米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

熊田千佳慕さんの事

2011-09-12 06:21:19 | 画家の話

熊田千佳慕さんの事をご存じでしょうか?

NHKで「私は虫である」というドキュメンタリーをしていた事があり、熊田千佳慕さんの絵を

子供の頃読んでいた童話の挿絵で幾度も見た事がある・・・と懐かしく思いました。

しかし、人生の後半は、ファーブル昆虫記の虫たちの細密画に精力的に取り組んでいらっしゃいました。

道端や、野原にうつ伏せ、虫たちや草花を詳しく観察しているところを、行き倒れの老人と

間違えられたこともしばしばだとか・・・

その細密画の細やかで正確で、そして小さな生き物に対する愛にあふれた作品は、一見に値すると思います。

本を手に取りことができる方があれば、是非「ファーブル昆虫記の虫たち」を、一読下さい。

熊田千佳慕・・・で検索されても少し触れる事が出来ますし、本や展覧会の機会もあると思います。

本当に素晴らしいです。

今日は千佳慕語録を載せておきます。

この道

神から託された この道を

コツコツと歩くことが好きだ。

近道を見つけたり より道をすることなく

あわてずに自分のペースを守ること。


自分に素直であれ

自然にも素直でありたい。

  CHIKABO



あせっても 春はこないし

忘れていても 春は来る

自然はきわめて自然である。

何ごともゆっくり あせらずに待つ。


CHIKABO




私は虫である。 虫は私である。

自然は私のためにあり 私は自然のためにある。

自然の中の自己が漸くわかりかけてきた。

                     CHIKABO


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フェルメール

2011-09-11 05:50:13 | 画家の話

オランダ、アムステルダムの画家フェルメール(1632~1675)

生涯で45~47点の作品しか描きませんでしたが、現存する作品は35点。

真価の問われている作品もあるそうです。

私も好きな画家の一人ですが、世界中にファンがたくさんいます。

特に「真珠の耳飾りの少女」は人気も高い作品でしょう。

私が20年近く前に行った、オランダのアムステルダム国立美術館には、

有名な「牛乳を注ぐ女」「手紙を読む青衣の女」がありました。

生涯で描いた作品が少ないため、遅筆な画家だと思われがちですが、彼は納得する構図、構成を得るのに

時間をかけていたようです。

フェルメールは針と糸を使って、透視図法のための水平線を決め、その上に消失点を設定しました。

ただ単に完璧な遠近法を創造しただけでなく、構図上どこに水平線をおくか熟慮していたようです。

独特の光の表現をし、穏やかな日地上生活を、美しくドラマティックに表現しています。

「牛乳を注ぐ女」も、美術の教科書に乗るぐらい有名ですが、この作品もフェルメールの光の表現

牛乳を注ぐという日常的な題材を、その行為1点に集中し、緊張感を与えています。

また、時空を超え、ミルクが容器に注がれる時間の一瞬を永遠の中に封じ込めています。

今、京都に3点ほどの作品が来ています。

また、同じ時代の他の画家の作品も、数多く来ているようです。

来週この美術展を見に行く予定にしています。

今からとても楽しみにしています。

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シュルレアリスムの画家 ルネ・マグリット

2010-11-06 05:38:27 | 画家の話

 マグリット

今日は、画家の話をかいてみました。
先日、妹と写真を見に行った帰りに、マグリットの話がでたので、久しぶりに画家の話をします。

ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット (René François Ghislain Magritte, 1898年11月21日 -1967年8月15日) はベルギーシュルレアリスム画家

Lothar Wollehによるルネ・マグリットのポートレート

概論

マグリットは、20世紀美術のもっとも重要な運動の一つであるシュルレアリスムを代表する画家である。マグリットの作品においては事物の形象はきわめて明確に表現され、筆触をほとんど残さない古典的ともいえる描法で丁寧な仕上げがほどこされている。しかし、その画面に表現されているのは、空中に浮かぶ岩、鳥の形に切り抜かれた空、指の生えた靴といった不可思議なイメージであり、それらの絵に付けられた不可思議な題名ともども、絵の前に立つ者を戸惑わせ、考え込ませずにはいられない。

マグリットの絵画は、画家自身の言葉によれば、「目に見える思考」であり、世界が本来持っている神秘(不思議)を描かれたイメージとして提示したものである(デペイズマン)。この点は、夢や無意識の世界を描き出そうとした他のシュルレアリストとは異なっている。

