赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷💢 【真実の加賀藩の歴史】 ⇒【本当の高岡命名由来】は加賀藩主にも伝えられた『三壷記』に記載されている。⇒ 『高岡市の歴史』に真実は有るのか?

2021-02-09 | 富山県高岡市
■高岡市が広報している【高岡命名の由来】



■「高岡」命名については、佐々成政の末森城攻撃について前田家に知らせ、倶利伽羅「長楽寺」、金沢「金沢寺」、高岡「総持寺」、富山「富山寺」の住職になった福野「安居寺」の修行僧「秀雅」が名付けたとか、前田家の御伽衆「岡本三休」が提言したとか諸説がある。
しかし、高岡市は前田家の家臣が唱えたで有ろう「前田利長が命名した」とする都市伝説を、高岡市の正式の公告に使用している。
教育委員会に確認した所、根拠になる古文書も発見されていないと云う。只、有るのは総持寺の住職がその由緒で語った言葉を引用した「高岡史料」の記載だけで有る。(※「高岡史料」でもその他の異論についても触れている。)しかも、この古文書自体も何処に有るのか回答は無かった。

⇒▼しかし、加賀藩主にも伝えられていた『加賀藩史料 三壷聞書』には、その根拠や命名の時期について明確に記載されている。


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🔳加賀藩記録【三壷聞書】に記載される「高岡城の地鎮祭・高岡命名の由来」!!



★ここには【「関野」を改めて「高岡」と申す】と 記載されており、藩主の「利長」が「申す」と表現するのは考えられない。この表現では、【地鎮祭を行った二法印が利長に対して「申し上げた」】と云う意味と見られる。

■【三壷聞書 】(※森田柿園所蔵・14巻本・巻六)には、『加州利長公御隠居之事』として「高岡城地鎮祭は福井より呼んだ波着寺法印と明王院法童(※愛宕法印)の二人が執り行い、この時に関野を高岡と名付けた」と記載されている。
(※ここには、現在、高岡市が高岡市の命名由来について、【詩経の「鳳凰鳴けり高き岡に」から高岡市関町の総持寺住職が利長に「高岡」と提案した】と説明している内容は何処にも出て来ない。)

▼金沢市小立野の前田利常の妻「珠姫」の菩提寺「天徳院」近くの【波着寺】













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■【高岡山コーコーサン】は元々、『総持寺』(※高岡市関町)の山号で在ったが、瑞龍寺建立の時に加賀藩に取り上げられて「瑞龍寺」を「高岡山瑞龍寺」と名付けたと「富山県大百科辞典」(※富山新聞社)には記載される。



■近年では、衛星測量の技術が進歩して誰でも手軽にその地域の「標高」が確認できる。国土交通省やGoogle、マピオン等でも簡単に測定値を知る事ができる。
富山新聞社が刊行した「富山県大百科辞典」には、「高岡は元々の総持寺の山号を取り上げたもの」と記載されている。
封建領主の前田利長が総持寺の山号「高岡山総持寺」から取り上げて、その名は瑞龍寺の「高岡山瑞龍寺」に付けられたと云う。

■実際に検証して見ると、高岡市街地は「標高10m」だが、元々、《赤丸村舞谷》の小山に元々在ったと総持寺の千手観音像の国宝指定の時に国が発行した「国宝概説」にも記載されている様に、「高岡山総持寺」(※観音寺遺跡)の跡地を確認すると、その標高は「70m」で在る。
詩経の一節とされる「鳳凰鳴けり 高き岡に」の「高岡」とはたかだか標高10mの高岡市街地の事を指したのか、はた又、標高70mの小山を指したものかは歴然としている。

■又、「鳳凰鳴けり」とは、総持寺の千手観音像の胎内に「金剛位理卿」と言う「後鳥羽上皇の法名」が記載されているからだ。「承久の乱」に敗れて隠岐に流され、終生、幕府は京への帰還を赦さず、白骨となって本土の土を踏んだ後鳥羽法王の「無念の涙」を「鳳凰鳴けり」と言う一節に総持寺住職は込めたと見られる。従って、この詩経の一節は、総持寺に河内金剛寺から伝えられた「千手観音像の由緒」を伝えるもので有り、それを利長が取り上げたと云う事だ。
高岡市教育委員会には再三に亘り、この総持寺の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の精細な調査を相談したが、教育委員会からは「貴方がそこまで調べたのなら、何も調べる必要は無い。再調査するとしても貴方が学会でその意見を認められたら考える。」と回答して、飽くまでもこの都市伝説を守ろうとして見苦しい回答を文書で送りつけて来た。
再調査をすれば、高岡市の由緒が明らかになるのが困るのか? 何故、高岡市には歴史を紡ぐ明確な根拠資料が無いのか?
コレが高岡市の「歴史の都市づくり」の原点に在る。

▼「金沢市」でも、家臣の森田柿園等が「金沢の由来」については「金沢古蹟史 34巻」等で、詳しく記載しているが、その由来は「藤原利仁将軍の末裔で富樫氏の祖の芋堀藤五郎の伝説」や「金洗沢霊泉」の伝説等に有るとして、「前田●●が命名した」等の説明は一切無い。寧ろ、第十三代前田齋泰は、わざわざこの由来を石碑に彫り込ませてこの「金洗沢霊泉」に設置させている。この泉は現在、兼六園内に在るが、この泉自体は相当古くから在ったもので、前田家とは関係無い事も記載している。この辺りが、同じ加賀藩でも、金沢市と高岡市の歴史認識の違いと言える。

■前田家家臣達が高岡市の由来を伝えたのか、高岡の有力商人達が誇張して「前田利家」を「鳳凰」に迄 比して伝えたものかは明らかでは無い。何処の高潔な大名でも封建領主が「天皇(鳳凰)」に比喩されている国は日本国中、聞いた事が無い。天皇の象徴の「鳳凰像」をあちこちに飾る高岡市では、「令和」の新天皇が即位された日にも、「鳳凰」を喧伝してきた高岡市内の商店街には、御祝いの「国旗」を掲揚している家も見られなかった。「日本国の象徴」で在る天皇をそこまで貶しめている馬鹿げた都市は全国何処にも無い。その恥ずべき伝説を現在も「高岡市教育委員会」や観光課等が公然とHPで広報しているのだから全国に「歴史都市」等と大口を叩けるのか? その「厚顔無恥」ぶりに、市民はどの面下げて「高岡市の歴史」を説明しているのだろう。
中国の古代では「鳳凰」は「天」が認めた「皇帝」を指し、「鳳凰はまずい竹の実を食べた」事から、正に「皇帝」は国民の模範でもあった。
ところが、加賀藩では武士達は贅沢の限りを尽くし、庶民を75%もの殺人的な税金で搾り尽くし、借金まみれにして女子供を売り買いしてサイドビジネスに励んだ者達もいたと云う。その象徴が現在も遺る「金沢東郭」、「金沢西郭」の跡地で在る。金沢市民達は、その圧政を知ってか知らずかその「郭跡地」を自慢げに観光地として全国に喧伝している。藩政時代に、此処でどれだけの女達が売り買いされ、「血の涙」を流したかも知らずにで有る。しかも、役に立たなくなった女達は能登の農家に売られ、終生、村落の共有農奴として牛馬の如くに使役されたと言う。
かつて、「金沢市の長期ビジョン」を策定する時の分科会座長を勤めた時に、金沢市民から「郭の街」を金沢市の「標語」にすべきだと云う意見が出てその無神経さに驚いたものだが、現在では、誰もがその意味も知らずに「郭の街」は金沢市の観光地になっている。
その悪玉達の親玉が加賀藩の殿様だったと云うのだから、この何処が「鳳凰」と云われるのか?  (※「加賀藩の光と影」浅香年木)

高岡市の歴史は、有力な商人等が伝えた事が「歴史」を構成している様で、具体的な古文書等には立脚しない「お伽話」の域を越えていない。「高岡市史」でも「独断と偏見」を交えた「物語」が展開されており、「高岡市史」にはどこの「市史」にも必ず有る「資料編」も無いお粗末なもので個人の意見だけで構成された歴史書としては異例のものだ。

■教育委員会は学問、教育の総本山で有り、強大な権力を持つ行政組織だ。しかし、現在の高岡市の実態はかくも悲惨な状況に在り、子供達の教育を委ねられる機関とはほど遠い。教育には「真実の追求」が学問の根底に有るべきでは無いのか?


















🔴🔹富山県赤丸村の歴史⇒「利波臣」・「石黒氏」と「延喜式内社赤丸浅井神社」「赤丸浅井城」!!

