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米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

おくれの神様

2014-01-19 08:13:34 | おもうこと
昨日のblogは、佐野洋子さんのエッセイを読んでいたせいか、辛口文章だったかな?
「100万回生きた猫」の作者、佐野さん大好きなんです
真実も愛も感じます。
佐野洋子さん、白洲正子さん、ユトリロの母シュザンヌ・バラドン・・・真実を見抜く厳しさを持つ女性アーティストですね。
とても惹かれる方々です。
「真実」は時として厳しいものを突き付けてくる。



さて・・“おくれの神様”・・・これは、河合先生の言葉
知的障害・・と言われる・・ものを持って生まれた人。

家族はまず、大変な思いをされるのですよね。
あるダウン症の子供さんを持たれたお母さん。
生まれてみたら障害を持っていた。
染色体異常なのですよね。
「ほんとうに私のもとに生まれてくれてありがとう」・・・生後数年たって心からそう思う、とお聞きしました。

生きるって? 優しさって? 真実の思いやりって? 
とても純粋な目と心で、この子は問いかけてると感じるんです。
今本当にすべきことは何なんだろうと、常に問いかけられている気がします。


ドイツの児童文学「モモ」の作者ミヒャエル・エンデも「サーカス物語」の主人公にエリという知的障害をもつ少女を登場させています。
一般の人たちが常識と思っていることに縛られていない分、純粋に物事の本質を見る人として大切に扱われています。



そして・・・大好きな宮沢賢治の童話の中でも、とりわけ好きな「虔十公園林」…(どういうわけか読むたびに泣いてしまいます)
このお話も、主人公は今でいう知的障害者。

主人公 “虔十(けんじゅう)” の中に、賢治のこうありたい・・という「理想」の人間像を投影しているようです。
実際 “けんじ”…が東北弁訛りで呼ばれると「けんじゅぃ」のような音声になるのだと言われています。

おくれの神様

ふたつ良いことさてないものよ

人の心など分からない

まじめはこわい

まじめも休み休み言え

等々・・・

これは「心の処方箋」と言う本にあります。
とても読みやすく、うんうん・・とうなずきたくなるエッセーがたくさんありますのでご興味ある方はぜひ手に取ってみてくださいね。


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こころの処方箋 (新潮文庫)



サーカス物語 (エンデの傑作ファンタジー)





虔十公園林(けんじゅうこうえんりん) (日本の童話名作選)



昨日今日とセンター試験。
もうひと頑張りよ~
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便利になったがゆえに失うもの・・

2014-01-18 07:18:21 | おもうこと

むかーし聞いた話です。



あれ??



最近の出だしこういうの多いかな・・



でも昔話をしてるんじゃないですけど・・



大根島の野菜売りをしていたおばあさん。



むかーしのことだから、字が書けなかったそうです。



ただ・・このおばあさんはすごかった。



一日中野菜を売って、何十件も・・しかもいろんな野菜の種類を持って行っていて、誰それさんは大根何本、人参何本、きゅうり何本、でいくら・・・つぎは誰それさん・・つぎは・・



と言う風に、全て覚えているのだそうです。



字が読めないなんて・・・



そんなことで、蔑(さげす)んだり、バカにしたり、気の毒がるのはちょっと違う。



人として、この人の力強さ、賢さ・・



そういうことを思わずにいられません。



これは、むかーし父に聞いた話でした。



もうひとつ。。



9歳の時、「今、何年何月何日何時何分・・・この瞬間は、今しかない。」



と、母に言われた時の衝撃。



どんなシチュエーションだったかもはっきり覚えているぐらい衝撃的でした。



9歳の私はそんなこと考えてみたこともなかったのだと思います。



ああ!この一瞬はもうすぐに過去のものになってしまうんだ!



青天の霹靂でした。



「100万回生きたねこ」の、佐野洋子さんの父は東大(帝大?)出のカミソリとあだ名されたような人だったそうです。



佐野さんは自慢たらしいことや教訓めいたことは一切言われない、、いや、むしろそういうことを嫌悪していた人だと思います。



「鋭敏で頭の冴えた家長など、家庭に必要だろうか?天才的な人間など、どこか人格破綻を持っているに決まっている。出来の悪い弟を執拗にいじめたのも私には異常だと思える。  4歳の子供もいる食卓で、「生涯12冊の本しか読まなかったが真の読書家と言われる人がいる」とか「活字を信じてはいけない」「金で買えるものは誰でも買える」「金と命は惜しむな」等と言う父親が有難いものだろうか。 それより頭の一つも撫でてくれた方が、何ぼか父親らしいのではないか。 父が家に帰ってくると、家中に緊張が走った。」(「シズコさん」より・・)





家族って。。



いろいろ考えます。



遠慮がないぶん傷つけあったりもします。





小さな傷をいくつも抱えながら、真珠のようにそこから美しいものが生まれる。



ああ・・なるほど、雑誌やテレビのコマーシャルのように絵空事の家族像なんてないよなぁ・・って・・



阿古屋貝につけた傷の部分から真珠が生まれてくるようなもの・・なのでしょうか?



佐野さんはそういう父には可愛がられていたようですし、そういう父を好きでもあったのですが・・



きっと、もう、「好き」とか「愛」とかいう次元を超えているのだと感じます。



                      



さて、便利なもの。。



活字を手に入れて、記憶する深い世界を失ったのかもしれません。



ただの、記憶する脳のメカニズム・・「海馬」の話だけじゃなくて。。



モンゴルの平原にすむ遊牧民の人たちは、恐るべき視力を持っていると言われていますよね。



私たちのそれは、必要最小限に退化しているのでしょう。



視力以外の気付かぬ目に見えないところも、例外ではないと思います。



辞書を片手に悪戦苦闘していた時代とは違い、インターネットや電子辞書でお手軽に情報を得られる。



ケイタイではなく電話で・・・と言うけど、明治時代に電話が輸入されたとき、電話線に荷物を繋ぎ「○○まで、この荷物、運んどくれ」と言った人がいる・・と言う笑い話がありますが、なんとなくテレビも電話もある生活はフツウ・・と思うところにも、失ったものがあるのでしょうね。



電話を発明したベルも、自分のオフィスには電話を嫌って、置かなかったそうですし。。



じゃあ、直接話すべき・・・でも、手紙の方が伝わることもある。



じゃあ携帯のメールは・・



手書きじゃないから心が伝わらないか・・でも、活字となった本から、生きる力をもらうことだってありますし。。



心の使い方、の問題なのでしょう。



メール・・・手紙・・・お知らせ・・っていう意味ですもんね。



メールヒェン(メルヘン)・・・お知らせ・・に、○○ちゃん・・の、「ちゃん」がついた形だそうで、さしずめ「おしらせちゃん」・・みたいな意味でしょうか。。たしかドイツ語だったような・・・??





こうして、なんとなく文明の中で、「人」は、むしろ「退化」しているのだろうか??



