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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

日本アルプスの登山と探検  ウェストン/著 青木枝朗/訳

2021年05月31日 12時02分45秒 | 読書・登山


どうしてもあるフランス人の作家の放った痛烈な女人嫌悪の皮肉を思いださないわけにはいかない。つまり、「女の舌は剣であり、彼女たちはけっしてそれを錆びさせない」というのである。

上田盆地から保福寺峠を越えて西の松本へ通ずる道を進んでいた。
まったく予期しない眺望の展開だったから、そのすばらしさにはただただ驚くばかりだった。
足もとには松本平がひろがり、その西に連峰の中央から南の部分が衝立のように立ちはだかって、飛騨の秘境を隠している。日本のマッターホルンともいうべき槍ヶ岳や、優美な三角形の常念岳、それからはるか南方にどっしりとした乗鞍岳の双子峰。それぞれ特徴のある山の姿が私の目にやきついた。

中山道はこの国の他の街道に比べて、とりわけその道すじの谷間の美しさ、深く抉(えぐ)られた峡谷の険しさで有名である。

山はすべて樹海に蔽われ、その木材は全国でも屈指の良材で、「木曽の五木」として知られている。--五木とは山毛欅(ぶな)、栃の木、栗、楓、胡桃で、これらはしばしば巨木となる。
≪正しくは、・・・≫

草津温泉は、1つの病気以外は何にでも効くといわれているが、その1つとは恋の病である。

日本人は遊びごとにかけてはまったくの天才だから、演芸は夜半まで続いた。

乗鞍には2つの峰があって、馬の鞍のような形をしているのでこの名がついた。
2つの峰では北のほうが高い。日本アルプスの秀峰を一望のもとに収めるよろこびは、こうして登山した者でなければ味わえない。

日本人は、雷鳥が発生するのはこの鳥のせいだと思って雷鳥と呼んでいる。
この鳥の羽は、養蚕業者が蚕の卵を蚕卵紙から掃き立てるのに愛用するが、御岳の雷鳥のものはとくに珍重されている。

彼らが病気にさいして用いる主な薬は、薬草や珍しい爬虫類である。
乾燥した爬虫類の肉は、すぐれた薬効があると信じられている。

笠ヶ岳
外国人が二人現れただけでも大事件だというのに、その外国人が銀の鉱脈も水晶もない山に登ろうとしているのは、彼にはまるでわからないことだった。
それから2日後、私たちは平湯を出発して安房峠に向かった。

天井の梁からだらりと垂れ下がっている5,6本の、干からびた灰色の蛇も、あまり食欲をそそるしろものではなかった。

翌朝、気圧計の目盛りは上がり、空には一点の雲もなかった。
神様の描いた絵のうちでも選り抜きの傑作を展示した画廊のなかに入り込んでいるようなものだった。

岩魚や鶏のカレー煮がこれほど旨かったことはない。

ついに「槍ヶ岳」をわがものにしたのだ。
この峰を形成するのは非常に硬くて風化作用の受けつけない角礫班岩(かくれきはんがん)で、その中に珪質岩層が幾重にも縞になって斜走している。その縞は急角度に傾き、しばしばよじれている。この峰が高いのは岩が硬いからであり、鋸の歯のように尖っているのはこの珪質岩層のせいである。
真東の空には三角形の常念岳がくっきりと浮かびあがり、はるか彼方には浅間山の噴煙も立ち昇っている。こうして視界に起伏する山々を列挙すれば、日本の高山の一覧表を作りあげることになるだろう。

昨年、駒ヶ岳の頂上から見た山々のうちで、いちばん私の気に入ったのは赤石山だった。
日本人は、白衣をまとった巡礼が神信心にかこつけた物見遊山で毎年同じ山に登るくらいで、スポーツの醍醐味を味わうために登山をすることは滅多にない。

村人たちはついにご神体を台座から落として、大声で呪いの言葉を唱えながら、田圃に投げ込み、「しばらくそこにいるがいい。わしらの田圃を干からびさせ稲を枯らした太陽に2,3日焙られてみたら、どんな気持ちがするかわかるだろう」と罵ったということである。

日本における最大の親孝行は、蚊を防ぐ手段のないとき、両親が蚊に刺されないように子供が身をもって蚊の餌食になることだといわれている。

私の傾斜計によると、雪渓の勾配は約40度で、日本国内で経験した山や峠の中で最高の険しさだった。

幾日も山歩きをしたあとでは、風呂の次にうれしいのは何といってもこの按摩である。
この仕事は遠い昔から盲人だけに限られていた。そのため不幸な盲人でも、家族に迷惑をかけずに自分で生活することができる。彼らの多くが多額の蓄えをもち、しばしば金貸しになるといっている。つまり、揉むというのは、文字通りお金をつかむのにうってつけの手段であるらしい。