2021-02-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■古来、赤丸村には「延喜式内社赤丸浅井神社」「浅井城祉」が在った。
「赤丸浅井城」は、古書によると「孝靈天皇の第三皇子彦刺肩別命の5世の孫、利波臣姓を賜りその後裔累世此処に居館せり」という。利波臣志留志は聖武天皇の奈良東大寺大仏の造営に際して米五千石(東大寺要録)を献上し外従五位下に叙せられた。
(※「続日本紀」の天平十九年九月乙亥条では利波臣志留志が米三千石を寄進したとある。天平十九年は大伴家持が越中国司として着任し一年を経た頃という。現在も尚、東大寺二月堂で執行される「お水取り」で「米五千石奉加せる利波志留の志 シルノサクワン」と読まれている。現在も続く石黒一族はこの利波臣志留志の末裔と云われる。)
養老元年(717年)元正天皇二宮(実は万葉集にも掲載されている文武天皇の二宮石川朝臣広成と推定されている。)により創建されたと伝わる五位庄五十三カ村の総鎮守として延喜式内社の「浅井神社」が赤丸村に鎮座してきた。(※「三州誌故墟考」)  
「赤丸浅井神社」には東大寺荘園の一部が神田として寄進され(東大寺正倉院資料絵図)、いつの時代からか、五位庄(旧名 越中吉岡庄)五十三カ村の各戸から一升の米を奉納する事が定められていたという。
「赤丸浅井神社」の隣地の丘陵には元正天皇二宮が居城とされたと伝わる「浅井城」が在り、東大寺大仏造営に貢献した孝元天皇 の孫の武内宿禰の後裔とされる古代豪族利波氏が累代居城としたと伝わる「赤丸の浅井城」が在り、後に利波臣の後裔石黒氏が築城して南北朝時代迄石黒氏の居城で在ったが、後に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王の随臣で秩父平氏中山次郎重実の後裔の中山氏の居城となったと云うが、子孫は佐々成政の家臣として「能登末森城」で前田利家に敗れ、廃城にされたと云う。(※「赤丸名勝誌」)
(一説には鎌倉幕府北条氏の家臣中山氏が入城した時に石黒氏が越中新川郡に逃れたともされる。)
 (※「肯構泉達録」、「赤丸浅井神社古記」、「赤丸名勝誌」、「中世城館調査報告書」)

【◆7代 孝靈天皇―8代孝元天皇ー彦太忍信命ー武内宿彌ーー利波臣 (※「古事記」 )】

■加賀藩の治世には「第十三代前田斉泰公」が[浅井神社]の掲額の書を書かれているが、加賀藩の所蔵文書の「森田文庫」の中には往時の隆盛を示す絵図も残されている。


(※「石川県立図書館蔵」)



🔴【越中国(富山県)吉岡庄】(南北朝末期から「五位庄」)の記録⇒『賀茂御祖神社領』(※下鴨社)として、南北朝末期の「1374年」と足利義政の時代「1456年」に記録が在る。

2021-02-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■「越中吉岡庄」は「白河上皇」の時に「上賀茂社領」と成り、次いで「藤原摂関家長者藤原頼朝長」の庄園と成った。「保元の乱」で「藤原頼長」に勝利した「後白河上皇」がこの庄園を「後院領」にされて以来、南北朝時代の「後村上天皇」迄は「皇室庄園」として続いた様だが、次の「長慶天皇」の時代の1374年には「下鴨社領」(※「柳原家記録」)と成り、後に、「室町幕府第三代将軍足利義満」の時には義満により「相国寺」(※金閣寺)に寄進され、「第四代足利義持」の時には足利家菩提寺の「等持院」、「等持寺」の庄園として寄進された。
「第八代足利義政」の時代の1456年には再び「下鴨社領」に成った記録が在る。(※「賀茂御祖神社神戸記」)
「第九代足利義材」は政争に敗れて囚われたが、越中神保氏の助けで越中牧野に入り、足利幕府の越中臨時政権をうち立てている。

■「柳原家記録」の「下鴨社領越中吉岡庄」


※「東大寺文書」にも「下鴨社領越中吉岡庄」に付いて同様の記載がある。(「越中吉岡庄」はこの時期に東大寺庄園で在ったが、東大寺から下鴨社に寄進された様だ。)







🔴🔴【衆徳山総持寺 国指定重要文化財木造千手観音座像】の一日限りの特別御開帳 [2019.11.15 11時~]

2021-02-09 | 富山県高岡市
■富山県高岡市関町(あいの風鉄道高岡駅南口下車)の「衆徳山総持寺」の皇室ゆかりの【千手観音座像】の一年に一度の特別御開帳!!
(拝観無料)

◆「総持寺」は、「観音寺」と呼び慣わされて西暦1000年頃に富山県高岡市福岡町赤丸の舞谷に勘請されたと伝わる越中でも屈指の古刹で、南北朝時代に「南朝軍の牙城」と呼ばれた「皇室領 越中吉岡庄(赤丸村)」に、「南朝」の皇居として使用された「河内国」の女人高野としても名高い「金剛寺」より伝来したと伝わる鎌倉時代の千手観音座像。
この古刹は、室町幕府にも崇敬されて、「越中五位庄」が「足利義満」によって京都の「臨済宗相国寺」に寄進された時に、「室町幕府管領畠山満家」の三回忌法要がこの寺で執り行われ、室町幕府から「所領安堵」の「安堵状」を受けている。















🔴📖 京都下鴨神社の庄園「越中吉岡庄」・「越中五位庄」⇒『群書類従』・『賀茂御祖神社諸国神戸記』に記載される越中の庄園!!

2021-02-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●南北朝時代と室町時代の二回に亘り「京都下鴨神社の庄園」に成った「富山県高岡市福岡町(赤丸村)」の庄園「越中吉岡庄」(※室町時代は「五位庄」)







●「賀茂御祖神社諸国神戸記」巻七(越中)(※西尾市所蔵版)には、「群書類従」(※塙保己一)雑部 501 『康正二年造内裏段銭并国役引付』の中の「下鴨神社庄園越中吉岡庄」の記載が在る。

「足利義政」の康正二年(1456年)に越中吉岡庄から6月7日~11月8日の間に「段銭三貫文」(※一文銭で3000枚)が「京都下鴨神社」に納められた記録。

(※南朝長慶天皇の1374年にも「越中吉岡庄」は「京都下鴨神社庄園」に成っている。)

▼「賀茂御祖神社諸国神戸記」に拠ると、全国で守護、地頭の横領や東大寺と鴨神社との所領争い等が起こっていた事が記載されている。

■「室町時代の下鴨神社庄園の記録」(※「賀茂御祖神社諸国神戸記」)







■「南北朝時代の下鴨神社庄園の記録」(※「柳原家記録」、「富山県史」)


🌸🍁 越中と加賀の境に在る「源平の古戦場 倶利伽羅谷」⇒「倶利伽羅不動尊」の古文書展示!!

2021-02-09 | 富山県小矢部市
🍁秋雨に煙る源平古戦場に建つ「倶利伽羅不動尊」








●小矢部市と津幡町の境界に建つ真言宗「倶利伽羅不動尊」の秋 !!
⇒津幡町重要文化財「源頼朝下文」、「前田利長文書」等が保管されている。


▼木曽義仲や越中石黒氏等が平家軍が激戦を交わした「源平利波山の戦い」では多くの源平の軍勢が亡くなった。南朝の行宮として有名な「河内国金剛寺」は「後白河上皇」が創建されたが、この寺院に「寺領」を寄進した源氏の武将「三善貞弘」はこの「倶利伽羅谷の戦い」で平清盛輩下として戦死しており、この「金剛寺」から高岡市関町の「国指定重要文化財木造千手観音座像」が「越中吉岡庄」に伝来している。

◆現在、「倶利伽羅不動尊」では古文書「頼朝下文(くだしふみ)」等が展示中です。






(※津幡町の説明文)
【1965(昭和40)年11月1日 津幡町文化財(古文書)指定
1183年(寿永2年)年の源平合戦で焼失した「長楽寺」の要請により、1196年(建久7年)10月9日の日付をもって源頼朝は遠江守重頼(とおとうみのかみしげより)にこの文書を与えて当地に派遣し、堂塔伽藍(どうとうがらん)を再建し、寺領を寄進し、将軍家の祈檮所としたといわれています。
 源氏の総領である頼朝からの寄進状は、徳川家(新田源氏)と姻戚関係になった前田家には効果があったようで、加賀藩3代藩主前田利常が不動堂、二王堂の建立を発願する際に、この下文が長楽寺を庇護する拠りどころとなったものと考えられます。書体等から見て、この下文は江戸時代のものと思われますが、荒れ果てた当時の長楽寺の再建を語る資料として貴重なものです。】


「前田利長文書」


■「倶利伽羅不動尊」二つの本尊「不動尊」!!
①本堂には「空海作」と云われる不動尊が在り、毎月の一日、第一日曜日、28日に開帳される。普段はお前立ちの不動尊が祀られている。



②「施無畏堂」には「施無畏三蔵法師作」の不動尊が祀られており、30年に一度、御開帳される。


→「倶利伽羅不動尊」は砺波市の「千光寺」、小松市の「那谷寺」の兄弟寺とされる。この寺の文化財は嘗て、津幡町や有志の歴史家が調査した事があるが、未々、未解明の史料も多いと云われる。

🌸🏯 「後白河上皇」の庄園(後院領)【越中吉岡庄】⇒「吉岡庄」の国侍達が従軍した『倶利伽羅(利波山)の戦い!!

