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米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

お料理と演奏

2013-08-17 08:45:11 | おもうこと

ピアノを練習するときは、お料理を作るときと同じ気持ち



「食べてくださる方が美味しいねって言って下さるように、一生懸命心を込めて練習してね。」



と、言います。



「斎藤秀雄講義録」に、やはりお料理にたとえて書かれていて、面白いな…と思った文章があります。



引用ではないので、私の勝手な解釈でお話しします。



バロックや古典物の演奏について、、現代人が、和食やフランス料理を食べに行くと、少しだけアレンジされたり創作を加えたりしているものもある。。少しお洒落にしたり、味付けに工夫を凝らしたり。。。だけど、お茶碗開けたらパンが出てきたってことはないでしょ。。と。。ロマン派に至り、発展してきたこと。。。これはコロンブスがアメリカ大陸を発見したような世界だった。。その先は、ちょっと印象派の島だったり、無調音楽やいろんな現代音楽があるけど、小さな島。。。その先は宇宙へ行ってしまうのかも知れないけど、僕はもうそんなに長生きしないから、そこにはそんなに興味はない。。みなさんはこれから開拓してください。。と。。。



で、ロマン派を知らなかった時代の人と、もうロマン派を知ってしまった現代人では、少し違って当たり前だと。。。非常に納得。。



ロマン派があまりにも味付けの濃いものを提供すると、反動で、もっとさっぱり薄いものや、違うものを求めてしまう。。人は反動を繰り返す。。。



それで思ったんですが、やはり



「これが300年前のレシピで作ったお料理ですよ」



と、そのままの食材と調理法で出されたら、文献的な興味はあっても、本当に美味しくいただけるのか。。。そういう感覚はありますね。



強い味付けに馴らされると、素材本来の味にも鈍感になるし、味付けの好みも人によって違う。



ただし、演奏は「好き嫌い」だけで、決定するものではないとも。。



一般大衆の音楽愛好家はいいのかも知れないけど、プロの演奏家はそういう事だけを頼りにはできない。。



じゃあ、ピアノ教室の、ピアノを楽しむ人たちはどうなんだって話になりますがね。。。



でも、より、こうがいいんじゃないか・・・と、考えることは必要だと思います。



いくらピアノ教室だと言ってもね。



そこからプロになる子も、いないとは限らないし、何より耳の肥えた、「聴く」ということがどういうことかが分かっている一般大衆の愛好家さえ生まれない。。



つまり「価値があるものが何か」が分からない人が増えれば、良い音楽や音楽家は廃ってしまうのかも知れません。



なんでも鑑定団・・・も、貢献してますよね。。



「いい仕事してますね」



と、物の見方、価値の判断基準など、学んだ人は多いのではないでしょうか?



近いのかも知れません。。



そういうことに。。



「戒律」を厳しくすると「人間性」が出てこないとも。。



人の生きる道。。??



なぜ人は生きるのか?



幸福とは?



魂とは?



みたいなことになっちゃいそうですね。。。



めんどくさい話になってすみません



興味深いこと満載で~~





今日は朝からラ・バールでお茶して書店で本を見て、念願のステーキ食べて、耕平君&可菜子ちゃんの「オペラは文学だ」・・・めちゃめちゃリクレーション感覚で行きます~~さらに夜は昨日に引き続き飲み会~~どんだけハネのばしてるんだか~~





*齋藤 秀雄(さいとう ひでお、1902年5月23日 - 1974年9月18日)は、日本のチェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活躍した音楽家。
サイトウ・キネン・オーケストラは、長野県松本市で毎年8、9月に開かれるセイジ・オザワ 松本フェスティバル(旧称サイトウ・キネン・フェスティバル松本)で編成されるオーケストラ。運営は、公益財団法人サイトウ・キネン財団。
設立当初は、小澤・秋山の意思に共感した齋藤の門下生100名以上が国内外より集まり演奏会を開催。自主運営によるオーケストラのため、演奏家への出演料の支払いはなく無給出演という形で運営された。
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さなぎの時期…「いばら姫」と思春期、心理学をもとに...

2013-07-16 06:32:49 | おもうこと

心理学の本ではよく出てくるこの表現。



ご存知の方も多いのでは・・とは思いますが、今日はこのことにちょっと触れてみたいと思います。



町のピアノ教師というのは、きっと、はた目から見れば気楽そうに見えるのかも知れませんが、意外と大切な役割を担っているのではないか、、と思っています。



。。そういう「自負」のようなものはあります。。



習い事一般なのかもしれませんが、学校の先生や塾の先生に比べ、細くではありますが非常に長いお付き合いをすることになります。



扱っていることが「ピアノ」という「芸術」に関することなので、当然「心」と向き合うことになります。



そうすると、本当に子供たちのいろいろな心の状態に出会うことになります。



特に「子供」から「大人」に代わる転換点ともいうべき10代初め頃から中盤・・・もう少しかかる場合もあるかもしれませんが・・・この時期は本当にご両親にとっては、何が起こっているのか、びっくりするようなことが起こるので、どう扱っていいやら戸惑ってしまうことも多いのではないでしょうか?



子供さんによっては、そこまで大変じゃない子もいますが、強い個性で、非常に手こずるケースもあろうかと思います。



私のピアノ教師歴で、一番初めに手こずったのがMちゃん。



この子が今日は来る・・と思うだけで、気が重くなることも正直ありました。。私もまだ若かったんでね。。



ものすごくふてくされて、しかし休まず来るんですよ。



その子が帰った後、次のレッスンに来ていたEちゃんのお母さんが、「うちのお姉ちゃんも、反抗期だけど、Mちゃんは相当すごいですねぇ。。」と、思わずおっしゃった・・ぐらいひどかったです。



その途中でも、いろんなことがありました。



でも、賢い子だったので、有名大学に決まり、その後は頑張ってたみたいですよ。



音楽で行くことも考えたぐらい、ピアノも弾ける子でした。



私も手こずったけど、おうちの方は相当大変だったと思います。



彼女が卒業の時、お母様が素敵な高級レストランにお誘いくださって、ご馳走してくださって、おっしゃったんですよ。



「私一人(もちろんお父様もいらっしゃいました)では、とてもあの子を育てられなかったと思います。ありがとうございました。」と、、、感激した覚えがあります。



私もまだ若かったので、達観するには至らず、右往左往しながら、Mちゃんと対決したり、寄り添ったり・・・そんな14年間のお付き合いでした。



その子も、もうすぐ40歳になるような年齢。



東京あたりで活躍してるのかな。。



とても強い個性と能力を持った子でした。





Yちゃんの名言もあります。



あまりにも名言だったので、相当数の方に言ったことあるんですが。。



この子もすごーく大変だった。。



この荒れ狂う時期が何年も続いて、私もさすがに・・先生変わった方がいいのでは・・と思ったくらいだったのですが、そうこうしているうちに次第に収まり、落ち着いてきた。。



もう本当に普通のかわいい、でも確かに精神的にも肉体的にも成長を遂げたYちゃんに変貌を遂げた・・と思われる頃、このYちゃんの前のレッスン時間の子が、こう状態で、ものすごくブスッとして、すごい態度で帰って行ったのを二人で見送りながら、「ねえ、Yちゃんもあんなだったよね。あの時ってどういう心境だった?」って聞いてみると、Yちゃんしばらく考えて・・・



ひとこと。



「あの時は、、、子供だった」



。。。



だそうです。。



ピアノ教師って、気付いたら目の前にいる、そして長く付き合う「親以外の大人」としては、もしかしたら、親戚のおばさん以上の存在なのかもしれないなぁ・・って思うんですよ。



なので、ダイレクトに心の状態を、まったく遠慮なくぶつけてくる子も多くいて、本当に大変なこともあります。



最近は、若いころに比べれば随分私も「達観」の境地になれるようになり、落ち着いて見れるようになってきました。



うちの子が本当に失礼な態度をとって。。すみません。。



とおっしゃることも間々ありますが、



失礼な子は山ほどいますよ。そんなこといちいち腹を立てても身が持たないです。それが心の中で、どんな変貌を遂げているのか想像できるので、いろいろな言葉を投げかけながら、あるいは何も言わないで、見守っています。。



。。と。。。



前にも書きましたが、100年の眠りについたら、時が来るまでどうにもならない、、しかし時期が来たら、ちゃんと、その「イバラ」のトゲで生い茂った中から、素晴らしく成長した子供の心が現れます。



本当に、昔話というのは、象徴的に人の心の状態や心の成長、あるいは変化を表現しているようで、先人の知恵は大したものだと思いますし、何百年たっても、人の心の根本はそうそう変わらないのだな。。とも思います。。



「さなぎ」



もそうです。



一見グロテスクとも思えるこの状態。



さなぎになってしまうと、殻に覆われた中で何が起こっているのか見えないし、表面は荒れ狂ってるようにも見えることもある。



ヘタにこじ開けようとしたらダメですよ。



じっと、見守る。



ほっといてもダメ。



とにかく「心」を使って、じっと見守る。



「さなぎ」の内部では、素晴らしい変化を遂げていて、今まさに「ちょうちょ」になろうと、もがいているのかも知れません。



きっと本人も苦しいと思います。



しっかりと見守ってあげてください。



でも、はれ物に触るようでも、あまり良くないのかも知れません。



きちんと、心と心で語ってみてください。



きっとご両親だって、ご自分が子供の時、思い当たることがあるのではないでしょうか?