~~な~んてね~~



「そんなこと言うんだったら、辻斬りがあったような時代に戻れってことですか?」



と言ったヤツがいるけど、そんな馬鹿なことを言ってるのではありません。



それに、昔は昔で秩序もあった。



義理も人情も。



権利だけ主張して、義務を果たしていないという自覚がない・・と言うことはなかった。。のかな。。??。。佐野さんの言葉です。



辻斬りの代わりに「無差別殺傷事件」が起こったり、「通り魔事件」や「酒鬼薔薇聖斗事件」



・・・おもい事件の話になってしまいましたが、ごく普通・・と思っていた日常は、永続的なものではない。。



みたいなね~



マスコミで騒ぎ立てなければ、そのうち風化してしまう。



私たちの思考も、そういうものに大きく左右されている・・・そう感じます。



                      



昨日のレッスンの時、4年生男子K君が、「時間をかけて、苦労してやんなくっちゃいけないんだ」のような発言をしていて、



「おお!そこ気付いた?」と、言う会話があったのですが、本音のところで分かっているやら~



でも、なかなかイイ顔して弾いていましたよ



このところ、佐野洋子さんのエッセイばかり読んでたので、伝染して「辛口」な文になってしまいました



満州で裕福な暮らしをしていた幼少期の佐野さんですが、引き揚げてきてからの苦労(佐野さんは絶対苦労なんて口が裂けても言いませんが・・)は、なかなかのもので、水はそう近くはない水源から日に何度となく炊事場の貯水場に運び、母が兄の手袋を編みながら幼い洋子さんに教え、そのとおりに、自分と2人の弟3人分の手袋を編んだのは8歳の時だったと・・・



もちろん、さっきの「辻斬り」と言ったバカヤロウはいらっしゃらないと思うので、そんな時代に戻れって言ってるんじゃない・・・と分っては頂けると思います。



でも本能や感(カン)のようなものから離れすぎると、手放してゆくものも多いのかな・・と・・



複雑な道具や機械を使いこなせることが、果たして「進歩」「進化」と言っていいのだろうか?



世界中の人を魅了する、スペインのサグラ・ダ・ファミリア(聖家族教会)・・ガウディは、「私の雇主は急いでいません」と言い、ガウディ亡き後も黙々と制作が続けられている、この有名な観光スポット。



この教会は、森の中にでもいるような錯覚さえ覚える、「自然」をモティーフとし、自然の力学に従って構成、設計されています。



もちろん文明の産物から便利さは享受しています。。が、便利なものに甘え過ぎず、「人も自然の一部なんだ」ということをときどきは思い出そう・・・ってことなのかな??



ちなみに、佐野洋子さんの父が語ってたことは、非常に頷けます。。全くもって、本当にその通りだなぁ・・と思います。



佐野さんほどきっぱり辛口を貫き通せない私ですが・・・



ぁ・・・そうそう、佐野洋子原画展、今福山市でやってるそうです。



何とかして行きたいものだと思っているのですが、、ぁぁ広島県立美術館で行われている“クレラー・ミュラー美術館展”、、あと神戸市立博物館で開催中の“ターナー展”・・・行けたらいいなぁ~



こんな情報要らなかったかな~?



では~~























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とある高校生との会話

2014-01-15 00:15:52 | おもうこと

以前、高校生と会話していたこと・・





この子が、休みの日にマニキュアを塗ったら、家の人に非常に怒られ、すぐにリムーバーを買って来てマニキュアをとるように言われた。。友達の家ではいいと言われているのに、ヘンじゃないですか?



って言うんです。



それはどちらでもないのよ。。大事なことはそういうことじゃない。。



それは、あなたの親が、何にこだわって、あなたを育てようとしているのか、何からあなたを守ろうとしているのか、そういうことから出たことなんだわ。



塗ってもいい・・塗ったらダメ・・



どちらがいいとかは言えない。



これから何十年も親の言いつけどおりに生きるってわけじゃないでしょ。



あと何年かしたら、今より自由に出来る事も増えてくる。



そうして、私の親は私を何から守ろうとしたのだろう・・とか、どういうことを大切だと思ったんだろう・・とか、ずっと考えながら生きてゆくんよ。



ケイタイを持ってもいいとか、持っちゃダメとか、色々あるけど、色んなせめぎあいの中で、親も考えてくれる。



文明と言われるものの中には、善なるものと悪なるものが混然一体となっている。



そのもの・・は、ただの事象であったり、物体であったりするけど、それを使う人間が、その価値を決めてゆく、善を引き出したり、悪を引き出したり。。それは使う人間の問題。



そういうことを何も考えないで使うことは、危険もはらんでいるからね。



親だって完全じゃない。



もちろんそういう私だって。



大きくなってゆけば、いろんなものが見えてくる。



親に対してだって、なんで?・・と思うことも出てくる。



それもひっくるめて、私を愛し、なにかから守ってくれているのだ・・何に価値を見い出し、こだわって育ててくれたのか考えればいいんだよ。



と。。



高校生になればいろいろ言います。



考えます。



今どき反抗期のない親子関係もあるようですが、これは社会に順応するためには乗り越えなきゃいけないことで、無かったら逆に心配した方が良いのです。



大人は壁になって、当たってくるものに応えなければなりません。



非常に手ごわい場合もありますし大変ですが、大人になる為のイニシエーションです。



順調に大学まで行きました。



就職できました。



職場の人間関係に悩み、引きこもりになりました。



近年こういうことが多いんです。



NPOで、引きこもりの子を持つ親は、最低でも1500万は残しましょう。。ご飯の炊き方は教えてから死にましょう。。みたいなことを言っていて、「バカな?!」と思いますが、これが出来ずに命を絶つ例もあるのだそうです。



自分の手を広げ、ふわりと大きく包む・・それが親の愛と言えるのかも知れません。



そうしてその手を少しずつ広げ、時に強く抱きしめ、時に緩やかに手放し・・・そういうことの繰り返しをしながら、その手を大きくどこまでも広げてあげられるのが、親の役割なのかもしれませんね。



どんなに遠くへ行っても、心のどこかで繋がっている。



それは、出来る限り長くのばされ、時には遠く見えないところまで行くこともあるけど、どこかでは繋がっていて・・・



強く抱き、抱え支えることも大切ですが、その手を次第に広げ、どこまでも大きく開いてあげることも愛なのでしょう。



独り立ちした子たちが、自身の力で羽ばたけるように、頭だけでなく、身体だけでなく、心も育てなければならない・・この目に見えないものを育てることが、一番大切な課題なのだと思います。





コメント (2)
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なるほど・・と思った話から(是枝裕和監督のことなど・・)

2014-01-14 08:24:53 | おもうこと

最近あまりテレTVと言うものを見ていなかったのですが、久しぶりにNHKのスイッチインタビュー達人達を観ました。



昨年10月放送の再放送。



この時も番組の途中から観ていましたが、改めて是枝監督が話されていたことで、なるほど~と思ったことを書いてみます。



「そして父になる」



主演は福山雅治さんですが、実は福山さんの方から是枝監督に、一緒に仕事が出来たら・・と言うことをおっしゃっていたようですね。



福山雅治演じるエリートサラリーマンの一人息子は、実は赤ん坊の時に取り違えられた子供だったと分かった。。血を分けた子供は、地方の電気店を営む一家に育てられていた。。



対するこの父に、リリー・フランキーを抜擢するにあたり、悪人にも善人にも見える、そして、ああ自分の血を分けた子が、こんな奴に育てられていたのかと思わせるようなキャスティング・・と言うことだったそうです。



ところが、父性としては、リリー・フランキー演じる父親の方が上だった。



時間の経過とともに、父性と言うものを見つめ直してゆく。。と言うように組み立てられているようです。



電気店の一家の部屋は、ゴチャゴチャ感を出して、時間の経過を感じさせるように、エリートサラリーマンの家は、なるべく無駄を省きそれを感じさせないという演出が施してあるそうです。



子役については、日本の映画の中で、課題だと感じているそうで、ドキュメンタリー出身の監督は、「誰も知らない」「歩いても歩いても」等、多くの話題作を世に送っていますね。



映画はあまり見ない方ですが、「誰も知らない」は、観たことがありました。



主演の柳楽優弥が史上最年少の14歳という若さで、2004年度カンヌ国際映画祭主演男優賞に輝いた作品で、実際に起きた、母親が父親の違う子供4人を置き去りにするという衝撃的な事件を元に構想から15年、満を持して映像となったそうです。



内容もさることながら、子役の演技は非常にリアリティーが高く、作品を描く時の監督の視点がどのようなものなのか・・と・・



今どき、子役がもてはやされていますが、彼らの演技に違和感を感じているのは私だけではないようで、あれは大人が子供に対して、こうあるべき・・を押し付けているとさえ感じてしまいます。



