米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

ピアノを習うことをお料理に例えるなら・・・

2014-06-01 06:59:01 | おもうこと

子供たちが、発表会やコンクール等、人前で弾く時、よくお料理に例えます。



「私、腕前はまだまだですが、頑張って作ってみました。よろしければ食べてみて下さい。」



生煮えや、味付け間違いはしないでね。



そんな気持ちでしょうか?



皆さんに「少しだけ焦げてたけど、○○ちゃんらしい、いい味がついていて美味しかったよ。」



「ちょっと盛り付けはくずれていたけど、なかなかの出来栄えだったね。最善を尽くし、心を込めて作ったもんね。」



発表会なら、そんな感じでしょうか?



ピアノは、ほとんど99%以上の人が、趣味として習っていると思います。



おうちで、みんなが「美味しかったね」・・・と言って食べてくれるものを作れれば良いのです。



たまに、街の小さなレストランを開店させる(つまり、街のピアノ教師や音楽の先生)子もいるかも知れません。



お料理は心の栄養。



時々は、他の方に喜びを分けてあげられる人になるのもいいですね。



“究極”をめざし、苦労もいとわない人は、三ツ星レストランのシェフや料理人を目指すのかも知れません。



これは、ピアニストと言われる人たちです。



“のだめ”で、不良債権と言われるくらい、お金も時間もかけても、なかなか報われない商売です。



見た目の華やかさに比べ、厳しい現実も待っているでしょう。



なので、あまり音楽に進むことはおススメしないんです。



ですから、みんな“趣味”で料理を習っている・・・つまり心の栄養の為に、ピアノを習いに来ているのです。



情操教育ですよね。



よく、「うちの子練習しないんです。ピアノの練習を嫌がります。」



と仰るお母さんがいますが、当然でしょう。



子供の身にもなってください。



美味しい料理を食べたことないし、作る料理のイメージやプランも全くないのに、作れるはずもないし、意欲もわかないですよね。



皆さんこれなしに、作ることばかりに意識が行くので、子どもはタマッタものではないのです。



最初は、美味しいものを食べて、舌を肥やす。。その後も継続的に。。



おにぎりや目玉焼きから始めて、少しずつ難しい料理の技や手順を習う。



美味しいものが作りたいからこそ、練習したくなる。



美味しいものを作って食べたからこそ、心が満足し栄養源となり、人として成長し、深くなる。



今どきのお母さん方は、曲を少々ご存知なので(深くなくても、YouTube等でオテガルな情報源があるので・・スミマセン・・失礼千万ですが正直そう思います・・さらに言えば、楽譜が少々読めて弾けたぐらいで“分かっている”とは言えないです・・無礼千万オユルシヲ(笑))



どうしても子供たちに、



「あれを弾かせよう、これが弾いてもらいたい」



と思われるのですが、非常に危険ですし、子供たちが可愛そうです。



子供もお母さんが喜ぶ顔が観たいし、美味しそうな料理なら作って見たいと思います。



そりゃあ、豪華で美味しそうな料理が食べたいですよね。。誰しも。。



でも、今すぐ食べれる料理と、作れる料理は違います!



段階を踏まなければ、作れるようにはならないのです。



もちろんこの判断は子供にはできません。



その難しさは、勉強した専門家でなければ分かりません。



知識、技術、体力、精神力・・・色々なものが備わらなければ、三ツ星レストランのフルコース料理は出来ませんよね。



お母さん方は、その難しさが分からず、子供たちに要求してしまわれるように感じています。



例え、焼き魚ひとつとってみても、美味しい焼き方・・・いやいや、その前に、食材を選ぶ、道具を揃え、技術を磨く・・・美味しいものを食べれば、心から満足し、また食べたくなります。



まずは目玉焼きや卵焼き、それから茶碗蒸しetc.・・・そうしてお次は、フワッフワのオムレツ・・・少しずつ進めてゆかないと、とりあえずオムレツを作ろうと思って頑張ったんだけど、カチカチであまり美味しくなかったので、心は満足しなかった・・・もう作りたくない、食べたくない・・・そんな状況に陥ります。



