赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📖 高岡市の「荊波神社」の祭神論争と「越中吉岡庄」に伝わった「天台宗」・「真言宗」兼学の文化⇒偽作「高岡市史」の論証!!

2021-04-17 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■【祭神も調べずに神社の是非を論ずる「高岡市史」】
「高岡市史」は高岡市福田の「荊波神社」(※ウバラジンジヤと呼ばれている)の祭神は【「十禅師(地蔵菩薩)」で在り、古代の越中砺波郡の郡ク司一族の「利波臣」の祖先とされる「彦刺方別命ヒコサシカタワケノミコト」で在る。】とし、「高岡市万葉歴史博物館」は【延喜式内社の「荊波神社」は砺波市池原の神社が該当する】と記載しているが、「富山県神社誌」には【祭神は瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト)】と記載され、この神社の祭神は高岡市の「二上射水神社」の祭神と同じで在ると記載している。「延喜式」と言う国法で在る律令に記載された神社は何れも天皇家の祖先神の神代の神々で在り、祭神の「格」からしても福田の神社が「延喜式内社」としてふさわしい。これ等から見ると、明らかに、「高岡市史」は意図的に「福田荊波神社」を否定する論陣を張っており、立地する高岡市が「福田荊波神社」の由緒を否定している理由が分からない。本当の「延喜式内社荊波神社」とは?
(※別の「福田神社」と称する神社が高岡市立野地内に立地している。)







▼「延喜式内社五位庄惣社赤丸浅井神社由緒」


■六宗兼学の「東大寺」と歴史的に密接な「東大寺庄園石粟庄図」にも掲載される「川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」の在る「五位庄」には天台宗、真言宗の教義が混在して伝わっている。「五位庄」の一角に在った高岡市福田の「荊波神社」は「天台宗妙法院領」になった時に「十禅師」の内の「地蔵菩薩」を祀ったとされるが、「十禅師社」は比叡山に祀られている。

・「越中吉岡庄」の領主で在った「後醍醐天皇」の第八皇子「宗良親王」はこの時期に「妙法院主」に就任されている。「宗良親王」は興国三年には越中に入られ、赤丸浅井城にも入られたと伝わる。「宗良親王」は「妙法院院主」の後に「天台座主」も勤められて、三度に亘り妙法院院主に就任されたと云う。
・真言宗の「総持寺」には南北朝時代の正平八年に「後醍醐天皇所縁の河内金剛寺」から黄金の仏像が伝来している。
・「荊波神社」は「赤丸浅井神社」の門前に屋敷を構えていた奥田、桜木の総本家の池田家の持宮「イバラの宮」と見られ、この池田家は高岡市福田周辺の池田地区を開発した一族と伝わっている。現在の福田荊波神社は元々近くに在ったものを現在地に動かしているが、神社側では元々の所在地は不明としているが、池田家は「イバラの宮が区画整理の時に動かされた」として従前の敷地の写真と遺跡の一部を保管している。(※「石堤村史」)
又、高岡市福田六家地区は「赤丸浅井神社」を総鎮守とした皇室領の「吉岡庄」(※後に「五位庄」)の一角に当たる。
「高岡市和田新村」は藩政時代に「和田佐助」が開発した村で、その住民は「赤丸西円の住民を強制移住させた」もの。(※「城端別院文書」富山県立公文書館)
その殆どの住民は無産の「頭振り」と呼ばれた「水呑み百姓」で「農奴」として扱われた。和田佐助自体も隠田の罪で「磔」で虐殺された。高岡市羽広の「諏訪神社」の社殿は「赤丸浅井神社の拝殿」を移設したもの。⇒建物には浅井神社と同じく皇室の「十六菊紋」が刻まれて居る。(※「富山県神社誌」)



■「赤丸村領高田島」(現在は高岡市高田島)には、「五位庄 郷社 赤丸浅井神社」の末社として「聖武天皇勅願社」(※「富山県神社誌」)と伝える「五位庄神社」が在り、「赤丸浅井神社」の祝詞にも記載されている。



■「十禅師」と「空海」
「空海」は、「清和天皇」の時に、宮中の内道場に奉仕して天皇の御斎会の読師等の勤めをした高徳の僧一〇人(※十禅師。供奉。内供)の内の「真済僧正」が天皇に申請して「大僧正」に任じられた。
(※「六国史 三代実録 清和天皇」)

★「十禅師」には二つの意味が在る。
①毎年、正月に朝廷で法要を行い国家安泰を祈願した高僧で、「十禅師」に任じられた高僧には【天台宗】最澄、光定、円仁、相応、円珍 【真言宗】真済、真紹 等が任命されている。