むしろ幼かった頃のように、変わらずずっと従順・・な方が心配です。



いつか、幼い頃とは変化している。。と思う時期が来ると思いますが、来るべき時期が来たのだと、心を決めて、じっくり、、少しは右往左往してもいいんじゃないですかね。。覚悟を決めて、向き合ってみてください。



そうしてこちらも一緒に人として成長するのだと思います。



町のピアノ教師・・・なかなか面白い仕事ですよ。。見た目より、けっこう大変ですけどね。。



では~









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あちらの世界こちらの世界

2013-07-10 07:32:29 | おもうこと

先日も書いた、ドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデ

ドイツ語は、言語として思考することに向いているようで、哲学者が多いみたいですね。

ベートーヴェンとも親しかったゲーテを初めとし、多くの歴史的哲学者を輩出しています。

児童文学者・・と簡単に言いますが、ミルクにお砂糖を混ぜたようなあまーい言葉が並んでいるわけではありません。

短い言葉の中に、真理がある・・・これが優れた絵本や児童文学のすごいところですね。

もちろんカタイ内容のものばかりではありませんよ。

やはりすぐれた作品には「力」があります。

ドイツの児童文学者の中には、ケストナーなど、ほかにも素晴らしい作家がいるのですが、この話はまたの機会に・・・

で、、ミヒャエル・エンデ

この方も、そうとうに「哲学者」でしたね。

エンデ作品の中に、「はてしない物語」という本があります。

商品の詳細

この本の文字の書き方が、非常に面白いんです。

読みやすいように少しトーンは抑えてありますが、赤い文字と緑の文字が、それぞれの世界を表しています。

「あちら」の世界と「こちら」の世界。

「あちら」と「こちら」・・・あちらとは異界、彼岸とも言えますが、「空想の世界」と「現実の世界」としておきましょう。

母親を亡くしたばかりの少年が、ふとしたことから、「あちら」の世界に行くことができるようになる。

少しずつ「あちら」と「こちら」のバランスが、「あちら」にシフトしてゆく。。

ついに「あちら」だけの住人になり、見せかけの「英雄」になったかと思ったが、ギリギリのところで「こちら」に戻り、父親との和解を果たす。

そして現実を見つめながら、地に足の着いた、「普通の少年」として、歩いてゆく。

簡単すぎる言い方ですが・・・。

素晴らしい作品なので、是非このファンタジー、手に取ってお読みください。

「あちら(空想やファンタジー)の世界とこちら(現実)の世界、このどちらにも自由に行き来できる人の精神こそが、健全なのです。」と。。

ピアノを弾く時も、肉体をどう駆使してどのような音を出すか、、や、楽譜をどう読み解くか、、という現実問題と、作曲家の人生や心に思いをはせ、時にはファンタジーの中で遊ぶ。。。この両方がなされているわけです。

とても素晴らしいことをしているんだなと、つくづく感じます。

フランスの画家、ポール・ゴーギャン

われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか、: D'o�・ venons-nous ? Que sommes-nous ? O�・ allons-nous ?, : Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?)は、フランスの画家

楽園を求め、家族も仕事も捨て、南の島タヒチに移り住み、絵を描き続けました。

しかし、彼が病の床に伏し、病床の枕元に残されたのは、故郷の雪景色の絵だった・・と・・・

彼が人生をかけて、問い続けたのは・・?

私たちも、日常的・現実的な世界に引き寄せて、あれこれ考えてみるのも良いかも知れませんね。
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バッハの人気ランキング

2013-07-09 12:04:46 | おもうこと

少し前に、調べたいことがあって、ネット検索をしていたら、J.S.バッハの時代の人気ランキングというのがあって、1位はテレマン、2位ヘンデル、、肝心のバッハは7位であった。。という記事があって、興味深く読みました。



J.S.バッハは、10代の時に、両親と死別し、長兄のところに身を寄せました。



この事は、私も小学生の時に読んだ子供用の本で読み知ってはいたのですが、なんとなく当時のことだから相当な年上のお兄さんだったと、勝手に解釈していました。



でも、このころの長兄は、まだ20代の若者で、家庭を持ったばかり。



そのうち子供も生まれるし、自分自身の生活だって大変だったと思います。



出来る限りの教育は受けさせてもらってはいますが、どこまでも高学歴を望むこともできず、バッハは10代後半(17歳から)で既に仕事についています。



もちろん才能あふれる若者でしたし、教会オルガにストなどの仕事に就き、生徒を指導する立場だったバッハですが、自分より年上の生徒もいて、ちょっとした争いごとになったという記述が、克明に残されているようです。



なんでも、「へっぽこファゴット吹き」と、バッハになじられた3歳年上の生徒が、それを根に持ち、待ち伏せして襲撃したというのです。



樋口先生のお兄様である、樋口隆一先生の「バッハの風景」(小学館)に、詳しく書いてあります。



少し引用。。。



4回にわたって開かれた長老会の記録には、その顛末が克明に記録されている。長老会に訴えたのはバッハの方なのだが、結果はどうも「けんか両成敗」の方向に流れてしまったようだ。なんといってもバッハは生徒を監督する立場なのだから、そんな挑発に乗ってはいけないのだが、ガイヤーズバッハは生徒と言ってもバッハより3歳も年上だったというのだから、無理もないと言えるのである。・・(略)・・いくら才能があるといったって、大学にも行かず高校を出たばかりで新しい教会のオルガにストという華やかな地位を得たバッハに「へっぽこ」呼ばわりされてはつらかろう。「人間はみな不完全さをもって生きているものだ」という長老の意見には、妙に合点がいく。・・・



もう、ここを読んで、大笑いしてしまいました。



隆一先生が、「妙に合点がいく」・・・と書かれたことも、なんだか私にとっても合点がいって、ツボに入ってしまったので、紀美子先生に「お兄様のここの文が良かったです」と言ったら、「あら、そう!?」はははっ、と笑っていらっしゃいました。



余談ですが、樋口隆一先生の本って、かなり詳しく専門的にもかかわらず、たいへん読みやすいのです。



バッハに対する「愛」を感じます。



私の好きなドイツの児童文学者に、ミヒャエル・エンデという人がいます。



白い竜が出てくる映画「ネバーエンディングストーリー」の原作者としても有名ですが、代表作に「はてしない物語」「モモ」(・・その他著者多数)等があり、多くの本を世に出しました。



「エンデと語る」という、子安美智子さんの本があるのですが、この中でエンデは、作品を書くときに、一度得た知識を自分の体内に取り込み、まず忘れる。。。そして本当に自分のものになったところで書く。。



というようなことを述べていましたが、説明的に感じる作品は、この「忘却する」「体内に取り込む」という作業が未完だったのではと感じます。



よく生徒さんの演奏にも、「説明的に弾かないで!」と、注意することがあるのですが、言われたとおりに、少しアクセントをつけよう、などと頭で考えただけで弾いてしまうと、そういうことになるのだと思います。



自分のものにしなければ、本当に「作品」にはならないのでしょう。



エンデの言葉の中に、「愛」は、「にもかかわらず」という感情だと。。こんなに素晴らしいから、、という理由づけでなく、出来ないところがある、ダメなところがある・・・長老の言葉を借りれば「不完全さ」にもかかわらず・・・愛するのだと言っていました。



そうなのかも。。。ですね。。。



マスコミや宣伝や・・いろいろなところに、こんな素敵なことがあります!と、「光」の部分だけを強調するような流れがありますが、物事には「光」があれば「影」もあるわけで、それがないものは、「実像」ではなく「虚像」なのではないでしょうか?



これをしさえすれば、上手くいく。。とか、幸せになれる。。。ってことは、まずなく、そのどちらも見つめてこその「本物」なのだと感じています。



「光」の部分しか見つめない姿勢でいることは、「精神の幼さ」につながってゆくのではないかと、危惧しています。



ぁ。。。また、難しいことを言い始めてしまいました。。。



さて、バッハ。。。



凄すぎる人なので、「教科書」を「勉強」する感じになってしまいがちですが、彼だって、より待遇のいいところを求めて、仕事場を移っていったり、老境に入り、若者にとって代わられようとしているときに、売り込もうとしたり、、それはもちろん「生きていた人」なわけで、いろいろな葛藤があったに違いありません。



次第に息子たちや、ハイドン(バッハの息子の一人と同じ年に生まれた)など若手の新しい曲がもてはやされるようになり、世間から忘れ去られたかのようであった時代が過ぎ、新たにメンデルスゾーンによって、世間に知らしめられた・・と言うのは有名な話です。



その間の多くの作曲家などは、バッハの平均律をいつも傍らに置いて勉強していた・・という記述にしばしば出くわしますが、一般的には演奏会で取り上げられることも、ほとんどなかったのでしょう。



お客さんが入らなくては、演奏会は成り立ちませんからね。。



いつの時代も、世間というのは、そんなものなのかも~



なーんて思いながら・・



ちなみに、子供たちにとっては「プレ・インベンション」の中で、ちょっと弾くこともある・・程度のテレマンですが、当時は実力者で尊敬される大人物で、バッハも息子の一人がテレマンに名付け親になってもらっているようですね。



今日は、ずいぶんカタくなってしまいました~~



我慢して読んでくださった方、ありがとうございます











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テクノロジーの発展に思う・・

2013-06-30 06:36:48 | おもうこと

テクノロジーの発展・・・とまあカタソウなタイトルなのですが、もちろん私は全くの門外漢ですので、身近なことについてお話しします。

ピアノ教師なのに、なにやってんだ~~

でも、レッスンしながら、いろいろ思うんですよ。。

まずケイタイ

私が初めにケイタイ持ったのは、そうとう昔で、皆さんはあまり持っていらっしゃらなかった頃だと思います。

と言っても、とてつもなくケイタイが高く本体も大きい・・のような頃ではありません。

ビジネスではよく使われていたものの、メール機能などはなく、皆さんもそんなにお持ちではなかったので、あまり役に立ちませんでした。

ただ、旅行などに行って、所在が分からない私に連絡を取る人からすれば、便利だったと思います。

事実、当時うちの祖母が体の状態が悪かったので、緊急の連絡するために、母にナンバーを知らせておいたら、祖母ではなく妹が入院したようだ、と、東京で友人たちと食事していたら連絡が入り、東京から大阪に立ち寄り、一週間滞在したということがあります。

