赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🎌【赤丸浅井城】「越中国赤丸村」の「元正天皇二宮」の伝承と「利波臣志留志」の末裔「越中石黒氏」の出自 !!

2021-04-14 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■【赤丸浅井城】の鎮守社【延喜式内社 五位庄53ヶ村総社 赤丸浅井神社由緒】






「赤丸浅井神社」は「皇室八神の内の高御産日神(高皇産霊神)」を祭神としている。




■「肯構泉達録」に記載される【赤丸浅井城】⇒「元正天皇二宮の在城」


■「越中勤王史」に見られる「赤丸浅井城の石黒氏」、「上杉謙信家臣の浄土真宗坊官下間和泉」




■「福井県史通史編」掲載の「利波臣」の系統図


■「古事記」では、「孝霊天皇」の子孫に「高志利波臣」が見える。




■石黒氏の祖の「利波臣志留志」は池田氏の祖の紀氏等と同じ「武内宿祢」を祖とすると云われ、「武内宿祢」は「蘇我氏」の先祖である。蘇我入鹿は中大兄皇子と藤原氏の祖の中臣氏の鎌足に殺され、一族の蘇我倉山田石川麻呂も自害させられて一挙に古代豪族の蘇我氏は凋落する。その後、蘇我氏は「蘇我」では無く「石川朝臣」を名乗るようになる。
では、何故石黒氏が「藤原氏」を名乗ったか? 石黒氏は後になって藤原氏一族の加賀林氏の系統の林氏と縁組し、途中から「藤原氏」を名乗っている。(※石黒氏系図)  



「武内宿祢」の末裔は射水臣や加賀の江沼臣等として古い時代の「高志国」に広範囲に栄えていた。
「赤丸浅井神社」を開いた「石川朝臣広成」は、文武天皇と母を石川刀自郎女として生まれた。この神社は、蘇我氏系の利波臣志留志が開発・領有していた礪波郡に開かれた神社であり、赤丸浅井神社は蘇我氏の神社として開かれた可能性が高い。当時の元正天皇の祖母も蘇我氏で有り、母の元明天皇は蘇我氏の娘で有った。藤原不比等の陰謀で母は「嬪」の位を奪われ、広成も臣籍に降下させられたが、「元正天皇」は、絶大な力を持つ藤原不比等から命を守る為に東国33か国を担当させると云う名目で蘇我氏の勢力の砺波臣に保護させたと考えられる。
元正天皇は、717年に美濃に行宮を開き、有名な「養老の滝」を名付けたと伝わる。
「石川朝臣広成」の歌が万葉集に3首掲載されており、740年頃には「内舎人」として「山城国恭仁京」に勤務している。この時期には「大伴家持」も「恭仁京」で「内舎人」の職に有り、その後、「万葉集」を編纂している。
二上射水神社も赤丸浅井神社と同時期の717年に創建されているが、射水臣もやはり蘇我氏と同じ武内宿祢を祖とする。二上射水神社の祭神は「ニニギノミコト」で有り、「赤丸浅井神社」の祭神は「皇室八神の一」で、「大伴氏・佐伯氏の祖先神」の「高皇産霊神」を主神としている。








■紙幣になった武内宿祢像


■利波臣氏は東大寺の大仏造営に際して「米3000碩」(※「続日本紀」⇒「東大寺過去帳」では米五千石寄進とされる。)を寄進して官位を得ているが、その時の天皇は「石川朝臣広成」の兄の「聖武天皇」である。蘇我氏の元明天皇、元正天皇にしてみれば、母を藤原不比等の娘の宮子とする「首皇子」を何としても天皇にしなければならない事情と、弟の「石川朝臣広成」を救う必要とに挟まれて、同族の利波臣に保護させたのではないか?
「大鏡」に拠ると、絶大な権力を振るった「藤原不比人」は、実は「天智天皇」の子供で、母の胎内に居る時に母と共に「藤原鎌足」に下げ渡されたと云う。
利波臣は、藤原氏系の聖武天皇に逆らう事は出来ない為、自らの庄園から大仏造営資金として「米3000碩セキ(=石コク)」を聖武天皇に差し出したと見られる。
「赤丸浅井神社」に山伏信仰を持ち込んだと伝わる「泰澄大師」は、赤丸浅井神社の域内に庵を設けて元正天皇の為に祈祷をしたと云う。
元正天皇は、「首皇子」が幼い為に、母の元明天皇から皇位を譲られたもののあくまでも成長する迄の繋ぎの女帝の天皇で有り、いつ藤原氏の毒牙にかかるかも知れないと云う不安定な状況に有ったと見られる。
赤丸浅井神社の伝承では、「泰澄大師」が赤丸浅井神社で祭器に全て赤丸を記して元正天皇の厄除けを祈ったと伝えられる。
赤丸浅井神社の周辺にはおびただしい古墳が集積し、その地名も「ヤチ」「テラヤチ」という名前で有り、「ヤチ」がアイヌの言葉でこの周辺に住んでいた蝦夷が大和朝廷との戦いに際して使った「赤丸印」が敵に対する懲伏を意味する事から、泰澄大師が「祭器に全て赤丸を記して・・・」という伝承も理由が判る。
しかし、氷見方面から伏木方面、石動方面へと藤原氏の菩提寺の東福寺荘園が広がり、氷見の八代氏が東福寺荘園の管理者として頭角を現し後には能登畠山氏にも食い込んで重役に迄昇進した事から、石黒氏は途中で藤原氏の加賀林氏と縁組して、後に藤原氏を名乗ったと見られる。
北陸の藤原一門の頭領は白山信仰を背景に石川県鶴来町を本拠地として栄えた「加賀林氏」で在り、「保元の乱」以前は、全国の藤原氏を率いた「藤原摂関家長者藤原頼長」が高岡市赤丸村周辺の「越中吉岡庄」等を領有して、全国の「林氏」のトップに在った。「加賀林氏」は白山信仰を背景にした比叡山とのトラブルで捕縛された時にも「藤原摂関家長者藤原頼長」によって助けられたという。「藤原頼長」は奥州藤原氏の上に立ち、奥州の庄園五庄の管理を藤原頼長から命じられていた。(※「加賀林一族」北國新聞刊行)


「越中吉岡庄」は「白河上皇」以来の天皇直轄地で在ったと見られ、白河上皇は「吉岡庄」を「上賀茂神社」へ寄進されたという。藤原氏が庄園管理に携わる中で次第に藤原氏の庄園に組み込まれ、いつしか藤原氏長者の庄園となり、加賀林氏と縁組した石黒氏もその荘園の管理者として生き延びたと考えられる。
(※「越中石黒系図」の中に加賀林一族の「石浦氏」から養子を迎えた様な記載が在る。)

■藤原氏の統治になった時に、藤原氏の祈願寺で有った京都の「鞍馬寺」が分霊され、「赤丸浅井神社」に泰澄が開いた寺に勘請して、『川人山鞍馬寺』としたものと見られる。
≪※京都鞍馬寺は「藤原伊勢人」が開き、英雄の藤原利仁が篤く信仰したと云う。 「越中吉岡庄」の領主が、「保元の乱」以後、藤原氏長者藤原頼長から後白河上皇の庄園に代わり、後白河上皇の皇子が初代聖護院門跡になられた事から、赤丸浅井神社遺さ域内に建てられた『川人山鞍馬寺』は以後、幕末迄、聖護院派山伏としてその後長く続いている。≫


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