・「五位庄」に「十禅師社」が祀られた理由→「空海」は東大寺に真言宗の教義を伝えたとされるが、中世以前は宗派間の区別は明確では無く、東大寺は六宗兼学の寺とされており、「五位庄」の宗派も天台、真言の区分が明確では無かった。天台宗系の聖護院派川人山鞍馬寺の周辺寺院48坊の一つとされる総持寺が真言宗で在った事もその背景が在った為と見られ、現在、総持寺の持宮の「熊野社」が「赤丸浅井神社」に合祀されており、「総持寺」の過去帳には「赤丸浅井神社」の神官の先祖一族の名前が記載されていると云う。
(※「越中古文抄」高岡市中央図書館蔵)
元々、 「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を祀っていた「荊波神社」は「赤丸浅井神社」の両部神道の影響を受けて関係が在る「地蔵菩薩」を祭神としたものと見られる。「延喜式内社赤丸浅井神社」は延喜式が定められた遥か昔の「第五代孝昭天皇の御代」に古い社が創建され、後に「八の河の江の神」⇒「八河江比売」を祭神にされたと云う。
(※「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」)


▼「神名帳」には「ウバラノ」と注意書きが付されており、「ウバラノヤブナミ」と記載される写本も在り、本当は「荊原里」に在る「荊波神社」を指している。高岡市立野地区に比定される「東大寺庄園杵名蛭庄」の絵図には「杵名蛭庄」の隣接に「荊原里 ウバラノサト」と明記される。





■「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」には「杵名蛭庄」の位置について平成29年(2017年)6月に「高岡市立野地区」が追記された。




















②比叡山に祀られた日吉山王七社権現の一つで、国常立尊(クニトコタチノミコト)からかぞえて第十の神に当たる「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を「地蔵菩薩」の権現として名付ける。

🌸📃「崇徳上皇」の怨念の鎮撫--越中国「石動山石動寺」と「衆徳山総持寺」 ! !

2021-04-17 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■「後白河天皇」は「崇徳上皇」・「藤原頼長」と「保元の乱」を戦い、「崇徳上皇」は怨みを遺して讃岐に流され怨霊と成り、「左大臣藤原頼長」は殺害された。高岡市福岡町赤丸の周辺に拡がっていた「越中吉岡庄」は元々、「藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」の後に勝者の「後白河上皇」の「後院領」に編入された。「崇徳上皇」の怨霊に苦しまれた歴代の天皇は勅使を遣わして鎮撫され、各地に慰霊の施設を設けられたと云う。
















■現在、高岡の「衆徳山総持寺」は「真言宗高野山金剛峰寺」の末寺であり、保存されている「国指定重要文化財木造千手観音坐像」は「河内国金剛寺」から伝わったとされ、胎内には「禅恵」の署名がある。河内金剛寺は「空海」も修業した寺と伝わり、高野山の「別院格」、仁和寺(真言宗御室派総本山)を「本寺」、興福寺(法相宗大本山)を「本家」とする寺院である。南北朝時代の金剛寺の高僧「禅恵」の師匠の「文観」は「空海」が朝廷より賜った【東寺】(教王護国寺)の長者であった。「後醍醐天皇」が勅令を出し、金剛寺の住持の持仏に東寺所有の仏舎利五粒を施入したのは「後醍醐天皇」とこの「文観」であった。
「総持寺」は「空海」が創始した真言宗寺院で有り、これらのいずれの寺とも密接な関係が有る。この「文観」は「後醍醐天皇」の真言立川流の師であり、この教えにより「後醍醐天皇」は「異形の天皇」と呼ばれ、赤い太陽の珠を載せた独特の冠を冠り、手には仏法の法具を持ち、自らが「空海」が着用した法服を着用して鎌倉幕府の調伏を行ったとされる。「後鳥羽上皇」と「後醍醐天皇」に共通するものは何れも「怨念」「調伏」で有り、この千手観音像が密かに皇室の庄園「吉岡庄」の「赤丸」に運ばれて北朝や幕府の「調伏」の為に祀られた可能性も有る。






■石川県と富山県の境界に位置する「石動山」は、「後白河上皇」の時代には天皇の勅願所・直轄領(上皇の邸内に有った長講堂領)であった。鎌倉時代には五社権現形式の両部神道の「石動寺」と総称され、御室仁和寺の末寺で朝廷の祈願所としての格式を誇っていた。
御室仁和寺の門跡は「後白河上皇」の皇子、「高倉天皇」の兄の「守覚法親王」で在り、「源義経」の庇護者としても知られていたが、親王の母は源氏とも密接な熱田大宮司の一族とされる。