当然レッスンも緊急にお休みという事態になり、そのころ趣味で生徒さんの電話番号を語呂合わせで暗記していたので、これで全生徒さんにすぐに連絡できたんですよ。。覚えていない人には伝達してもらって、おそらく80名以上はいたと思うんですが、滞りなく。。。もちろん、家電(イエデン)です・・大方の方はお持ちでない時期でした。

今は、全く暗記していないので、無理ですが、携帯がありますもんね~

なかったら恐ろしいことになります。

その後もう一度もって、やめ、けっこうみんな持っているのに私は持っていません。。の状態が続いていました。

体調が悪いときなど、発熱等でフラフラな状態で、一軒ずつお電話で事情を話してお休みのおねがいをしているときは、シンドかったな・・と思いだします。。めったにはありませんでしたけどね。

今は便利に使わせてもらっています。。。

さて、このケイタイ・・小さい時から使っている子・・塾の送り迎え等、きっちり何時って言いきれない時のお迎えなど、やはり便利ですよね。

中学生から持ってる子、高校生になると解禁・・というのが一番多いようです。

でも、親御さんのお考えで、高校生はまだダメ、大学生から、、電話を使えばいいでしょ。。という子も時々います。

いろいろな誘惑など、ケイタイには落とし穴もあるし、依存症もあるらしいから、それぞれのご家庭のご事情やお考えでいいのでは。。と思っています。

でも、その時思うんです。

電話の発明をした、グラハム・ベルは、電話の発明は余計なものだったと、自分の書斎に置かなかった・・というお話をご存知ですか?

不確かな記憶ですが、「この回線を通じて、良いことばかりでなく悪い情報ももたらされるだろう」というような内容のことを言っていたと思います。

ワットの蒸気機関の発明、エジソンの電気、、テレビの発明。。その後も次々と。。。

臓器移植の倫理的問題など、科学はどこまで立ち入れるのかということと、生命の維持や尊厳などの問題の前で、最先端の科学者や医学者さえ、悪魔に精神を売り渡すような行為をしていないのか、自問自答するのだと思います。

そこに新たに登場したのが、山中教授のiPS細胞なのでしょうか?

私は、全く専門知識がないので、ピントがずれた発言をしていたらスミマセン。。。

・・・どんな科学をもってしても治療困難な疾患に対応するため、注目を集めている2012年に京都大学の山中伸弥教授がノーベル生理学・医学賞を受賞したことで話題となったiPS細胞(人工多能性幹細胞)やES細胞(胚性幹細胞)は、再生医療を実現するものとして期待が高まっているそうですね・・・

多くのテクノロジーによって現代社会は支えられています。

テレビだって、発明した人は、非常に高い志をもって、製作に情熱をかけたと思うんです。

そのことで、楽しい娯楽や重大なニュースなど「良い」情報が流れる一方で、つまらない・・以上に、「悪い」情報も流されるわけです。

電話だって、緊急に連絡を取ることで命が救われる一方、いろいろな悪い使い方もありますよね。。人の悪口どころか、振り込め詐欺をはじめとする、姿が見えないけど声だけ・・という条件を使って行われる犯罪の数々。

ラジオなどのマスメディアを使って、巧みに人の心(大衆心理)を操作した代表格は、ヒットラーと言われています。。この当時は主にラジオでしょうが、、、ちなみに、ヒットラーは画家を志したものの夢破れ政治家に転身した人物です。

画家になっていたら世界の歴史は変わったのでしょうかね・・・?

。。。

現代文明をどこまで受け入れるのか・・・

ある時点で、それを拒否した人がアメリカなどのある地域で暮らす・・「アーミッシュ」の人たちでしょう。

今は、もう観光の対象ともなっているのでしょうか?

電気も使わず、アーリーアメリカンな生活をしていらっしゃるのでしょうか?

パッチワークをしたり。。

ターシャ・テューダーも、アーミッシュではありませんが素朴で素敵なライフスタイルで、魅了されている主婦も多かったと記憶しています。。もう故人になられていますよね。。さすがに。。

新しいものにすぐに飛びつくのは、危険なのかもしれません。

ちょっと待てよ・・と。

そういうことを判断できる人に育てるということが、大切なのでしょう。

パソコンなども、巧みに使えなければ、現代社会では仕事にならない・・ということの方が多いのでしょう。

巧みに操ることも、習得する一方、光と影があることも否めないことで、そのことを十分に認識し、判断できるように、育てなければならないんでしょうね。

そもそも、人類が「火」を使うようになったことから、考えられなければならないのでしょう。

ほかの動物たちは、火をおこして使う・・などということはしないのですから。。

「火」は、人を温め、そのままでは食べられないものを食べられるようにしたり、より美味しくしたり、人々に喜びをもたらす一方、人々を焼き尽くし、戦争にも用いられ大量殺人も可能になる・・・そういう側面もあるのです。

おそらく、物事のすべて・・といっていいのだと思います。

それが「人間」が持っている、本質・・・と言えるのでは??

キレイごとだけでは済まされないのだと思います。。。この両極を持ち合わせている。。という事実を自覚して生きていかなければならないのでしょう。

あ――、またカタイ話になってしまって、すみません。。

これは、ケイタイを持たせてもらえないという高校生が「なんででしょうね~~?」というので、話した内容に、少し付け加えた内容です。

ちなみに、この子は、自分自身の不便さというより、部活の連絡など友人たちに迷惑をかけるのが申し訳なくて・・・連絡したくてもなかなかつかまらない・・と・・・

お母様だけケイタイアドレス持っていらっしゃったので、よく話し合って、そういう連絡だけは、お母さんに受けてもらうことにしたら?・・で、話はまとまったように思います。

ピアノのレッスンなのに何やってんだ~~

ちゃんとその子は、シューベルトの即興曲を弾いていましたよ!!

芸術作品というのは、掘り下げて掘り下げて、自分の心の中や、あるいは意外かもしれませんが社会そのものの在り方まで、問いただし、真理を見つけようとする姿のようにも思えます。

最先端のテクノロジーの行く先と、芸術作品が、全く無縁だとは言えないのではないかと思ってしまうのは、私だけでしょうか?

最先端の医学者や科学者が、その精神のよりどころを芸術作品に見ていることも、多くあるようです。

今日もナガナガと。。。シツレイいたしました~~

参考文献として・・

アレクサンダー・グラハム・ベルAlexander Graham Bell1847年3月3日 - 1922年8月2日)は、スコットランド生まれの科学者、発明家、工学者。世界初の実用的電話の発明で知られている[注釈 1]

ベルの祖父、父、兄弟は弁論術とスピーチに関連した仕事をし、母と妻はだった。このことはベルのライフワークに深く影響している[3]。聴覚とスピーチに関する研究から聴覚機器の実験を行い、ついに最初のアメリカ合衆国の特許を取得した電話の発明(1876年)として結実した[注釈 2]。後にベルは彼の最も有名な発明が科学者としての本当の仕事には余計なものだったと考え、書斎に電話機を置くことを断わった[5][注釈 3]

高柳 健次郎(たかやなぎ けんじろう、1899年明治32年)1月20日 - 1990年平成2年)7月23日)は日本ビクター元副社長・技術最高顧問である。静岡大学名誉教授静岡県浜名郡和田村(今の静岡県浜松市東区安新町)に生まれた。テレビのと呼ばれる。

ターシャ・テューダーTasha Tudor1915年8月28日 - 2008年6月18日)はアメリカ絵本画家挿絵画家園芸家ガーデナー)・人形作家である。

彼女の描く絵は「アメリカ人の心を表現する」絵と言われ、クリスマスカード感謝祭ホワイトハウスのポスターによく使われている。50歳代半ばよりバーモント州の小さな町のはずれで自給自足の一人暮らしを始め1800年代の農村の生活に学び、彼女の住む広大な庭で季節の花々を育て続けるライフ・スタイルは、日本でも注目を集めた。

アーミッシュ英語: Amish[1]ドイツ語: Amische[2])とは、アメリカ合衆国ペンシルベニア州中西部などやカナダオンタリオ州などに居住するドイツ系移民ペンシルベニア・ダッチも含まれる)の宗教集団である。

移民当時の生活様式を保持し、農耕牧畜によって自給自足生活をしていることで知られる。原郷はスイスアルザスシュワーベンなど。人口は20万人以上いるとされている。

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「白い山脈」藤井勉 画文集

2013-06-29 07:06:25 | おもうこと

白い山脈―藤井勉-画文集

バンドをやってた頃のドラムたたいていた仲間が、クラリネットやってたんだけど隠岐の島に高3の夏に行った時の美しさに魅了され、美術専攻に鞍替えしたっていう面白いヤツで、未だに美術教員しながらブラスの指導してるらしいって聞いたけど、頑張ってるんでしょうかね。

この、ドラムをやってたK君から当時、松本きみ子さんの3原色の本(今はもう売ってないかも・・)赤青黄いろの3つの色を組み合わせることで、自然のものならすべて表現できる、、という本など、おもしろいものを教えてもらいました。

今は全く交流ないですけど、「それですべては表現できるのか?」みたいな議論をした覚えがあります。

その後も、シュタイナーの講座に行ったとき、この3原色を使って表現するんですが、3つの色で遊ぶ・・現れた形にこだわってはいけない・・と・・面白い体験でした。

こうした体験の数々が、今の私の発想の源になっているのかな。。と思います。

先日もリトミックのレッスンで「おえかき」タイムがあったんですが、あめがぽっつんぽっつん、ざーざー、びゅーびゅー、カミナリ・イナズマ~~そして虹~~のようなことをやって遊んだんですが、こういった体験が原型になって、想像の源になってる気がします。。そう。。形にこだわらず、体験するってこと。。