「言葉とイメージ」の問題を追求したマグリットの作品は、ミシェル・フーコーのような思想家にも発想源を与え、広告やグラフィックアートの分野にもその影響が見られるなど、20世紀の文化に与えた影響は大きい。日本においても1971年の回顧展をはじめとしていままで5回開催され、宇都宮美術館横浜美術館豊田市美術館などに作品が収蔵されている。

生涯

マグリットは1898年、ベルギー西部のレシーヌに生まれた。一家はマグリットの生まれた翌年にはジリという町に移り、1904年シャルルロワ近郊のシャトレに移る。マグリットは1913年の一時期シャルルロワに住んだこともあるが、1904年から1916年まで、少年時代の大部分をシャトレで過ごした。1912年に母が原因不明の入水自殺をとげるという事件があり、これは少年マグリットにとっては当然のことながら大きな衝撃を与えた。

1916年ブリュッセルの美術学校に入学。1910年代後半から1920年代前半はマグリットが画家として自分の様式を模索していた時期である。この時期にキュビスム未来派ダダデ・ステイルなどの運動を知り、また、ピエール・ブルジョワ(詩人)、E.L.T.メセンス(詩人、画家、音楽家)らの前衛的な芸術家と交際するようになった。マグリットは生活費を得るためにグラフィックデザインや広告ポスターなどの仕事をしつつ、抽象画や、キュビスムの影響を感じさせる作品を描いていた。1922年には幼なじみのジョルジェット・ベルジェと結婚。彼女は多くのマグリット作品に登場する女性像のモデルとなる。1923年(1925年とする説もある)ジョルジョ・デ・キリコの作品『愛の歌』の複製を見たマグリットは「涙を抑えることができない」ほどの感銘を受け、これがきっかけでシュルレアリスムの方向へ進む。

ブリュッセルのマグリット美術館

1926年の『迷える騎手』が最初のシュルレアリスム的作品とされている。1927年ブリュッセルのル・サントール画廊で初個展を行う。以後3年間パリに滞在し、フランスのシュルレアリストたちと交流する。しかし、マグリットはシュルレアリスム運動の理論的指導者であったアンドレ・ブルトンとはうまが合わなかったらしく、1930年ブリュッセルへ戻り、以降ベルギーを離れることはほとんどなかった。