■建武二年(1335年)十二月、「後醍醐天皇」方の越中国司「中院定清」が「足利尊氏」方の越中守護「井上利清」等に追われて石動山の宗徒を頼り「石動寺」に逃れたが、その時に「足利尊氏」方の井上勢の軍勢に全山が焼き払われた。その後の興国二年には、室町幕府の足利氏の助力により山上の堂塔は復興されたが、この時には本山が「仁和寺」から京都山科の真言宗「勧修寺」に変わっている。室町時代には寺号も「石動寺 イスルギデラ」から「天平寺 テンペイジ」と改められた。
【註】河内金剛寺の金堂も「後白河法皇」が建立しており、石動寺と同じく「後白河上皇」の影響が強かった寺である。
【註】「天平寺」の本山となった「勧修寺」7世長吏となった「寛信」は真言宗小野流の一派の勧修寺流の祖とされる。「後醍醐天皇」の師となった東寺長者の「小野僧正文観」は小野流を継いで「真言立川流」を大成し後醍醐天皇に伝授した。後醍醐天皇は自ら空海が唐から持ち帰った重宝の法衣を着用して幕府の調伏を行ったとされる。



■「衆徳山総持寺」の千手観音像の胎内名に記載されている「禅恵」については、河内金剛寺の学頭の「禅」恵」、高野山総持院「禅恵」、高野山127代座主「禅恵」等の「禅恵」の名前が上がっている。大正、昭和初期の南朝顕彰の風潮も有り、千手観音像が昭和12年に国宝に指定された時には、河内金剛寺が南朝の「後村上天皇」・「長慶天皇」の行宮であった事等も有って、この胎内名の「禅恵」は「河内金剛寺の学頭の禅恵」であろうとされた。この河内金剛寺の学頭の「禅恵」は「小野僧正文観」の弟子であり、「文観」の晩年には河内金剛寺で一緒に修行し、「文観」は金剛寺で亡くなっている。



■以上の事から推定すると、「衆徳山総持寺」(※元は「高岡山総持寺」であったと云う。富山県大百科事典 富山新聞社発行 参照)も、「五位庄」が「後白河上皇」の荘園の「後院領越中吉岡庄」であった時代には石動山の「石動寺」と密接な寺で、「御室仁和寺」の末寺であったと推定される。興国二年(1341年)には足利氏により「天平寺」が再建された。その後の正平八年(1353年、後村上天皇・南朝第二代天皇の時)には南朝支援の為に御室仁和寺と密接な河内金剛寺からこの千手観音像が天皇家荘園の「越中吉岡庄」の「総持寺」へ運ばれた。 現在の総持寺の由緒では「高野山金剛峰寺派」とされている。しかし、総持寺とは関係の薄い御室仁和寺の末寺の河内金剛寺から「重宝の千手観音坐像」が伝えられた事に違和感は無いだろうか? 
しかし、これが同じ御室仁和寺派の末寺からの移動であったとすれば納得できる。総持寺が在った赤丸村は「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園「越中吉岡庄」の中に在り、「御室仁和寺」は「宇多天皇」が御所として使用され、その後も天皇の即位式が執り行われた皇室とは密接な寺院で在った。
重宝の千手観音坐像は、戦火を避ける為と、劣勢に立ち始めていた南朝「後村上天皇」派への支援の為に越中に送り込まれたとは考えられないだろうか?

【註】胎内名に記載された「正平八年 御入り」はこの仏像が「総持寺」に伝えられた年を記載していると考えられる。
【註】興国三年(1342年)には「後醍醐天皇」の第八皇子「宗良親王」が越中に入られ、南朝支援を図られた。興国二年には足利氏により能登と越中の境界に有る要衝の石動山に「天平寺」が建立され、南朝勢力の危機感の表れがここに有ったと考えられる。越中石黒氏は「宗良親王」を「木舟城」にお迎えし、赤丸城ケ平の麓に「親王屋敷」を建ててお迎えしたと伝わる。この時、「宗良親王」には河内源氏の石川氏等が随行し、越中国人領主の柴田氏、本間氏、柴氏等がお迎えしたと云う。
(※元赤丸の極楽谷に在ったと伝わる「越中宮極楽寺由緒」参照)

総持寺の歴史が消されたのも、元々は南朝方の「後醍醐天皇」との密接な歴史を消す為だったのか? 
伝承では「総持寺」は南朝の衰退と共に元々「越中吉岡庄」と呼ばれた現在の赤丸の地から門徒総代池田氏の所領の地の高岡市関町の地に移転したと伝わる。南朝が衰退し北朝の天皇になってからは、明治44年(1911年)に「南朝が正統」と議決される迄の長い間、南朝系の寺はその由緒を隠し続けなければならなかったものと思われる。
この時の南朝顕彰運動の結果、南朝の「後村上天皇」(後醍醐天皇第七皇子)、「長慶天皇」(後村上天皇の第一皇子)は初めて歴代天皇と認定されて「皇統譜」に記載され、高岡の地で北条一門の名越氏により殺害された後醍醐天皇皇子の「恒性皇子の墓」も正式の宮家墓地として認定されている。