子供としても、「オムレツがおいしそうだし、卵焼きよりオムレツが作りたい!」



と言うでしょうが、作ってみたら、思い描いていた料理とは似ても似つかぬものが出来た・・・



このスタンスでレッスンを進めると、心は満足しないまま、煮え切らない料理を作り続けることになります。



学年が上がってゆけば、それなりに時間の制約も多くなります。



これはすべての子に言えることで、誰か特定の子だけヒマ・・・とか、忙しい・・・という事はありませんし、昔からのことです。



今さら始まったことではありません。



そういう時、ちょっと気分を変えて、スウィーツなんか作ってみたらどうかしら?・・とか



小さい時には理解できなかった、微妙で複雑なこの味わい・・・大人に近付いてきたら、味わい深さがなんとなく分かるようになったね。



というような小品を、この時期にこそ弾かれれば良いのです。



テクニックとしてはそれほど頑張らなくても、ちょっと練習したら手が届く・・・しかし幼い子には、人生の複雑な妙味を味わうにはまだ早く、心の面での理解が難しい。。



そういう珠玉の小品を、作曲者は多く残しています。



こういったものに出会える、チャンスの時期でもあるのです。



もっと素晴らしい小品に出会って、心が満足し、音楽する喜びに出会えるのに・・・と、残念に思います。



そういった心からの満足の気持ちこそが、心を大きく成長させてくれるのです。



「指」ではなく「心」が動いていなければ。。



ここが分からないまま終了してしまうのは、ピアノ教師としては残念な思いです。



“食べて好きな料理”と、今すぐ実際に“作れる料理”は、初めから一致はしません。



少しずつ“育てる”ものなのです。



ご父兄の中で、全くの“0・ゼロ”からピアノをスタートさせ、もう5年近くも継続されていらっしゃる方がありますが、本当の意味で、楽譜をよみ、解釈し、体をどう使って響かせリズムを感じるか・・・ピアノを弾くという事はどういう事か、徐々にその奥深さ、難しさ、そして“喜び”を理解されてきているようです。



自分が弾く前は、子供たちはちゃんとマジメに練習すれば、単に指が動き弾けるものだと思っていたが、そんなものじゃないのですね。。と仰っています。



文章と同じで、音の言葉がどう連なっているのかを理解できないと、何をやっているのか全然分かっていない演奏になります。



意味の解らないフランス語やドイツ語のマンガを与えられても、面白くないのは当然です。



何時間もワケのワカラナイABCを唱えても、不毛ですし、何より可愛そうです。



そして、誰もが三ツ星レストランのシェフなんか目指さなくても良いのです。



舌の肥えた人が増えれば、良い“文化”は残ります。



行列ができるお店だと聞かされて、並んで食べてはみたものの、本当にそうだったかなぁ?・・・とか、見た目の盛り付けばかりゴージャスで、肝心の味はどうだろう?



ここのレストランは、小さくて無名だけど、なかなかいいぞ!・・・とか、音楽で言ったら良い聴衆になるのです。



そうすれば、“ウワサ”に惑わされることなく、しっかり自分の耳で判断できる人になれます。



ニセベートーヴェンとかね・・・いろいろありました・・・食材でも“偽装”だらけです。



“ホンモノ”が見分けられず、聴き分けられない“悲しさ”です。



ちょっとしたアイディアを、街のレストランからもらい、家で試してみて、家族が喜ぶ料理が作れるようになる。



そんなことを目指しています。



その中で、たまたま“街の小さなレストラン”を開店する子もいるでしょうし、ごくまれに、“不良債権”を覚悟の上で“三ツ星レストランのシェフ”を目指す子もいるかも知れません。



でも、基本的には、家庭の中や友達同士で、「美味しいね」と言って食べられる料理を作れればよいのです。



子供たちの幸せって何でしょうね?



私たち“大人世代”がいなくなっても、ちゃんと自分の力で考えて、澄んだ目と耳を持ち、両足でしっかりと大地を踏みしめて立てる子を育てる。



他の誰かになるわけではないのです。



その子はその人にしかなりません。



その人以外の誰でもない。



その人らしく育てる。



子供はオモチャでもフワフワの甘いお菓子でもありません。



ユーモアとたくましさを持って、冬の寒さにも耐えて、毎年春になれば、美しい新芽を出せる、“大樹”に育てたいものです。



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