■「衆徳山総持寺 国指定重要文化財 木造千手観音座像」(高岡市関町)

■胎内には「金剛位理乗 本願聖人」と記される。「金剛位理」は『後鳥羽上皇の法名』、『乗』は真言宗衆徒(※金剛乗教)、『本願聖人』は祈願者を示す。




■「国宝指定概説 昭和12年告示」には「元、赤丸村に在った」と記されている。

■「赤丸村」は富山県西部に在り、「白河上皇」の時に京都の上賀茂神社の庄園としてに寄進され、その後、藤原摂関家の庄園と成った「越中吉岡庄」の村で、南北朝時代末期からは「五位庄」に改名された。(※「宝永誌」)
『保元の乱』で「藤原頼長」の庄園が没収され、『後白河上皇』、『後鳥羽上皇』~『後醍醐天皇』迄「上皇の庄園」の[後院領]として皇室に伝来した。この「千手観音像」は南北朝の騒乱の時に、南朝の行宮て在った「河内金剛寺」から「後醍醐天皇」の庄園で在った「越中吉岡庄」の「総持寺」に伝来した。胎内には「奉納 仏舎利」と二ヵ所に記載され、空海ゆかりの東寺の「仏舎利」が施入されたと見られる。(※この観音像の細部調査は未了)



■胎内には「金剛位理乗 本願聖人」と記される。「金剛位理」は『後鳥羽上皇の法名』、『乗』は真言宗衆徒(※金剛乗教)、『本願聖人』は祈願者を示す。




■「国宝指定概説 昭和12年告示」には「元、赤丸村に在った」と記されている。

■「赤丸村」は富山県西部に在り、「白河上皇」の時に京都の上賀茂神社の庄園としてに寄進され、その後、藤原摂関家の庄園と成った「越中吉岡庄」の村で、南北朝時代末期からは「五位庄」に改名された。(※「宝永誌」)
『保元の乱』で「藤原頼長」の庄園が没収され、『後白河上皇』、『後鳥羽上皇』~『後醍醐天皇』迄「上皇の庄園」の[後院領]として皇室に伝来した。この「千手観音像」は南北朝の騒乱の時に、南朝の行宮て在った「河内金剛寺」から「後醍醐天皇」の庄園で在った「越中吉岡庄」の「総持寺」に伝来した。胎内には「奉納 仏舎利」と二ヵ所に記載され、空海ゆかりの東寺の「仏舎利」が施入されたと見られる。(※この観音像の細部調査は未了)

