■高岡市が広報している【高岡命名の由来】
■「高岡」命名については、佐々成政の末森城攻撃について前田家に知らせ、倶利伽羅「長楽寺」、金沢「金沢寺」、高岡「総持寺」、富山「富山寺」の住職になった福野「安居寺」の修行僧「秀雅」が名付けたとか、前田家の御伽衆「岡本三休」が提言したとか諸説がある。
しかし、高岡市は前田家の家臣が唱えたで有ろう「前田利長が命名した」とする都市伝説を、高岡市の正式の公告に使用している。
教育委員会に確認した所、根拠になる古文書も発見されていないと云う。只、有るのは総持寺の住職がその由緒で語った言葉を引用した「高岡史料」の記載だけで有る。(※「高岡史料」でもその他の異論についても触れている。)しかも、この古文書自体も何処に有るのか回答は無かった。
⇒▼しかし、加賀藩主にも伝えられていた『加賀藩史料 三壷聞書』には、その根拠や命名の時期について明確に記載されている。
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🔳加賀藩記録【三壷聞書】に記載される「高岡城の地鎮祭・高岡命名の由来」!!
★ここには【「関野」を改めて「高岡」と申す】と 記載されており、藩主の「利長」が「申す」と表現するのは考えられない。この表現では、【地鎮祭を行った二法印が利長に対して「申し上げた」】と云う意味と見られる。
■【三壷聞書 】(※森田柿園所蔵・14巻本・巻六)には、『加州利長公御隠居之事』として「高岡城地鎮祭は福井より呼んだ波着寺法印と明王院法童(※愛宕法印)の二人が執り行い、この時に関野を高岡と名付けた」と記載されている。
(※ここには、現在、高岡市が高岡市の命名由来について、【詩経の「鳳凰鳴けり高き岡に」から高岡市関町の総持寺住職が利長に「高岡」と提案した】と説明している内容は何処にも出て来ない。)
▼金沢市小立野の前田利常の妻「珠姫」の菩提寺「天徳院」近くの【波着寺】
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■【高岡山コーコーサン】は元々、『総持寺』(※高岡市関町)の山号で在ったが、瑞龍寺建立の時に加賀藩に取り上げられて「瑞龍寺」を「高岡山瑞龍寺」と名付けたと「富山県大百科辞典」(※富山新聞社)には記載される。
■近年では、衛星測量の技術が進歩して誰でも手軽にその地域の「標高」が確認できる。国土交通省やGoogle、マピオン等でも簡単に測定値を知る事ができる。
富山新聞社が刊行した「富山県大百科辞典」には、「高岡は元々の総持寺の山号を取り上げたもの」と記載されている。
封建領主の前田利長が総持寺の山号「高岡山総持寺」から取り上げて、その名は瑞龍寺の「高岡山瑞龍寺」に付けられたと云う。
■実際に検証して見ると、高岡市街地は「標高10m」だが、元々、《赤丸村舞谷》の小山に元々在ったと総持寺の千手観音像の国宝指定の時に国が発行した「国宝概説」にも記載されている様に、「高岡山総持寺」(※観音寺遺跡)の跡地を確認すると、その標高は「70m」で在る。
詩経の一節とされる「鳳凰鳴けり 高き岡に」の「高岡」とはたかだか標高10mの高岡市街地の事を指したのか、はた又、標高70mの小山を指したものかは歴然としている。
■又、「鳳凰鳴けり」とは、総持寺の千手観音像の胎内に「金剛位理卿」と言う「後鳥羽上皇の法名」が記載されているからだ。「承久の乱」に敗れて隠岐に流され、終生、幕府は京への帰還を赦さず、白骨となって本土の土を踏んだ後鳥羽法王の「無念の涙」を「鳳凰鳴けり」と言う一節に総持寺住職は込めたと見られる。従って、この詩経の一節は、総持寺に河内金剛寺から伝えられた「千手観音像の由緒」を伝えるもので有り、それを利長が取り上げたと云う事だ。
高岡市教育委員会には再三に亘り、この総持寺の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の精細な調査を相談したが、教育委員会からは「貴方がそこまで調べたのなら、何も調べる必要は無い。再調査するとしても貴方が学会でその意見を認められたら考える。」と回答して、飽くまでもこの都市伝説を守ろうとして見苦しい回答を文書で送りつけて来た。
再調査をすれば、高岡市の由緒が明らかになるのが困るのか? 何故、高岡市には歴史を紡ぐ明確な根拠資料が無いのか?