2021-02-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








●「倶利伽羅の源平戦」では、源氏の「木曽義仲軍」は「後白河上皇」の「後院領吉岡庄」を避けて大きく迂回して「般若野」を経由し、倶利伽羅の「利波山」(※砺波山)の倶利伽羅戦場に向かった。この時、曽義仲軍には「吉岡庄」の「木舟城 石黒光弘」や、赤丸村の「池田氏」、西五位村の「向田氏」、小矢部市の「蟹谷氏」等の国侍達が加わった。



■【源平古戦場地図】
(※「砺波山古戦場誌」埴生小学校校長平野良作 著)




■「利波山の戦い」と越中国の国侍達の従軍!!


・高岡市鴨島町は石黒一族の「鴨島七郎」の所領で在った。(※「高岡史料」)
・高岡市高田島村は石黒一族の「高田孫兵衛」の所領で在った。(※「吉江の昔」)
・「越中利波郡石黒氏系図」 に石黒一族の「石黒光延」(高楯次郎)、「石黒成興」(泉三郎)、「石黒安高」(水巻四郎)、「石黒光久」(福満五郎)の四名の兄弟が見られる。この四名は「木舟城主 石黒太郎光弘」等と『源平盛衰記』にも記載される。又、「石黒光弘」の父として「赤丸浅井城」の「城主石黒光景」が見られる。

■越中の国侍「池田次郎」の事(※「治承、寿永の内乱論序説」浅香年木著 参照)
【源平盛衰記】
『時に義仲埴生にありて兵を指揮する内北方に当たり、初夏の緑滴る森の木の間より片割りの社壇聳ひ華表高く苔蒸し朱の玉垣見えければ越中の住人池田次郎忠康を呼びて曰く「彼方に見ゆるは如何なる社壇にて何神を祀るや」と尋ぬるに忠康は「八幡大菩薩を祀り埴生八幡宮と称す」と答ひければ義仲大に悦び太夫坊覚明を召して「当国八幡宮の寶前に於て合戦するは味方の戦勝疑なからむ。然れ共其の祈願の為願文を捧げたし。汝宜しきに計へよ。」と申せば覚明下馬の上義仲の馬前に跪き、箙の中より矢立取出し、案にも及ばず古物を写すが如く之を書す。』と告げて「覚明」は「源義仲の先勝祈願の文書」を記して埴生護国八幡宮に奉納した。

■【※元々、「吉岡庄」(※赤丸村)に在った高岡市関町の「衆徳山総持寺」は、赤丸村を拠点とした「池田家」が所領の敷地を寄進し、長く門徒総代を勤めたと云う。この池田家は高岡市の高岡インター周辺の「池田地区」や、「赤丸城ケ平山」の麓に拡がる「池田島」等を開発し、氷見市の池田地区、小矢部市の今石動(※古名は池田地区)を開発した古い氏族だとされる。(※赤丸浅井神社記録)(※「治承、寿永の内乱論序説」)
この家系は加賀藩時代も赤丸村の肝煎を勤め、高岡市細池に残る池田本家では、現在も戦場で兜に納めた「兜仏」や、総持寺の「千手観音像の胎内仏」を家宝として祀っている。
(※「杉野家文書」高岡市福岡歴史民俗資料館 蔵)】


■「喜多川歌麿作」の「木曽義仲軍将図」には木曽義仲軍に加わった「木舟城城主石黒光弘」の姿が描かれている。
(東京都立中央図書館秘蔵)

🔷💠🔹 室町幕府の「越中絵図」(※「畠山文書」羽曳野市)に見られる室町幕府の越中統治!!

2021-02-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「室町幕府」から所領安堵をされていた「越中総持寺」に伝わった「国指定重要文化財木造千手観音座像」


■室町幕府管領畠山氏は大阪府下羽曳野市に居城を構えた。
羽曳野市には「畠山文書」、「畠山戦史物語」等の畠山家関係の古文書が残る。畠山氏は紀州、河内等と共に越中、能登の守護を務めた為に、これ等の国々の記録も羽曳野市に遺されている。





🔽「畠山文書」の「畠山系図」の中には、【管領畠山満家が越中国を「八郡」に分けた】とされる。

■「足利義満」は「越中五位庄」を足利家菩提寺「相国寺」に寄進した。「足利義持」は五位庄の半分を足利家菩提寺「等持院」に寄進した。この時に五位庄は管領「畠山満家」に預け置かれた。(※「富山県史 中世」)






「源畠山吉益系図」(※元和ニ年(1616年)吉益高秀作成)




■「越中絵図」には「五位の西庄」には「赤丸浅井城」と見られる[城]が記載され、領主は「畠山持国」と記載されている。この絵図には西庄の中に[城]が記載され、その右には「栗柄峠」の記載が在る。これは「倶利伽羅山」を示すと見られるが、その位置は氷見郡に近く、「蓮間郡」の海寄りに記載される。これだけを見ると、小矢部市蓮沼に在った「遊佐館」かとも見られるが、「冷泉為広」の『越後下向日記』(延徳三年、1491年)に、「遊佐館へ宿泊した記録」が記載される。この日記に登場する「遊佐館」は、「城」とは記載されず実際に史跡でも規模は小さく、守護代の城としては規模も小さく文献にも「館」とされている。
しかも、遊佐氏は赤丸浅井神社、川人山鞍馬寺で法要を営んだ畠山氏(「富山県史中世」:法要では「藤原直家」とされ藤原氏へ養子に入ったと見られる。⇒大乗院寺社雑事記)の系統では無く、「遊佐氏は能登畠山氏の家臣として蓮沼に館を構えた」(※「埴生地区郷土史」)とされる事から、明らかに「畠山持国」⇒「畠山義就」と続く越中守護系統と対抗した人物で在る。「畠山義就」の時代に遊佐氏は畠山義就に対抗した能登の畠山政長の系統に味方して、「応仁の乱」の一因に成っている。
一方、「赤丸村から臨済宗以外の寺院が追放された」と云う「赤丸浅井神社」の記録に拠れば、「赤丸村」は「足利義満」が五位庄を「相国寺」へ寄進した時に「底地は持国の父の畠山満家に預けられた」(※「富山県史」)とされる事から、「五位庄惣社赤丸浅井神社」が鎮座する「利波郡五位庄赤丸村」は、「五位庄統治の要」で在ったと見られ、歴史学者の間で定説とされて来た「小矢部市蓮沼の蓮沼城」は「城」と呼ばれる様な規模では無かったと見られる。しかも、「畠山文書」の「越中絵図」には、小矢部市からは遥か離れた「五位の東庄」(※「東寺百合文書」:小矢部川と庄川の間)の「木船城」の南部に「遊佐氏」の所領が記載される。又、この「木船城」とほぼ並んで「城」と記載されており、これは明らかに「赤丸浅井城」を指している。

■「畠山持国」は「畠山満家」の子供で在り、赤丸村に在った「総持寺」が足利家の指示で富山湾の伏木港近くの小矢部川流域の六道寺村に動いたと見られる。(※「赤丸浅井神社記録」⇒「総持寺由緒」)
名古屋市の「大須観音寺」に在る古文書にはこの「総持寺」が「浜惣持寺」として記載されており、この寺で「畠山満家」の三回忌の落慶法要が行われて、その「香語」の中で、《落慶法要は雅楽の演奏を交えて盛大に執行されて黄金の千手観音像が波の光できらめいていた》事が記載されている。この法要の施主は他ならぬ後継者の「畠山持国」で在り、「管領畠山満家」は一時期、「越中に逃れて逼塞していた」とも云われる事から、「ゆかりの地の越中で総持寺の伽藍を寄進法要を営んだ」と見られる。
(※射水市松山学芸員論文参照)




