■「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」は南北朝時代末期から「五位庄」に改名された。
「吉岡庄」の隣接には「源平盛衰記」で激戦が交わされた「般若野」や「倶利伽羅山」が在り、「吉岡庄」の赤丸村の「浅井城」や「木舟城」は「木曽義仲」に従軍した「越中石黒氏」の居城だった。
●高岡市福岡町赤丸には「源氏の武将の末裔が創建した」とされる「朝日山長善寺」が在り、歴代の住職は「旭」を名乗る。
「旭」と言う珍しい姓を調べると、「朝日将軍」と呼ばれた「木曽義仲」の四男「義宗」が「旭」と号して、その子孫には「山下一族」がいる。「赤丸村」の「浅井城」、「赤丸城」の麓の舞谷村や向野新村には、この「山下」と言う一族が残っている。
■能の「鉢の木」の伝承
→「木曽義仲」の三男「木曽義基」は、後の「佐野氏」の祖とされ、四男「義宗」は後の「旭氏」の祖とされると云う。
・能の「鉢の木」では、ある雪の日に廻国の僧を「佐野源左衛門」が家に泊め、貧乏ながら、丹精を込めて育てた「梅、桜、松の鉢の木」を薪の代りに燃やして暖を取る等して精一杯のもてなしをした。その時に、源左衛門は、自分が一族に佐野庄三十余郷の領土を押収されたことを僧に話した。僧が旅立った後に幕府から動員命令が下り、「佐野源左衛門」も駆け付けた。源左衛門は「執権北条時頼」に召し出され、その時にあの雪の日に泊まった僧が時頼だったことを知る。「北条時頼」は、源左衛門が一族に押収された佐野庄三十余郷を返し与え、さらに家でもてなした時に使った薪の種類に合わせ、「加賀国梅田庄」、「越中国桜井庄」、「上野国松井田庄」の領土と、さらに小田原城を恩賞として与えたと云う。富山県高岡市には高岡市鴨島の外れから高岡市戸出辺り迄拡がっていたと云う「佐野郷」が在り、古くからの湯治場で在った高岡市福岡町西明寺には「西明寺入道時頼の墓」とされる石碑が残っている。
■加賀国大聖寺(※加賀市大聖寺)には、「木曽義仲」の次男が逃れて開いたと云う「慶徳寺」が在る。石川県の「加賀市史」に、【「木曽義仲と山吹御前の次男の義隆(義重の誤りか?)が滋賀県牧野町海津に梅霊山(現在願慶寺)に庵を設け、その五代の孫「教善」が、文明三年に「蓮如上人」と共に加賀市に移って、現在の加賀市大聖寺に在る「慶徳寺」の祖になった】と云う。この加賀市の「大聖寺」は白山五院の1つで在ったと言う古い寺で在ったと云われるが、長野県飯山市にある曹洞宗の寺院にも「木曾義仲の臣、今井兼平の子孫の創建」とされる「大聖寺」が在る。「大聖寺」は全国にも見られる寺院名だが、加賀市と長野県飯山市と言う遠くない地域に、何れも「木曽義仲所縁」の寺院が在った事は注目される。
(※加賀市の願慶寺の開基は「教善」と云い、高岡市の長善寺には「長善」と付き、何れも東本願寺派に所属する。)
現在では、「北条時頼」が「佐野源左衛門」に与えた「加賀国梅田庄」、「越中国桜井庄」がどの地域で在ったかは不明だが、「木曽義仲」の子孫が「佐野氏の祖」と云われる事とも合わせると、「佐野源左衛門」は「木曽義仲」の三男の末裔の「佐野氏」で在り、その為に鎌倉幕府執権の「北条時頼」に対して絶大な接待をしたものか?
