米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

芸文にて・・・五嶋みどりリサイタル

2016-06-25 06:38:25 | 音楽
昨年から友人と楽しみにしていた、兵庫県立芸術文化センター・・・通称“芸文”で、五嶋みどりさんのヴァイオリン聴いてきました。
オズガー・アイディン(Pianist)・・・とのデュオ・リサイタル・・です。
近年、海外ではコンサートの前にプレトークショウをされることも多いらしく、五嶋みどりさんのお話も興味深く伺いました。

演奏曲目・・・☆

リスト(オイストラフ編):「ウィーンの夜会」よりワルツ・カプリース6番(シューベルト原曲)

シェーンベルク:ピアノ伴奏を伴ったヴァイオリンの為の幻想曲op.47

ブラームス:ヴァイオリンとピアノの為のソナタ第1番 ト長調「雨の歌」op.78

モーツァルト:ピアノとヴァイオリンの為のソナタ 変ロ長調k.454

シューベルト:ピアノとヴァイオリンの為の幻想曲 ハ長調D934


日本に帰国される期間も短いので、「待っていました」とばかりに、大ホール満席の聴衆

奇跡的にも6/10東京の国立新美術館でロビーコンサートを聴くことが出来たので(しかも目と鼻の先…という近距離!)感激もひとしおでした

ここのところ、ミシェル・ベロフ、ギドン・クレメル&リュカ・デュバルク、五嶋みどり、、他にもベルリンから帰国されたばかりの素晴らしいピアニストさんのサロンコンサートや、芸大博士課程にいらっしゃる方(友人のお嬢様)の演奏等お聴きし、改めて音楽の素晴らしさを感じ入っています。

本当に細やかな細密描写を見る様な魂のこもった演奏

囁きかけるようであったり、激しさであったり・・・


しかし、どうだ!というような、自己主張ではないと思います。

ちょうど日曜美術館で、イタリアのジョルジュ・モランディという画家について、技巧を主張しない芸術家・・と言っていましたが、本当に素晴らしい演奏というのはそういうものを超えているのでしょうね。(蛇足ですが、池田塾のMLからのお知らせで、あすの日曜美術館に塩谷さんという池田塾にご関係の方が御登壇されるそうです。楽しみです)



ただそこに、凛として存在する


解釈を寄せ付けないものだ・・・と、小林秀雄も言っていました・・そういえば・・。
(解釈を拒絶して動じないものだけが美しい)



(しかし、そこに至るまでには壮絶な自己との戦いがあることも決して忘れてはいけません。イチロー選手も、弱い自分と戦ってきた、と述べていましたが、近い感覚かもしれませんね。)




素晴らしいものに出合うと、外付けの属性は必要なく、ただただ聴き入ってしまいます。


世界を揺るがす、イギリスのEU離脱。

どのように世界が動いてゆくのか・・・実は真の音楽家はこういう事にも無関心ではいません。


人の心が、少しでも人々の幸せと平和な世界を求めるなら、、内的な成長を遂げることなのかと思ってみたり。。




五嶋みどりさんは“みどり財団”というNPOの活動を通じて、障害のある子供たちや、途上国・・と言われる国々へ、本物の音楽を届ける活動をなさっています。

友人の生徒さんだったビオラの方もカンボジアへ同行し、みどりさん達と一緒に演奏して来られたそうです。


超一流の方のご活動。


本当に素晴らしいですね。


今日はちょっと難しいことを書いてしまいました。

ではでは・・今日はこの辺で~
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子供たちが音楽をする意味について考える。

2016-06-21 10:38:09 | おもうこと
「音楽と心の癒し」

故河合隼雄先生の言葉ですが、物事の本質、源泉まで辿ってゆき、そこから導き出された深い思考や思想を、どれほど分かり易い言葉で綴られているのかと、思います。

宜しければ、平易な言葉で綴られた言葉の数々を味わってみてください



引用・・・

            


人間は『目の動物』と言われたりするほど、生活を目に頼っている。

この傾向が強くなると、目に見えないものは存在しないと考えたり、信頼しないということになったりする。

心が知らぬ間に固く、狭くなっている。そして固く狭い心ほど傷つきやすいのだ。

音楽というものは、雑音と異なって、何らかの『構造』を持っている。

言うならば、相当な形を持っているのだが、目に見えない形である。

その目に見えない形が、目に見えるものによって形作られている構造に対して作用を及ぼしてくる、というのが音楽を聴くということではないだろうか?