或いは子役の子たちが、親や世間がこのようなものを期待しているのだろうということを演じている。。演じさせられている。。



「わざとらしさ」



ひとことで言えばそういうことで、「リアリティー」からは程遠い。。



その事が、監督の子供の演技に対する課題のように思いました。



演出、考え方など、非常に興味深く共感できるものでした。



「歩いても歩いても」



樹木希林さん演じる母親像。



是枝監督が、母の死をこの作品を通じて消化・・あるいは昇華していった作品のようです。



この映画を、海外で上映したら、「お前はどうして自分のママのことを知っているのか?」



と、言われるそうです。



ひとつのことを掘り下げることで、逆に普遍性につながってゆく。



自分の足元を見つめ続け深く掘り下げることで、インターナショナルな世界観へ通じる。。まさに今、私も日々考えているのですが・・ぁ・・そんなに大それたことじゃないですよ・・



ただ、私たちが日頃親しく接している作品たちは、あらゆる国のあらゆる時代のもの。。



時代考察ももちろん大事で、これも興味深いことなのですが、人として変わらない「何か」もあるわけで、そういう「本質的」なものが、時代の波でそぎ落とされ、結晶となっているものが、今の時代でも、生き残り愛されているのではと思うのです。



子供たちには、甘くてふわふわした口当たり良いものがいいのでしょうが、一見そうでも、ある意味、食べ物のように、色々な歯ごたえ、味、栄養素・・などを、心の栄養として与えてあげられれば良いのかな・・などと思ってみたり。。もちろんお菓子ばかり与えるなんて、お話になりません!



近代科学は、主体(人、あるいは自分自身とも考えられます・・)と客体が分離され、そのことで非常にうまく行ったこともあり、多くの症例から、共通する事象だけを取り出し普遍化し、それに当てはめて物事を見て判断する・・ということに、あまりにも傾き過ぎたことによる歪もきているといいます。



近代の心理学も・・と言うか、哲学などに比べ、心理学は非常に新しい学問で、試行錯誤がなされているようですが・・多くの症例から普遍化してゆくという方向より、一つの事象を非常に深く掘り下げることで、共通するもの、本質的なものを見極めようとしている・・と言えましょう。



心理学も色々な方向で試みがなされているので、事象により直接的に(物質的に・・と言えるのかな・・)関わってゆくということが、アメリカを中心とした国では重点が置かれているようで、一概には言えません。



現実目の前のことを考えると、深く掘り下げることに非常に共感を持ちます。



養老孟司先生も、「身体」「無意識」「共同体」・・と言う3つの要素を重要視していらっしゃるように、心の奥深くにあることに、目を向けてゆかなければならない時代なのでしょう。



何となくできていた昔・・と違って、物質と情報に溢れかえっていて、「深める」「本質を見極める」と言うことが、非常に難しい時代なのだと思います。



何となくできていた・・と言うのは、出来なかった・・とも言いかえられます。



便利なものがなくて、炊事も洗濯も掃除も道具ひとつとってみても手間がかかり、子供も多く、物もお金もなく、、かけようにもかけてやれなかった。。手出し口出し、物を与えお金をかけること。。



今は出来てしまうぶんだけ、もっと多くの心を使い知恵を使わなければ、子育ても難しい時代と言えるのです。



ぁぁ・・・また難しい話をしてしまいました。。



すみません~



さて、もう一つ・・「金スマ」より。



瀬戸内寂聴さんが出ていらっしゃった回。。



ぼけーっとみていたのですが、終わりの方で、素晴らしい物まねでブレイクした青木隆治さん・・が出てこられまして。。



美空ひばりやら、何でもかんでもそれらしく歌い、見た目もなかなかのイケメンなので、よくテレビに出ていたけど、最近はあまり見かけない。



実は物まねではなく、自分の歌で勝負したいのだけど、何枚か出したCDはかんばしくなく、同じ事務所の先輩で、芸能界に彼を入れるきっかけを作った研ナオコさんが指導する・・と言う趣旨での撮影。



あとどれくらい時間使うんですかね~という、番組の尺の話をする青木隆治さんに対して、どれだけのスタッフがあなたのために動いていると思うの・・と、研ナオコさんが激怒する・・みたいなところで、テレビからは離れましたが。。



ただ、研ナオコさんが言っていたことは、非常にまっとうなことだったと思います。



この「あたりまえ」なことが、分からずに、歌はうたえないよなぁ・・とも思います。



上手に歌うとか、いい声で歌うとか、そういうことじゃない。



歌詞の意味を深く読み、伝えるということ。



技術が先行してはいけない。。(もちろんこれはある程度技術があることが前提ですが・・)



感謝する心がなくて、人の心を揺さぶる歌がうたえるはずがない。



非常に共感・・当然ちゃぁ当然の話で・・



何を見ても、何を聴いても、ピアノ、音楽と、通じるんですよね。。



ではこの辺で。。



ぁ・・・



猫は、獣医師の予言通り、、、



先週看取りました。



何度も入退院を繰り返し、昨年11月末よりひと月以上通院し、薬を欠かさず飲ませ、一喜一憂しながら過ごしていましたが・・・



さすがにこの一週間は辛かった。。



うちの殆どの犬猫は、生涯を全うし寿命と言われる年まで生きて、眠るように閉じていきましたが、、、今回はそうはゆかず。。



本人(猫ですが・・)にとっては、今回は安楽死を選んだ方が楽だったのだと思いますが、それもできず、最後は癲癇(てんかん)を抑えるための座薬を頂き、少しでも楽なように・・とは思いましたが。。



縁がなければ、悲しくもなんともないのですが、居るべきところに居ない。。



ほかの猫も、分かるのか、呼んでいるようにないています。。



まぁ、だいたい心の方は回復しています。



今日も元気に!



ですかね~



では~~



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気になったこと・・ある大学の100円朝食について

2013-12-19 08:50:13 | おもうこと

先日レッスンの時、一人のお母さんから、夜のニュース番組で、ある大学の100円朝食の話が出て、私も「え?・・・」と思った報道だったので、ちょっとそのことについて書きます。



大学に母の会があり、子供たちがろくな朝食を食べないので、親の会でお金を援助して100円で朝食を提供したところ、多くの学生が喜んで利用して、良かった・・成功だ・・と。



「え?・・・大学生でしょ??」



こう思ったのは私だけではなかったらしく、そのお母さんも「疑問に思う私がおかしいのかな?と思いましたが」



と仰っていましたが、どこまで子ども扱いなんだと、驚くべき現象で、



「私より年上の方だったように思いましたけど・・」



紹介の中に、50代のお母さんもいらっしゃって、こういうことを疑問に思わないこと・・日本ってどうなってるの??



そもそも、そういうことを思いついたのは、自宅通学している学生のところに友人が集まり、食事を出したところ、肉じゃがや野菜が久しぶりだと喜んで食べていた。。



これは何とかしなくちゃ・・と。



学食で260円の朝食もあったりしたのだが、それすら節約するのは、遊ぶお金を捻出するため。。



それを知りつつ、お金を援助してまで、なんで朝食を食べさせようと、思いつくのか
??



小学生じゃないですよ



中高校生だって、安い野菜でも買って来て、自分で作って食べればいいのでは?。。と言う話ですよ。



コンビニで買って食べようとするから高いわけで、友達とシェアするとか、なんで思いつかないんだろう??