(※「越中国桜井庄」は、「越中志徴」等では「新川郡三日市」としているが、「延喜式内社赤丸浅井神社」には、奈良時代から昭和初期迄残っていたとされる二本の桜の大木「勅使桜」が在り、赤丸村領には「宇多刀工」が栄えた「三日市」が在り、赤丸村の古い寺は戦乱で焼かれると高岡市佐野村に移転している。又、この辺りは鎌倉時代は「越中吉岡庄」と言う後白河、後鳥羽上皇の庄園で在り、この「吉岡庄」の中には「西明寺入道北条時頼」の名をつけた「西明寺村」が在り、現在もそこには「西明寺塚」が遺されている。)
■この佐野氏が与えられた「越中国」には「長善寺」が在り、「加賀国」には教善が開いた「慶徳寺」が在り、何れも「木曽義仲所縁の寺」と見られる寺院で在る。しかも、「四男の木曽義宗」の母親は「巴御前」とも言われ、「巴御前」は老いた後に「越中国福光に移り住んだ」とも云われる事から、何れも「富山県西礪波郡」に在る「赤丸村」と「福光町」に絡んでいる事から、この赤丸村の「長善寺」を「木曽義仲の末裔」が創建したと云う事は有り得る事だ。
現在も、赤丸村には「山下」、「今井」、「宮崎」、「城」、「越後」等の「源平盛衰記」に登場する一族が残っており、赤丸村の「浅井城」、福光の「福光城」、福岡町木舟「木舟城」は「源平盛衰記」に登場する「越中石黒氏」の居城で在ったと伝えられる。(※「赤丸名勝誌」)
【※「今井兼平」は、平安時代末期の武将で、正式には「中原兼平」で、父は「中原兼遠」で、「木曾義仲」の乳母の子で在り、「木曽義仲四天王」の一人とされ、兄に「樋口兼光」、弟に「今井兼光」、妹に「巴御前」が居り、信濃国今井の地を領して今井を称した。「木曽義仲」の乳母の子として義仲と共に育ち、兄の「樋口兼光」と共に側近として仕えた。源平の戦いと成った「治承・寿永の乱」では、治承4年(1180年)に義仲の挙兵に従って、養和元年(1181年)5月、横田河原の戦いで平家の主力の「城 助職」を破り、寿永2年(1183年)には「越中般若野の戦い」・「越中倶利伽羅峠の戦い」・「加賀篠原の戦い」で平氏軍を破って、7月に平氏が都落ちした京都に義仲と共に入京した。10月には「福隆寺縄手の戦い」で「妹尾兼康」を破り、11月に「後白河法皇」と「木曽義仲」が対立した「法住寺合戦」で「今井兼平・今井兼光」兄弟の活躍が著しかった。元暦元年(1184年)正月20日、鎌倉軍に追われ敗走する「木曽義仲」に従って「粟津の戦い」で討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年は33才と言う。 (Wikipedia等参照)】
「吉岡庄」の隣接には「源平盛衰記」で激戦が交わされた「般若野」や「倶利伽羅山」が在り、「吉岡庄」の赤丸村の「浅井城」や「木舟城」は「木曽義仲」に従軍した「越中石黒氏」の居城だった。
●高岡市福岡町赤丸には「源氏の武将の末裔が創建した」とされる「朝日山長善寺」が在り、歴代の住職は「旭」を名乗る。
「旭」と言う珍しい姓を調べると、「朝日将軍」と呼ばれた「木曽義仲」の四男「義宗」が「旭」と号して、その子孫には「山下一族」がいる。「赤丸村」の「浅井城」、「赤丸城」の麓の舞谷村や向野新村には、この「山下」と言う一族が残っている。
■能の「鉢の木」の伝承
→「木曽義仲」の三男「木曽義基」は、後の「佐野氏」の祖とされ、四男「義宗」は後の「旭氏」の祖とされると云う。
・能の「鉢の木」では、ある雪の日に廻国の僧を「佐野源左衛門」が家に泊め、貧乏ながら、丹精を込めて育てた「梅、桜、松の鉢の木」を薪の代りに燃やして暖を取る等して精一杯のもてなしをした。その時に、源左衛門は、自分が一族に佐野庄三十余郷の領土を押収されたことを僧に話した。僧が旅立った後に幕府から動員命令が下り、「佐野源左衛門」も駆け付けた。源左衛門は「執権北条時頼」に召し出され、その時にあの雪の日に泊まった僧が時頼だったことを知る。「北条時頼」は、源左衛門が一族に押収された佐野庄三十余郷を返し与え、さらに家でもてなした時に使った薪の種類に合わせ、「加賀国梅田庄」、「越中国桜井庄」、「上野国松井田庄」の領土と、さらに小田原城を恩賞として与えたと云う。富山県高岡市には高岡市鴨島の外れから高岡市戸出辺り迄拡がっていたと云う「佐野郷」が在り、古くからの湯治場で在った高岡市福岡町西明寺には「西明寺入道時頼の墓」とされる石碑が残っている。