さて、前おきが長くなっちゃいました。

藤井勉さんの画文集「白い山脈」

大変美しい絵と、考えさせられる画家の視点から書かれた文、そしてわが子や家族への愛にあふれた画文集です。

そうとう昔のものですが、今でも購入可能なようです。

序にかえて・・

花に笑む子

しおれた花に泣く子

子供たちの笑顔や涙が

足元を照らし

それぞれの季節

ひかりや風のちがいを

教えてくれた

無知にひとしいまま

父になり

ふり向けば青春は彼方

だが この掌に残る

子らの重み

これらはもう冒されることのない

確かなものだ

。。

当時まだ若かった藤井勉さんが書き綴った言葉の数々は、まだ20代だった私の心に響きました。

この画文集から、少し引用させてください。

。。。

「由希子」

・・・(略)・・・

言葉にならない言葉を聞きわけるのも、わたし以上に正確だし、何をほしがっているのかもすぐわかるらしい。

どちらかを強くしかると、互いにかばってなぐさめあう。幼くたどたどしい抱擁を見ていると、腹立ちも消えて楽しくなってしまう。

こんな光景も間もなく見られなくなるだろう。小学校に入ったその日から、子供たちは家庭を抜け出して、学校の生徒になりきってしまうのだから。通学も遠足も、修学旅行も、その旅行の寝間着さえも、おそろいの運動着を着せられて、給食に馴らされ、動作も言葉も、それにつれて情緒までも粗雑になってしまった子供たち。

幼い頃、あんなにも豊かだったものを、次々と捨てなければ対応できない学校生活を、とても不幸だと思いながら、ほとんど何もしてやれない自分を棚に上げて、由希子にはせめて今だけでも、のびのびと豊かな絵をたくさん描き、おしゃべりをし、美しく、ごく自然に日々生きてほしいと希う(ねがう)。

学校教育の批判をする気はさらさらありません。

先生方の苦労も、いかばかりか・・とお察しします。

でも子供たちに言うんです。

「今から100年前の教科書って、使えると思う?」

「ううん」

「じゃあ今から100年後に、今の教科書使えるかな?」

「使えないとおもう」

「たぶんね。今習っていることでも塗り替えられることはたくさんあると思う。新しい歴史的発見。。とか言ってね。。政治も変わってゆくし、国境さえ変わる。。今勉強してることは、もちろんしっかりやりなさい。。でも、それだけが全てじゃない。。むしろ、最先端でやっていることは、日々塗り替えられたり、まだまだ解明されていないことだらけ。。まだまだ学ぶことはたくさんある。。学校や塾で習ってることが全てと思っているかもしれないけど、そうじゃないんだよ。」

異論もあるかとは思いますが、私のスタンスはこのようなものです。

まだまだ未知の広い世界が待っている。

教育方針の考え方そのものが大きく変わることもありうることだと思います。

わたし最近、ちょっと毒付いていますかね~~

もうちょっと毒を盛ります!!

古今東西の芸術作品には、非常に真理が描かれ、先人の知恵に唸ることもしばしばです。

シェイクスピアの文章を引用した、河合隼雄先生の文から、またまた引用・・また河合先生って言わないで~~

一連の少年の連続殺傷事件をはじめとして、思春期の子供による事件が相次いで起こり、日本の親たちを不安に陥れている・・という状況の中から、非常に読みやすい河合先生の本を、さらに噛み砕いた形で書かれた、「こころの子育て」の序文より・・・

・・・(略)・・・

日本の親は教育熱心な人が多いが、熱心のあまり固く考えすぎたり、肩に力が入りすぎたりして、そのために自分の子供も不幸になっているように感じられる。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の中で、二人の主人公が死んだ後に、ヴェローナの大公が、二人の両親に対して、「喜びを愛によって殺す」ことをしたのではないかと論するところがある。この言葉を私は日本の教育熱心な親や教師に捧げたいと思う。子供に対する「愛」と思って、大人が一生懸命していることが、結果的には、大人の喜びも、子供の喜びも殺してしまっていることになっていないだろうか。日本の大人は、この点についてよくよく考えなおしてみる必要がある。

・・・(略)・・・

シェイクスピアを大人になって熟読したことがないのですが、シェイクスピアのほかの作品からも、この矛盾した人の心、真理に迫る作品が多くあること・・深く読み直してみる必要がありそうですね。

人生とは深く味わい深いものだな。。

そう思います。。。

では。。

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心の声を聴く

2013-06-27 07:50:52 | おもうこと

子供たちの弾くピアノ

このピアノが何を語っているか、いつもそれに耳を傾けよう・・

そう思って聴いています。

どれだけ聴けているのかなぁ。。

とても上手に・・一見そう思える演奏でも、中身のないものもあります。

ちょっと拙くても、心のこもったものもあります。

今日は、とってもゴキゲンだね。。

ちょっと元気がないかな。。

さまざまです。

ピアノ興味ないんだけど。。

。。という音から。。

すこーし興味出てきた。

。。って、変化することもあります。

ピアノばかりでなく、子供たちのお話しすることも。。

いろいろ説明やら、お話しした後、

「わかった?」ってっ聞いて、

「わかりました。」

。。。

「あ~わかってないんだね~」

ってこともしばしば。。

「この辺に、わかってません。って書いてあるよ。」

これは小さい子ばかりでなく、大きくなった子供たちにも・・むしろ中高生の方が、こういう症状はよく見受けられ、すぐに「わかってます」「わかりますよ」っていうけど、本当にその言葉の向こうにある世界観の浅さに・・あぁ~~と思ってしまうことも、よーくあります。

そういえば、シュタイナー教育のことが書かれている本に・・確か「ミュンヘンの小学生」だったと思いますが、早わかり、早飲み込みの生徒は、むしろ問題だと、本当に大真面目に、父兄会で語られている様子が書かれていましたが、今どきの学校でこんなことを問題にすることはないですよね。

ふつうは、早くわかる方がいいとされるんだろうけど、物事の表層や言葉面(ことはづら)までで終わっていては、試験の点に結びついても、本当の生きる知恵にはならないんじゃないかなぁ。。

少なくとも、ピアノ演奏では、そうです。

昨日読み終えた、茂木健一郎さんと河合隼雄先生の対談書。

村上春樹さんと河合隼雄先生の対談書、茂木健一郎さんの「脳と仮想」、

で、茂木さんと河合先生の「こころと脳の対話」・・どんだけ、河合先生が好きなんだって感じですが、本当に大好きです!!

本当に読みやすくって、面白かったんですが、その中で興味深かったお話の中の一つをご紹介します。

「離人症性障害」という、大変なノイローゼで、現実感を持つことのできないという重い症状を持つ方がいらっしゃったそうです。

 

治るまでに5年かかったのですが、たいへん若く美しい方だったそうです。

その方が、回復した後おっしゃったことが、河合先生にとって印象深くまた大変なほめ言葉に聞こえたので、よくお話しするんですが・・と前おきをして、、

女の人(多くのセラピストのもとに通ったが、うまくいかず、何人かの後で河合先生のもとに通うことになった)の言葉、

「いちばん初め、先生に会った時に、この先生で自分は治ると思った。。今までの先生と違った。。私が部屋に入った時、先生は私の顔にも服装にも、全然関心を示されなかった。。それだけじゃありません。先生は私の話の内容に、全然注意しておられませんでした」(笑)

「僕、何をしていましたか」

「何をしておられたかというのは、すごく難しいんだけれども、あえていうなら、もし人間に『魂』というものがあるとしたら、そこだけ見ておられました・・・・」

ここで、茂木さんが、「うーん、すばらしい。すごいですね。」というと、河合先生は、

「そうでしょう。それも、ほんま、ほめ方としては最高ですね。」とお話を続けていらっしゃいます。

もう一つ、興味深かったのが、「わかった気になるおとしあな」というお話で、

カウンセラーで、講演が上手になる人はみんなダメになります。講演というのはやっぱりある程度、話術というか型がないとだめでしょう。こういう話でみんなを引っ張っていって、笑わせたり喜ばせたり感心させたり泣かせたり、だんだん自分が「わかってきた」ように思うんですよ。千人の心も動かせているんやから、一人の人間もやれると思ったら、それでもう失敗なんです。僕が見てて、カウンセラーやってる人で、講演が上手になる人は、カウンセラーとしてはみんなだめ。

どんな講演依頼が来ても全部拒否していたんだけど、そのうち「絶対しません。しかし・・・」とか何とか言って結局行く、でも話の内容はそこへ行って皆の顔を見て、思いついたことをしゃべる。で、時間が来たらやめる。

「河合先生は、時間をぴったり守られます」と褒められるんやけど、当たり前ですよ。時間が来たらやめるだけやのに(笑)

河合先生、いい~!素敵すぎます~!(爆笑)

こうして、30代から40代にかけて、河合先生の本を読み漁り、追っかけ、米子、鳥取、松江3か所で、幸運にも講演を聞くことができました。

とても興味深く、心に響き、涙が出た時もあります。

最後の松江の講演会の時は、大学教授をしている心理学者でカウンセラーの友人から、

「まこちゃん、今回の公演が最後になるかもしれないから、案内するね。」といって、教えてもらい、レッスンお休みしていきました。

県民会館大ホール、満席でした。

ビッグアーティストを迎えるような雰囲気でしたよ。

(ちなみに、心理学者で大学教授の彼女から、「のだめ・・面白いよ」と、教えてもらって読んだときは、まだコミック本の2~3巻目だった気がします。めちゃヒットしましたよね。)

河合先生は、茂木さんといくつかの約束をされたものの、それもかなわず、最後の対談の翌年、突然亡くなられてしまいました。

文化庁長官として、高松塚古墳などの問題で、ご心労が重なっていたのかなぁ・・という時期でした。もう少し生きていてほしかったという方は、ごまんといらっしゃるでしょうね。。

多くの知識人や、私のような一般人でも、理解しやすい語り口でのお話やら著作の数々。。

愛され慕われ尊敬された方だと思います。

私は、河合先生の言葉の数々のおかげで、何とか、かんとか、やってこれた気がするなぁ。。

さて、「心の声を聴く」

私の場合は、服装の変化なども気にはしています。

ちょっとした変化が、特に思春期は大切な要素になってきますからね。

もちろん、顔つき、言葉づかい。。

これも様々ですね。

今向き合っている子供たちを大切にしたい。

。。

子供がこう言ってたから。。。という言葉の向こう側にある「世界」・・魂の言葉というんでしょうかね。。

こういってたという言葉の表層にばかり、気がいくのではなく、(もちろん言葉の端々にも出てきますが)、深い次元で、くみ取れるようになりたいですね。

ピアノの音は、そういう子供たちの心の声なのだと思って、聴くようにしています。

5年・・10年・・20年・・

聴くうちに、研ぎ澄まされてくるんでしょうかね・・・?