■「赤丸浅井神社」に伝わる所では、元々、赤丸浅井神社前に屋敷を構えた「池田市衛門家」(※現在、高岡市細池)には、「総持寺は応永年間に国主の命で赤丸から追われた」と伝わり、この記録は赤丸浅井神社にも残る。又、高岡市柴野の「臨済宗三光寺」には、「臨済宗相国寺」の庄園と成った「赤丸村」から「臨済宗以外の寺院は追放された」と伝わっている。池田家は長く総持寺の大壇那として総持寺の護持をしてきた家系で在り、古くは越中西部の小矢部川流域の福野、石動、赤丸、氷見等や現在の高岡市関町辺りに領地を持っていた。この家は現在の総持寺の敷地を総持寺に寄進したと伝わる。



#名古屋の「大須観音」に遺される古文書では、「総持寺」が海近くへ動いて「浜総持寺」と呼ばれた時に、「畠山満家の三回忌」が「畠山持国」の主催でこの寺で執り行われたと云う。越中の臨済宗寺院には「五位庄が臨済宗相国寺へ寄進された時に臨済宗以外の寺院は赤丸浅井城の周辺から追放された」と伝わりこの時に総持寺も海沿いの「六渡寺村」へ動いたものと見られる。





🔽室町幕府の記録に「越中国総持寺の寺領の安堵状」が遺されている。



🌸 越中刀工「佐伯則重の碑」⇒富山市五福(呉服郷)で作刀した佐伯則重!!

2021-02-09 | 富山県
■ 富山市呉羽山公園下に在る「佐伯則重の碑」!!
富山市呉羽山公園下には越中刀工「佐伯則重の碑」が在る。則重は系図に拠ると魚津の松倉郷で作刀した「郷(江)義弘」の師とされ、相州伝の「正宗十弟子」の一とされる。又、その作品には「越中吉岡庄」(高岡市福岡町赤丸)に大和国宇陀郡から移り住んだ大和伝宇多刀工の祖「宇多国光」の作風も見られる事から 、宇多国光に師事したともされている様だ。
(※正宗は相州伝 新藤五国光の弟子で在る事から国光違いだとする意見も在る。)

















🔴📖 【越中国司 大伴家持】と「延喜式内社 五位庄53ケ村惣社 赤丸浅井神社」⇒【東大寺大仏】と越中国司「利波臣志留志」!!

2021-02-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




【海行かば 水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ(『万葉集』)】

■これは、「大伴家持」が越中国の国守として赴任していた(749年)に詠んだ長歌「陸奥国より金を出せる詔書を賀(は)ける歌」の一節で軍歌としても有名。【※大伴氏の家訓を読み込んでいる。】

【『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。】

■「聖武天皇」は東大寺に大仏を造営する事を祈願されたが、メッキの金が手に入らずに苦悩されていた時に東北から金が見つかったとの報せが在り、「大伴家持」は「聖武天皇」に対してこの歌を贈って東北から金を産出した事を祝っている。この大仏造営に際して越中郡司の一族の「利波臣志留志」は「米五千石」を東大寺に寄進したとされ、寄進者名簿の「東大寺修院過去帳」には、天皇の次の寄進者筆頭に記載されている。この功績により、国司待遇の「従五位下員外介」に任じられて家持の後に「越中国司」に任じられている。(※「東大寺要録」、「続日本紀」)

📌「東大寺修院過去帳」(※東大寺お水取り行事で毎年3月、読み上げられる)


■「赤丸浅井神社」の祭神は皇室八神の一で、大伴氏・佐伯氏の祖先神『高皇産霊神 タカミウブスナノカミ』で在る。「大伴家持」が越中国司の時に越中の豪族「利波臣志留志 トナミノオミシルノサクワン」が開発した庄園の管理に来た東大寺の僧「平栄」を迎えて歓迎の宴を開いている。(※「万葉集」)
砺波市の庄川町の「東大寺庄園石粟庄図」には【浅井神一段】と記載されており、「延喜式内社赤丸浅井神社」と「東大寺」の繋がりを窺わせる。「赤丸浅井城は利波臣の末裔の石黒氏が累代居城とした」と古書には記載され、源平の頃には「木舟城の石黒光弘」の父の「石黒光景」が居城としたとされる。







■北陸道の要衝の「川合駅(※川人駅)」に立地した「延喜式内社赤丸浅井神社」は、社伝によると「聖武天皇の弟の石川朝臣広成が中興した」とされ、「石川広成」と「大伴家持」は「恭仁京」で「内舎人」として勤務したと云う。万葉集には「石川広成」の歌が三首掲載されている。「石川広成」は「蘇我石川麿」の系統の蘇我氏の「石川刀自娘 イシカワノトジノイラツメ」を母とし、父は「文武天皇」で在り、「文武天皇」の母の「元明天皇」は蘇我氏系の人物で在る。又、「利波臣」も蘇我氏系の「武内宿弥」を祖としている。(※「万葉集」・「続日本紀」)


📕📖 「三州奇談(後編三巻)」(森田柿園 家 伝来の写本 元本)に見る「越中」・「能登」の事!!

2021-02-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「森田柿園」は加賀藩の歴史家で、石川県立図書館には「森田柿園文庫」が保管されており、加賀藩の歴史、民俗、地理等と共に武芸免許等も保存されている。しかし、一時期、旧家の代替わりや武士階級の廃止に伴って「加賀藩」に対する熱が冷めた事から、旧家や加賀藩自体の古文書や貴重な史料が一束幾らで叩き売られると云う事態に陥り、多くの史料が県外に流失している。
この森田家伝来の写本についても県外に流失したものらしいが、「前編」は見つからないが偶然に「後編 三巻」が入手できた。
以前に加賀藩士「冨田景周」自筆の写本「陽廣公遺訓・和歌集」を入手したが、本来なら公立の施設に保管されて居るような古書や古文書が現在も市場に流通している事に驚かされる。「陽廣公遺訓」については「冨田景周」の校正した写本を「森田柿園」が写したものが石川県立図書館「森田柿園文庫」に保管されている。



■この「三州奇談(後編三巻)」には、「能登末森城の事」や「越中二上の事」、「射水郡の怪異」 等が記されており、「三州奇談」の「越中」・「能登」編が納められている。




■「森田柿園」の自筆の文→「森田家」に伝来した写本だと云う。








■【三州奇談】は加賀・能登・越中、三国の奇談を集めたもので、成立は宝暦から明和(十八世紀半頃)とされる。「石川県図書館協会版」は、正編九十九話、続編五十話、一話読み切りに成っている。話は大聖寺から、金沢、能登、越中の順で加賀藩内の各地の話が掲載される。
『三州奇談』の作者の「堀麦水」(1718~1783年)は金沢の竪町(タテマチ)に生まれた俳諧師・随筆家で江戸・京坂にも出向いた地方知識人であった。

■「森田柿園」は金沢市の片町の後ろの「柿の木畑」に住んで「柿園」を号とした。

※この土地について奇縁が在り、この場所は宇都宮書店の前に在るが、嘗て、富山市の飲食店がホテル計画の為にこの土地を購入したが法規制の関係で駐車場として運用される様に変更された為に数年間、用地管理に携わった事が在る。その後、「延喜式内社赤丸浅井神社」の総代に成った時に石川県立図書館の「森田柿園文庫」に「赤丸浅井神社」の絵図等が保管されている事を知り、調査に出向いてその膨大な史料に驚かされた。







■「森田柿園文庫」の多くは「石川県立図書館協会」から復刻版が出版されているが、その復刻版自体の入手が困難に成っており、散逸した元本も多い事から、今後は益々、加賀藩の歴史検証が困難に成って来ると思われる。

📑📖📒 加賀藩の歴史を刻んだ二人の歴史家。 ⇒「富田景周」と「森田柿園」!! 新たに発見した「富田景周校正の原本」!!