■「石動山石動寺」も「赤丸浅井神社」も両部神道の修験道であった。「石動寺」には多くの比叡山系の僧兵が居たとも伝わる。「赤丸浅井神社」は【本山派(聖護院)山伏】であり、「後白河院」の子の「静恵法親王」は「聖護院」で出家して「聖護院門跡」となっており、「赤丸浅井神社」からは「聖護院」に向けて奉納の荷が送り届けられていた。



この様に見てみると、三社権現形式の「川人山鞍馬寺」・「赤丸浅井神社」と5社権現形式の「石動山石動寺」は同じ皇室所縁の荘園の中に有り、恐らくは何事にも一体として動いていた可能性が有る。「石動山石動寺」と「赤丸浅井神社」は共に勅許により管内の農民から米一升の初穂米・知識米を集める権利を認められ、「赤丸浅井神社」と「石動山石動寺」は経済的にも交流があったらしい事が神社の古記録から窺える。

■「保元の乱」で「崇徳上皇」と「藤原頼長」は「後白河天皇」の策略に破れ、「崇徳上皇」は讃岐に流され、「頼長」は殺された。天皇家の後継者問題から、「崇徳上皇」は無視され、「頼長」は意図的に「悪左府」と呼ばれて悪人のレッテルを貼られた。追い詰められた両者は止む無く蜂起し、そして殺された。「後白河上皇」は恨んで死んだこの二人の怨霊を慰める為に【保元合戦跡地】に「仁祠」を立てたと云う。「崇徳上皇」の怨霊は「二条天皇」、「六条天皇」、「高倉天皇」、「安徳天皇」の四代の天皇を夭死させ、「建春門院」や「藤原基実」も死に追い込んだ。二人の怨霊は死後、四半世紀を経て怨霊となり天下に擾乱を引き起したと「古記--寿永元年(1182年)六月」(※天皇は安徳天皇。寿永二年後鳥羽天皇践祚。後白河法皇の院政期。) に記載されている。代々の天皇家では特にこの二人の怨霊を恐れ、鎮撫の催しを開いたり、怨霊を鎮撫する施設を建てている。「後白河上皇」側は、「崇徳上皇」・「藤原頼長」を策謀により死に追い込み、更に、勝利した「後白河上皇」は「藤原頼長」の荘園(越中吉岡庄、能登一青荘、奥州五か国の荘園等29庄園)を没官して自らの隠居費用に充てたと云う。「後白河上皇」の後の「二条天皇」、「六条天皇」、「高倉天皇」、「安徳天皇」が次々に夭折し、その後に即位したのは「後鳥羽天皇」で有る。「後鳥羽天皇」の恐怖は比べるべきも無い程で有った様で、「崇徳上皇」を祀る四国の【讃岐金毘羅宮】に勅使を派遣して「崇徳上皇」の魂を鎮撫したと云う。

■南北朝期になり【河内金剛寺】が戦乱に巻き込まれる恐れが強まった。胎内に「金剛位理卿 (※後鳥羽上皇の法名) 本願聖人」と記載され、貴重な仏舎利が五粒も施入された千手観音坐像は、都の鬼門の方角に有る越中の「後醍醐天皇」の荘園「越中吉岡庄」に送り届けられ、「総持寺」に安置されたものと考えられる。「後醍醐天皇」も足利幕府を憎みつつ、遠い昔に直系の「後白河上皇」が引き起こした天皇家の惨事とそれによって引き起こされた「呪い」を恐れた事だろう。又、同じ流罪になった天皇として「後鳥羽上皇」の思いがよく理解できた事だろう。その為、貴重な仏舎利五粒を施入したこの千手観音像に、幕府に対する調伏の願いと「後鳥羽院」と共に憤死した「藤原頼長」を弔う思いを込めて、元藤原頼長領であったこの「越中吉岡庄」の総持寺に運んだものと推定される。

【註】私見では、【河内金剛寺】の僧「禅恵」は総持寺千手観音像の胎内名に有る「禅恵」に間違いは無いと考えられる。河内金剛寺に残る筆跡と千手観音像の胎内に記載された署名の筆跡は非常に良く似ている。専門家の鑑定を待ちたい。


📚📃高岡市「衆徳山総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」⇒「越中吉岡庄」に伝わる黄金の千手観音像の謎??