そのまま大学出たら社会人になる。家庭も持つ。



これでは、困った人がたくさん出るのも頷ける話で、キャスター(宮根さんも木村さん)も番組の趣旨なのか強い事は言うに言えず・・私が学生の頃は安いラーメンとかで凌いでいましたけどね・・云々



そんなことまでして大学行かせてもらって、何勉強してるのか。



「学ぶ」ということについては、まだまだ書きたいことが山ほどあるのですが、長くなるので、少しずつ、続編を書こうと思っています。



子供に優しくしているようで、実は、その子の人格や存在を見くびっているのでは?と思うんです。



本当の親の愛情は、その人が一人でしっかり生きてゆく術(すべ)を伝え教えること。



生きてゆくって、生半可なことじゃないと思います。



「『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し』と徳川家康は言ったが、遠き道どころか『人生は崖登りだ』と思う。」



養老孟司先生はこう言っていました。



「君たちだってガンになることはある。ガンになって治療法がなくてあと半年の命だよ。と言われることだってある。そうしたら、あそこに咲いている桜の花が違って見えるだろう。」



「桜が変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。知るということはそういうことなのです。」



「知るということは、自分がガラッと変わるということです。世界が全く変わってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までとほとんど同じ世界でも。」



何かしら、how-toを学び、マニュアルを手に入れることが学ぶことではないのです。



“雑学”を知識と勘違いしてはいけません。



“知識”にとどまらず、“知恵”も大切でしょう。



本をたくさん読んだとしても、上っ面では意味がない・・とも言えるのではないでしょうか?



たった1冊の本でも、運命を変える「出来事」「体験」になることだってあるのですから・・



ピアノ・・曲を演奏する・・ということもまた然り(しかり)。



誰かの演奏をまねても、本当の意味はないわけで、楽譜と「対話する」と言うところまで持ってゆければ。。



と思う訳です。



長くなるからここまで・・と思ってからさらに長くなってしまいました。



この事に関して、また続きも書ければと思います。



では~~



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田中泯・・・という人(ご興味ある方への記事)

2013-12-13 09:09:45 | おもうこと

ちょっと興味深かったので、田中泯さんについて、少し載せておきます。

ご興味ある方だけ、お読みください。

こんなカッコいい人なかなかいないですね。。

本も出ているようなので、ご興味あればどうぞ!

それにしても凄い。。圧倒的な存在感です。。

写真:田中泯さん

■今の自分、カッコいいか (いじめについて)

 最初に断っておくが、いじめは子どもの責任じゃない。大人の責任だ。子どもはきょろきょろ大人を眺め、大人のまねをしているに過ぎない。

 大津の問題では、自殺から9カ月が過ぎたというのに、今ごろ大人たちはバタバタしている。学校も教育委員会も警察も自分に都合のいいことばかり言う。

 君は、大人の「見せかけの本音」を見抜いているだろう。言い訳で身の回りを固めた大人たちの姿をカッコ悪いと思うだろう。

 でもね、大人だって、かつては子どもだったんだ。君だって大人になるんだよ。ある日突然、子どもを卒業して大人になるわけじゃない。今の君の生き方が大人の君をつくるんだ。

 今、君がいじめを見て見ぬふりをしているなら、大人になった君もきっと傍観者だ。面倒な問題とは無関係な安全地帯に身を潜めるだろう。それでいいのか。

 僕も小学校時代、散々いじめられた。背が低く、どもりもあったから。土に埋められ、砂も食わされた。誰も助けちゃくれない。でも逃げ場はあった。川や森に逃げ、独りで過ごした。そこで孤独の素晴らしさを知った。

 協調性ばかりが求められる世の中だけど、僕は孤独が大事だと思う。誰にも見られていないときにこそ、本当の自分がいるんだ。 君は親や先生や友達の前ではカッコよくふるまうだろう。でも、周囲に知人がいない孤独なときにこそ、カッコよく生きてほしい。僕が思う「カッコいい」の意味は、自分の生きている理由を自分で考え、自分の意思で行動できることだ。

 孤独なときに考えてごらん。今の自分がカッコいいかどうか。どんな大人になりたいのか。進学先や就職といったちっちゃな話じゃないぜ。いじめられている友達の顔も思い浮かべてごらん。そこで考えた結論が、「大人の君」を決定づけるかもしれない。(たなか・みん=舞踊家)

ところで思春期と言えば、人よりも個性的でありたいと思って、やたらと観念的になったり暴力的になったり、身体に対して抑圧的になったりしがちです。

学校までが個性的であれと言い出したけれど、個性は本当はきついものです。表面的な個性を語るのは大嘘なわけで、本当は深いところにあって、恥ずかしくて本人にとっては恐いものであったりする。「個性を認識しよう」ならともかく「個性的であれ」というのはおかしい。

踊りだと、そういうものを全部取っ払う。みんな身体が個なんです。でも、記憶している自分らしさに人はこだわる。何もしないそのまんまで個です。

だから踊りの極地はそこにいて、「あ、いた!」ということでいい。「そこにいること」を確認したとき、その人が踊りを感じられたらそれでいい。見せるとか見られるという関係もない。

田中 泯さん

ところで、龍馬伝に出てくる吉田東洋役の田中泯も、有名な前衛舞踏家で、ハゲタカでも敵対的買収にさらされる大手家電メーカーの技術者・加藤役で異彩を放っている。

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無言の裸身ですべてを表現してきた人たちには、しゃべる俳優としての存在感など、造作もないことなのかもしれない。

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カッコいい。

僕はずっと裸だった

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習い事

2013-12-04 07:18:13 | おもうこと

お久しぶりです。

先週、猫が死にかけました・・

なんだかいつもと違う・・・ご飯もねだらないし、呼吸が変だし、足もちょっと冷たい感じがする・・・水曜日の夜でした。

次の日の午前中、たかもり動物病院へ連れて行って、「良くないですか?」と聞いたら、「はっきり言って、死にかけています」と・・・

レントゲン撮ったら、肺が真っ白・・・血栓ができてどこかで血流が止まり、肺水腫も起こしていて、大変なことに

木曜日に入院して、酸素濃度の高いケージの中で、点滴をしてもらいながら経過を見る

何かあったら緊急の電話をしますと言われたので、ケイタイははなさず。。

猫のショックからか、私も発熱。

どうにもこうにも力が出ず、金曜日、土曜日と、休ませていただきました

気付いたのがまあまあ早かったようで、何とか一命をとりとめ猫は帰宅

毎日嫌がる猫の口に、スポイドでミルクで溶かして薬を流し込み、ちょっと回復。

昨日久しぶりにご飯を食べていました。

ただ、予後はよくないそうで、命の期限は迫っているようです。

ちゃんと看取ってあげようと思っています。

さてさて、前置が長くなってしまいました。

今日のお題、、、習い事・・・

ピアノはこのカテゴリーに入るんでしょうね。

むかし市役所の何かの調査で、ピアノレッスンはサービス業・・・って知った時のショック・・・私、サービスしてんのね~~みたいな・・・

そう割り切ることもできるのですが、やはりここの境界線が難しいところ。

何故そう思うのかと言いますと、、、分かり易く言えば、たとえば歌舞伎の世界での、子供の時からの修行や、歌舞伎でなくともテレビや映画に出る子供たちの「稽古」をつけられているところが時々お茶の間にも、ドキュメンタリーのような形で放送され、私たちも垣間見ることができますよね。

ちょっと似ているな・・・と思う時があるんです。

いかに子どもとはいえ、感情を呼び起こしたり、体をいかに使うか・・・など、子供だから出来なくても仕方ない・・・ということにはないこともありますね。

孤独な役柄なら、わざと誰ともしゃべったりご飯を食べたりしないで、「そこに一人でいなさい」と、監督に指示され、役の気持ちを作っていくとか。。

歌舞伎も、詳しい事は何も知らないですが、「型」を覚え、中から出てくる何かを磨いてゆかなければ、普通の人では出せない、あの得も言われぬ華のある感じは出てこないのだと思います。

特別ハンサム・・とかではないのに、独特の物凄い存在感がありますもんね。

どこかの学習塾に行き、今日はプール、明日はそろばん、お次は英語・・のような中にピアノも属しているのでしょう。

もちろんこれらのことも、とことんやれば、それなりの「深さ」があるのも理解はできます。

小さい時は浅く広く・・・次第に絞ってゆくのも一つの方法でしょう。

その子に向いたこと・・・というのを探してあげるのも、良い方法なのだと思います。

ただ、芸術・・・というところまでにならないにしても、芸事・・・ではあるので、「歴史」やら「心理」やら、多くのことを学ぶ必要があることでもあります。

最近この事に、非常な価値があるのだな・・と、改めて思っているのですが・・・

「体」をいかに使い、「心」をいかに使い、「知識」「知恵」あるいは「直観」を磨いてゆくことが、本質に近づいてゆくことなのでしょう。

長い道のりだと思います。

でも、楽しい事でもあるんです。

う~ん。

いつものクセで、難しいこと書いてしまいました。

もちろんゆっくり・・・でいいんです。

どこの段階までやるのか、、も、人其々ですし。

その可能性を、探り、寄り添い、案内してゆく、、そんな役割なのかな。。

ピアノ教師って・・なぁんてね。

いろいろ思う訳です。

今の「心」や「思考力」の段階は??