『より道 わき道 散歩道』河合隼雄著より


          

音楽情報誌『ジュピター』に寄稿された河合先生の言葉からです。

視覚情報が氾濫する昨今、多くの情報が記号化されて流されていきます。

混迷する現代社会、視覚系・聴覚系の根源的表現として、芸術教育があるのだと思います。

簡明に綴られた数々の言葉は、経験を重ね勉強を深めれば深めるほど「本当にそうですね!」とうなずいてしまうような味わい深い言葉ですね
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リュカ・ドュバルグ “サントリーホール” にて・・・

2016-06-20 06:41:41 | 音楽
去る6月7日、サントリーホールで「ギドン・クレーメルとリュカ・ドュバルグ デュオ・リサイタル」聴いてきました。
ヴァイオリンの巨匠であるクレーメルはラトビアのリガ生まれ。
モスクワ音楽院では大ヴァイオリニストであるダヴット・オイストラフに師事し、パガニーニ国際コンクールやチャイコフスキー国際コンクールでも優勝を果たしています。
アルゲリッチら世界的な音楽家とのコラボレーションも多く、まさに世界をけん引している音楽家と言えるでしょう。
私事ではありますが、とってもむかーしオランダアムステルダムのコンセルトヘボゥという素晴らしいホールで、クレーメルの演奏会を聴いたことがあります。
・・思うに20数年ぶりかも知れません・・・。

さて、この巨匠であるクレーメルが是非に・・と共演を申し込んだのが昨年開催されたチャイコフスキー国際コンクールで入賞を果たした(しかしまた4位に甘んじたところに物議を巻き起こした・・)リュカ・ドュバルクという1990年生まれのピアニスト。


色々書き始めたらキリがありませんので、この演奏会のプログラムの中から引用しておくことに致します。



                  
ちょうど1年前の2015年6月まで、音楽界でリュカ・デュバルクという名前を知っている人間は、ほんのわずかしか存在しなかった。子供の頃からコンクールに参加していたわけでもなく、ましてや20歳になるまでピアニストになる意志すら持ち合わせていなかったというドュバルグ。そんな彼が、昨年開催された第15回チャイコフスキー国際コンクールに出場し、第一次審査でラヴェルの≪夜のガスパール≫を演奏したとたん、会場に大きな衝撃が走った。(略)ピアノ音楽史上最も演奏困難な曲の一つとして知られる≪夜のガスパール≫を見事に弾ききったばかりか、その鬼気迫る表現力は既にプロの域に達している。(略)
チャイコフスキー国際コンクール終了後、それまで無名の存在だったドュバルグの素顔が徐々に明らかになり始めると、今度は彼の異色の経歴に驚嘆の声が上がり始めた。11歳という遅めの年齢でピアノを始めたにも関わらず、インターネット上に存在するピアノ曲の音源を聴きながら膨大な数のレパートリーを(鍵盤に触れることなく)学んでいったこと。17歳から20歳までの3年間、ピアノに全く触れていなかったこと。大学在学中は文学と映画に熱中し、高名なピアノ教師レーナ・シェルシェフスカヤと出会うまで、本格的にピアニストを目指す意思が全くなかったこと。チャイコフスキー国際コンクール応募を決意するまで、自分のピアノを所有していなかったこと。コンクール入賞を目指し、幼い頃から日夜練習を積み重ねているピアニストの卵たちから見れば、卒倒しそうな経歴だ。(略)