2021-02-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





■加賀藩の歴史学者で「越登賀三州志」等を著した「富田景周」が校正した「陽廣公偉訓 ( 陽廣公百首 )並 観樹公言行録 」を、幕末から明治にかけて多くの著作を遺した「森田柿園」等が写しを取ったものが石川県立図書館、金沢市立図書館に保管されている。しかし、この「校正本の原本」自体はどこにも保管されていなかったが、写本との照合結果、偶然入手した古本がその原本と見られる事が判明した。

■「富田景周校正原本」の加賀藩の二人の主君の記録『陽廣公偉訓』と『観樹公言行録』











■この度、金沢大学の研究者が所蔵本を処分したものを偶然に入手した。この本は相当古いもので、虫食い、変色も在り、著作者のサインの「臣富田景周頓首百拝謹撰」が記されている。石川県立図書館の「森田文庫」に保管されている森田柿園の自筆写本とこの古い校正本を比較すると、古い方には所々に実際の「訂正、書き入れ」等が在り、欄外に校正した部分が枠に囲まれて記されている。又、訂正部分には上書きや添え書きがして在る。
石川県立図書館の森田文庫の写本も、この校正本を忠実に写しているが、所々に訂正の省略や訂正部分の転記ミスも見られ、石川県立図書館に保管される富田景周の「越登賀三州誌」の筆跡とこの校正本は筆跡が良く似ている。
この校正本の「正本」は本来「陽廣公偉訓」、「陽廣公百首」、「観樹公言行録」が合本になったもので、富田景周は序文で「加賀藩の幾つかの偉訓を合わせて本を作成しようとした」事を記載しているが、結局、校正本は作成したものの実際に発行されずに 加賀藩に伝来したもので、その為に数人の家臣が此の写しを作成して富田景周の著作を遺そうとしたものと見られる。その為、写本には忠実に富田景周の校正本自体を写し取ろうとした形跡が見られ、外見的、内容的に入手した本が富田景周の自筆校正本と判断される。

■「森田柿園写本」(※石川県立図書館)




■「陽廣公偉訓 並 観樹公言行録」は 、加賀藩第三代(前田家四代)前田光高作「陽廣公偉訓」、「陽廣公百首」と、前田 重教(シゲミチ 加賀藩の第9代藩主)の子で、第十代治脩の養子前田斉敬(ナリタカ)の伝記「観樹公言行録」を富田景周が校正して合本にしたもの!!


■森田柿園の著作は石川県立図書館の「森田柿園文庫」に現物が保管されており、申請して写真撮影も許されているが、これ等の著作について専門に研究している方はいないと聞いた。森田柿園文庫には別冊で「観樹公言行録」が保管されており、柿園が富田景周校正本の写本を作った時に別冊にしたものと見られる。
この森田文庫には富山県赤丸村の「浅井神社古墟図」の畳二枚分位の大判のカラー絵図が遺されている。しかし、この絵図は巨大な為に、又、貴重絵図の為に一般に余り知られて居なかったが、平成28年に石川県史編纂室が森田文庫の絵図を白黒、A4版で発行している。富山県西部は加賀藩に含まれていた為に富山県内に加賀藩時代の元本が遺されていない。赤丸浅井神社の由緒や藩政時代の古文書は石川県立図書館と金沢市立図書館近世資料館に多くが保管されており、残念ながら富山県内に現物が遺されていない事から、推測、伝承等が恰も富山県・高岡市の歴史かの様に伝えられている部分が在る。
奈良、平安時代には越中の資料は奈良、京都に遺され、鎌倉、室町時代のものは幕府の資料の中に遺されているのは当然だが、越中は政権中枢が置かれた歴史が無い為に残念ながら歴史資料の現物が殆ど遺されていない。長く属国、被占領国で在った為に古文書が少ない事と多くの戦乱で焼かれた事も在り、奈良、京都、鎌倉、名古屋等の都市は真剣にこれ等の古文書を遺して来たが、越中では支配者が代わる度に資料が焼かれ廃棄されて来ている。何よりも属国の民は支配者が代わる度に、嫌な支配者の記録を積極的に廃棄、焼却して来た歴史が在る事も越中の歴史に多くの推測が入り込んだ原因の様だ。
高岡市でもこれ等の歴史資料の保管が真剣に行われたとは思われない。高岡市の図書館、博物館等には本当に古い資料は他都市に比べて大変に少なく、「貴重書」、「貴重絵図」等の数も少ない。大体、富山県史、高岡市史や福岡町史等の資料の現物すら、現在は何処に在るのか見当もつかない。しかも、これ等の史書には推測、決め付け、作り事が多く見られ、原本主義の歴史書とは言えない。
時々の政治家は思い付きの様に「県史」、「市史」、「町史」を編纂し、終わればその原始書類が何処かへ消えて仕舞う。石川県では現在も継続的に「編纂室」がそれらの機能を果して来ているが、昭和時代の中頃にはこの金沢市でも加賀藩の記録、古文書等が一束幾らで古書店の店頭で叩き売りされていた。しかも、これ等には加賀藩の「花押」の在るもの迄売られていた。この状況に当時の金沢市長に石川県、金沢市での公共的な資料館開設と自治体自体での資料収集を提案した事を思い出す。富山県、高岡市はその時から既に数十年も経っているが、未だに思い付きの様な「歴史都市構想」を唱えて、実際は古書、古文書の保管施設や収集機関すら動いていない。「老朽した博物館に金をかけて何になるのか」と言う「ガラパゴス的な意見」を云う議員さえ居る事に、高岡市の「歴史都市構想」の実態が見えてくる。



2017,2.23

📒📖📑 加賀藩の夭折した「前田光高」と延喜式内社赤丸浅井神社宝物⇒加賀藩主第四世前田光高の記録「陽廣公偉訓 並 観樹公言行録」(富田景周校正)!!

2021-02-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「両部神道 川人山鞍馬寺」の宝物の一部
■(※延喜式内社赤丸浅井神社に掲げられる「浅井神社」は、加賀藩第十三代藩主「前田斎泰」の揮毫による。)




■「延喜式内社赤丸浅井神社」の明治年代の記録「赤丸古代帳」には、「赤丸浅井神社」に伝わる「宝物」、「古文書」が記載されている。その中に若くして夭折した「加賀藩主第四世前田光高」からの書状が在った事が記載されている。

【浅井神社寶物目録】
1.寄進状 壱通 宝永十七年九月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
2.書状 弐通 寛永十六年三月及五月加賀藩主第四世前田光高ヨリ

3.書状 弐通 慶長十年九月及元和八年五月第三世利常ヨリノ書
4.御員筆額 一面 明治十一年正三位前田齋泰ノ書
5.古額 壱面 丈二尺 五寸 巾一尺四寸二分 但シ文字不明
6.古鏡 三面 一ハ直径三寸六分 一ハ直径三寸三分 一ハ直径三寸 右ハ往古神祇官ヨリ御下賜ノモノト言傳フ
7.太刀 一腰 丈一尺六寸 村正ノ作ト言傳フ
8.刀 一腰 丈一尺二寸四分 無銘白鞘
9.刀 一腰 丈二尺一寸五里 銘アルモ不分明
10.古鏡 一面 直径七寸壱分 藤原丈長ノ作
11.大鰐口 壱個 延寶六年八月吉日ト記セリ 目方約八貫目アリ
12.古記録 参拾弐冊 慶長以降天保ニテ古文書一冊ノ半数約百枚アリ
13.古画 壱軸 兆殿司ノ筆(二王像)
14.古画 壱軸 高祖神変大師ノ御影 大師ハ泰澄大師ナリ

この記録から、明治初年迄、加賀藩から赤丸浅井神社へ出された多くの書状が遺されており、「前田利常」、「前田光高」、「前田斎泰」の書状が遺されていた事が分かる。加賀藩は、天皇家所縁の聖護院派で在る「赤丸浅井神社」一帯の寺社を信仰した様で、江戸板橋宿の「江戸下屋敷」には庭園内に富山県の「赤丸山」や「大岩山」(※大岩不動尊の写しを祀っていた。)と言う二つの築山を築いていた事が「下屋敷絵図」に記載されている。





★「富田景周」;富田 景周【1746年(延享3年) ~1828年11月26日(文政11年10月20日)】著書に「越登賀三州史」等の著書がある。



■「陽廣公偉訓 並 観樹公言行録」は 、加賀藩第三代(前田家四代)前田光高作「陽廣公偉訓」、「陽廣公百首」と、前田 重教(シゲミチ 加賀藩の第9代藩主)の子で、第十代治脩の養子前田斉敬(ナリタカ)の伝記「観樹公言行録」を富田景周が校正して合本にしたもの!!



