■加賀国大聖寺(※加賀市大聖寺)には、「木曽義仲」の次男が逃れて開いたと云う「慶徳寺」が在る。石川県の「加賀市史」に、【「木曽義仲と山吹御前の次男の義隆(義重の誤りか?)が滋賀県牧野町海津に梅霊山(現在願慶寺)に庵を設け、その五代の孫「教善」が、文明三年に「蓮如上人」と共に加賀市に移って、現在の加賀市大聖寺に在る「慶徳寺」の祖になった】と云う。この加賀市の「大聖寺」は白山五院の1つで在ったと言う古い寺で在ったと云われるが、長野県飯山市にある曹洞宗の寺院にも「木曾義仲の臣、今井兼平の子孫の創建」とされる「大聖寺」が在る。「大聖寺」は全国にも見られる寺院名だが、加賀市と長野県飯山市と言う遠くない地域に、何れも「木曽義仲所縁」の寺院が在った事は注目される。
(※加賀市の願慶寺の開基は「教善」と云い、高岡市の長善寺には「長善」と付き、何れも東本願寺派に所属する。)
現在では、「北条時頼」が「佐野源左衛門」に与えた「加賀国梅田庄」、「越中国桜井庄」がどの地域で在ったかは不明だが、「木曽義仲」の子孫が「佐野氏の祖」と云われる事とも合わせると、「佐野源左衛門」は「木曽義仲」の三男の末裔の「佐野氏」で在り、その為に鎌倉幕府執権の「北条時頼」に対して絶大な接待をしたものか?
(※「越中国桜井庄」は、「越中志徴」等では「新川郡三日市」としているが、「延喜式内社赤丸浅井神社」には、奈良時代から昭和初期迄残っていたとされる二本の桜の大木「勅使桜」が在り、赤丸村領には「宇多刀工」が栄えた「三日市」が在り、赤丸村の古い寺は戦乱で焼かれると高岡市佐野村に移転している。又、この辺りは鎌倉時代は「越中吉岡庄」と言う後白河、後鳥羽上皇の庄園で在り、この「吉岡庄」の中には「西明寺入道北条時頼」の名をつけた「西明寺村」が在り、現在もそこには「西明寺塚」が遺されている。)
■この佐野氏が与えられた「越中国」には「長善寺」が在り、「加賀国」には教善が開いた「慶徳寺」が在り、何れも「木曽義仲所縁の寺」と見られる寺院で在る。しかも、「四男の木曽義宗」の母親は「巴御前」とも言われ、「巴御前」は老いた後に「越中国福光に移り住んだ」とも云われる事から、何れも「富山県西礪波郡」に在る「赤丸村」と「福光町」に絡んでいる事から、この赤丸村の「長善寺」を「木曽義仲の末裔」が創建したと云う事は有り得る事だ。
現在も、赤丸村には「山下」、「今井」、「宮崎」、「城」、「越後」等の「源平盛衰記」に登場する一族が残っており、赤丸村の「浅井城」、福光の「福光城」、福岡町木舟「木舟城」は「源平盛衰記」に登場する「越中石黒氏」の居城で在ったと伝えられる。(※「赤丸名勝誌」)
【※「今井兼平」は、平安時代末期の武将で、正式には「中原兼平」で、父は「中原兼遠」で、「木曾義仲」の乳母の子で在り、「木曽義仲四天王」の一人とされ、兄に「樋口兼光」、弟に「今井兼光」、妹に「巴御前」が居り、信濃国今井の地を領して今井を称した。「木曽義仲」の乳母の子として義仲と共に育ち、兄の「樋口兼光」と共に側近として仕えた。源平の戦いと成った「治承・寿永の乱」では、治承4年(1180年)に義仲の挙兵に従って、養和元年(1181年)5月、横田河原の戦いで平家の主力の「城 助職」を破り、寿永2年(1183年)には「越中般若野の戦い」・「越中倶利伽羅峠の戦い」・「加賀篠原の戦い」で平氏軍を破って、7月に平氏が都落ちした京都に義仲と共に入京した。10月には「福隆寺縄手の戦い」で「妹尾兼康」を破り、11月に「後白河法皇」と「木曽義仲」が対立した「法住寺合戦」で「今井兼平・今井兼光」兄弟の活躍が著しかった。元暦元年(1184年)正月20日、鎌倉軍に追われ敗走する「木曽義仲」に従って「粟津の戦い」で討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年は33才と言う。 (Wikipedia等参照)】