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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

子規の山形路

2021年07月16日 11時07分38秒 | 読書・文学
子規にとって1ヶ月にわたる奥羽の旅は、生涯で最も長い旅であった。
明治26年7月19日に上野を発して福島・宮城・山形・秋田・岩手の各地をまわり帰京したのが8月20日。

8月5日、仙台を発って作並温泉に泊まる。宿は岩松旅館。
6日、関山峠を越えて山形の地に入る。
関山街道を下駄ばきで9里ほど歩いて楯岡に宿をとる。
7日、大石田まで3里の道を半日もかかって歩く。
大石田に着いたのは昼近くであった。
8日、大石田から朝に舟に乗り、最上川を下る。
夕暮れ時に古口に着く。

11日、象潟に着く。
松島とともに憧れてきた象潟は「昔の姿にあらず」と言って失望している。
夜遅く本荘に着き宿をとる。
13日、県都秋田に馬車に乗って入る。
14日、秋田から八郎潟まで足を伸ばし、その夜は秋田に帰って宿をとる。
15日、大曲に至り宿をとる。
16日、六郷を経て奥羽山脈を越えて、岩手県の湯田温泉に宿泊。
17日、めざすは陸奥の黒沢尻である。
黒沢尻;北上市へは途中から人力車に乗る。
19日、水沢に向かい、上野行きの夜行列車に乗る。
20日、上野に正午に着く。
子規にとって生涯忘れられない「最果ての旅」であった。

文化元年6月4日に襲った大地震が、一瞬にして象潟の海を陸に変え、西の松島と言われた八十八潟九十九島の絶景がみな陸地になってしまったことを、子規は知らなかった。

元禄2年;1689年 芭蕉訪問
文化元年;1804年 大地震
明治26年;1893年 子規訪問


芭蕉の山形在住
元禄2年 46歳 曾良同行
40泊41日の旅 51歳で死亡

子規の山形在住
明治26年 27歳 一人旅
4泊5日の旅 36歳で死亡

「旅は独り淋しく歩くもの、宿屋に独り淋しく宿るものと思っている」
芭蕉の「奥の細道」ゆかりの山寺にも尾花沢にも立ち寄らず、関山峠を越え、最上川を舟で下る最短距離の4泊5日の短い旅に終わっているのである。

子規が作並に宿をとった頃は、この温泉には岩松旅館がただ一軒あったという。

明治10年、山形県と宮城県を結ぶ峠越えには
笹谷越
二口越
関山越
銀山越;母袋街道
小国越;堺田街道

東北本線は明治20年に開通しており、奥羽本線の山形駅が開通したのは明治34年であるので、山形の人々が上京するには関山峠を越えて作並温泉に一泊し、翌日に仙台駅から上野にむかっていた。だから子規が東北本線を利用し、仙台から関山峠を越えて出羽の国に入ったのは当然の道順である。

8月6日は晴れ
「山深うして一歩は一歩より閑かに、雲近うして一目は一目より涼しげなる。
蝉の声いつしか耳に遠く一鳥朝日を負ふて山よ山に啼きうつる、
樵夫の歌かすかに其奥に聞えたり」

と作並から関山峠への山道の様子を記しているが、実にいい文章である。

「雲にぬれて関山越せば袖涼し」の句を添えてある。

当時、山形県側の道路は整備されていたが、宮城県側の道路は子規が言うごとく
「仰ぎて望みたる山々次第に我足の下に爪立ちて頭上僅かに一塊の緑を残す。
山険に谷深うして道をつくるべき處もなし」
の状態で、狭い山道であった。

そして「山根に一條の隋道を穿つ。これを過ぐれば即ち羽前の国なり」
この隧道こそ明治15年の11月に作られた関山隋道である。

木材で岩石を支えた粗末なもので、隋道の中は闇のように暗く、水滴がしたたり落ちるほどの砂利道であったので、昼でもタイマツをつけて歩いた人がおった程であった。
子規は
「岩を透す水の雫は絶えず壁を滴りて襟首をちぢむること屢々なり」と描写している。

「とんねるや笠にしたたる山清水」
「隋道のはるかに人の影すずし」

隋道の出口には一軒の茶屋があり、わらじや駄菓子にタイマツなどを売っていた。
この茶屋を村の人々は洞門の家と言っていた。
子規が歩いた関山街道は、昭和43年に廃道となり、87年の旧道の歴史は終わっている。