2021-04-17 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■高岡駅南にある古刹の「衆徳山総持寺」では秘仏の「国指定重要文化財 木造千手観音坐像」の年一回の「御開帳」と「護摩祈願」が行われている。
(日時)毎年11月 15日
(場所)高岡瑞龍寺の近所。








「衆徳山総持寺千手観音像の胎内名」





「衆徳山総持寺千手観音像の胎内名に記載される大壇那藤原浄圓」



■高岡駅南にある古刹の「衆徳山総持寺」にはその昔から、黄金に輝く千手観音像が有り、南朝の天皇行在所になっていた河内金剛寺の僧「禅恵」の名前が胎内名に有るとして昭和12年には国宝になったが、残念ながらその他の胎内名は殆ど調査もされずに今日に至っている。昭和39年に富山県教育委員会が調査しているが、膨大な「胎内名」には手が付けられていない。残念なのはこの千手観音像が像仏されたいきさつが全く解明されていない事だ。とりわけ、この仏像の胎内のど真ん中に書かれている「金剛位理 本願聖人」「藤原浄円 大旦那」の記載については全くどの学者も触れていない事だ。この「衆徳山総持寺」が高岡市街地に移転する前に在った「越中吉岡庄」は長く藤原摂関家の荘園で、その後は後白河上皇、後鳥羽上皇以降も後醍醐天皇迄続いた天皇直轄領の「後院領」と呼ばれた荘園で、「後院司」と言われる役人が管理していた場所である。南朝末に「下鴨神社領」となり、桃井直常、斯波高経の所領を経て室町時代には足利義満により「相国寺」の荘園となり後には足利家菩提寺「等持院」等の荘園として続いた著名な荘園である。しかし、「源平合戦」「承久の乱」「太平記」に出てくる「五位庄の戦い」、管領畠山氏の絡んだ「応仁の乱」や、上杉謙信、織田信長の攻撃、一向一揆による騒乱等、歴史的に絶え間なく戦乱の渦に巻き込まれた。その後も、前田利家が佐々成政を放逐して越中を占領すると、抵抗した一族、地域は徹底的に破壊、消滅させられた。中には赤丸村の様に神保氏張に従った地域は、集落の半数近くが高岡の和田新村へ強制移住させられたらしい。
(※「城端別院文書」「和田佐助寄進状」)  
 
■主要な寺院も高岡市内へ移転させられ、占領地には70%以上もの過酷な税の取り立てが行われ、土木工事などの様々な労役が課せられていた。そむけば磔の刑にし、投獄して弾圧していた。前任の佐々成政は悪人とされ、その伝承は消し去られたと云う。前田利家と佐々成た政が戦った「末森の戦い」でまんまと佐々勢をだまして前田を勝利に導いた沢川村田端氏等は辺り一面の所領をもらい、無役十村として権勢を誇っていた。高い税率を逃れる為、山中や荒れ地、川の沿岸等のわずかの土地に米や豆を植えて住民は耐え忍んだ。五位庄では用水の脇に堆積したわずかな土の上には「稲」を植え、田と田の間のわずか10センチ余りの「畔」にも「豆」を植えた。加賀藩は「十村断獄事件」をデッチあげて、「隠し田」の罪で百姓を取り纏める十村役を能登島に流罪にし、肝煎り、組合頭も連座して処刑され、十村役の数人を死亡させている。加賀藩の農政の記録に拠れば、その上、役人は米の計量時にわざと米をコボして役得とした。これ等の混乱の中で古い文化や記録について寺社はその「記録」を失った。現在、富山県の殆どの重要記録は石川県立図書館や金沢市立図書館に保存され、高岡の地元の人達がその歴史に触れる機会は少ない。金沢市内の加賀藩は100万石の財力を謳歌し、同じ加賀藩の高岡市内の商工業者も庇護されて贅の限りを尽くしたが、富山県の加賀藩領は「越中さ」と蔑んで収奪を強めた。金沢市内ではこの時代に「料亭文化」が花開き、旦那衆は「一両めかけ」と呼ばれる位に妾を囲ったと伝わる。越中高岡の人間は「てんびん商売」が当たり前で、金沢の人間は「一両貯まれば妾を囲って贅を尽くした」事を表す諺である。金沢以外の能登地区、富山県は加賀藩の属領として扱われ、越中五箇山と能登島は流人を流す場所であった。