■前田光高は寛永9年(1639年)に家督を継いだが僅か7年にして正保2年(1645年)に31歳で夭折した。前田利常については良く語られるが、前田光高は早くして世を去った為に余り知られていないが、「貴も賤も学文無くしては国家治まること難し」から始まるこの偉訓は傑出したものとして遺されている。
寛永10年に光高は将軍家光の養女の糸(阿智、水戸家徳川頼房の娘、清泰院)を妻に迎え、歌集の『陽広公百首』を遺している。この百首は「君」「臣」「使用」「組頭」「咄ノ者」「役人」「小将」「目附」「掃除坊主」に分けて心得を歌にしており、「奉公人心得」としても歌にして残すと云う異色な形をとっている。
「陽廣公偉訓」は君臣の心得を説いたもので、内容は細部に亘り、主君の家臣に対する心掛けを示し、家臣の離反、反逆心の未然の防止について特に細部に亘り説いている。その内容は現代の経営者にも通じる明快な内容になっている。この記録には当初に「夜話」として刊行されたものを52ケ条の「偉訓」として富田景周が校正を入れて改めて刊行したものと記される。
又、『観樹公言行録』の前田斉敬は生来温和で、聡明、決断力が在り、親に対して孝行な人物として斉敬の業績について記している。しかし、家督を継ぐ直前、18才で亡くなったと云う。
【前田 斉敬は、加賀藩の第9代藩主前田重教の長男。第10代藩主治脩の養嗣子であったが、襲封前に没した。その為、斉広(ナリナガ)が11代に就任したが、極端な緊縮財政を取り家臣との関係が悪化したと云う。】

本書は偶々、研究者が所有していたものを入手したが、金沢市玉川図書館等に在るものは森田柿園等の「写本」とされているが、本書は「臣 富田景周謹校」と在るだけで書写した記載が無い。 相当の虫食いも在り、明らかに森田柿園の時代より前の校正本と見られ、校正の内容そのものが記載されている事から、正本を作成する前の原稿だった可能性がある。


🌸📃 【仏舎利信仰の世界】 謎の微笑ー富山県高岡市衆徳山総持寺の『国指定重要文化財木造千手観音座像』と「薬師寺東塔」との関連!?

2021-02-09 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■【仏舎利】は「釈迦の遺骨」を指し、天皇から「東寺」(※教王護国寺)を賜った「空海」は唐から帰国した時に80粒の遺骨を東寺に伝えたと云う。この「仏舎利」は天皇が勅封をした壷と、東寺長者が管理する壷に分けられて管理されたが、時の権力者は「悲願」を成就するためにこの「仏舎利」の壷を開けさせて「悲願仏」や「堂棟」の基礎に納めた。「五重の塔」等の塔は「仏舎利容器」と同じ性格のもので在り、この小型の「仏舎利容器」は建物の基礎や「仏像」の胎内に奉納された。



■■「昭和十一年八月六日 高岡新聞の記事」




■この記事に拠れば、【高岡総持寺の千手観音が国宝に指定された当時には既にこの観音像が「天皇」と関係した仏像であると認識されていた事】が判る。(註)総持寺は現在は「衆徳山総持寺」というが、創建されたと伝わる時代や皇室領に創建されている事から、これはもしかして「崇徳天皇」所縁の寺で有ったかも知れない? 
当時は南朝顕彰運動が赤丸地区を中心として盛り上がった時期で、謎の天皇の長慶天皇の陵墓確定に宮内省が盛んに赤丸へ来て調査をしていた時期で、河内金剛寺の勤王僧の禅恵の名前がこの千手観音像の胎内銘から見つかった為、長慶天皇の縁の仏で有ろうとして「国宝」に指定された経緯が有る。しかし、この時はそれ以上の胎内銘の調査はされず、解体調査は昭和39年になって行われている。この天皇が長慶天皇で有ろうと考えられ、この仏像は1353年の南北朝時代に「大仏師幸賀」によって造られたとされたのだが、結局、禅恵の時代には大檀那として記名されている「藤原淨円」や「仏師幸賀」は見当たらず、ウヤムヤにされた。この原因はあくまで「南朝の仏」という先入観念が有り、しかも「本願聖人」として首の中央に書かれている「金剛位理卿」の文字を「金剛位理」の法名を根拠に長慶天皇としたのだが、実は鎌倉時代の「後鳥羽上皇」も「金剛理(良然)」であり、まさかこの仏が鎌倉期のものとは考えなかったのであろう。後鳥羽上皇と同年に43歳で亡くなった「藤原淨円」は「斉藤長定入道藤原浄円」という鎌倉時代の人物で鎌倉幕府評定衆に実在し、この時代には平家に焼かれた興福寺の仏を修復した「幸賀」も存在する。(小林剛著作記載) 又、絵仏師と思われる「頼真 小仏師」も筑波大学の資料に見られ、この胎内銘に記載された人物が同時期に存在する。(※「幸賀」については修復仏師で有る事から「絵仏師」であるとされているが、正確に胎内名を調べると「仏所 幸賀 大仏師」とある所から南都絵所所属の絵仏師では無く、慶派の「七条仏所」所属の木仏師と見られる。興福寺の修復仏師「幸賀」についても「絵仏師」とは記載されていない。解読文では「仏師 幸賀」としているものも有り、明らかに誤りである。)
更に、胎内銘に数人の「白拍子」か「遊女」と見られる署名も見られる。「石熊女」「亀松女」等で有る。当時の白拍子は、大阪の淀川河口に在った江口、神崎という地域を本拠としており、後鳥羽上皇自体も3人の子を白拍子との間に設けたと云う。白拍子は単なる遊女では無く、朝廷が管理するで有り、有る時は単身赴任の武士の都での妻の役割も担っていたと云う。平清盛の母も実は白拍子だった云われ、源義経の愛妾静御前もその一人である。当時には白拍子の長者に「石熊太郎」という人物が居り、承久の乱の原因にもなった「亀菊」という白拍子も居た。「亀松」については後鳥羽上皇が愛した「菊」の一字を与えて寵愛した白拍子を「亀菊」としたのかも知れない。こうして胎内銘を調べる限りではこの観音像は後鳥羽上皇縁の観音像と考えられ、後鳥羽上皇は「承久の乱」を起こし、不利と見るや味方の大将の藤原秀康を勅命を出して逆賊としたが、この藤原秀康も「能登守」を歴任しており、越中や能登に少なからず縁が有り、あるいは後鳥羽院が実質的に「承久の乱」で殺した忠臣の冥福を祈って造られた仏で在ったかも知れない。後鳥羽上皇の中宮は藤原氏の摂関九条兼実の娘の九条任子[暦仁元年(1238年)崩御。享年66歳]であったが皇子を産めなくて皇室から出た人物である。藤原秀康は北面の武士で有ったが、観音像の胎内に記載された「藤原淨円 大檀那」と記載されている斉藤長定も藤原氏の同族であり、藤原淨円が資金を出して密かに後鳥羽上皇の願いの観音仏を造ったと考えれば筋が通る。「吾妻鑑」に拠れば、藤原浄円は後鳥羽上皇が3月に亡くなると10月には死亡しており、藤原浄円は果たして病気だったのか? 43歳での死は早くないか?
※※「吾妻鏡」の記載→[延應元年(1239年)三月小十七日丁亥。。六波羅使者參著。去二月廿二日。隱岐法皇於遠嶋崩御〔御年六十〕同廿五日奉葬云々。][延應元年(1239年)十月小十一日丁未。天。齋藤左兵衛尉藤原長定法師〔法名淨圓〕皈黄泉〔年四十三〕]