これを表現するための、技術の習得に必要な体の使い方、テクニック・・・筋肉や関節や体そのものの使い方。

「心」の成長段階も、人其々。

目に見えないけど、ちょっとした気配や言葉や立ち居振る舞いに出てきます。

そういうことを「察する」のも大事なこと。

一人ひとり違いますもんね。

分かりにくかったでしょうか?

ちょっと角度を変えて・・・

英語の発音が良く、達者に話せるのだけど、内容がない・・・こういう人は、相手にされない。。発音は今一つなんだけど、話す内容に深さがある・・・こういう人が求められる人です。

もちろんスラスラ話せたら、楽しいですし、旅行では役立つでしょうね。

でも、一番大切なことは、内面を磨き、語るべき内容を持っている人を育てることです。

もちろんスラスラと言葉も出てくるし、内容もあればいうことなしですが・・

ピアノを習わせるのは、「情操教育」と、昔よく言っていましたが、「情操」とは??

この事を今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか?

私たちは皆、欠けたところを持って生きている。。不完全な存在。

それを分かり易く表現している絵本が、シルヴァスタイン作「ぼくを探しに」

新装 ぼくを探しに

ぜひ、気楽に手に取ってみて下さい。

芸術・・・或いは、人生・・・というものを私たちが求める究極の意味を感じることができる、ステキな本です。

お持ちの方も多くいらっしゃるとは思いますが、、

いつも“ややこしい”話にお付き合いいただき、ありがとうございます

では、今日はこのへんで~~

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ぱぱっと・・・を繰り返すと

2013-11-21 08:16:21 | おもうこと
こんにちは
今日は本のお話にお付き合いください

現在、何冊か同時進行で読んでいる本の中の一冊が、河合隼雄先生・・・の「河合隼雄の“こころ”」教えることは寄り添うこと

という、最後に綴られた本です。

オビには、不世出の臨床心理学者が最後に綴った“おとなのこころとこどものこころ”とあります。
とても分かり易く読みやすく書いてあります。

殆どの項目が、4ページぐらいにまとめられ、興味あるところから読み進められるようになっています。

これは、「こころの子育て」も同じ工夫がされていて、じっくり読む時間がない・・・というお父さんお母さんや、学校の先生方でも、少しずつ読めるようになっています。

この中で、とても共感することの中から・・・
少し引用・・・

「読解力」の弱い子供が多いことが、問題として指摘されている。算数でも計算は相当に良くできるのだが、実際場面での応用問題を出すと、問題をよく読んで状況が分かると、簡単な計算ですぐわかるはずなのに、答えの出し方が分からず、間違ってしまう。或いは、漢字は読むことも書くこともできて、文章を読ませるとしっかり読むのだが、それが全体として何を言おうとしていたのか、などと問うと、さっぱり答えられないのである。

最近、私もよく・・・
四角の解答欄の中に答えは入れられても、それが何なのかわかっていないのでは?

ということを言ったり書いたりするのですが、これも同じ意味。。

何分の何拍子?
書いてあるので答えられます。。だけど。。

「じゃあ、数えながら弾いてみて」
「1,2,3と小節に書き込んでみて」
・・・
???

なんとなく素敵な感じで弾かれていても、??な演奏・・・

こうだ☆と言える答えにたどり着けるまでには、何かしらの過程があり、ちょっと頭を悩ます時間が必要。

そこを飛ばして、なるべく早く答えを得ようとすることは、大切な何かを置き去りにしている可能性がありますよね。
考えを深めてゆくこと。。

きっとこれは子供自身が悪いんじゃなくて、大人がそういうことを普段求めていないんだと思います。


「読解力」を身につけるには、「時間をかける」ことが必要なのだが、「素早く反応する」ことに慣らされすぎていないだろうか・・・と。

子供たちのゲームにも、「ぱっ、ぱっ」とやって正答が見つかる、というのが多い。
つまり、考えていることに時間をかけるよりは、早く反応して、当たるまでやればよい。ということに慣らされすぎてしまうと、書かれています。

ゲームに関しては、「操作する」という態度が強くなり、「関係性」が生まれないことが指摘されています。
鬼ごっこやかくれんぼ、トランプや将棋などは、必ず人間関係があります。


マニュアルに沿ってやればうまくいくということにも、多くの問題が生じてくると思います。

型どおりの範囲なら、人間関係もある程度マニュアルも通用するが、自分の思い通りに「操作できる」と思い始めると、思い通りに「操作」出来なくなり、パニックを起こし、「こんなもの潰してしまえ」というような、短絡的行動に結びつく恐れがあるのではないかと。。

これは非常に怖いこと・・恐ろしい事件を引き起こしかねないのではないかと。。
実際こういう事件を起こしてしまう多くの若者・・(ばかりではありませんが…)の短絡的思考の傾向は、多くの問題をはらんでいるということ。。

子供たちが触れるものにも、全体と関係なく、パッと興味を引く場面が多く見受けられます。
瞬間的には面白いなどという映像を見せ続けられることが、子供の脳や心の発達にどれほどの影響を与えているのか、考察してみる必要がある…と考えられます。

ゲームやテレビについて書きましたが、教育全体にも、「ぱっ、ぱっ」と、素早く反応することが強調されているのかも知れません。

「思い通りに操作する」ことは出来ず「我慢する」ことも時には必要。。
何でも聞いてあげれば、「やさしい」感じはしますが、それは子供の心にいい影響ばかり与えません。

少しずつ「思い通り」にはならない、ということを伝え、それに対する事の出来るしなやかな「心」を育てなけらばならない、と感じています。
下手でも、時間かかっても、「あえて」子供自身がやってみること。

子供たちは意外にも、喜んでやってくれます。
「受け身」にしてしまうのは、大人の、一見「親切」そうな対応。

出来る事は、何でも、時間の許す範囲で、子供にやってもらいましょう。

日常の何気ないことから、多くのことを子供は学び、「生きる力」を身につけてゆくと思います。

よろしかったら、是非この本を手に取ってみてください。



河合隼雄の“こころ”―教えることは寄り添うこと



Q&Aこころの子育て―誕生から思春期までの48章 (朝日文庫)



非常に読みやすいので、どうぞお手に取ってみてください。



こころの処方箋 (新潮文庫)



何かの本に、佐野洋子さんが、「おてんとうさまの光をいっぱい吸い込んだ座布団みたいな人だった」と、亡き河合隼雄先生を偲んで語っていらっしゃいました。



その、佐野洋子さんも今は亡き人・・ですが。



村上春樹の文の中に「我々は少なくとも、鎮魂すべきものをいくつか、心の中に抱えている」ということを書いていたけど、曲に向かうとき、少なくともそれは重要なことの一つだと考えています。





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植物を育てるように・・

2013-11-11 06:01:50 | おもうこと

植物を育てるように、子供たちを育ててゆきたい。



光をあて、水をやり、栄養を与える。



与えすぎて根腐れすることだってある。



光の当て具合も様々で、植物の種類によって異なる。



生育具合も、咲きごろ見ごろも違う。



促成栽培や、温室育ちでは、次の世代を生み出す、強い植物には育たない。



食べるだけ、鑑賞するだけならまだいいが、たくましくは育たない。



しょせん温室育ちの促成栽培。



大人はそれをよく見て、いいところで水をやり、栄養をやり、光をあて、じっと見守るしかない。



その事に徹する。



植物は、やがて花を咲かせ実をつけ、次の世代を生み出してゆく。



そういう、露地物の力強い植物を育てなければ。。



    



子供を愛するならば、答えを教えてはいけない。



あえて考えさせる。



あえて困った場面を作る。



手出しをした方が簡単だ。



一見親切そうに見える。



「やってあげる」ほうが。。



でも、そうじゃない。



下手くそでも、時間がかかっても、一生懸命に子供がやることを見守ってあげること。



「答」ではなく「思考回路」を育てる。



感覚を育て、直観力を育て、洞察力を育てる。



体と向き合い、自身と向き合い、作曲家の思考回路に向き合い、時空を超えて会話する。



人生って何ですか?生きるって何ですか?