■「衆徳山総持寺」の千手観音像の胎内名を調べると、この「越中吉岡庄の歴史」が明らかになる。
「金剛位理 本願聖人」とは「後鳥羽上皇の法名」で有り、「藤原浄円 大旦那」については鎌倉幕府で執権と共に政治を行った「評定衆」の一人の「左兵衛尉藤原長定法師 法名浄圓」※斉藤長定 である。この仏像は恐らく世を恨んで亡くなった「崇徳上皇」を慰める為に、後鳥羽上皇と藤原浄円が慶派の七條仏所にいた「幸賀」に造仏させ、絵仏師として南都繪所の「頼真」を起用したものだ。この事は「吾妻鑑」等にも詳細が記載されており、藤原浄円は後鳥羽上皇が隠岐の島で亡くなられた年の暮れに亡くなっている。後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こした時、そのリーダーは能登守もした藤原秀康だが、後鳥羽上皇は戦況不利とみるや逆に藤原秀康を逆賊として院宣を出して裏切った。結果、藤原秀康は斬首となり、後鳥羽上皇は息子の仁和寺道助入道親王により出家し、法名を「金剛位良然」となって、隠岐の島に流罪になる。後鳥羽上皇は生前、崇徳上皇の怨霊を慰めるため、四国の金毘羅宮に祭られた崇徳院の霊に対して勅使を遣わしている。この仏像が崇徳院の為か、承久の乱で裏切った藤原秀康等を弔う為だったのかは判らないが、評定衆を出していた「斎藤氏」は越中で承久の乱の際に後鳥羽上皇に味方した石黒氏の同族の「藤原氏」である。

■何故、文化庁や富山県、高岡市、そして学会迄もこの「衆徳山総持寺」の千手観音像の解明に否定的なのかは判らない。現在、この観音像は秘仏として年に一回だけ、十一月中旬に御開帳される。河内金剛寺に残る「後醍醐天皇綸旨」に拠ると、この仏像には空海が唐から持ち帰った東寺保存の仏舎利が施入されている可能性が高い。この観音像の胎内名には何と、大事な顔の内側に「奉納仏舎利」と2か所も墨書が残されている。

■後醍醐天皇は宝冠に赤い太陽を示す玉を乗せ、空海が着たと云う法衣を着た肖像が有名だ。後醍醐天皇は建武の中興の為に戦った時には、天皇旗の金の円を「怨念を示す赤い丸に塗りつぶし軍旗にしていた」と伝わる。後醍醐天皇の荘園、越中吉岡庄赤丸村の浅井城には後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が在城されたと伝わり、赤丸城ケ平の中腹にはその屋敷跡と伝わる「親王屋敷址」が残されている。従って、「赤丸村」の名称も「赤丸をシンボルにした後醍醐天皇の所領」という所から名づけられたとも考えられる。「赤丸村」の名称は一四九五年に「五位庄赤丸に住んだ藤原直家が法要を営んだ」と記載されている「東海和尚録」※「富山県史 中世」  が初めてで、古い時代の記録には「吉岡庄」「御い庄」「五位庄」は見られるが「赤丸」という表現はこれ以後である。
尤も、伝承では、浅井神社に草庵を結んだ泰澄大師が元正天皇の弥栄を祈って全ての祭器に赤丸を付けた事が「赤丸村」の始まりだと伝えるが、これは如何にも後から作られた説話と考えられる。東海地方では「茅かやくぐり」の神事と共に「赤丸の神事」と言って「赤ちゃんの額に赤丸印をつけて「疳の虫」を封じる神事が行われている。これが「虫封じ」の祭事ならば、「赤丸浅井神社に蝗害除去祈願の為、一条天皇が勅使川原左京を遣わされた」と伝わる赤丸浅井神社の神事に関わる名称であったものだろうか?

●「越中吉岡庄」については「富山県史」・「福岡町史」等で「福岡町周辺の五位庄のエリアに近いものが吉岡庄だろう」としていたが、東京大学資料編纂所の解説や歴史書には富山市の吉岡村、氷見の山中に在る吉岡等を該当地だとする記載が有った。その為、調査・再検討をお願いしていた所、2014/05/19 に「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構国立歴史民俗博物館」では、検討の上、「吉岡庄は下鴨神社の荘園であった時期が在り、富山市吉岡にはその痕跡が見られず、一方、福岡町加茂には下加茂社が在った事や吉岡庄地頭の吉岡成佐の居館が在ったと言う「吉岡谷」の存在」等からこの「五位庄の前身がほぼ吉岡庄と考えられる」として意見の統一が図られた。
「越中吉岡庄」は「保元の乱」の後に「後白河上皇」の庄園となり、上皇は「蓮華王院」(※三十三間堂)の庄園として寄進された。「越中吉岡庄」は「後白河上皇」から「後鳥羽上皇」に譲られ、後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」の後に一旦、勝者の幕府に没収されたが、後に後堀河天皇に戻されて、以後、「大覚寺統」に伝領した。(「福岡町史」、「日本歴史 中世」岩波講座p185)
(・南北朝時代の「後醍醐天皇」迄引き継がれたと云う。⇒「日本庄園史大事典」)

