎凍土に奔(はし)る」秋山香乃著
沢田田之助は当代一の女形と評された天才役者である。
脱疽(だっそ)が原因で片足を切り落としたが、なお義足で舞台に立っている。
このあと全身に毒が回り、四肢全てを切り落とす未来が待っている男だ。
田之助はそれでもなお頑なに舞台に立ち続けた。
その姿は、どれほど薩長に追い詰められても、それこそ腕を失っても戦い続けた伊庭八郎の姿と重なる。
幕末の江戸の娘を賑わせた二人の錦絵の男たちは、皮肉なまでそういう意味で生き方が極似していた。


2020・11・24記 『横浜1963 』伊東 潤/著

わしの左腕は今頃、どのあたりを泳いでいるのだろう。
あいつは、まだ動いとったな。
慌てて傍らを見ると、左腕の指先は、元の場所に戻りたいと言わんばかりに甲板を掻いていた。
「あっ」と思って、それを掴もうとした瞬間、至近弾が炸裂し、熊吉は甲板の上を逆舷まで吹き飛ばされた。
以来、左腕を見ていない。
だが、熊吉は、左腕がいまだ生きており、熊吉を探して広い太平洋を懸命に泳いでいるような気がした。
何を考えているんだ、あいつは、とっくに魚の餌になっている。
それを頭では理解できても、熊吉の体は、どうしても受け入れることができないでいる。
いまだ幻肢痛に悩まされているからかもしれないが、いつの日か、左腕が帰ってくる気がしてならないのだ。

BS1スペシャル「私は左手のピアニスト~希望の響き 世界初のコンクール~」
[BS1]
2021年1月2日(土) 午後5:10~午後6:50(100分)

ピアノの歴史は300年。音楽史上初となる左手で奏でるピアノコンクールが開催!右手を痛め左手の演奏に転向したピアニストたちが絶望のふちで救われ、希望を見出した左手のピアノ曲とは魅力とは…

2018年11月、大阪府箕面市で「左手のピアノ国際コンクール」が3日間に渡って開催された。集まったのは右手を病気や事故で痛め、左手で演奏することを選んだピアニストたち。両手で弾けなくなった悲しみを癒やすのは、やはりピアノ。「挫折から希望へ」。出場者たちは左手だけで演奏する曲に出会い、その新たな音楽の世界に魅了されている。左手のピアノ曲が生まれた意外な歴史もたどりながら、その魅力を伝える。

2021.2.12記
ウツボ、イルカ、サメなどはタコを大好物にしている。
ウツボは万力並みの顎でタコの腕をがっちりつかむと、ぐるぐる回転しながらタコの腕をねじり切る。
世界中のツツイカ、コウイカ、タコのほとんどが、防衛策として墨を使う。
どうしても逃げおおせない土壇場には、タコは自分の腕を1本敵に与え、油断させて逃げる場合もある。タコの腕は雄の交接腕を除いて、すべて再生可能だ

2021.2.21記
犠牲になるときには犠牲になる。
死は人も時も選ばない。因果応報なんてないのだ。
それなのに、いざ自分が当事者になるまで、私たちは無意識にこう思っている。
「私の人生に命に関わるアクシデントなどあるはずがない。
普通にしていれば、普通に死んでいくはずだ」
希望病棟』より抜粋

2021.5.20「盤上の向日葵」より
「癌の治療をするとな、火葬後は骨にそのあとが残るもんなんだ。
人工的な赤や緑の点が、骨にぽつぽつとある」

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