■今迄、これ等の検証は行われず、学者はかたくなに「この仏の顔は能面に似ており南北朝の特徴である」と云い、「衣紋が典型的な南北朝期のもの」と云い、極論は「胎内銘に何が書かれていてもこの仏は南北朝のもの」と云う。しかも、文部省さえも「この仏は南北朝期に造られ、胎内銘の追記も見られず、南北朝期に一気に署名されたもの」として譲らない。確かにこの仏の特徴は「鎌倉期の典型的な仏と異なり、胴体が厚い」という事から南北朝時代の仏と見る意見も有る。しかし、中には「この仏の造り方は古い時代の仏を思わせる」とした書評を載せている記事も有る。
この観音像の胎内に「遍照位襄顕」と読める胎内銘が有る。後鳥羽上皇は法名を「金剛理良然」と云い、長慶天皇は「金剛理覚理」と云う。又、後鳥羽上皇は当初、「顕徳院」と諡されたが、「崇徳院」「安徳院」等の「徳」の字は不吉だとして「後鳥羽院」に替えられたと云う。「顕」の字を天皇の諡に使用したのは唯一後鳥羽院だけで有ると云う。
胎内名の中心には「金剛位理卿」「金剛位理乗 本願聖人」と記載される。「金剛位理乗」の「乗」については学者は「空海」の「海→毎+水」とする解釈が殆どだが、真言宗の宗徒ならこの字は「乗」と解釈するだろう。真言宗の事は別名を「真言乗教」とも呼び、信徒を真言乗衆と呼んだらしい。又、「卿」とは日本では三位以上の公卿を指したが、中国の解釈では「皇帝」を指す様だ。とすれば「金剛位理卿」とは「金剛位理」と言う法名を持つ法王の「後鳥羽上皇」を指している。何故なら、同時に記載されている「藤原浄円 大旦那」については、同年代に生きた鎌倉幕府評定衆の一人の「齋藤左兵衛尉藤原長定法師〔法名淨圓〕」だからである。(✳「仏教語大辞典 東京書籍版」には、「海」は多くの河川が流れ込む場所である事から、様々な衆生の苦しみを受け入れる「僧」を指すと云う。)
顔の胎内に「奉納仏舎利」と2か所に記載され、隣に「粒◼」(木倉豊信氏解読の福岡町史には「粒」と解読)と見られる記載も見られる事から、この観音像は後醍醐天皇と師匠の東寺の文観が仏舎利5粒を施入した河内金剛寺の秘仏で有ったが、南北朝の戦乱を避けてその弟子の禅恵により越中吉岡庄の総持寺に運ばれたものと考えられる。この観音像の胎内仏と云われる鎌倉時代の僧形の仏様が長く総持寺の門徒総代を勤めた池田家に有る。この千手観音像は胎内仏と同じく鎌倉時代に造仏されて、河内金剛寺の摩尼院で住持の持仏として、後鳥羽上皇の祈願仏としてひそかに祀られていたもので、後鳥羽上皇と同じく幕府を懲伏していた後醍醐天皇は、建武二年(1335年)、勅令を出して貴重な空海が唐から持ち帰ったという仏舎利を5粒もこの観音像に納めて、弟子の禅恵に越中に緊急避難させたものと考えられる。この時、禅恵は70歳で有り越中に來る事は無いという学者の推論も有るが、師匠の東寺長者文観や後醍醐天皇の意志が納められたこの千手観音像をその命令で戦乱を避けて無理でも越中に避難させる必要があったとすればその背景も理解できる。河内金剛寺に残る禅恵の「金剛仏子禅恵」の筆跡と衆徳山総持寺の観音像の胎内銘に有る「金剛位禅恵」の筆跡は酷似しており、金剛寺の僧禅恵により越中吉岡庄の総持寺にこの仏像が伝えられた事は間違いでは無いと思われる。歴史の検証は推論や思惑で行ってはならないが、この胎内銘の解読と仏舎利が納められたと推定される白毫部分等のエックス線検査が行われればこの仏の検証は必ず行う事ができると思われる。(昭和39年の解体修理記録には白毫の下に埋木があったと記載されている。この観音像の胎内仏等も調査されていない。)学者の先入観念よりも科学的調査に拠る解明こそこの貴重な観音像にとって待たれる所である。(註)後醍醐天皇が河内金剛寺の住持持仏に東寺の仏舎利5粒を納めた経過は「河内金剛寺の中世的世界 堀内和明著」に詳しい。又、興福寺修復仏師「幸賀」については「日本彫刻史研究 小林剛著」に示されている。
◆平成27年に総持寺でも「仏舎利容器」が2基発見されているが、空海所縁の東寺の仏舎利はすべて仏像の白毫の下に埋められていると伝わる事から、白毫の下の科学的調査が先ず優先されるべきだと考える。これは、河内金剛寺に残る「後醍醐天皇仏舎利施入状」との関連を調べる上では重要だ。





■「公方」は後醍醐天皇の事。天皇は東寺に保管される「空海が唐から持ち帰った80粒の仏舎利」から勅封を解いて2粒を金剛寺に下賜し、併せて東寺長者文観が3粒を納めたとする文書。東寺の仏舎利壷は2つ有り、1つは天皇しか開封できない「勅封」のもの、1つは東寺長者管理の壷で長者は定期的に数を勘定(勘計)して記録していた。
(※「東寺百合文書ー 仏舎利勘計記録」)

■総持寺千手観音像の顔から首筋にかけてその内側には「奉納仏舎利」と2ヶ所に記載されている。最近、総持寺には古い木製の「仏舎利容器」が2基発見されているが、この胎内に納められたものかどうかは確認されていない。


■「正平八年 御入」の記載からこの年1353年にこの仏像は製作されたと云われる。しかし、1335年に仏舎利が納められた金剛寺住持持仏は多くの胎内名の記載と共に1353年に総持寺にもたらされたとは考えられないだろうか? 「富山県史」「高岡市史」「福岡町史」等にはこの胎内名の解読文が載せられているが、何れも正確では無い。昭和39年に富山県教育委員会が解体調査した記録があるが、この仏像の歴史は昭和12年の国宝指定の時の内容(禅恵の署名)以上の調査研究は行われていない。いや、この禅恵についてさえも異論が出て来ているのだ。どの学者の解読も、この仏像が河内金剛寺から後鳥羽上皇の「後院領越中吉岡庄」の「総持寺」に伝わったと言う背景が抜けている為、何れの調査も推論と虚偽が入り込んでいる。平成26年に、「後院領越中吉岡庄」は旧赤丸村を含む「五位庄」の前身であったと「国立歴史民族博物館」のデーターベースで確定している。





■【(註)河内金剛寺:高岡駅南にある総持寺の千手観音像は高野山別院格であった真言宗天野山金剛寺の禅恵が伝えたと云われている。金剛寺は後白河院の第二皇子守覚法親王の時に仁和寺喜多院末(本寺)に編入され、興福寺大乗院門跡(本家)が六代に亘り院主職を兼務した。赤丸浅井神社を中心とした「越中吉岡庄」は後白河上皇の「後院領」で有り、「守覚法親王」は源義経の熱心な支援者であったと云われる。赤丸浅井城の前の「二位の渡し」の「義経記」で平権守が義経を見逃した背景や、後に、河内金剛寺から重要な観音像が赤丸の「観音寺」(※後に「惣持寺」→「高岡山総持寺」→「衆徳山総持寺」)に伝わった背景もここにあったと思われる。この時期には多くの僧兵を抱えた近くの「石動山」も後白河上皇の庄園で「勅願寺」となっている。尚、金剛寺の開基は越中倶利伽羅谷で木曽義仲と戦って戦死した三善(源)貞弘。】


■「奈良薬師寺」は「東大寺」と同じ「法相宗」の寺院で在る。(※東大寺は法相宗他の宗派の教を学ぶ六宗兼学の寺で在る。)
奈良平城京に天平2年(730年)に創建された薬師寺東棟は、2009年からの平成の解体修理(2018年迄の予定)で約110年振りの東塔の解体修理が進められている。この棟が建てられた頃は、724年(養老8年)に元正天皇が上皇となり、聖武天皇が即位されて、729年(天平元年)2人共に29歳になった年に光明子が皇后となっている。薬師寺東棟の解体の時に驚いたニュースが発表されている。それに拠ると、この東棟の心柱の最高部から白布に包まれた「奉納仏舎利」と記載された木箱が発見され、その中から富山県小矢部市岡に在る石黒氏の居城「木舟城」所縁の「宝性寺の仏舎利容器」とソックリな仏舎利容器が出てきている。(この薬師寺の仏舎利は玄奘三蔵が伝えたと云われる仏舎利だと伝わっている。)






