●『高岡絵図』(金沢市立玉川図書館)天保6年⇒この絵図では、総持寺と槌宮が一つの敷地になっている。

■現在、高岡市街地に在る「総持寺」、「槌宮」、「天景寺」は元々、越中五位庄赤丸村舞谷に在ったが、「延喜式内社赤丸浅井神社前に屋敷を構えた池田市エ門の先祖が土地を寄進して移転した」と赤丸浅井神社に伝えられている。池田市エ門家は赤丸村の肝煎を勤めていたが、加賀藩から所払いになり、国吉村に動き、その後継は弟の(奥田)五右衛門が継いだ。この一族は氷見池田、高岡市池田、小矢部市今石動(※旧池田)や赤丸城下の池田島(※総持寺、天景寺、宇多刀工の工房、槌宮の旧地)を所有して居たと云う。
(※「治承、寿永の内乱論序説」、「杉野家文書」、「石堤村史」、「ある贋作物語」)

■歴代に亘って「赤丸浅井神社前に屋敷を構えた池田家」は、代々、高岡市関町の「門徒総代」を勤めた「大壇那」で在った。高岡市関町の「総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音像」の胎内には、「後鳥羽上皇」の法名の【金剛位理卿】が記名されており、この仏像は「承久の乱」で、「北條氏」によって「隠岐の島」へ流罪にされ、終生本土へ帰れ無かった悲運の「越中吉岡庄の領主後鳥羽上皇」の「祈願仏」で在り、その製作は「慶派仏師の幸賀、頼真」の手に拠る。歴代の天皇は、「後鳥羽上皇」の怨霊を恐れ、鎮魂の為の「勅使」を送り、各地に建てた鎮魂施設に「幣帛」を捧げている。

■「天景寺」は元々、「瑞龍寺」の現在地に在ったが前田家に接収されて現在地に動いた。この絵図によると、当初の瑞龍寺敷地はもっと広大だったが、明治維新の後、前田家の支援が途絶えた瑞龍寺は困窮して相当の敷地を売却して凌いだと伝えられている。
瑞龍寺隣接地には神主町があり、ここに元々「関宮」が在ったと記載されている。
■「池田氏」は古代氏族の「紀氏系図」に見える。氷見の「阿怒荘」は、代々、紀氏に伝領しており、足利義満の母「紀良子」は亡くなる直前に一族に継がせている。「紀氏」は「石黒氏の祖の利波臣」と同じ「武内宿弥」の子孫の「蘇我氏」から出たとされる。
「赤丸浅井神社」を創建されたと伝わる「石川朝臣広成」は聖武天皇の弟で、母が蘇我氏で在った。その神社を守る様に浅井神社の門前には現在も池田氏末裔の奥田、池田、桜木家が取り囲んで住まいされている。
又、浅井神社の奥宮の後の神域には赤丸に住む「石川一族」の墓だけが神官以外では唯一、遺されている。
(※蘇我氏は中大兄皇子に入鹿、蝦夷が誅殺された後は「石川氏」を名乗っている。)


■南北朝時代から江戸時代迄続いたとされる「越中刀工 宇多氏」は、大和国宇陀郡から「越中吉岡庄(赤丸村鍛治屋町島)」に移り住み、多くの名刀を鍛えた。「荒木又右衛門」が鍵屋の辻で決闘した時の刀は、宇多刀工の初代「宇多国光」で在った。(※荒木又右衛門記念館)
🔽現在、「高岡市関町」に在る【槌の宮】は、赤丸村鍛治屋町島から動いたとされる「刀鍛治 宇多」の氏宮とされる。
■「越中吉岡庄」と呼ばれた「皇室庄園」の赤丸村は、「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園から、「後白河上皇」~「後鳥羽上皇」、「後醍醐天皇」と続いた。その後は、「足利義満」によって室町幕府直轄庄園と成ったが、その間には、「保元の乱」、「平治の乱」、「承久の乱」、「南北朝の戦乱」等の大乱に巻き込まれ、その後も「応仁の大乱」や引き続く「戦国時代」の騒乱に巻き込まれて、絶えず「武器生産」が必要な地域で在った。その為に、南北朝時代に大和国宇陀郡から赤丸村へ移り住んだ大和伝「宇多刀工」が栄え、「吉岡庄」、「五位庄」として続いた「赤丸村の、「浅井城」に隣接地する「鍛治屋町島」と云う地域を中心として、「富山市、「舟橋村」、「射水市」、「小矢部市、「福野町」、「福光町」等の富山県西部に繁栄し、「江戸時代」迄、富山県西部や石川県、飛騨市等にその流派が拡がったと云う。
(※宇多刀工が栄えた「鍛治屋町島」の付近一帯には、「倶利伽羅山の源平合戦」に「木曽義仲」を誘導したと云う「池田次郎」の末裔とされる「池田氏」が所有した「池田島」が拡がっている。)➡「治承、寿永の内乱論序説」浅香年木著
🔽「宇多の刀」は、「諸大名」や近江国吉を出自とする宇多源氏高島流の「豊臣秀吉」等に愛好され、多くの諸大名の「恩賞」としても贈られた。《※「重修真書太閤記(太閤遺品帳)」》
特に「宇多刀」は、他の地域の刀と異なり、黒く光る地金が特徴で、「戦国武将」や多くの剣士達に愛好された。現在も「富山県文化財」には多くの「宇多刀」が指定されている。

🔽「富山県高岡市福岡町赤丸」に保存される「宇多」の太刀
「在銘 宇多国光の太刀」

🔽南北朝時代の太刀「無銘 古宇多」(※重要保存刀 鑑定書)


南北朝時代に「南朝側」で戦った武将で、「近江宇多源氏」の「宇多氏」は数々の戦に「宇多」の名前が見られ、後醍醐天皇側の伊勢国司「北畠親房」の支配地域の「大和国宇多郡」から、「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」へ移り住んだ。