「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」には「富山県高岡市福岡町周辺の庄園」として記載される。「吉岡庄」の郷社の「延喜式内社赤丸浅井神社」ではその神域を「国吉郷24ケ村、宮嶋郷二ケ村を含む赤丸村周辺の53ケ村」とされており、古代庄園はもっと広域の庄園で在った様だ。(※「赤丸浅井神社縁起」富山県立公文書館)







🌸🌸 華々しい「越中吉岡庄」・「五位庄」の動乱の歴史ー藤原氏、天皇家、足利家、上杉謙信、佐々成政 !!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■【越中吉岡庄】:富山県で唯一の「上皇」の「後院領」
(※天皇退位後の庄園)





■「崇徳上皇」と藤原摂関家の「藤原頼長」は「保元の乱」で「後白河上皇」、「平清盛」、「源義朝」の軍に急襲され、「頼長」は戦死し、「崇徳上皇」は怨念を残して讃岐に流された。「越中吉岡庄」等29ケ所の「頼長」の庄園は「後白河上皇」の「後院領」に召し上げられ、「崇徳上皇」は亡くなって讃岐の金比羅宮に祀られた。
この庄園はその後「後鳥羽上皇」から南北朝時代の「後醍醐天皇」の時代迄、皇室庄園として伝領した。










■「白河上皇」は「越中吉岡庄」を「上賀茂神社」の庄園と定められ、「吉岡庄」には「上加茂社」、「下加茂社」が勘請されて、競馬の神事が行われた。その旧地は「加茂村」「馬場村」となった。「上加茂社」は「鳥倉神社」に、「下加茂神社」は「舞谷八幡宮」に合祀されている。








🔽「越中吉岡庄」は高岡市福岡町に在ったと「国立歴史民族博物館」は改訂した。
(古書の「荘園志料」には「越中吉岡庄」は富山市太田に在ったとされ、これが従来、学会の定説とされてきた。)



🔽能登一青庄、奥州五カ国等の「摂関家長者藤原頼長」の庄園
















■「延喜式内社 五位庄53ケ村総社 郷社 浅井神社 (※高岡市福岡町赤丸鞍馬寺地内鎮座)」の由緒案内リーフレットより



■「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の領有された「後院領」の時代には「平清盛」が寄進した京都の「三十三間堂」で著名な「蓮華王院領」に寄進された。南北朝時代の「後醍醐天皇」まで皇室領として伝領されたが、室町幕府三代将軍「足利義満」の時、「足利義満」により「金閣寺」で著名な「相国寺」に寄進されている。その後は足利家菩提寺の「等持院」、「等持寺」にその半分が寄進されている。この時に「五位庄」は後の「五位の東庄」と「五位の西庄」に分かれたと推定される。








■富山県西部の「延喜式内社赤丸浅井神社」の伝承では「一条天皇の御世、川原左京を蝗害防止の祈願の為浅井神社に勅使として派遣された」と云う。その時に植えられた桜を「勅使桜」と呼び、昭和初期迄巨大な桜として著名で有った。この桜の写真は今も浅井神社拝殿に掲げられている。「一条天皇」の頃、左京大夫で京都河原町にゆかりの人物は「一条天皇」の伯父に当る「藤原道長」である。この頃、浅井神社は天皇勅使を迎える神社であり、近年までは神社庁から祭礼の時に奉幣使が使わされていたという格式の高い神社である。
「越中吉岡庄」の歴史はこの頃から天皇家、藤原家と密接な荘園となった。「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒に記される様に、「越中吉岡庄」は恐らく、「一条天皇」の庄園で在ったと見られるが、「白河上皇」の時にその子の「堀河天皇」が「上、下賀茂神社」に庄園600町を寄進する事とされた時に、「吉岡庄」は「上賀茂神社」の庄園に成り、その後、管理が緩んだ庄園の管理を藤原摂関家の権力者「藤原頼長」に寄進した形で神社が管理を委ねたものと見られる。この庄園は時間と共に、実質的にも「藤原摂関家」で左大臣を勤め、「悪左府」と呼ばれた「藤原頼長」の個人庄園に組み込まれたものと見られる。

■【後院領】御門の「御領」を指し、代々の「わたり物」とも云われた庄園で在り、「一条天皇」の没後に「一条院」が皇太子「敦成親王」(後一条天皇)に伝領され、「後一条天皇」没後に「朱雀院」、「冷泉院」の庄園等が「後朱雀天皇」の「後院」に引き継がれた。「後院領」は「別当ベットウ」、「預アズカリ」、「蔵人クロウド」等が担当する「後院司」が置かれ、「別当」には主要な公卿が補任された。「白河上皇」の時から本格化したと云われる「院政期」には、親王期から引き継がれた財産を「治天の君」とされた上皇が一括管理して、「保元の乱」等で没官された庄園もこれに加えられ、莫大な上皇の庄園「後院領」が集積され、その一部は代々の上皇に引き継がれた。(※「日本史広辞典」山川出版)

