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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴 室町幕府の「政所伊勢氏」と越中砺波郡の「伊勢領」・「小伊勢領」⇒「伊勢神宮領」か、「伊勢氏領」か?

2021-02-15 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「室町幕府第三代将軍足利義満」は富山県西部に拡がった広大な「越中五位庄」を室町幕府の軍俵を賄う「室町幕府御粮所」とした。その後、「足利義満」は、妻の「日野業子」の菩提を弔う為に自らが創建した「足利一族菩提寺相国寺《※「金閣寺」(塔頭金閣舎利殿)》の庄園として寄進した。
この「五位庄」は南北朝時代迄、「上皇・天皇」の庄園「越中吉岡庄」と呼ばれた。









■「越中守護」、「室町幕府管領」を勤めた足利一門の「畠山氏」は、本拠地を大阪府羽曳野市とした事から、羽曳野市には「畠山文書」が遺されている。畠山一門の跡目相続を巡って能登畠山氏を巻き込んだ越中守護畠山氏は「応仁の乱」に突入した。越中には「畠山氏」の文書が少ない為、中世の歴史研究が進んでいない。




■室町幕府政所伊勢氏は越中蜷川氏の縁者として政所代の蜷川氏と共に室町幕府の実務を担ったとされる。伊勢氏は徳川政権でも礼法や有職故実等を伝えた名門とされる。



■「越中蜷川氏」と「桓武平氏伊勢氏」 ⇒「平正度」の子の「季衡」は「伊勢氏」を名乗り、鎌倉時代から幕府要職に着き、南北朝時代には「政所執事」と成って、室町時代の足利政権では歴代将軍の養育係を勤めて、勢力を拡大して室町幕府政所の要職に着いた。



■「三代将軍足利義満」は、母方の縁者の「越中蜷川氏」を重用して、「蜷川氏」と「伊勢氏」は婚姻して 、「政所 伊勢氏」、「政所代 蜷川氏」として幕府の実権を握った。
「越中蜷川系図」には、「越中蜷川氏」は富山市蜷川郷に「蜷川城」を構えて、「新川郡」と「砺波郡」を統治したとされる。












■富山県内には「伊勢領」と称する地域が上新川郡下条村と高岡市戸出近くに「伊勢領」が在り、福岡町にはその飛び地として「小伊勢領」が在る。この二地点は「角川日本地名大辞典」では「越中志徴」の説明を採用して「伊勢神宮の庄園の御厨ではないか?」としている。しかし、この説明には根拠となる古文書等も示されておらず、推測でしか無い。
福岡町に、世界的に進出している養鶏業の「伊勢氏」が住まいされている。この系統は明らかでは無いが、室町時代に「足利義満」の近臣として実務を司った「政所 伊勢氏」と「政所代 蜷川氏」が居たが、この二氏は相互に縁組を行い親族として動いている。「蜷川系図」によると、蜷川氏は魚津から富山市迄拡がって居た「祇園社領」を元々、治めて居たとされ、足利義満が「越中五位庄」を義満が創建した「相国寺」(※「鹿苑寺金閣」)の庄園として寄進した頃から、「越中蜷川氏」が砺波郡の統治に乗り出したと見られる。








■ここで、考えられるのは、「伊勢領」と言うのは果たして「伊勢神宮御厨」の事なのかと言う疑問が出る。確かに福岡町には「伊勢神道」の「三乃神社」が在り、『神明宮』を祭っている。富山県内の「伊勢領」と呼ばれる場所は二ヶ所有るが、その場所は「越中蜷川氏」が統治した「新川郡」と「砺波郡」に在り、「蜷川氏」と密接な地域で在る。とすれば、この「伊勢領」と言うのは果たして「伊勢神宮」の庄園だったのだろうか?

■世の郷土史家は「越中志徴」を郷土史のバイブルとするが、「加賀藩時代の歴史」は、具体的な古文書を指摘する事もなくて推測で記載されている部分が多い。加賀藩時代には「越中吉岡庄」を「富山市吉岡村」としたり、あの有名な「義経記」が「五位庄」の事とされているが、「富田景周」は「如意の城」を「二上庄」の「伏木の古国府城」の事だとし、その根拠として近くに「守護町」が在る事を挙げている。その為に、「如意の渡し」とは小矢部川の伏木河口に在る「六渡寺村と対岸を繋ぐ渡し場の事」と決めつけた。しかし、この「守護町」は室町時代に斯波氏が放生津城が使えなかった為に、一時期、守護町に舘を建てたとされ、その期間は斯波氏が桃井氏と代わって福井に移る迄の僅かの期間だとされ、「義経記」の時代の鎌倉時代の事では無く、室町時代の事で在る。ただ、「義経記」自体が室町時代に書かれたとされる事から、実際には「五位庄」とされる部分は「越中吉岡庄」の事で在る。「義経記」の「小学館版」、「岩波文庫版」等の解説では、「如意の城」は「五位の城」の事だとされており、この「五位の城」とは「赤丸浅井城」の事を指している。
赤丸村は上杉謙信が能登畠山氏を攻めた時に「石動山」一帯を焼き討ちしており、前田利家が「石動山」を攻撃した時にも一帯は焦土と化して、近隣の寺社は全て焼かれ、全山、婦女子も含めて殺戮されてその首が山門に一千数百も吊るされたと言う。
「延喜式内社赤丸浅井神社」もこの時に焼かれたと伝わり、前田利家と能登末森城で戦った佐々成政軍の「赤丸浅井城」は焼かれて破却されており、加賀藩としてはこの「浅井城」が由緒在る城として認める事が出来なかったものと見られる。従って、現在も高岡市が信奉する様に、「前田利長」を持ち上げる為には、加賀藩士富田景周も何としても「赤丸村の歴史」を残したく無いと言う背景が在ったものだ。


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