日本で暮らしている外国人は、普通、地震について3段階の気持を経験するという。
初めてのときはおもしろがり、2度目にはまたかと思い、3度目には、もうこれっきりにしてもらいたいと心から願うのである。

この船で、半マイル沖に停泊している直江津ーー糸魚川線の小型蒸気船まで連れていってもらった。海岸には大勢の行商人が、アワワメ(粟飴)を箱で売っていた。これは粟から作る甘いお菓子で、4マイル離れた高田の町のメイブツとして大いに珍重されている。

やがて、この海岸でもっとも有名な場所「親不知」に着く。
この海岸は引き潮がほとんど見られない。今私たちが歩いている道が開かれる前は、ここを通過するには波打ち際を歩くしかなかった。北西の強風が吹く季節には、それはかなり危険なことで、「われ勝ちに走る」より仕方がないことがしばしばあったのだ。そのためにこの名前がついたのだが、そんな場合には誰でもわが身の安全を図るだけで精一杯で、最愛の者にさえ手を貸してやることができなかったのである。

この花崗岩の絶壁こそ、アルプス山脈の起点であり、山脈はここから真南へ100マイルの濃尾平野まで行ってはじめて高度を失う。

松本付近から見える山々のうちでとくに印象的なのは、優美な三角形をした常念岳である。

山椒魚の餌は主として岩魚、昆虫の幼虫、小さな両生類などである。
サンショウウオの肉は主として薬用に珍重され、また、井戸水の汚濁を防ぐのにも使われる。

日本で巡礼登山者が好んで登る山といえば、富士と御岳である。
大和の大峰山も、それより低い山であるが、かなり多くの登山者がある。

神戸へ帰るには権兵衛峠を越え、甲州街道を通り、身延に出、富士川の急流を下った。



にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地」

北アルプスの玄関、長野・上高地。
今ではバスで直行できるこの場所も、かつては徒歩で二日かけて歩いた。
そんなクラシックルートを辿り、知られざる穂高岳の絶景に出会う。

穂高や槍ヶ岳の玄関口として知られる上高地。そこへ向かうかつての登山道は、今「クラシックルート」と呼ばれ、脚光を浴びている。目の当たりにしたのは、七色に染まる峡谷の山肌。日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンは、それを「驚嘆すべき色彩の響宴」と評した。さらにその先には「日本で一番雄大な眺望」とたたえた絶景が待っているという。著名な登山家たちが愛した風景を辿り、手付かずの大自然を満喫する。

5時には徳本峠の頂上に着いた。
峠の峰付近からの眺めはこの国でもとくに雄大なもののうちに数えられ、他の山々の丸みをおびた輪郭や、斜面を緑の樹林で蔽われた景観とはまったく性格を異にしている。
私たちの目の前には穂高岳の高峻な山体が立ちはだかり、その南の麓をとりまいて流れる梓川の広い河原は、いちめんに白い小石で埋めつくされていた。
日本でもっとも高い花崗岩の峰として、11,500フィートの標高をもち、斑雪(はだれゆき)の残る稜線から突き出た岩塔や尖峰(ピナクル)によって「直立する稲穂の山」という美しい名前で呼ばれている。

その北側は大きな鎌尾根(アレート)《鎌の刃のように痩せた山稜》で槍ヶ岳につながっているが、「槍」の全容は、手前に横たわる木の生えた山に隠れて見えない。しかし少し左へ下ると、ピラミッド形の常念岳が、蝶ヶ岳と鍋冠山(鍋を伏せたような形の山)を手前に置いて、峠の真北によく見えた。

徳本峠からの穂高岳の展望は、日本百名山の著者、深田久弥によると「日本山岳景観の最高のもの」とある。
徳本は「とくごう」と読む。 その名前の由来は多くの説がある。 峠を越えた上高地の一角に徳吾の小屋があったことから、ここへ至る峠という意味。徳本上人がこの峠を越え峠路の開発にあたったという説。徳川将軍吉宗の付き医者に徳本(とくもと)という人がいた。吉宗が病気になったとき、彼がこの峠へきて薬草を集め、それを将軍に献じたことから「徳本」の字が当てられたという話など。 徳本峠の文字が正式に地図に記載されたのは大正になってからのようだ。 島々において峠はひとつしかなかったため単に峠と記されていた。 それ以前において「とくごう」とは徳郷のことであり現在の明神館のあたりに徳郷の小屋が何軒かあったようだ。 徳本峠遊歩道は梓川の支流・島々谷と上高地との間を結ぶ。 近代登山が始まると上高地を紹介し、「日本アルプス」の名を広めた、かのW・ウェストンや、日本山岳会を結成した小島烏水、志賀重昂などの登山家もこの峠を越えている。 梓川沿いに上高地へ道路が開通したのは、1933年(昭和8年)になってからのことだ。バス路線が開通すると、それまでの登山道が廃れることが少なくないが、島々谷の道は、梓川沿いの道路開通後も廃れることはなかった。それは、峠を愛する人々による支援と、深田久弥が「峠に立った時、不意にまなかいに現れる穂高の気高い岩峰群は、日本の山岳景観の最高のものとされていた。その不意打ちにおどろかない人はいなかった」(「日本百名山」)と書き記しているその景観にある。