今流れている、エリック・ルサージュが弾く、プーランクのピアノ曲

私、きっとプーランクと心の中ではお友達だわ。。

本当に素敵な人だった気がする。

天国に行けたら、お話ししてみよう。

ルサージュのピアノも大変素晴らしく、すごーく弾きたい気持ちいっぱいなんだけど、また腱鞘炎がぶり返しつつあるので、サポーターと湿布をして、ゆるーりと弾いております。

ほどほどにね。。

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この道よりわれを生かす道なし。この道を行く。

2013-06-25 00:20:52 | おもうこと

最近、おもうこと・・・ばかりのアップですみません。。。



武者小路実篤の有名な言葉。。。名言。。。というんでしょうかね。






「この道より我を生かす道なし。この道を行く。」





この言葉、お土産物売り場の何か品物にも書いてあるぐらい、浸透しているようですが、解釈について思うことがあるんです。。



一般的には(作者本人もかなぁ・・)、例えば、女優になりたいと思っている女の子がいたとします。



そんなの無理だよ。食っていくのも大変だし、成功する人なんて殆どいないよ。。と言われても、その道を信じてやり抜き続ける。。



というようなことなのでしょう。



だけど私、最近思うんですよ。



例えば、何かの職人の家に生まれた。



自分の意に反して、後を継がなければならなかった。



本当は、もっとやりたいことがあったのに。。



しかしその道をやり抜いた。。



その先には、悟りにも似た、真理への気付きがあった。。



ぁ・・・私が言ってることって、通じてますかね~~



思うような学校に行けなかったり、理想通りの就職が出来なかったり。。



でも、やり続け、やり遂げた時には、何か大きなものが見えてくるんじゃないでしょうか?



この年になると、そんな気がしてきます。



 

NHKのTVで、石工の左野さんという方が出ていらっしゃいました。



中学卒業前、体を壊し、就職できたのが石工の仕事だけだった。



進学した同級生たちが、流行のボーリングに興じているのを横目に、自分は手がしびれるどころか、皮もボロボロに剥け、感覚もなくなり、足もたたなくなるような、想像を絶するような仕事の厳しさに耐えた。



それは「くやしさ」



それはもう、ものすごい思いだったと。。



何とかこの仕事で、いっぱしの人間になりたいと努力に努力を重ねた。



おそらく地を這いずるような気持だったのではないでしょうか?



そして今、カンボジアのアンコールワットをはじめ、エジプトのピラミッドやイースター島のモアイ像など、世界の遺産を、「ノミ」一本で渡り歩き修復する仕事をしている。



私の頭の中に、武者小路実篤の言葉がよぎりました。



何かを命がけでやらなくて、何が見えてくるんでしょう。



かっこいいことばかり考えていても、絶対に見つからない。



泥をかぶらなくちゃ見えないよ。。



と、中学生の男の子に言っておきましたが、どれくらい分かってくれたやら。。



筑紫哲也さんが生前、



「どんなにきれいな発音で英語をしゃべっても、中身がなかったらダメなんですよ。内容がなければ、どんなにきれいなネイティブで話しても、聞いてはもらえません。」



筑紫さんもそんなに素晴らしい発音ではなかったけど、アメリカでの仕事も長く続け、キャスターとしても一人の人間としても愛され尊敬されて、多くの知識人と語っていましたよね。



生徒にもよく言うんです。



「とてもきれいに朗読しても、どんなことが書かれていましたか?と聞かれて、さっぱり分かりません・・じゃ、どうにもならんでしょ。少し位つたなくても、ちゃんと理解して語らなきゃ、意味ないじゃん。初めからさらさら弾かんでもいいよ。むしろ不器用に弾きなさい!」



そりゃ、舞台の上で不器用という訳にはいきませんよ。



お客様にまだ出来上がっていない生煮えのお料理を出すわけにはいきませんからね。



でも、ゆっくり時間をかけて仕上げればいいことでしょ。



意味も分からず、最初から口先だけで意味のない言葉を並べるなと。。



大きな子にですよ。



ちっちゃい人には、お母さんと一緒に「一つの曲は、一つのお話を読むように」と、言っています。



若いころ、ショパンがあまり好きではありませんでした。





綺麗すぎて、華麗すぎて、なんだか私の心に響いてこなかった。



でもそれは、ショパンの作品の表層しか聴けていなかったのだと思います。



文章で言ったら、「文体」とでも言いましょうか。



そういう表面的なことに気が行ってたんだと思います。



オシャレだとか、カッコいいとか、、



それも大事だけど。。



大江健三郎さんの文は「悪文」と言われているようで、ご本人も承知していらっしゃるようです。



でも、文体がオシャレだとか、そういうことではなくて、



「作品に貫かれている精神」



こそが、大切なのだと思います。



進路など、迷うことは多々あると思います。



泥をかぶり、くやしさに耐えられないで、どうして真理がつかめるのでしょうか?



いや、ありません―――英文にこういうのあったけ??







きっと必死にやったら、見えてくる「真理」は、同じなのかもしれないと思っている、今日この頃でした。。。



ぜーーったいそうだって。。!





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一つの月謝袋が語ること・・

2013-06-24 06:45:40 | おもうこと

私の手元に一つの月謝袋があります。

ピンク色のビニール製のもので、中に入っているカードに12ヶ月分の領収印を押すためのマスが施され、クマさんのイラストが描いてあるかわいいものです。

。。。

画像をとろうかな。。と思って。。。やめときました。。。。

なんか違うかな。。

それは。。って。。

って心のどこかから声がしたので。。

この月謝袋の持ち主は、もうこの世にはいません。。

blogでお話しするような内容ではないのかも知れませんが、あれから20年以上もたつので、今はお話ししてもいいような気がします。。

5月に領収印があり、6、7月はシールを貼っています。

8月にもう一度領収印があり、そのあとは空白。。。

ずっとしまい込んでいたので、劣化もせずきれいな状態で、昨日のことのようです。

あのころのことが、ありありと思いだされます。

6、7月に欠席・・と書くのが、なんとなく忍びない気がしたんです。。たしか。。

それで、印鑑と同じぐらいのサイズのかわいいシールを貼っておいたんです。

だってその子は、レッスンに来たかったんですよ。

ちょっと入院する。。と。。

で、8月にいったん復帰して、そのあと

「また検査入院だって。白血球がおちょくってるなぁって、先生が言ってた。」

と。

ポップな細密画を描く、ヒロ・ヤマガタの画集をお見舞いに渡したら、どれどれ・・・ってお母さんが、のぞいてる挿し絵付のお手紙をくれて、退屈な入院生活だけど、ちょっとした楽しみもあったのかな。。

ケーキをお見舞いに持って行ったとき、たまたま外泊中で留守だったので、「冷蔵庫に入れておいたよ」と置手紙をしておいたら、戻ってきた彼女から「先生ないよ~どこ~?」って、電話があって、みんなで使う共同の冷蔵庫に入れていたら、だれかに食べられちゃったみたいで、「また持っていくからね~」。。。それっきりになってしまいました。。

秋ごろお母さまから電話があり、

「うちの子のレッスンの時間を空けていただいていると思うんです。でも、先生のレッスンを待っている人がたくさんいるのに申し訳ないので、もう一度元気になったら連絡します。元気になったら。。。」

と、もう一度繰り返して言われたことが、今でも耳に残っています。

思い出すと、今は泣けます。

あのころは、あまりのことで、むしろあまり泣けなかった。。

今生きていれば、40歳てまえくらいで、きっと今いらっしゃってるお母さんたちと同じぐらいなんじゃないかな。。

今頃は、小さな子供たちのお母さんになっていたことでしょうね。

その子にプレゼントしたのと同じ画集も持っています。

たくさんの思い出もあります。

それに、いつも感傷に浸っているわけではありませんよ。

引き出しを開けて、あぁ・・あるな・・

お釣りもそのまま・・

復帰した時に渡そうと思っていたので、手元にあるんです。

その子が亡くなった後、お母様にどうしてもお渡しする気になれなくて・・

お休みしていた時の空白のマス目と、500円玉のお釣りが切なくて・・

20数年たった今、初めて、今年中学生になったばかりの子、数人に、

「この月謝袋、どう思う?」

って、見せてみました。

きっと、ピンクのくまさんが描いてある、かわいい月謝袋で、今使っているものとは違うな~とか、お釣りが入ってるな~とか、思ったでしょうね。

「この月謝袋の持ち主は、もうこの世にいないよ」

「え」

「中学生になるのを夢見て、小6の2月に亡くなったよ」

今過ごしている日常が、当たり前のことだと思ってるかもしれないけど、それは違う。

奇跡的なことなのです。

中学生になって、みんな忙しいくてたいへんだと思ってるかもしれないけど、この子にとっては、憧れてそしてかなわなかった夢。。

部活は何に入ろうかな?

