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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🔹🔹『越中吉岡庄領主藤原頼長』の配下の「加賀林氏」⇒林氏の同族「越中石黒氏」の居城「吉岡庄浅井城」(※富山県高岡市赤丸村)!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸







■「越中石黒氏」の石黒光久の義兄(妻の兄、貞光の息子)の林光家の時に、勢力を蓄えた林氏は石川県の白山宮を勢力下にしようとして白山宮と対立し、白山宮は延暦寺より訴えて、光家は捕縛された。父の貞光は国府の出先の徴税吏だったが、光家の代では領主となり、武士団を養い、政権実力者に近づき護衛役として五位に任ぜられていたと云う。
圧迫された農民は当時、比叡山延暦寺の影響下に在った白山宮に救いを求めた。林光家は藤原一族として長者の藤原頼長を頼りにしたが、一旦は捕縛された。しかし、当時、悪佐府(左大臣)と云われて絶対的な権力を恣(ホシイママ)にしていた藤原頼長の力で鳥羽法王は恩赦として解放した。ところが収まらない延暦寺は解放の20日後には連日強訴を行い、恐れた鳥羽法王は再び逮捕をした。この事件は1154年だが、林光家は獄死し、保元元年(1156年)には冷徹な権力者と恐れられた越中吉岡荘、能登一青荘(ヒトトソウ)の領主の藤原頼長が崇徳上皇と共に「保元の乱」を起こし、頼長は流れ矢に当たり死亡した。





■【藤原北家魚名流】の北陸統治
「藤原頼長」は藤原氏の四流の内で、一条天皇の叔父に当たる「藤原道長」の子孫に成り、藤原摂関家を独占した。道長の子孫の「藤原忠実」の子供に、「藤原忠通」と「藤原頼長」が在ったが、嫡男の忠通と妾腹の頼長は激しく争い、遂には「後白河天皇」と「崇徳上皇」の争いで在った「保元の乱」が勃発して、忠通は後白河天皇、頼長は崇徳上皇側で争った。結果は、後白河天皇、藤原忠通側が勝利して崇徳上皇は讃岐に流され、頼長は殺害された。
「加賀の林、富樫」の流れは、この「藤原北家」に属して「魚名流時長子孫」で在る。
この藤原時長の子供に有名な藤原利仁将軍がいる。越中石黒氏もこの藤原利仁将軍の末裔と伝えられる。正に「藤原頼長」が「藤原氏長者、藤原氏魚名流頭領、左大臣」として権力の絶頂に在った時に、加賀の林光家の解放に頼長が動いた事になる。
越中の「吉岡庄」、能登の「一青庄」は、「藤原頼長」の個人庄園で在ったが、恐らくは能登は「加賀林氏」に治めさせ、越中は林一族と縁組していた藤原氏の「越中石黒氏」に統治させていたと見られる。藤原頼長の個人庄園の成り立ちに付いては明らかでは無いが、父の忠実から譲られた「奥州の頼長の庄園五庄」は奥州藤原氏が統治していた事から、能登、越中の庄園は、石黒氏や林氏が、同族の長老の「藤原氏長者藤原頼長」に寄進した庄園で在った可能性が高い。

■「越中吉岡庄」は何時、どうして「藤原頼長」の庄園に成ったのかは不明だが、「保元の乱」の後に「後白河上皇」に没官された頼長の庄園29庄に含まれる事から、藤原摂関家伝来の庄園では無かった様だ。摂関家の庄園は兄の「藤原忠通」に引き継がれており、吉岡庄は頼長の個人庄園だったと見られる。「藤原頼長」は奥州に父の「藤原忠実」から譲られた五ヶ所の庄園を持ち、平泉の藤原氏に庄園を管理させて金、馬、布等の収穫物を都の頼長に送らせていた。頼長は全国の藤原氏の頂点に立った「藤原氏長者」で在り、その権力は絶大で、その冷徹な性格から「悪左府」と恐れられた。越中石黒氏は古くから砺波郡赤丸の「浅井城」を居城にしたと伝わり、石黒氏も藤原一族だった事から、当然、頼長の支配下に在った。従って、この「越中吉岡庄」は石黒氏から寄進された庄園だった可能性が高い。

(※「赤丸浅井神社」の社伝に「一条天皇は川原左京を蝗害(イナゴのガイ)除去の願いの為に赤丸浅井神社に派遣された。その時に植えられたお手植えの日本の桜木は昭和前年迄、浅井神社前に残っており、之を勅使桜と呼んだ。」と記載されており、一条天皇の時の左京大夫は一条天皇の叔父に当たり、後に藤原氏全盛時代を築いた『藤原道長』である。古くから、吉岡庄と藤原氏が深い関係に在ったものと見られる。)
(※「左京大夫」;京都の左側を管轄した役人で大夫は五位の官職)













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