コレが高岡市の「歴史の都市づくり」の原点に在る。
▼「金沢市」でも、家臣の森田柿園等が「金沢の由来」については「金沢古蹟史 34巻」等で、詳しく記載しているが、その由来は「藤原利仁将軍の末裔で富樫氏の祖の芋堀藤五郎の伝説」や「金洗沢霊泉」の伝説等に有るとして、「前田●●が命名した」等の説明は一切無い。寧ろ、第十三代前田齋泰は、わざわざこの由来を石碑に彫り込ませてこの「金洗沢霊泉」に設置させている。この泉は現在、兼六園内に在るが、この泉自体は相当古くから在ったもので、前田家とは関係無い事も記載している。この辺りが、同じ加賀藩でも、金沢市と高岡市の歴史認識の違いと言える。
■前田家家臣達が高岡市の由来を伝えたのか、高岡の有力商人達が誇張して「前田利家」を「鳳凰」に迄 比して伝えたものかは明らかでは無い。何処の高潔な大名でも封建領主が「天皇(鳳凰)」に比喩されている国は日本国中、聞いた事が無い。天皇の象徴の「鳳凰像」をあちこちに飾る高岡市では、「令和」の新天皇が即位された日にも、「鳳凰」を喧伝してきた高岡市内の商店街には、御祝いの「国旗」を掲揚している家も見られなかった。「日本国の象徴」で在る天皇をそこまで貶しめている馬鹿げた都市は全国何処にも無い。その恥ずべき伝説を現在も「高岡市教育委員会」や観光課等が公然とHPで広報しているのだから全国に「歴史都市」等と大口を叩けるのか? その「厚顔無恥」ぶりに、市民はどの面下げて「高岡市の歴史」を説明しているのだろう。
中国の古代では「鳳凰」は「天」が認めた「皇帝」を指し、「鳳凰はまずい竹の実を食べた」事から、正に「皇帝」は国民の模範でもあった。
ところが、加賀藩では武士達は贅沢の限りを尽くし、庶民を75%もの殺人的な税金で搾り尽くし、借金まみれにして女子供を売り買いしてサイドビジネスに励んだ者達もいたと云う。その象徴が現在も遺る「金沢東郭」、「金沢西郭」の跡地で在る。金沢市民達は、その圧政を知ってか知らずかその「郭跡地」を自慢げに観光地として全国に喧伝している。藩政時代に、此処でどれだけの女達が売り買いされ、「血の涙」を流したかも知らずにで有る。しかも、役に立たなくなった女達は能登の農家に売られ、終生、村落の共有農奴として牛馬の如くに使役されたと言う。
かつて、「金沢市の長期ビジョン」を策定する時の分科会座長を勤めた時に、金沢市民から「郭の街」を金沢市の「標語」にすべきだと云う意見が出てその無神経さに驚いたものだが、現在では、誰もがその意味も知らずに「郭の街」は金沢市の観光地になっている。
その悪玉達の親玉が加賀藩の殿様だったと云うのだから、この何処が「鳳凰」と云われるのか? (※「加賀藩の光と影」浅香年木)
高岡市の歴史は、有力な商人等が伝えた事が「歴史」を構成している様で、具体的な古文書等には立脚しない「お伽話」の域を越えていない。「高岡市史」でも「独断と偏見」を交えた「物語」が展開されており、「高岡市史」にはどこの「市史」にも必ず有る「資料編」も無いお粗末なもので個人の意見だけで構成された歴史書としては異例のものだ。
■教育委員会は学問、教育の総本山で有り、強大な権力を持つ行政組織だ。しかし、現在の高岡市の実態はかくも悲惨な状況に在り、子供達の教育を委ねられる機関とはほど遠い。教育には「真実の追求」が学問の根底に有るべきでは無いのか?