という根源的な問いかけを、子供たちは、無意識のうちに、違う言葉でいつも発している。



ともに悩み、寄り添う。



大人だって、完璧な答えなんて見つかっていない。



見つけるために、学び、働き、、つまり生きているんだとさえいえる。



そういうことを伝えなくちゃならないんだと思う。



成人君主じゃなくていい。。



「生きている」・・・って生々しいことだから。。



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学ぶほど知らないということを知る

2013-11-09 07:59:10 | おもうこと

学ぶほど知らないということを知る・・・

これは、時々高校生にいう言葉です。

たまに中学生にも言います。

何かの本からの引用ではなく、私の実感の言葉です。

おそらく、多くの人がそれぞれの分野で実感しているのではないでしょうか?

先日も宇宙開発の最先端の学者の方が、かなり宇宙のことを解明できてきた。。しかしまだ0・1%(だったと思います・・とにかくびっくりするほど少ない数字)しか解っていないのです。

と。。

実るほど頭が下がる(こうべ垂れる・・だった気もしますが・・)稲穂かな。。

まぁそういうことでしょう。

先日は、ある思春期の子に、

「あなたより私に優れたところがあるとしたら、それは、あなたより“自分は知らない”ことを知っている。。ということだ」

と語りました。

知れば知るほど「奥深さ」を知るのです。

自分の「小ささ」を知ります。

先日もピアノを弾かれる、あるお母様が、「やればやるほど遠ざかる気がします」とおっしゃっていました。

とても正しい感覚だと思います。

うちのご父兄(多くはお母様)の中には、大学で音楽を専攻され、音楽関係のお仕事・・・学校の先生だったりピアノの先生だったりしますが、数多くいらっしゃいます。

この方も、そのお一人で、大学でピアノを専攻され、かなりの難曲もこなし、今でも学び続けている方です。

演奏活動も家庭を犠牲にしない範囲でやっておられますし、ご自分のレッスンも続けていらっしゃいます。

だからこそ出る言葉だと思います。

これでいいということはないので。

ちょっとかじったところで、簡単に物知り顔で語るほど恥ずかしい事はありません。

分かる人には「浅さ」を見抜かれてしまいます。

ちょっとマスメディアに出たとか、なにかで評価され賞をもらったと言って、勘違いしてはだめです。

そんな表層的なことでは、「生きる」は、語れませんし、「芸術」からも、「学問」からも、どんどん遠ざかってゆくでしょう。

「やればやるほど遠ざかる気がします」

というのは、自分が客観的に見えてきている状態なのだと思います。

生きて学ぶことや、子供を育てることは、長い歴史の中で、先人たちが生涯をかけて学び、生み出してきたものを「受け取り」「継承」してゆくのだと思います。

私たちも、長い歴史の中の一粒にすぎません。

それでも日々を楽しんで、学んだり、受け渡したりしてゆければと思います。

本当に何百年前の人の作品に触れると(これは音楽に限らず)、その偉大さや深さに驚きを禁じえません。

私たちは、本当に進歩・進化しているのであろうか??

と、いつも考えさせられてしまいます。

それでも、やはり「学ぶこと」は、喜びだ!と、思います。

人間ってそんな存在なんでしょうね。

今日はカタかったですね。

日々このようなことを考えて生きているんです。

何かヘン??~

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女性としての生き方

2013-10-10 07:14:35 | おもうこと

ひところ・・・そう40歳前後だったかな・・・



いろいろ思うところがあり、色々な女性の生き方を知りたいと思って読んだ本がいくつかあります。



その中から、何冊か・・・




「千住家の教育白書」千住文子

あの天才3人の母として、学者の妻としての生き方、3人の天才児に「母が一番才能があった」と言わせる母の存在の大きさを感じます。




「世界がお前たちの舞台だ」李元淑

世界的指揮者チョン・ミュンフン、ヴァイオリニストのチョン・キョンファ(米子コンベンションセンターこけら落しで情熱的な演奏をされたのをお聴きになった方もあるでしょうか?)、チェリストのチョン・ミュンファをはじめとして、7人の子供達を立派に育てた陰には、並々ならぬ苦労や秘話もあります。ここに書かれたことが全てではないのでしょう。すごい人です。




「一人では生きられない」養老静江

女性として女医として、これだけのことを経験したら、人の何倍もの人生を生き抜いたという感覚さえ持ちます。置き去りにした悲しみもお持ちだったのではないかと思います。もちろん、あの!養老孟司さんの母です!




「チョッちゃんが行くわよ」黒柳朝

ヴァイオリニストの夫を支え、たくましく生きた人。戦時下で我が子を失う苦しみにも直面しました。徹子さんの弟さんもヴァイオリニストなのですよね。朝さんの弟さんが出版された「弟が見たホントの『チョッちゃん』」と言う著作もあり、秘話もあるようです。もちろん徹子さんの「トットちゃん」も!




「心の子育て」河合隼雄

河合隼雄先生の(また~といわないで~)「こころの子育て」読みやすくしてあります。



内容を少し・・・




人間のこころの発達は、ある程度は段階的だが、もっと自由でジグザグに進行するものだ。子どもにとって親が何かしてくれるというのは、お金を稼ぐことじゃなくて、一緒にいてくれたとか、大事なときに“うん”と言ってくれたとか、そういうことなんです。だいたい“普通でいい”なんて思うのが、ほんとうはけしからんです。子どもがどう思っているのかわからないのに、普通が幸福なんだから普通になれ、だなんて。不安ていうのは、他人を巻き込む力が強いんです。だから、不安の強い人は、なんとなく嫌われることが多い正しいことを立て続けに言うと、人間は動けなくなるんです。世の中には下手な子育てはあっても、どんな子にでもあてはまる“よい子育て”というものはありません。親が子どもをコントロールできる、と思いすぎているんじゃないでしょうか。…相手は子どもで、生きている存在なんです。こちらの思い通りにならないのが生き物というものでしょう。だいたい子どもというものは、“親の目が届かないところ”で育っていくんです。心理療法を受けに来る子どもで、難しいのは“扱いやすい子でした”という場合です。ひょっとしたら、子どもは信号を出していたのに親が気づいていなくて、それで扱いやすいと思っていたのかもしれない。あるいは、親が気づかないので、だんだん出さなくなってきたのかもしれないわけです。子どもが甘えてきたときに、甘えさせるのはいいんです。子どもが甘えたいという気持ちを、受け入れてやっているんだから。ところが甘やかすというのは、甘えさせるのと違って、“なんでもかんでも、親の私にベタベタしてたらよろしい”という姿勢なんです。ほめたらつけあがるなんてことはまずありません。もっと子どもを信用していい。子どもを信用できないのは、つまりは自分を信用していないからなんです。“絆を深める”とぼくが言うときは、絆の糸を長くして、ずっと深めていくのが理想なんです。お互いの関係の深いところを、なるべく遠く、それこそ“無限遠点”にまでもっていく。その点を介してつながっていれば、相手がどこか遠くへ行ったって大丈夫。一番深いところでつながっているわけですから。…その糸を、短くして強めている人は、相手をコントロールしているだけです。依存のない自立は孤立というべきで、それでは関係が切れてしまっているんです。自立というのは親と子の間に新しい関係を作ることです。子どもを“幸福な状態”に置くことによって親が安心しようとするのは、親の勝手というもので、子どもの幸せを中心にしていない。ほんとの幸福とは、その子が“自分の人生を生きられる”ということなんです。    



母として、女性として、人として、、、



どう生きるのか?



