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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🌙【末森記】 ⇒【能登末森城の戦い】「織田信雄」を推した「佐々成政」と「豊臣秀吉」を推した「前田利家」の激闘!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸














■「佐々成政」は尾張比良城に生まれた。すぐ近くには「越中石黒氏の末裔」の「長谷川氏」の居城の「如意城跡」が在る。

■「佐々成政」は主家の織田家の後継として「織田信雄」を支援して、徳川家康に支援を求めて 冬の立山を横断して徳川家康に会いに向かった。それを知った前田利家は先行して石川と富山県境の 「松根城」を補強し、近くに「朝日山城」を築いた。当初、成政が計画していた朝日山城は内通者が利家に通報して、利家が先に築城したもので、前田利家と佐々成政はお互いに諜報活動を繰返し、利家は津幡に鳥越城を築き、成政は倶利伽羅山に砦を築いた。先ず、成政軍が圧倒して鳥越城を攻めとり、次いで利家は報復の為に小矢部市の民間の蓮沼の大寺に火を掛けて婦女子を交えた300人ばかり全員を惨殺し、ことごとく周辺の民家に火を掛けて廻った。
末森城の戦いは膠着状態だったが、前田利家は氷見阿尾城に押し寄せて城主菊池伊豆守、十六郎に前田利家に内応する事を促した。佐々勢の守山城神保氏張、子息清十郎は反逆した氷見の菊池氏との間で戦闘を行った。
(※この時に前田利家は菊池氏に対して「赤丸事は治部佐衛門と打ち合わすべし」として裏切れば赤丸村を与えるので、家臣の富田治部佐衛門と打ち合わせるべしと書簡を遣わして菊池氏の翻意を促している。→※「越中志徴」)
この間に、前田利家から末森の戦況を聞いた豊臣秀吉は人質の佐々成政の四才の娘を磔にして成政に脅しを掛けている。その上で、加賀に出陣した秀吉は佐々勢に対して総攻撃に入ろうとしたが、織田信雄からの助命を受けて「出家するなら、墨染の衣で陣に来て侘びよ。さすれば、新川一郡を与えてその身はお構い無し」と成政に通告する。秀吉は富山市の呉羽山に本陣を構えて、出城の「安田城」を築いた。成政は秀吉の通告を受けて、一戦も戦わずして墨染の衣に身を包み、嘲笑する豊臣軍の雑兵の中を歩いて秀吉の陣に向かったと云う。




■「成政の小百合伝説」
佐々成政は新川一郡を与えられたが、後に肥後に転封となる。成政は予て知り合いの秀吉の妻「ねね」に越中富山の立山に咲く珍しい「黒ユリの花」を届けた。周辺は、成政に反逆の兆し在りと噂して、秀吉も黒ユリは不吉として、成政の知行地の一揆対応を口実に成政に切腹を命じた。予て、成政は愛妾小百合が不義密通を働いたとして木に吊るして「鮟鱇切り」と言われる切り方で惨殺したと噂された。近年、成政研究者の中には「之は前田利家が成政の悪逆非道を吹聴する為にバラ撒いたウワサで在り、真実は地元民に[神]として祭られる程、成政は善政を敷いた」とする評価も在る。

■成政に唯一人随行した「元高岡守山城城主神保氏張」は流浪して、予て成政に共感していた徳川家康に仕官して徳川の旗本としてその生涯を終えている。



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