とか、考えていたんですよ。。その子も。。

頭もよく、スポーツも万能で、思いやりのある、とてもイキイキした子でした。

私も新米講師だったし、その子も5歳から習い始めて、12歳でした。

。。

そこに何気なく置いてあるものだって、深い思いや、意味があることだってあるのです。

「あなたたちは、きっとお母さんがお料理作るときに、○○ちゃんが、こうしたら喜ぶだろうな。。とか、こんな風にしておいた方が食べやすいかな。。って、いっぱい工夫してくれていることも気付かず、食べてるでしょ。。何気なく見過ごしている日常の中に、大変な人々の思い、思いやり、工夫が隠されていることだってあるよ。。例えば楽譜に書かれている指使い一つとっても、大変な知恵や思いが隠されていることだってあるんだよ。。」

そういう私だって、気付かないことだらけだとは思いますが、、ね、、

最近こんなことばかりblogにかいているので、コンペどうなったのかな・・・あまり良くなかったのかな・・・と思っていらっしゃる方もあるかな・・

昨日、岡山(だったと思うけど・・)、A2で受けた子が、C級のY君の掲示があり、支部賞(トップ通過)までもらっていて、「この子すごく上手だったね。」と、掲示を見ている人たちが言ってたので、思わず「同じピアノ教室です!」と言いたくなるのを我慢しました。。って

で、その子も通過して喜んでいました。

ほかにも、数人、それぞれの級でトップ通過していたようです。

嬉しいけど、そんなに気にならなくなってきたな。。

と、、

ピティナが販売している毎年のCDも購入さえせず、、一応1週間ぐらい前にちょっと聴いておこうかな。。と思い、楽器店に問い合わせたところ、もう在庫がありませんと。。。まあいいか。。という感じで、今は、バレンボイムのモーツアルト変奏曲が流れております。。

心配している方がいらっしゃるかもしれないので、ご報告だけ。。

鳥取地区

A2級・・Kちゃん

A1級・・Aちゃん、Hちゃん、Nちゃん

B級・・K君、A君、Yちゃん、(T君奨励賞) 

C級・・Hちゃん、Aちゃん、Kちゃん、Y君、(Kちゃん奨励賞)

D級・・S君、Kちゃん、Kちゃん(Rちゃん奨励賞) 

E級・・Sちゃん、Hちゃん

F級・・Nちゃん

津山(何地区でしょう?)

Yちゃん、Hちゃん

岡山(何地区でしょう?)

Y君、Kちゃん

列挙し忘れてたらごめんね~(案の定、忘れていたので書き加えておきました。。他にもあるかも~ごめーん

地区もイマイチ分かりません

まだこれから受ける子もいるようで、何回どこの地区でいつあるのか聞いても忘れちゃうしーー

今回奨励賞だった子など、いろいろ聞いてるとメンタルの面もあったようで、お父さんと道中ケンカしながら来て、コンペ前の2日間ぐらい精神状態が良くなかった。。とか、プールサイドでこけて指がパンパンに腫れ上がってたけど、頑張って弾いた。。とか、2年ぶりのコンペで、しかも発表会もステップも参加していなかった子は、実力はある子なんだけど、舞台に出てきたときから左手が全く振れてないなと思ったら、案の定力が半身に入っていて、途中左手が動かなくなっちゃったとか、頑張ろうと思いすぎて、いつも以上に力が入ったり、気持ちもたかぶり手も震えていたとか、いすの高さを直そうと思ったのに上手くいかず、焦ってそのまま弾いたら曲も焦って、バッハが思っていたテンポ設定より早くなってしまった。。とか、いろいろあるようです。。

いいんじゃないの。

これも人生勉強、心の勉強で、人は傷ついて強くなったり、輝きが増すものだからね。

とりあえず、みんな元気で生きているので。。

まずは、気付く人になろう。。私も含めて。。

きっと、若いお父様お母様たち、子供に育てられてる。。て、実感あると思いますけど、きっと、初めにお話しした月謝袋の持ち主。。。同じぐらいの年の方も、いらっしゃるかもしれませんね。

私たちは、今生きているんですよね。。。

では、この辺で。。

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ピアノを弾くということ

2013-06-20 07:37:51 | おもうこと

子供たちがステージでピアノを弾いている姿を見ると、とてつもないことをやっているんだなぁ・・・と思います。

ピアノを弾くというだけでなく、何か人前でパフォーマンスをするという事は、実は大変なことをやっているんです。

そもそも弾くという行為は、何なのでしょう?

「頭」「心」「体」この3つの要素がうまく働き合って成立する、きわめて繊細、かつダイナミックな行為なのだと思います。

人は目や耳で直接的に受け取る、単純な情報に流されやすい傾向にあるので、まず指がよく動いて、音量があることにすぐ意識がいってしまいます。

これは運動機能の側面です。

運動機能がトレーニングされていなければ、美しい音も、圧倒的な音量も、真珠の玉を転がすような輝きのある音も出せません。

非常に軽やかな音というのは、弱く弾くのではなく、むしろ筋力がしっかりしていなければ、実現しないのです。

おそらくバレリーナも同じでしょう。

体操選手やフィギュアスケートの競技にも言えているのではないでしょうか?

ですが、それだけでは成立しない「ピアノを弾く」という行為。。。

小さい時は、なんだか楽しそうに生き生き弾いていると、いい感じに見えます。

「楽しい」「生き生き」・・・これは大事なことです。

カンがいい子は、なーんとなく体の使い方とか真似るのが上手だったりするので、それらしく弾くのが上手です。

最近は録画する・・ということだってできますもんね。

「勘がいい」「真似をする」・・・これも実は大事です。

そもそも「学ぶ」は「まねぶ」・・・からきており、学ぶことは真似することだったのですから。。。

ただ、成長に伴い、これでは済まされないのが「演奏する」という事。

頭の中で、楽曲を理解し、作曲家が残した楽譜の意味を理解しようとする、音楽の語意を理解し、文章のように、文脈を理解し、言語を理解し、音楽の意味としての句読点や段落を見つけ、曲の山場を見つけて(感じ取って)作曲家の心情に沿うことができるのか。。

むろんそれは理解するにとどまらず、「共感」という事がなければ「感動」もないわけです。

非常に難しい「楽曲分析」ができなかったとしても、「感じ取る」ことはできると思います。

(むしろ楽曲分析に頼りすぎると、危険なことにもなり兼ねないともいえるでしょう。頭で理解することと心で感じることの相互作用がうまくなされていないなら、それはムダ以上に有害になる可能性も秘めているかもしれません。しかし感情に偏りすぎることも危険で、客観性と主観性の接点を探り出さなければ、本当の意味でのプロの演奏はできないのだと思います。)

ただ、「雑・・ザツ」な感覚では、作曲家の「心情」「心理」に迫ったり、「共感」することは難しく、ある程度大きくなった子たちには「心(耳)を研ぎ澄まして」という事を求めます。

楽しく弾ければ、そんなことはできなくても・・・

というお声も聞こえそうですが、ピアニストのようにスゴイことをしなくてもいいのです。

ピアノを習っている子供たちの大半は、音楽家になるわけでも音大に進むわけでもありません。

ただ、こういうことに触れておくことは、非常に頭の中の世界を広げると思います。

あえて「頭の中」

と書きましたが、これは「頭脳」「想像力」

どちらも意味します。

東大、京大に進学した人たちの「ピアノ」率は、高いですよ。

と、これらの大学に進んだ元生徒さんから教えてもらいました。

東大京大に進んだことが、エライとは思いませんが、ピアノを弾く行為は、脳を発達させることにはなると思います。

絵を描くという事を考えてみましょう。

私たちは、何気なく見ているものに意識を集中して、対象を観察します。

ただ「赤」と思っていたものに、複雑な色合いがあることを発見し、その形に「宇宙の法則」を見出すかもしれません。

優れた絵描きは、ただの「肖像画」には終わらず、対象の内面まで映し出し・・いや・・えぐり出します。

優れた写真家もそうです。

写真ですら、「本質」を写し取ってしまうのです。

上手とか下手とかでなく、この「物の本質」を見ようとするところに、「芸術」と言われるものの、大きな価値があるのだと思います。

うーん・・だんだん小難しい話になってきちゃいましたね。。

私、昔からこういうことを考えるのが「シュミ」なんで・・・

小学生の時は「死ぬときは、なんて言い残して死のうか・・」とか。。

小1の4クラス全員で白い体操服を着て(おそらく運動会の練習をしていた?)体操をしてピョンピョン飛び跳ねるのを見て、「この子たち全員の体の中には骸骨が入ってるんだな」と、自分も1年生なんだけど、妙に冷めた目で見てたり。。

中学生の時は「この広大な宇宙に、人が生きる、その存在の意味は・・?・・」とか。。

「この両親が結婚して私という子供を無まなければ、この宇宙を認識することはできない・・・という事は、宇宙は存在しないという事で、無。。。ではないか??。。無とは何であるか??」とか。。

学校の帰り道に、一人で歩いているとき、そんなことを考えることもありました。

ぁ・・・もちろん「おやつ」のことだって・・ね。。

生徒さんに聞くと、全く・・塾の勉強のこととかしか考えません。。という子がいる一方。

あ・・・私もそんなようなこと思うことあります。。と、たまーにですが、いう子もいなくはないです。

それが素晴らしいこととは言いませんが、それが「哲学」などの入り口なのかな~とも思います。

きっと皆さんの中にも、そんな経験ないですか?