思っていらっしゃる方も多くあると思います。



Q&Aの、4ページでまとめられているので、気になるところから読めるし、子供の昼寝中、夜寝る前、、



ちょこっとずつ読み進められます



    



むかしピアノを習いに来ていた女医さん。



7人きょうだい全員医者だそうです。



母は、眼科医をしながら7人きょうだいを育てたと・・・



多くの方の協力もあったのでしょう。



でも、母!たくましいな~!



子育てに現実的な時間を取られるのは、意外と短い。



楽しまれたらいいと思いますし、子供を持った自分。。として、大きく広い心で、自分の生き方も模索されたらよいのではないでしょうか?



   



最近のお気に入りCDは、モーツァルトのコンチェルトK.595



特に第2楽章・・・



孤独の中で、神々しいくらい美しい・・・



もうすぐ天に召される人の、心の歌なのでしょう。



これほどやさしく、しずかに語りかけている音楽があるかというくらいです。



泣けます





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人としてのたたずまい

2013-10-07 08:51:15 | おもうこと

ちょっと固い印象のタイトルになっちゃったかな・・・

先日ご紹介した、「若いピアニストへの手紙」 ジャン・ファシナ著

若いピアニストへの手紙―技術をみがき作品を深く理解するために

この中の一文が、ピアノを弾く人ばかりでなく、人としてどういう佇まいをしているのか・・・

という考えに行きあたるので、その一文をご紹介しておきます。

     

本物の音楽家、本物の芸術家というものは真面目な職人でもある。しかも優れた理解力と再現力を備えた職人なのだ。ピアノの練習をめぐって忍耐力ということに私がこれ程こだわっているのはそのためだ。

毎日、何かしら新しい発見をし、忍耐と情熱、謙譲を持って自分の技を磨き、さらに磨き上げ、自らの務めを成し遂げる勇気を持たなければならない。(略)

ある生徒が初めて私の前で何かを弾いたとする。生徒の問題点は、初めのほんのいくつかの音符を弾いただけで、すぐに分かるものだ。つい先日、全国コンクール審査員のために日本に行き、3日間にわたって相当な数の演奏を聴いた。どの奏者も大変ハイレヴェルだった。けれどもその時も、数小節ほど聞いているうちに、私の意見はこうと定まった。

舞台に姿を現すのを一目見れば、その奏者が気取りをぬぐい去って本当の自分自身を人前に出しているのかそうでないか、すぐにわかるものだ。演奏にとりかかる仕種からは、音の可能性や、フレーズを方向づけ意味を成すようにしっかりと作ってあるかどうか、そしてリズム及びテンポを重んじる姿勢があるかどうかがはっきりと伝わってくる。この時もう、演奏者の人柄はこちらに伝わってくるものだ。

良い音色を出せる奏者もいるが、彼らも私の心に響くスタイルを身につけているわけではない。つまり真摯さ、簡明さ、自然さの事である。その奏者が音楽的効果を狙おうとしていると、さて私は、その解釈の正当性に批判的な視線を注ぎ、解決しなければならない欠点と問題点、そして再検討課題を数え始めることになる。彼がこのように演奏するのは、彼の思考プロセス、つまりその奏者を培ってきたもの、これまで感化されてきたもの、誰かから与えられた忠告、彼の脳裏に刷り込まれた演奏などに導かれてのことだからだ。演奏者個々の美意識は、そうしたもの全てに由来しているのである。

    

少し長くなってしまいましたが、引用してみました。

これは、もしかしたら、ピアノ演奏に限らず、他のあらゆることに言いえているのではないかと思います。

気取りなく、簡明で、真摯で、自然・・・謙虚についても触れてありました。

人としての佇まい。

もちろん私はまるでなっていませんが、こうありたいと願う、本来の人の姿のように思います。

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仕事の流儀から・・教えるプロ5人

2013-09-12 05:04:14 | おもうこと

・マー君のコーチ

誰よりもよく見ているという確固とした自信

・北島康介のコーチ

ウソは言わない

・宮大工の棟梁

それであなたはどう思う?・・・質問する前に自分で考えること・・私は学校の先生ではあらしまへん

・荒れた学校の教師

ヒナがかえる時にコツコツ殻を叩く・・外から良い時期に親鳥も殻を叩く

・定時制の学校の教師

私は差し出した手はひっこめません

・書道家 柿沼康二・・・岡本太郎を臨書する

・サッカー武田選手の談

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気になった記事・・・宮崎駿監督の言葉

2013-09-11 10:25:54 | おもうこと

宮崎駿監督・・・先週末引退発表の記者会見をされましたね。

その後、いろいろ監督の記事を見て、とても共感してしまいました。

きっと皆さんもお感じになっていることだと思います。

今日はその中から、少しだけ気になったところ。。。

。。。

僕自身は日本のアニメーションはどんずまりにきていると思っています。

これは僕よりも二十も若い庵野っていう監督が自分で言ってるんですけれども、

「自分たちはコピー世代の最初だ。

その後の世代は全部コピーのコピーだ。

今やコピーのコピーのコピーになっている。

それがどれほど歪んで薄くなるかわかるだろう。

自分の目で見たものを拾ってきたんじゃない」

っていう言い方をしています。

それは、若い人達と僕は日常的につきあっていますから、僕自身も痛切に感じていることですね。

たぶんこれは日本のアニメーションとかなんとかっていうことだけに限らないで、今の日本で一番はやっている生活の仕方に、なにか根本的に問題があるんじゃないかなっていうところにたどりつかざるを得ないですね。


こんなだらしない国、いったいどうなっちゃったんだろうって思うんです。

よってたかってこの国をこうやってきた。

僕らもアニメーション作って、ビデオをずいぶん売って、いまでも売ってますけども、それでその一端を担ってるんですが……。

うちの子は一日三度は必ずトトロを観ますとかね。
トトロを三回、もしつけとくとですね四時間か五時間位はテレビの前にいることです。その子が。その五時間の間にその子が本当ならどれだけの体験ができるのかってことですね。

トトロに抱きついてブラウン管にキスしたって何も学ぶことはないですよ。そこまでは…、まあトトロのパッケージに書きゃいいのかもしれませんけど、誕生日だけ観て下さいとかね。

そんなことやっててまともな子が育つはずないんだよね。そりゃ、人も殺すしバットで殴るよ。

そんな当たり前のことをなぜ指摘しないんだろうと思うんです。

これは一軒の家庭の親がなんとかして自分の子どもだけまともにしようとしても無理なんですよ。

これは。みなさんわかると思うんですけど。なんとかして地域や子ども達の育て方や、環境、子ども達の感覚がもっとバランスをもって発達できるような空間を意識的に作らなきゃならない。

株価がいくら上がったかなんてそれはどうでもいいことなんです。子ども達が元気かどうかってことだと思うんです。

僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入った人間なので、基本的に子どもたちに

「この世は生きるに値するのだ」ということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になくてはいけないと思ってやってきました。