「出口に一軒の茶屋あり、絶壁にかかりりて構へたり」
「蠅むらがり飛んで此一つ家に集まる。
幾千萬といふ数を知らず。うるさいけどもめづらし」

「午飯の腹を風吹くひるねかな」

このあま酒茶屋から幾曲がりして入間を経て道は松や杉の林のなかに入る。
なにやら大きな川の音がして不動尊が立っている。
不動尊のうしろに廻ってみると、そこにすばらしい滝がある。
これが大滝である。
子規は松の根元にどっかと腰をおろし、水晶のように美しい滝の水滴に見入る。

「涼しさや砕けてちるか瀧の玉」
「瀧壺や風ふるひこむ散り松葉」


道が二筋に分かれる分岐点(原宿の三角地)で、右楯岡・左天童の追分である。
ここに腰掛け茶屋があって、真桑瓜が並べてあった。
子規は真桑瓜を食べながら、行く手の案内を聞いている。

「真桑瓜見かけてやすむ床几哉」
「掛茶屋に風追分けのすゞみ哉」

この茶屋で道案内を聞いている子規が、なぜ山寺へ行く道を尋ね、天童を経て山寺にいかなかったのか。芭蕉も最初、旅の計画には山寺行きはなかったようである。
尾花沢で「一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢より・・・」
とあるごとく、俳友の鈴木清風などから山寺行きを勧められたのであろう。
でも、病弱の身体の子規にとって山寺行きはやはり無理なことであったかもしれない。

途中に湯殿山の三字を刻みたる石碑が多いのに気づいている。
湯殿山は水神と同様に作の神である。

「鴉群れて夕日すゞしき野川哉」

東根村を過ぎ羽州街道に出て道を北上する。
今晩の宿は楯岡である。
「夕雲にちらりと涼し一つの星」

「楯岡に一泊す。いかめし旅店ながら鉄砲風呂の火の上に自在を懸けて大なる罐子をつるしたるさあなど鄙びておもしろし」

関山峠から楯岡までの間に約20句を詠んでいるが、楯岡では心身共に疲労が大きく1句も作っていない。

「ずんゞと夏を流すや最上川
蚊の聲にらんぷの暗きはたごかな」

「立ちこめて尾上もわかぬ暁の
霧より落つる白糸の瀧」

「初秋の馬洗ひけり最上川
朝霧や船頭うたふ最上川
瀧飛ぶや霧にもつれて尾上より」

草薙温泉に
「朝霧や船頭うたふ最上川」
「朝霧や四十八瀧下り船」
よく最上峡に滝が48あったなどと説く人がいるが、
四十八は詩的な数で滝が沢山あったとの意である。

新堀から最上川を渡し舟で酒田に上陸して、草深き原のなかを廻りて酒田に達する。
酒田の「名物は婦女の肌理(きめ)細かなる所にありといふ」

6日に作並温泉から関山峠を越えてから9日に酒田に着くまで下駄ばきであったのを、10日の朝に酒田を立つときには草履ばきに代えている。

「秋風や下駄流したる最上川」
「面白や草履はく日の秋の風」

「北に向ふて行くに鳥海山正面に屹立して谷々の白雲世上の炎熱を知らぬさまなり」
この名文に夏の暑さと鳥海山の山頂の涼しさを、交錯させる暑と涼の季節感があって趣きがある

「鳥海にかたまる雲や秋日和」

「ずんゞと夏を流すや最上川」
「秋立つや出羽商人のもやい船」

子規の句碑
「とんねるや笠にしたゝる山清水」;関山街道入間

「雲にぬれて関山越せば袖涼し」 ;東根温泉・成田山

「夕雲にちらりと涼し一つ星」 ;村山市東沢公園

「何やらの花さきにけり瓜の皮」 ;村山市袖崎小学校

「ずんゝと夏を流すや最上川」 ;大石田町・乗船寺

「朝霧や四十八瀧下り船」 ;戸沢村草薙

「朝霧や船頭うたふ最上川」 ;戸沢村古口

「蜩の二十五年も昔かな」 ;立川町清川

「夕涼み山に茶屋あり松もあり」 ;酒田市日和山公園

「鳥海にかたまる雲や秋日和」 ;酒田市日和山公園

「ずんゝと夏を流すや最上川」 ;大石田町・乗船寺
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」
斉藤茂吉の歌碑が並んで建立されている。

「とんねるや笠にしたゝる山清水」;関山街道入間
この句碑彫刻の文字は、子規の真筆である。
正岡子規来訪100周年記念
平成5年8月6日建立

子規資料・句碑彫刻使用許可書」が必要だった。

子規の門下生となった長塚節(たかし)

子規の絶筆3句は辞世の句
「糸瓜咲きて痰のつまりし仏かな」
「痰一斗瓜の水も間にあはず」
「をとといのへちまの水も取らざりき」



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