さて、「ピアノを弾く」という行為。

この、心の中、、、脳、、、と、言い切ってしまうことのできない「何か」が働き、「おどろき」「せつなさ」「浮遊感」「ふしぎさ」「エネルギーが増加、あるいは減少する感じ」等々。。。

楽曲への「理解」や「共感」となって、舞台上でライブでそれが繰り広げられるわけです。

それは一つの「旅」にも似ていて、バイクに乗る知り合いが、

そんなにすごいスピード出して怖くないですか?と若い人から尋ねられるから、

「そりゃ怖いよ。誰よりその怖さを知ってるから、誰より準備をするよ。バイクの整備はもとより、次の曲がり角で倒木などないかとか、いろいろなことを常に想定し、シュミレーションして臨むよ」と、言うんですよ。。と。。彼らは命がかかっていますからね。。ヘタすりゃ死が待ってるわけですよ。。。

普通の旅だって、楽しさや感動はもちろんあるけど、思わぬアクシデントだってあるわけで、そういうこともしのいで、無事に家にたどり着く・・・までが、「旅」なんですよね。

「心の旅」

とでも言いましょうか。。

そういうことを、ライブでやっているのだと思います。

最高の準備をして。。

この「こころ・・・仮想」の世界と「脳」について、茂木健一郎さんの「脳と仮想」めちゃめちゃ面白かったです。

非常に柔軟な心の持ち主で、音楽や文学にも非常に精通している、素敵な方だな~と、改めて思いました。

しばらくは「茂木健一郎ワールド」と「吉田秀和ワールド」に入りそうです。

あれ~~平野健一郎さんの「葬送」はどうしたって??

ちょっと休憩です。

2冊目の途中で、ほかのものに浮気しちゃって~~

今のところ、ジョルジュ・サンドとショパンもある程度は出てきて、語らせていますが、主にドラクロアの口を借りた形で、平野さんの「芸術における客観性」について述べている・・と言う感想と、非常に賢い方で、かつよく調べ上げて書かれている小説・・と言う印象を受ける一方、少し説明的に感じることもなくはないです。。。とはいえ、1800年代の前半のパリの様子が、なんとなく感じられ・・それは風景だけでなく、上流階級を中心とする人々の心の風景・・と言うほど暢気なものでもないのですが、垣間見ている気がします。まだ3分の1しか読んでません。。4冊ものの2冊目途中。。

そんなこんなで、また「脳と仮想」については、書きます。

難しい本のようですが、非常にわかりやすく書かれています。

ピアノを弾くという事・・・

「脳」の中で行われている活動が、「音」という形に・・目には見えませんが、確かな形になって、表現されていると思います。

この、素晴らしい「脳」の活動

「脳」活動で「心」はすべて説明できるのか・・という命題・・今のところ説明がつかないようです。多くの学者が命がけで研究してるんですがね。。いっとき、立花隆さんの「臨死体験」「脳死再論」等、私も読み漁りましたが、もう20年も昔のことになります。

「心」・・・「優しさ」だったり「思いやり」「想像力」だったり、そういうことの始まりに「リトミック」や「幼児グループ」での活動もあるわけで、バッハのフーガとリトミックは、無関係ではないと、大真面目に思いながらやっているんですよ。。

今日は、ちょっと理屈っぽい込み入った話になっちゃってスミマセン

ではまた~

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memento mori (メメントモリ)・・・ちょっと書き足したversion

2013-06-11 10:42:16 | おもうこと

なんでも、ミスチルの曲にこの副題が付いている「花」という曲があるそうで、機会があったら聞いてみたいところですが、今日は「memento mori」のお話・・・

って小話かい!

memento moriは、ラテン語で「死を思え」「死を忘れるな」・・のような意味です。

ご存じの方も多いことと思います。

memento・・・moment・・・まさに、、覚えよ。忘れるな。。

mori・・・音楽用語として使われているイタリア語の、morenndo・・・死に絶えるように。消えるように。。

教訓的には、皆、生まれてきたものは死ぬのだから、日々をしっかり生きねばならない。

楽観的に考えれば、だからこそ毎日を楽しく生きようよ!

のようなとらえ方もあるでしょう。

イタリアでは、「カンターレ、マンジャーレ、アモーレ」(順番は違っていたかもしれませんが。。)といって、生きているなら「歌い、食べて、愛せよ」と・・・

人生って、必ず報われるとは限らず、「不条理」なものなんだと思います。

「なぜ?」と言いたいことも、しばしばあるのかも知れません。

私の生徒さんの中にも、若く・・いや幼くして人生の幕を閉じなければならなかった子たちもいます。

小さな棺でした。

今でもその子たちの姿とともに、話している声を思い出すこともできます。

あの子たちは、確かに生きていたんだなと。。

ご父兄の方になれば、もっと数多くいらっしゃいます。

むかし、聴音とアンサンブルのレッスンもしていたことがあって、少しの間通ってきてくれていた男の子がいました。

10歳くらいだったと思います。

とても仲のいい家族で、いつもお母様だけでなく、ご主人やおばあちゃんまでご一緒でした。

1年くらい通ってくれた後だったと思います。

そのお母様が亡くなられたと。。。

お悔やみに行くと、クリスチャンだったので、白い花とともに十字を切った覚えがあります。

もともと心臓がお悪かったとのこと。。

子供を産むのは、命の危険があると医師に言われたけれど、命と引き換えでもいいから生みたいとおっしゃって、その男の子を出産されたのだそうです。

その子とともに生きた10年は、きっと本当に素晴らしいものだったのだと思います。

そしてその子に、確かに人生のバトンタッチをして逝かれたのでしょう。

その子も今では30歳を過ぎて、もしかしたらお父さんになっている可能性だってあります。

そのお母様がつながれたいのちのリレー

こうして遺伝子や学問や芸術や、その他あらゆることを次の世代にリレーしているのかも知れませんね。

先日、何十年ぶりに友人を誘って、ランチをすると書きました。

とても楽しいものでした。

「最近どうしてる?」

なんて話しながら。。

「主人が亡くなったのよ」

と友人。

もちろん知らないことでしたから、驚きました。

悲しいことです。

でも早かれ遅かれ、いずれやってくること。

多くの仕事や友人、そして大切な子供たちを残して、確かにその人が生きていたんだという証を残して逝かれたのだなと思います。

息子たちがね・・

「お母さんはよく頑張ったと思うよ。お父さんは、お母さんだったから良かったんだよ。」

「車を変えるんだったら赤にしときなよ。元気が出るし、お母さんに似合ってるよ!」

何にも見てないようで、よく見て考えてくれてるんだなと思ったよ。

親の心子知らずっていうけど、そんなことはない。むしろ反対のことも多いよねと。。

そんな話を二人でしました。

いつかはわからないけど、私にも確実にくるその日。

むかーし読んだインディアンの方たちの本に、こんな言葉がありました。

「今日は死ぬのにちょうど良い日だ。」

もちろんお迎えが来て・・ですよ。

なんだか素敵だなと思いました。

インディアンの言葉で、もう一つ。

「働くために食べるのだ」

とも・・

食うために働くなんて、そんなさもしいことは言わないんですね。。

頭だけの学問ではそんな境地になれないかもしれない、生きるための人生哲学です。。

亡くなった方には「ありがとう。おつかれさま。いつか私もそちらに行きますよ。。」

肉体を離れ、元来た場所に戻るのかも知れません。

そんなことが腑に落ちてきつつある今は、ショパンやバッハが生きていたんだということが、以前よりはっきりと感じられるのです。

もちろんもっと深い次元で彼らをとらえ感じていらっしゃる方は、たくさんいらっしゃると思います。

自分の中での話です。

昔、よくヨーロッパ旅行へ行っていた時、ふと

「私という肉体の中に、何か私の中にあるものをもって移動している・・それだけのことなんだな」と・・

受け取る「私」という存在のあり方で、世界は変わるのだ。

その感じ方も・・・だからもしかしたら「寝たきり」の方だって、広い世界をお持ちの方もあるのかも知れません。

ぁ・・・だから正岡子規の世界なのかな。。。

この感覚は、今読み始めた、茂木健一郎さんの「脳と仮想」にもつながっているようです。

夏目漱石の「三四郎」に、東京の大学に行くために熊本から上京する主人公が、乗り込んだ汽車の中で、向かいの人物に、「熊本より東京は広い、日本は東京より広い、だが頭の中はもっと広いぞ」と言わてた場面があるようです。。。ちなみにむかーし読んだんですが、すっかりと忘れていまして。。。

頭(心の中)の世界は無限です。

星の彼方へだって旅できますもんね。

ちょっと、魂の次元の話になりそうなので、このお話はまたの機会に!

memento mori

今日もこれから、友人と3人でランチです。

若いピアノの先生たちなので、どんな話が飛び出すのか楽しみ。

今日のめざまし占いは、おうし座1位だったしな~~

今日は、決して暗い話をしたんじゃないんです。

きっとわかってくださったはず。

素敵な1日を~~

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楽譜を読む

2013-01-21 08:48:53 | おもうこと

最近・・・



この10年くらい?・・・



いや、もう少し前からかな?・・・



読譜力が弱っている気がするのです。。。



読むだけの知識はあるのですが、読もうとする気力とか、脳の使い方とかの問題のようにも思いますが。。。



聞き覚えのある曲をひいたり、前から弾きたいと思っていた(既に知っている)曲を弾くのは楽しいものです。



でも、楽譜を見て新しく素敵な曲を発見する楽しみもありますよ



「新譜を演奏する」



このキーワードで思い出す事があります。



確か私が中高生の頃、テレビでメニューインというヴァイオリニストだったと記憶していますが、音楽について何週かのシリーズで語っていた番組がありました。



その番組で子供の頃のエピソードを語っていたのですが、メニューインが子供の頃習っていたヴァイオリンの先生(もちろん超有名人のヴァイオリニスト)のところに、作曲家のラヴェルがやってきて、「新しい曲が出来たんだ。ちょっと弾いてくれたまえ。」と・・・



先生は初見で素晴らしく弾いた後、2度目には既に暗譜で弾いていた。。。



能力のある人は、このような事が出来るんです!



驚くべきことですが。。。



だって、ラヴェルの曲ですよ~~



そんなに簡単なものじゃないでしょ!