それは今でも変わっていません。

火を消せない、ナイフを使うこともできないのに、キーボードのキーは扱えるような民族が、健康に生きていけるわけがないと思います。

もっとバランスのとれた生活をしないと。

経済よりも、子供が元気に育つかどうかが大切です。

僕のビデオが喜ばれれば喜ばれるほど、僕はジレンマに陥ってしまいます。

。。。

どこかでブレーキをかけなくちゃいけない。

ともおっしゃっています。

世界の舞台で認められ、受賞された時も、

こんなケチくさい事のためにやっているんじゃないんですよ。自分が今までやってきたことの先にこういう賞が待っているとは思いません。子供たちが喜び、たくさんのお客さんにみてもらった時点で、この映画は報われたと思っています。でも色々な賞をいただいたので、盆と正月とクリスマスが一緒に来たような気分です。

むろん監督としては、晴れやかな喜ばしい気持ちであるに違いないんです。

待てよ。。と。。

そんなことの評価に踊っていてはいけないのだと、ご自身でも戒めていらっしゃるのではないでしょうか。

今回の「風たちぬ」の映画が公開されるまでの何年かを追ったドキュメンタリー番組がNHKで放送されたのをご覧になった方もいらっしゃるかと思います。

印象深いところはたくさんありましたが、公開初日の大盛況・・・多くの人を動員した華やかな劇場の様子とは裏腹に、自分のオフィスの片隅で、自分で買ってきたと仰る、玉ねぎ入りのカレーラーメンを自身で作られ食べながら「これで日常が戻ってきた」・・・と・・・

何が自分の本当の「仕事」なのか、本当に深く考えていらっしゃるのだと思います。

それが世界の宮崎駿監督たる「所以・・ゆえん」なのでしょう。


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感性の豊かさ

2013-08-25 23:51:26 | おもうこと

感性の豊かさって、ピアノをはじめとする芸術的な行為をするときだけじゃなく必要なんだな。。と思います。

芸能人じゃない、普通に生活している人が映し出される番組を見ることが、よくあるんですが、いい仕事してるな。。。素晴らしい生きざまだな。。等々、感動することが良くあります。

しばらく前に、アフリカ人の・・・国がたくさんあって、国名は忘れてしまいましたが・・・テレビスタッフやクルーの人たちが、日本を紹介する番組を作る。。という事を、密着取材していたのを見たのですが、なかなか興味深かったです。

遠い異国、まったく文化も違う人たちが、日本の何に興味を持ち、何が面白くて、何が変わってると思うか、美しいと思うか。。

銭湯や築地の魚の鮮度を保つ技術に興味を持ったり、浴衣を着てみたり、、、この番組を通じて、アフリカの人たちが、行ったことも聞いたこともない日本の人や文化を知る。。

その中で、下町で昔ながらの金太郎飴を作っているところを取材していた時、それが日本の昔話を題材にしていること、その細工がいかに熟練の技で出来ているか、飴の顔にはまつ毛まで施されているという繊細さ、、、そういうことに気付くことのできる感性の豊かさ、細やかさ。。。

アフリカ人のスタッフ・・特にチーフの女性ディレクターの感性の素晴らしさには、見ているこちらの方が、感動してしまいました。

何かに対する気付き・・・そういうことを、よく言っていますが、音楽する感受性と何ら変わらず、細やかで豊かなものでした。

そうして、独自の文化を大切にしつつ新しい文化を融合させてゆく道を模索してゆく、という事に考えが及んでいたようです。

85歳になる代々続く老舗の鰻職人の方もカッコいいな~と思いました。

「仕事が作業になってはいけない」と。。

なんか~おなじだ~

練習が作業になっちゃダメだ~

って、よく言ってるもんね~

今やっていることが、たとえ何千回という繰り返しだろうと、心が込もっているか、小さな違いに気付きがあるか、、そういう事ではないでしょうか?

よくこういう方たちは、

「研ぎ澄ませ」

とも言いますね。

私が大好きな言葉です。

先日、女優の藤山直美(天才喜劇役者藤山寛美の娘)さんが、己を知るという事。。と言っていました。。そして彼女は人を楽しませるためには、お客さんが主役だと。。己が己が(我が我が)ではない人なんですね。。

素晴らしいなぁ。。

謙虚な姿勢で己を知り、己に打ち勝つ・・・プロゴルファーも言ってたっけ。。

Eテレの趣味の時間の講師として出ていらっしゃる、書道家の先生。。

空間を描く。。

と言ってたけど、ドラムの村上ポンタ秀一さんが、「あいつのドラムは、休符が歌ってんだよな~」って人のドラムをたたえる時、言ってたのとおんなじだなぁ・・って、ものすごくうなずいていたり。。

ジャンルは違えど、何かに気付く人は、ほとんど全く同じことを言っています。

書道もいろいろな意味で、ピアノに通じるなと、凄く思うんですよ。。

ぁ・・・

いつもの蛇足ですが、私、小1から高校生・・最後の頃はとびとびになっていたので、高1ぐらいかな。。書道をずっとやっていたんです。

字ヘタですが、小学生の頃は7段だったんですよ。。

子供の頃友達が沢山習っていたこともありバレエもいいなと思ったのですが、なぜか書道になっちゃって。。

バレエも、もちろんやりたかったけど、書道も結果的には良かったなと思います。

定期的に筆を持っているとよいのですが、しばらく離れると、筆を持つ手の軸がぶれるんですよね。

今なんか、本当にダメダメで全く書けなくなってしまいましたが、これもピアノを弾く手や体と、通じているのです。

音を表現する時の、手や腕の重さを指先に伝え、時には体を使い、圧を加えたり、指先の繊細なわずかなコントロールで、音と同じように線が現れ、命が宿る。

書は人也・・・音も人也・・・なのかな?

字体にも時代があり、楷書(かいしょ)、行書(ぎょうしょ)、草書(そうしょ)、隷書(れいしょ)、篆書(てんしょ)と、5つの書体があると言います。

私が触れるところまで至らなかった、書道の奥深い世界。

そこにも、時代と人があり、呼吸とリズムが躍動していると思います。

子供たちにも時々言うんですが、何が書いてあるかわからないような現代アート的な「書」・・・今とても注目されていますよね・・・これも優れたものは、たとえ漢字など知らない外国の人が見ても、炎が燃えるような字体だったり、さわやかな風だったり、同じ風でも激しく吹き荒れる様だったり、こういうことが表現できているものは、言葉を超えますよね。

音楽と同じなのだと強く感じます。

これが、銀行員や医者や看護師や教師や…他の職業で関係ないか。。。いや!ある!。。と言いたいです。

もちろん漁業や農業も。。

そしてスポーツも、精神的にも技術的にも、相通じるところがあって、とても共感します。

感性を磨き、全体を見渡す大きな視点と、細やかな気付きのある、小さな視点。。

たとえ大社長だろうと。。むしろそういう人こそ、必要じゃないかな。。

お医者さんや看護師さんだって、感性がなければ、ちょっとした患者さんの体や心の変化に気付けませんもんね。。

もちろん音楽も、大きなマクロ(曲の全体像や構成など)の視点と、小さなミクロ(一つずつの音の質など)の視点がなければ、弾きこなすことはできませんよね。

あぁ・・・そういうオマエはどうなんだと、言われそうですね。。

そうありたいとは願っていますが。。。

レッスンで、すごくズケズケ言っているようですが、心を揺さぶり、反応が返ってくるのを待ってるんですよ。

顔に書いてあることも、たいがいのことは分かります。

若いころに比べればね。。

もちろん多声部で演奏されているフーガも、意識なく弾いている音は殆ど分かります。

あ。。そこは意識してなかったです。。

って、高校生の子が素直に認めてますもんね。。

誰でもよく聴けば、分かるっちゃぁわかるんですよ。

。。。

でも、まだまだ修行しなきゃね。。

慌てず騒がず自然体で、いろんなことが聴こえたり見えたり。。。そんな風になれたらいいなと考えてるんですが。。

そうすると、無駄なものが削がれてきて、感性が研ぎ澄まされてくるんじゃないかと。。。って、オマエはまだまだじゃん。。

そうです

まだまだですね~~

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