■「高岡」命名については、佐々成政の末森城攻撃について前田家に知らせ、倶利伽羅「長楽寺」、金沢「金沢寺」、高岡「総持寺」、富山「富山寺」の住職になった福野「安居寺」の修行僧「秀雅」が名付けたとか、前田家の御伽衆「岡本三休」が提言したとか諸説がある。
しかし、高岡市は前田家の家臣が唱えたで有ろう「前田利長が命名した」とする都市伝説を、高岡市の正式の公告に使用している。
教育委員会に確認した所、根拠になる古文書も発見されていないと云う。只、有るのは総持寺の住職がその由緒で語った言葉を引用した「高岡史料」の記載だけで有る。(※「高岡史料」でもその他の異論についても触れている。)しかも、この古文書自体も何処に有るのか回答は無かった。
⇒▼しかし、加賀藩主にも伝えられていた『加賀藩史料 三壷聞書』には、その根拠や命名の時期について明確に記載されている。
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🔳加賀藩記録【三壷聞書】に記載される「高岡城の地鎮祭・高岡命名の由来」!!
★ここには【「関野」を改めて「高岡」と申す】と 記載されており、藩主の「利長」が「申す」と表現するのは考えられない。この表現では、【地鎮祭を行った二法印が利長に対して「申し上げた」】と云う意味と見られる。
■【三壷聞書 】(※森田柿園所蔵・14巻本・巻六)には、『加州利長公御隠居之事』として「高岡城地鎮祭は福井より呼んだ波着寺法印と明王院法童(※愛宕法印)の二人が執り行い、この時に関野を高岡と名付けた」と記載されている。
(※ここには、現在、高岡市が高岡市の命名由来について、【詩経の「鳳凰鳴けり高き岡に」から高岡市関町の総持寺住職が利長に「高岡」と提案した】と説明している内容は何処にも出て来ない。)
▼金沢市小立野の前田利常の妻「珠姫」の菩提寺「天徳院」近くの【波着寺】
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■【高岡山コーコーサン】は元々、『総持寺』(※高岡市関町)の山号で在ったが、瑞龍寺建立の時に加賀藩に取り上げられて「瑞龍寺」を「高岡山瑞龍寺」と名付けたと「富山県大百科辞典」(※富山新聞社)には記載される。
■近年では、衛星測量の技術が進歩して誰でも手軽にその地域の「標高」が確認できる。国土交通省やGoogle、マピオン等でも簡単に測定値を知る事ができる。
富山新聞社が刊行した「富山県大百科辞典」には、「高岡は元々の総持寺の山号を取り上げたもの」と記載されている。
封建領主の前田利長が総持寺の山号「高岡山総持寺」から取り上げて、その名は瑞龍寺の「高岡山瑞龍寺」に付けられたと云う。
■実際に検証して見ると、高岡市街地は「標高10m」だが、元々、《赤丸村舞谷》の小山に元々在ったと総持寺の千手観音像の国宝指定の時に国が発行した「国宝概説」にも記載されている様に、「高岡山総持寺」(※観音寺遺跡)の跡地を確認すると、その標高は「70m」で在る。
詩経の一節とされる「鳳凰鳴けり 高き岡に」の「高岡」とはたかだか標高10mの高岡市街地の事を指したのか、はた又、標高70mの小山を指したものかは歴然としている。
■又、「鳳凰鳴けり」とは、総持寺の千手観音像の胎内に「金剛位理卿」と言う「後鳥羽上皇の法名」が記載されているからだ。「承久の乱」に敗れて隠岐に流され、終生、幕府は京への帰還を赦さず、白骨となって本土の土を踏んだ後鳥羽法王の「無念の涙」を「鳳凰鳴けり」と言う一節に総持寺住職は込めたと見られる。従って、この詩経の一節は、総持寺に河内金剛寺から伝えられた「千手観音像の由緒」を伝えるもので有り、それを利長が取り上げたと云う事だ。
高岡市教育委員会には再三に亘り、この総持寺の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の精細な調査を相談したが、教育委員会からは「貴方がそこまで調べたのなら、何も調べる必要は無い。再調査するとしても貴方が学会でその意見を認められたら考える。」と回答して、飽くまでもこの都市伝説を守ろうとして見苦しい回答を文書で送りつけて来た。
再調査をすれば、高岡市の由緒が明らかになるのが困るのか? 何故、高岡市には歴史を紡ぐ明確な根拠資料が無いのか?