ドュバルグによれば、ピアノの練習で最も重要なのは、出来るだけ多くの時間を鍵盤の前で過ごすことではなく、楽譜を常に持ち歩き、文字通り寝食を共にするような状態で楽譜を読み耽り、その楽曲のもっとも至難な部分を構造的に把握していく「インサイド・リスニング」なのだという。そうした「インサイド・リスニング」の練習法を、ドュバルグはシェルシェフスカヤから直接学んだ。他のピアニストが運指練習に多く時間を割いているという話を聞くと、大きな違和感を覚える。なぜなら、曲に対する情熱を失ってしまうから。(略)



                   


11歳で音楽を学び始めたドュバルグですが、その後(17歳)ピアノをやめ、パリ第7大学で理学及び文学の博士号を取得しました。

文学、絵画、映画やジャズに関しても情熱を持っているというドゥバルク・・ここに彼の音楽がどのような世界に裏打ちされているのかということに思いを馳せることが出来ますね。



帝王とも呼ばれる指揮者ゲルギエフ(チャイコフスキー国際コンクール組織委員長)、あるいはフェドセーエフやギドン・クレーメル等から著名なオーケストラやアンサンブルの共演者として招かれています。

またコンクール全部門参加者の中で唯一、モスクワ音楽評論家賞を受賞しています。

因みに、チャイコフスキー国際コンクールはピアノ部門ばかりでなく、声楽や弦楽器などもありますが、これら全ての部門を通しての第1位は、なんとモンゴル出身の声楽家。
滔々とうたうその大らかさや高貴さは、素晴らしいものでした。
私達は、人として何を大切と思って生きてゆくべきなのか。。



そしてこれらのことは何を語っているのでしょうか?
文章の中にこうあります。


「賛否両論のチャイコフスキー国際コンクール審査結果、これまで当たり前とされてきたピアノ教育の常識を完全に覆す経歴」


国家の威信さえかけ、さまざまな思惑の渦巻く中、それでも果敢に其々の思いを胸にコンテスタントたちはコンクールに挑みます。
決して甘いものではありません。
生死をかけている・・とさえ言えるのではないかと思ってしまいます。


音楽への新鮮な情熱を失わないために、あえて弾かない(シルクハットの中で指を動かしていたという話も読んだことがあります)・・そんなピアニストもいたそうです。

おそらくレコードやCDが普及し、傷のない演奏、表面的な美しさへの関心・・・裏返せば深い内面への無関心・・・そう言ったことがここ数十年で広く普及してしまったのかなと思ってみたり。。

その他市場経済が絡むことで、やはり「形骸化・記号化」が進んでいったのかも知れません。
市場経済が絡み、音楽が大衆に浸透してゆく過程(大衆化)は、もうショパンリストの時代にはじまっていたようです。
これは功罪表裏一体の難しい問題を孕んでいるように思われます。


ちょっとお話が難しくなってきましたね



世界的ピアニストであるアルゲリッチが音楽について「無意識の開放」と語っていたそうですが、非常に大きな深い精神性の世界なのですね。

音楽以外の分野の知識人の方が、くしくも、日本の音楽教育では哲学や思想と言ったものが足りないのではないか、、と言った内容のことを発言していらっしゃいましたが、おそらく音楽教育と言った狭義の世界ではなく、日本人全体として考えなければならないことなのかも・・・と思ってみたり

仏作って魂入れず・・・と言いますが、まず内的成長を目指すことが急務・・と思います。


目に見えないものの大切さ。

音からはこういうことが読み取れます。

・・・が、しかし、表面的な聴き方では難しい。
以前、耳が良いということは、等々書いてきましたが、人によって聴く能力の深さには大きな差がある様です。


『聴く』ということに関しては、また後日書いてみようと思います。


では今日はこの辺で~
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