ほんとに驚きました。



何10回、、、いえそれ以上、苦労してやっとソナタを暗譜する。



という凡人の私にとって、それは神業としか思えないような行為で



もうひとつ、こんな番組も思い出しました。



これもヴァイオリニストですが、イツァーク・パールマン



私が子供の頃は、よく来日しては素晴らしい演奏を聞かせてくれていました。



どこかのコンサートの中継だったと思います。



日本の曲を演奏されたのですが、日本の情緒を深く理解した演奏でした。



その演奏について、小澤征爾さんが、「彼は楽譜を渡したら、瞬時に曲について理解して非常に情緒豊かな演奏をする事が出来るのです」と。。。



もちろん楽譜をちゃんと弾く・・・という事は当然出来るでしょうが、曲の意味や性格を読みとる事も出来ないと一流の演奏家ではないんですね。



便利なものがたくさんあり、簡単に音源が手に入る昨今、便利さとともに失ってしまう事もあるのでは?



と思います。



便利な事は悪いことではありませんが、脳が未発達の子供たちは、しっかり使わなければ、脳の発達の為に非常にダメージを受けるのではないかと危惧しています。



子供たちの脳は可能性を秘めた素晴らしい脳で、私はいつも子供は大人の何百倍も天才なんだよ!と言っています。



でも使わなければ、体だけ大人に成長しても、非常に未発達な脳・・・感情のコントロールや、考え方、行動etc.、、、の大人になってしまうのでは、、、と恐れています。



成人式で大暴れしたり、ミッキーなどと一緒に踊って喜んでいる姿を見ると、きっと江戸時代以前の15歳で「元服」を迎え、命がけで戦に出かけなければならなかった若者から見たら、恐ろしく幼稚なんだろうなぁ・・・と思わざるを得ません。



その時代から見れば、寿命も長いのですから、まあそれもいいのかな。。。多少大人になるのが遅くなっても。。。と思いますが、脳が未発達なら、年をとって50になっても大人になれない。。ってこともあるのかも。。と思ってしまいます。



子供の時期は、人間に与えられた素晴らしい時期で、この時期に良い刺激を与えれば素晴らしい発達をするのですが、また逆もあり・・・なので、大人は心して子供たちに接しなければならないのではと考えています。



何だか今日は、かたい真面目な話になってしまいましたが、ピアノだけにとどまらない子供たちの未来の重要な事なのでは・・・と考えているところです



そう、便利なものに振り回されないで、しっかり脳と感情と体を使って!!



苦労して読むことに価値はある!!



そう言いきれると思います





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ピアノ、音楽を学ぶ意味について・・・

2013-01-05 02:04:50 | おもうこと

あえて「学ぶ」



と書いてみました。



私たちは何故ピアノをはじめとする芸術を必要とするのでしょうか?



ピアノを習わせる時、



「音楽を好きになってもらいたい」



「大人になっても音楽を友として欲しい」



もちろんそうです。。。



歳を重ねても、心の友としてピアノなど楽器が弾けたりすると、どんなに素敵でしょうか。



しかし、もう少し深い意味もあると思うのです。



「芸術家」と言われる人たち・・・詩人、作家、作曲家、画家が、戦時下で一番にやり玉に挙げられるのはどうしてなのでしょうか?



ソビエト政権下での作曲家ショスタコービッチや作家ソルジェニーチン、チェリストのミッシャー・マイスキー。ドイツナチス政権下での多くの作家や画家の弾圧もありました。 特にヒットラーは若い頃画家を志し挫折したことから、前衛芸術家達とその作品を弾圧しました。



イケメンで有名なショパンコンクールの覇者、中国のユンディ・リーの先生であるタン教授も毛沢東政権下での過酷な労働を経験しています。



まだまだ多くの芸術家たちが、想像を絶する体験をしています。



もちろん日本でも戦争中は過酷な現実がありました。



私の知らない事もまだまだ多くあるはずです。



芸術家がそんな時に弾圧される・・・



何故なのでしょう?



それは、「芸術」というものが、ものの本質を見抜こうとする行為そのものだからにほかなりません。



真実とは何か?



生きるとは何か?



愛するとは?



人はどこから来てどこへ行くのか?



多くの芸術や学問がこれらの事を問い続けてきました。



自分なりにその事を問い続けながら、人生を歩いてゆくのだと思います。



より美しいもの



より正しいもの



より優しいもの



より強いもの



etc.



色々な形で、真実を探し続けてゆくのでしょう。



もちろん私も探している途中です。



おそらく10代の頃よりは近付いている気がします。



でも時には幼い人から学ぶ事もあるでしょう。



よく考える。



よく感じる。



あるときは真面目に。



ある時は愉快に。



ある時は少しふざけて。



ある時は悲しみの中で。



怒りや喜びもあるでしょう。



多くの感情の本質に迫る事が出来るように。



でも、正しいだけでもない。



楽しいだけでもない。



音楽をはじめとする「芸術作品」を前に、作家や作曲家と向き合い語れたら。。。



そんな風になるまでピアノを続けたいと思うのです。



決して難しい曲をひかなければ近付けない世界ではないかも知れませんが、とことん向き合わなければ見えて来ないのかも知れません。



耳をすまし心を開いて、本質に迫りたいと願っているのです。

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よい音ってどんな音?

2009-10-29 07:00:56 | おもうこと

2009_1009_061554img_0788_2

こんな難しいタイトルをつけて、何が書けるのか・・・

これはちょっとした挑戦ですネ(>_<)

まずは良い音といっても、数々の・・・それこそ星の数ほどもあろうかと思う様な曲・・・

その一曲の中にも、やさしい音、激しい音、冷たく透き通るような音・・・

書いていたらきりがないほど、たくさんの音がありますし、また要求もされます。

わかりやすく言えば、多くの絵画のように多彩な色合いやタッチがあり、

また時代や、画家の個性や作品によってもによっても、それがまったく異なるように、

音にも非常に多くの表現があるということです。

音楽との関係を比較してみると、はるかに絵画や彫刻など、美術の世界のほうが先んじています。

音楽の世界は、その後を追うように影響を受けながら、ついて行っているように思います。

平面的な宗教画が描かれていた時代から、遠近法が確立されたり、その描かれた素材がわかるほど

リアリズムを追求した時代、装飾的な美しさがもてはやされた時代、ドラマティックな表現を追求した時代、

目に映る形だけでなく、光や立体的な視点を追求した時代、まだまだ進化は続いていきます。

多分皆さんは、近代絵画などは、近代あるいは現代音楽のように、

解りずらいと思っているかたも多いのではないかと思います。

でも、そういう音楽は知らず知らずのうちに耳にしているのです。

サスペンスドラマや映画の音楽や効果音、またはSF映画など、画像に釘付けになって

気が付かずにいることもあるかも知れませんが、映像にぴったりと合った音楽や効果音。

一度目を閉じて、音楽だけに集中してみてください。

ハッとするような音や、音楽が聴こえてくると思います。

なんだか本題と離れた話になってしまったようにも思えますが、やはり音を追求する上で、

絵画や映像、また物語や小説など、あらゆる想像力をかき立てるものに触れることは

とても大事なことだと思います。

また、ピアノを勉強する意味で、ついついピアノ曲ばかりを多く聴きがちですが、やはり

オーケストラや室内楽、声楽、いろいろな楽器のアンサンブルやソロ演奏など、どんな音を

いま自分が出したいと要求しているのかを知る上でも、普段から楽しんで聴くことは

大切だと思います。

想像力はとても大切な、表現意欲の源です。

しかし、それだけではよい音は簡単に出せません。

バレリーナや、体操選手、スケート選手を始め、あらゆるスポーツ選手のように

しなやかで強い手や体も必要なのです。

いつもレッスンの初めに行う指あるいは体の柔軟体操など、時には本題の曲より時間を費やすこともありますが、

柔軟な体と、しなやかでしっかりした手、指は、表現手段として必要です。

マリンバ奏者が一種類のマレットしか持っていないとしたら表現はかなり制約されるでしょう。

それと同じように、いろいろな音を出せるための手を作ることは必要だと思います。

しかしまた、それ以上にそれを聞きとる耳と想像力が大切なのです。

ピアノを弾く時、ついつい打鍵の音に意識が集まりがちですが、打鍵した後の響き、

あるいは音の揺れ、波長を聴くことはおろそかになっていませんか?

また、打鍵だけでなく指を離すときの離鍵も、同じように気を使ってほしいところです。

ですから、指を早く動かすことに一生懸命にならず、一音によく耳を傾けることは

非常に大切だと思います。

普段のレッスンでもしばしば言うことですが、楽譜は演劇の台本のようなものだと思います。

どのような語り口でセリフを言うかは、役者によっても異なります。

それが個性であり表現意欲の問題であり、それぞれの解釈の仕方だと思います。

小さい生徒さんには、音楽の言葉だから、フレーズを大切にして、どんなふうにお話しするのか聞くこともあります。

また、音楽の基本は歌ですから、どんなふうに弾きたいか迷ったらぜひ歌ってみてください。

結局はピアノを通し、ヴァイオリン、フルート、あらゆる楽器を通し歌っているのです。

さあ皆さん、どんな声、響きで歌ったり、お話したりしますか?

私たちは頭を使い、想像力を使い、体のあらゆることを使い、つまり全身を使い、

ピアノを弾いているのです。

どんな音が出したいのか、良い耳と、豊かな想像力をもって追求してみてください。

ちょっと難しい話になってしまいましたが、どんな色で皆さんが絵を書いてくれるのか・・・

それがピアノの音で表現されることを楽しみにしています。

もちろん私もまだまだ修行の半ば・・・

皆さんと悩みながらも、楽しく追求していけたらと思います。

こういうのを、遠藤周作さんは、「くるたのしい」と言ったそうですよ!

さて、肝心のよい音とは・・・?

これまで長々と書いてきましたが、皆さんの体験したことや、学んだこと、

努力して得たもの・・・あらゆることが肥やしとなって、心から紡ぎだされる音、音楽が、

人の心も揺さぶる素晴らしい音になるのではないかと思います。

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