江戸時代初期、寛文年代(1661年から72年)より島々から徳本峠越えの道は木材資源の伐採や炭焼きなどの仕事場として生活をささえたルートだった。 また、亜高山帯特有の薬草をもとめる人々も歩いていた。 それら薬草採りに携わった人々が300年以上前に小屋掛けしたのが徳本峠小屋の前身だといわれている。 いまの小屋の以前にも峠の小屋があったようだ。


明治26年(1893年) の夏、ウェストンは島々谷のガイド・嘉門次を引き連れ、徳本峠を越えて穂高に登った。彼はそのときの様子を「日本アルプスの登山と探検」に次のように書き記している。
 「徳本峠に向かう険しいつづら折りの登りは、如何な終わりそうにない。午後はひどい暑さで、左右に迫る笹藪には、そよとの葉ずれの音も起こらなかった。峠の峰に着くと木陰に身を投げ出して、奮闘の末にかちえた快いヒルネ(昼寝)(シェスタ)の夢をむさぼった」(岩波文庫、青木枝朗訳)。ウエストンはのべ11回ほど徳本峠を往復している。

大正2年(1913年)、智恵子は高村光太郎と峠を越え、ウェストンと交流をもった。 以下、文献資料からの引用によって足跡をたどってみる。
1913年、絵の道具を抱えた27歳の智恵子は北アルプスの上高地に向かった。ひと月前から白骨温泉を巡り上高地に来ていた光太郎は、智恵子を上高地から峠をこえて迎えに出かけた。
九月に入つてから、彼女が画の道具を持つて私を訪ねてきた。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで迎へに行つた。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登つてきた。山の人もその健脚に驚いてゐた。
1913年9月上旬、松本駅から「ガラガラ馬車」に乗った独りぼっちの智恵子は、島々宿で一泊した後、翌朝、島々谷の沢沿いの平坦な山道を巡り、岩魚止へ向った。 同じ年に徳本峠を通ったW・ウェストンは、こう書いている。 
徳本峠(2166m)を越える道は、昔なじみの道であるが、過去20年間にその状態は大きく改善され、外見は新しくなっていた。しかし、幸いなことに、ロマンティックなゴルジュの美しさは少しも衰えていなかった。
加藤惣吉の「清水屋」に、光太郎と智恵子も宿をとっている。 1913年8月、ウェストンは槍ヶ岳・霞沢岳・奥穂高岳などに登るため、3週間、上高地に滞在した。8月初めから上高地にいた光太郎は、ウェストンとも知り合いになっていた。
付近で絵を書いていた数人の画家たちが<展覧会の内見>に招待してくれ、帰りには、彼らが描いた魅力的な作品若干をお土産としてもらった。(P.243)「日本アルプス再訪」
また、そのころの上高地周辺は馬と牛が放牧されていた。
ウェストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問はれた。友達ですと答えたら苦笑してゐた。 光太郎と茨木氏たちが飲んで騒ぎ過ぎ、隣室のウェストンから叱られたエピソードも残っている。 智恵子の上高地滞在は1ヶ月に及ぶ。 梓川の河辺の道はすべて智恵子の歩いた道で、目の前に穂高の山が広がる木陰の根かたは、智恵子が絵を描いたところだ。 のちに、二人は山道に立つ同じ木のことをそれぞれで書いている。
絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波打つ深山の桂の木。(智恵子)
十月一日に一山挙つて島々へ下りた。徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた。(光太郎)


岩魚留小屋の桂の大木

桂の木とは、岩魚留小屋付近の桂の大木のことと思われる。いまでもその姿は変わることなく見ることができる。
1932年の自殺未遂の時、智恵子はその遺書の中に、楽しかった上高地の思い出を書いた。

大正9年(1920年)に芥川龍之介は「槍ヶ岳紀行」を発表。
 島々と云ふ町の宿屋へ着いたのは、午過ぎ――もう夕方に近い頃であつた。宿屋の上り框には、三十格好の浴衣の男が、青竹の笛を鳴らしてゐた。
 私はその癇高い音を聞きながら、埃にまみれた草鞋の紐を解いた。・・・(中略)
路は次第に険しくなつた。が、馬が通ると見えて、馬糞が所々に落ちてゐた。さうしてその上には、蛇の目蝶が、渋色の翅を合せた儘、何羽もぎつしり止まつてゐた。
「これが徳本の峠です」
 案内者は私を顧みて云つた。
 私は小さな雑嚢の外に、何も荷物のない体であつた。が、彼は食器や食糧の外にも、私の毛布や外套などをく肩に背負つてゐた。それにも関らず峠へかかると、彼と私の間の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。

http://tokugo.com/CCP011.html

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