マグリットの絵を、載せたかったんですが、上手くいきませんでした。

興味ある方は、検索してみて下さい。

シュールな世界観を、不思議な感覚と、何か心に伝わるものを感じながら観ていただけたらいいですね。

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画家の中の画家ベラスケス

2010-04-11 08:07:01 | 画家の話

私の憧れる画家の中に、スペインの宮廷画家ベラスケスがいます。

ラスメニーナス(宮廷の侍女たち)で有名な画家ベラスケスは、スペイン南部アンダルシア地方の中心地セビリアで、

貧しい下級貴族の子として1599年に生まれました。

ベラスケスは11歳の時、画家フランシス・パチェーコの弟子になります。

パチェーコは彼の性格と才能に期待し、娘ファナと結婚させました。

ベラスケス19歳の時でした。

セビリアの現実的、楽天的な気風の中で画家としての地位を築いたベラスケスは23歳の時

宮廷画家を目指して首都マドリードに乗り込んで来ました。

その頃宮廷で働いていた人々は、1500人にも及ぶと言われていましたが、その中の宮廷画家は4人だけ。

ベラスケスはある有力者の口添えで宮廷画家になるチャンスを得ました。

その1度だけのチャンスを逃さず宮廷画家の地位を得ました。

中でも国王を目の前にして描くことは最高の栄誉でした。

ベラスケスは国王フェリーぺ4世の強い推薦で先輩の画家たちを退け、この栄誉を得たのでした。

しかし当時の画家の地位はまだ低く、俸給は国王付きの理髪師と同じ額でした。

こうした中で宮廷画家としては異例の抜擢で、王の取次係に任命されました。

17世紀初めスペインはヨーロッパの中でも超大国で、各国の大使や外交官の訪問が絶えませんでした。

1628年スペイン領ネーデルランドから、外交官としてルーベンスがやって来ました。

彼は6ヶ国語に通じ、画家としてだけでなく外交官としても活躍していたのでした。

この時ルーベンス51歳、ベラスケス29歳。

宮廷画家ルーベンスは、イタリアへの留学と人間の永遠のテーマである神話を題材として描くことを勧めました。

こうしてルーベンスとの親交を深めたベラスケスは、宮廷人として生きながら、

画家として人間の真実を描くことを確認したのでした。

かつて優美な作品を求められた時「私は粗野と平凡さで1位になりたい」と言ったそうです。

絵画におけるリアリズムの宣言でした。

国王につかえて10年、ベラスケスは王の取次係から警備係、国王付衣裳係へと昇進しました。

衣裳係は王の側近の事で、常に王に随行し常に王と行動を共にしました。

作品は当然少なくはなりましたが、非常に多彩な作品を残しています。

ベラスケスの時代、ヨーロッパでは宗教対立から始まる30年戦争が続き、スペインは各地で

泥沼のような戦争が起こっていました。

すでにスペインは没落の一途をたどっていたのでした。

そのような時国王になったのがフェリーぺ4世で、彼は出来るだけ政治から逃避し、

狩りや美術品の収集に明け暮れました。

1644年王妃イザベルが病死、その二年後カルロス皇太子も17歳で病死します。

かつて日の沈むところがないと言われたスペインに暗雲が立ち込めたのです。

ろのころ侍従代理に昇進したベラスケスはなすすべもなく、傷心し年老いていく国王を描き続けました。

1652年53歳のベラスケスは、王宮輩出長に任命されました。

王宮の全ての鍵を預かり事細かな指示を出さなければならない、重要な役割で、これも異例の抜擢でした。

1660年4月初め、スペインでは久々の喜びに包まれていました。

王女マリア・テレーサとフランス国王ルイ14世が結婚することになったのです。

しかし王宮輩出長としての激務から、6月体調不良を訴え8月61歳で亡くなりました。

最高傑作とされる「ラス・メニーナス」

近くから見ると、素早いタッチで輪郭がはっきりしないのに、遠ざかってみるとその全貌がはっきりしてくる・・・

印象派を先取りしたとも言われ、多くの画家から称賛を浴びるベラスケス。

画家としてだけでなく、人間としても素晴らしい生き方を貫いた人だと尊敬の念を持って愛する画家の一人です。

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シュザンヌ・バラドン

2010-01-27 06:35:42 | 画家の話

今日は、女性画家シュザンヌ・バラドンについて書いてみようと思います。

新井満さんの小説に、「エッフェル塔の黒猫」という作品があります。

もしかしたら読まれた方もあるかも知れません。

この小説の主人公は、作曲家のエリック・サティです。

シュザンヌ・バラドンに恋をしたサティは、半年間一緒に暮らしたものの、彼女に捨てられてしまいます。

多分、新井満さんは、サティのファンなのかも知れません。

僕にとっては天敵のような女性だったが、色々知るうちにサティが彼女に恋をしたのもうなずけるようになった・・・

と語っています。

バラドンは1865年にフランス南部に生まれ、1870年5歳の時に母親と2人でパリへ移り住みます。

貧しかった母子は、同じような生活をしている人たちが住むモンマルトルで暮しました。

10代になって働くようになった彼女は、お針子、ウェイトレス、サーカスなど色々な仕事をしますが、

サーカスでケガをしたことから、当時卑しい職業とされていた画家のモデルをすることになりました。

バラドンは人気のモデルとなり、特にルノアールのお気に入りでした。

彼女がモデルになった絵は、数多くあります。

また、ロートレックとも親しい仲で、よくモンマルトルのカフェで一緒にいたといわれています。

バラドンの画家としての才能を見出したのは、このロートレックでした。

彼女のスケッチを見たロートレックは、師と仰いでいたドガにそれを紹介しました。

ドガは「我々の仲間だ」と言ってバラドンを認め、その才能を生かすよう勧めました。

このスケッチにはバラドンのひとり息子で、後に有名な画家となったモーリス・ユトリロの姿も描かれていました。

迷いのない強い線で描かれた彼女の絵は、生命への感動からわき上がるものでした。

決して対象物を美化したりするわけでなく、有りのままの赤裸々な絵を描いたのです。

バラドンは49歳の時、息子より3歳年下の画家ユッテルと結婚しました。

ユッテルはバラドンの熱烈な信奉者で、結婚した当時28歳でした。

この時期からますます創作活動は充実し、フランス政府に作品を買い取られるなど、

その地位を不動のものとしました。

バラドンは晩年こう言い残しています。

「私の仕事は終わりました。唯一の満足は、私自身を決して裏切らなかった事です。

もし誰かが私の真価を明らかにしてくれたら、いつの日か私の言う事が本当である事が理解されるでしょう。」

1938年バラドンは73歳でその生涯を終えました。

精神を患い酒におぼれる息子ユトリロに絵を描く事を進めたのはバラドンでした。

エリック・サティもまた彼女に出会う事で、作曲家として影響を受けたのかも知れませんね。

強い意志で人生を生き抜いたシュザンヌ・バラドン。

昨日のナディア・ブーランジェ同様、驚きと共に憧れる女性の一人です。

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