◎小矢部市岡の「宝性寺」に伝わる石黒氏所縁?の(或は宝性寺住職先祖の長谷部信連所縁のものか?)「謎の仏舎利容器」。薬師寺東棟から発見された仏舎利容器とソックリだ❗「宝性寺」は高岡市福岡町木舟に在った石黒氏の居城「木舟城下」に在った寺で、石黒氏は「赤丸浅井城」「赤丸城」の城主でもあった。「赤丸城」の至近距離には「総持寺」があったが、「奉納仏舎利」と総持寺の観音像の胎内に記載されている「仏舎利」の行方は不明の様だ。「義経記」には「如意の城」と記載され、解説には「如意の城とは五位の城(石黒氏の赤丸浅井城)の事か?」と記載されている。
■「宝性寺の仏舎利容器」が何故、宝性寺に伝わったかも、製作年代も不明だが、同形の薬師寺の舎利容器は江戸時代の作だと報じられている。尚、宝性寺は元々天台宗であった。薬師寺は興福寺と同じ「法相宗」である。河内金剛寺は長く興福寺から長老を迎えていた寺で仁和寺末の寺で在った。赤丸の「川人山鞍馬寺」は天台宗の「本山派(聖護院派)両部神道」であった。薬師寺東棟が聖武天皇の時に建立され、赤丸浅井神社の創建に聖武天皇の弟の石川朝臣広成が携わったとする由緒も有り、この仏舎利の由来は大きな謎解きの鍵になる。石黒氏は「如意宝珠」(仏舎利)を信仰して名古屋に「如意郷」を開き、「如意城」を築造している。この舎利容器の中に在る仏舎利は米粒位のグレーのもの1つと純白のもの1つが二段に別けて容れてある。
■石黒氏居城の木舟城下には、現在小矢部市に移転している「真言宗観音寺」が在った。この仏舎利容器が加賀藩の時代のものなら、前田氏が木舟城を居城とした時代になる。前田家は総持寺、倶利伽羅長楽寺、上市大岩不動尊等の真言宗寺院も庇護している。仏舎利は真言宗寺院でもよく祀られていた。真言宗寺院は徳川時代迄は妻帯が認められず、一代限りで、又は途中でも交代があった為、寺宝等も売却されたケースもあったと伝わる。明治時代の廃仏毀釈では仏像、仏具、果ては建物迄が売却された。小矢部市の観音寺の建物は倶利伽羅長楽寺の本堂が移されたと云う。この仏舎利容器が元々、宝性寺の宝物なのか他から移されたものかは判らない。又、容器自体は江戸期制作でも、仏舎利自体が何処から伝わったのかも不明である。



■「宝性寺」は代々、能登の名門士族の「長氏」の末裔が住持を努め、浄土真宗の「院家」の格を持った。「宝性寺」は木舟城下から木舟城城主の石黒佐近屋敷跡に移転している。


●建久二年に各神社にも仏舎利を奉納している記録が有り、「銀の容器に入れた小塔(4寸・朴の木・彩色)」に納めてあったと記載されている。




■高岡市瑞龍寺の隣接地の「衆徳山総持寺」には「国指定重要文化財木造千手観音座像」の他にもう一体、重要な仏像がある。それは「薬師如来像」で年代も来歴もはっきりしない古い仏像で、元々この仏は安養坊?と呼ばれたらしい古寺に在ったと聞くが、この厨子は加賀藩の寄贈に拠ると云う。いつこの仏が総持寺に伝わったかも不明だが、総持寺にも薬師寺と同じ薬師信仰が有り、この「薬師如来像」は、総持寺に伝わる由緒では「春日明神の作」とする等、荒唐無稽な部分も有り伝承に拠るものだろう。

■赤丸浅井神社初め、北陸各地に「行基」の伝承が残されている。「行基」の没後、弟子の真成によって記載された行基の墓誌「大僧正舎利瓶記」に「和上、法諱法行、一号 行基、薬師寺沙門也、俗姓高志氏、諱才智、字智法君之長子也、本出於百済王子王爾之後焉、・・・・・」と有り、「行基」は「薬師寺の僧」で有り、「本名は高志」と言い、「百済の王子の末裔」だと云う。




🔴加賀藩の歴史を刻んだ二人の歴史家。 ⇒「富田景周」と「森田柿園」⇒ 新たに発見した「歴史書の原本」?!!

2021-02-09 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■加賀藩の歴史学者で「越登賀三州志」等を著した「富田景周」が校正した「陽廣公偉訓 ( 陽廣公百首 )並 観樹公言行録 」を、幕末から明治にかけて多くの著作を遺した「森田柿園」が写しを取ったものが石川県立図書館、金沢市立図書館に保管されている。しかし、この「校正本の原本」自体はどこにも保管されていなかったが、偶然入手した古本がその原本と見られる事が判明した。
【「陽廣公偉訓 並 観樹公言行録」は 、加賀藩第三代(前田家四代)前田光高作「陽廣公偉訓」、「陽廣公百首」と、前田 重教(シゲミチ 加賀藩の第9代藩主)の子で、第十代治脩の養子前田斉敬(ナリタカ)の伝記「観樹公言行録」を富田景周が校正して合本にしたもの!! 】





■金沢大学の研究者であった方と聞く人物が所蔵本を処分したものを最近偶然に入手した。この本は相当古いもので、虫食い、変色も在り、著作者のサインの「臣富田景周頓首百拝謹撰」が記されている。石川県立図書館の「森田文庫」に保管されている森田柿園の自筆写本とこの古い校正本を比較すると、古い方には所々に実際の「訂正、書き入れ」等が在り、欄外に校正した部分が枠に囲まれて記されており、訂正部分には上書きや添え書きがして在る。一方、森田柿園の写本には「どの原本を誰が何時写したか」の記録が在る。







石川県立図書館の森田文庫の写本も、この校正本を忠実に写しているが、所々に訂正の省略や訂正部分の転記ミスも見られ、石川県立図書館に保管される「富田景周」の「越登賀三州誌」の筆跡とこの「校正本」は筆跡が良く似ている。
この校正本の「正本」は本来「陽廣公偉訓」、「陽廣公百首」、「観樹公言行録」が合本になったもので、富田景周は序文で「加賀藩の幾つかの偉訓を合わせて本を作成しようとした」事を記載しているが、結局、校正本は作成したものの実際に発行されずに 加賀藩に伝来したもので、その為に数人の家臣が此の写しを作成して富田景周の著作を遺そうとしたものと見られる。その為、写本には忠実に富田景周の校正本自体を写し取ろうとした形跡が見られ、外見的、内容的にこの入手した本が「富田景周」の「自筆校正本」と判断される。(※「森田柿園文庫」には別冊として「観樹公言行録」が保管されており、森田柿園が写本を作った時に別冊にしたものと見られる。)







■森田柿園の著作は石川県立図書館の「森田柿園文庫」に現物が保管されており、申請して写真撮影も許されているが、これ等の著作について専門に研究している方はいないと聞いた。この森田文庫には富山県赤丸村の「浅井神社古墟図」の畳二枚分位の大判のカラー絵図が遺されている。しかし、この絵図は巨大な為に、又、貴重絵図の為に一般に余り知られて居なかったが、平成28年に石川県史編纂室が森田文庫の絵図を白黒、A4版で発行している。富山県西部は加賀藩に含まれていた為に富山県内に加賀藩時代の元本が遺されていない。「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒や藩政時代の古文書は石川県立図書館と金沢市立図書館近世資料館に多くが保管されており、残念ながら富山県内に現物が遺されていない事から、推測、伝承等が恰も富山県・高岡市の歴史かの様に伝えられている部分が在る。
奈良、平安時代には越中の資料は奈良、京都に遺され、鎌倉、室町時代のものは幕府の資料の中に遺されているのは当然だが、越中は政権中枢が置かれた歴史が無い為に残念ながら歴史資料の現物が殆ど遺されていない。長く属国、被占領国で在った為に古文書が少ない事と多くの戦乱で焼かれた事も在り、奈良、京都、鎌倉、名古屋等の都市は真剣にこれ等の古文書を遺して来たが、越中では支配者が代わる度に資料が焼かれ廃棄されて来ている。何よりも属国の民は支配者が代わる度に、嫌な支配者の記録を積極的に廃棄、焼却して来た歴史が在る事も越中の歴史に多くの推測が入り込んだ原因の様だ。
高岡市でもこれ等の歴史資料の保管が真剣に行われたとは思われない。高岡市の図書館、博物館等には本当に古い資料は他都市に比べて大変に少なく、「貴重書」、「貴重絵図」等の数も少ない。大体、富山県史、高岡市史や福岡町史等の歴史資料の現物すら、現在は何処に在るのか見当もつかない。しかも、これ等の史書には推測、決め付け、作り事が多く見られ、原本主義の歴史書とは言えない。
時々の政治家は思い付きの様に「県史」、「市史」、「町史」を編纂し、終わればその原始書類が何処かへ消えて仕舞う。石川県では現在も継続的に「編纂室」がそれらの機能を果して来ているが、昭和時代の中頃にはこの金沢市でも加賀藩の記録、古文書等が一束幾らで古書店の店頭で叩き売りされていた。しかも、これ等には加賀藩士達のの「サイン」の在るもの迄売られていた。この状況に当時の金沢市長に石川県、金沢市での公共的な資料館開設と自治体自体での資料収集を提案した事を思い出す。富山県、高岡市はその時から既に数十年も経っているが、未だに思い付きの様な「歴史都市構想」を唱えて、実際は古書、古文書の保管施設や収集機関すら動いていない。「老朽した博物館に金をかけて何になるのか」と言う「ガラパゴス的な意見」を云う人さえ居る事に、高岡市の「歴史都市構想」の実態が見えてくる。