コレが高岡市の「歴史の都市づくり」の原点に在る。
▼「金沢市」でも、家臣の森田柿園等が「金沢の由来」については「金沢古蹟史 34巻」等で、詳しく記載しているが、その由来は「藤原利仁将軍の末裔で富樫氏の祖の芋堀藤五郎の伝説」や「金洗沢霊泉」の伝説等に有るとして、「前田●●が命名した」等の説明は一切無い。寧ろ、第十三代前田齋泰は、わざわざこの由来を石碑に彫り込ませてこの「金洗沢霊泉」に設置させている。この泉は現在、兼六園内に在るが、この泉自体は相当古くから在ったもので、前田家とは関係無い事も記載している。この辺りが、同じ加賀藩でも、金沢市と高岡市の歴史認識の違いと言える。
■前田家家臣達が高岡市の由来を伝えたのか、高岡の有力商人達が誇張して「前田利家」を「鳳凰」に迄 比して伝えたものかは明らかでは無い。何処の高潔な大名でも封建領主が「天皇(鳳凰)」に比喩されている国は日本国中、聞いた事が無い。天皇の象徴の「鳳凰像」をあちこちに飾る高岡市では、「令和」の新天皇が即位された日にも、「鳳凰」を喧伝してきた高岡市内の商店街には、御祝いの「国旗」を掲揚している家も見られなかった。「日本国の象徴」で在る天皇をそこまで貶しめている馬鹿げた都市は全国何処にも無い。その恥ずべき伝説を現在も「高岡市教育委員会」や観光課等が公然とHPで広報しているのだから全国に「歴史都市」等と大口を叩けるのか? その「厚顔無恥」ぶりに、市民はどの面下げて「高岡市の歴史」を説明しているのだろう。
中国の古代では「鳳凰」は「天」が認めた「皇帝」を指し、「鳳凰はまずい竹の実を食べた」事から、正に「皇帝」は国民の模範でもあった。
ところが、加賀藩では武士達は贅沢の限りを尽くし、庶民を75%もの殺人的な税金で搾り尽くし、借金まみれにして女子供を売り買いしてサイドビジネスに励んだ者達もいたと云う。その象徴が現在も遺る「金沢東郭」、「金沢西郭」の跡地で在る。金沢市民達は、その圧政を知ってか知らずかその「郭跡地」を自慢げに観光地として全国に喧伝している。藩政時代に、此処でどれだけの女達が売り買いされ、「血の涙」を流したかも知らずにで有る。しかも、役に立たなくなった女達は能登の農家に売られ、終生、村落の共有農奴として牛馬の如くに使役されたと言う。
かつて、「金沢市の長期ビジョン」を策定する時の分科会座長を勤めた時に、金沢市民から「郭の街」を金沢市の「標語」にすべきだと云う意見が出てその無神経さに驚いたものだが、現在では、誰もがその意味も知らずに「郭の街」は金沢市の観光地になっている。
その悪玉達の親玉が加賀藩の殿様だったと云うのだから、この何処が「鳳凰」と云われるのか? (※「加賀藩の光と影」浅香年木)
高岡市の歴史は、有力な商人等が伝えた事が「歴史」を構成している様で、具体的な古文書等には立脚しない「お伽話」の域を越えていない。「高岡市史」でも「独断と偏見」を交えた「物語」が展開されており、「高岡市史」にはどこの「市史」にも必ず有る「資料編」も無いお粗末なもので個人の意見だけで構成された歴史書としては異例のものだ。
■教育委員会は学問、教育の総本山で有り、強大な権力を持つ行政組織だ。しかし、現在の高岡市の実態はかくも悲惨な状況に在り、子供達の教育を委ねられる機関とはほど遠い。教育には「真実の追求」が学問の根底に有るべきでは無いのか?