■「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」によると、「一条天皇は蝗害除去祈願の為に勅使川原左京を浅井神社に派遣された」と伝わり、この事は「延喜式内社赤丸浅井神社」が【延喜式神名帳】では「国司が代理で弊帛を納める「国弊小社」の社格の神社に直接、天皇が「勅使を派遣している」事から、「一条天皇の時には既に天皇家の御領で在った」事を物語っており、本来、天皇家の庄園で在った「吉岡庄」は「藤原頼長」の時代に「藤原摂関家」に横領されていた事を指すのではないか?






■「藤原摂関政治」
仁和寺に入って法王となった「宇多天皇」(867-931年没)は藤原氏の勢力拡大を嫌い、「菅原道真」を重用して藤原氏を牽制したり、子の「醍醐天皇」(885-930年没)には「光孝天皇」の皇女で妹の「為子内親王」を正妃とした。その子の「醍醐天皇」の時代には摂関を置かず「延喜格式」を編纂して律令制度への回帰と天皇親政の理想の政治を行ったが「醍醐天皇」に妹の中宮「藤原穏子」を入内させた左大臣「藤原時平」は実質的に政務をリードし、皇太子には穏子の子がなった為、この時から実質的に後の摂関政治の基礎が形成されたと云われる。

※この「延喜式」に掲載された朝廷が認めた神社が「延喜式内社」で、「赤丸浅井神社」はこの延喜式内社である。「浅井神社」は後に両部神道の神社となっており、延喜式では両部神道等の神社は「式外社」で在ったと云うから、浅井神社が「式内社」で在り続けたのは、古くは浅井神社由緒にも現れる「元正天皇の二宮(*実際は文武天皇の二宮の事で元正天皇はその親代わりとなった女帝)」が創建されたと伝わる「皇室系の神社」であったからと考えられる。「保元の乱」で「藤原頼長」より「後白河上皇」に没官された「吉岡庄」は、「後白河上皇」の皇子が修験道聖護院派本山・本山派初代の門跡に就任されるに及び聖護院派の影響が強くなり、浅井神社も聖護院派になったものと考えられる。

■栄華を誇った藤氏長者「藤原道長」の次の「藤原頼通」の時代には、「後三条天皇」は1069年に「延久の荘園整理令」を発布し藤原氏や大寺社の荘園の拡大を阻止し始めた。後三条天皇の子の「白河上皇」(1053-1129没)※(天皇在位1073-1087後に上皇となる)の時、「白河上皇」は賀茂社への荘園給付の方針を示して、寛治4年(1090)に上・下両社に御供田として各600余町の不輸祖田与え、越中では下賀茂社には「倉垣荘」を、「上賀茂社領」として富山市の「新保荘」、高岡市福岡町赤丸周辺の「吉岡庄」が設定された。この時の藤氏長者は「藤原師実」であったが「白河上皇」は師実を信頼し、師実も上皇には協力していた為、この時には「吉岡庄」は藤原氏領から上賀茂社領になったものとみられる。
【註】「山野川湊の中世史」久保尚文著 参照

▼「白河上皇」の時に「吉岡庄」は「上賀茂神社」の庄園となる。




■寛治8年(1094)「藤原師実」の後を受けて関白になった「藤原師通」は「堀河天皇」とは協力関係にあったものの、白河上皇の政治介入には批判的であったが38歳で急死する。その子の「藤原忠実」は22歳の若さで師通の後継となり、長治2年(1105年)には「堀河天皇」の関白に任じられる。しかし、白河上皇の警戒は強く、藤原氏はその力が弱かった為、経済的な基盤を拡大して摂関家領荘園の拡大を図ったが白河法王はこれを警戒した為その動きは制約された。この頃に拡大した藤原氏の荘園の中に「上賀茂社領」となっていた「越中吉岡庄」も吸収され、藤原氏の荘園となり、それが後に「藤原頼長」の私領として伝領したものか?

■大治4年(1129年)に「白河法皇」が崩御し「鳥羽院政」が始まり「藤原忠実」は政界に復帰し、娘・勲子は「鳥羽上皇」の妃となり改名して皇后泰子となる。忠実は権勢回復の為、「鳥羽上皇」の寵妃の「藤原得子」(美福門院)や寵臣の「藤原家成」とも親交を深めたが、息子の「藤原忠通」に子が出来ない事を危惧した忠実は次男の「藤原頼長」を「忠通」の養子にする事にしたが、「忠通」に実子の「基実」が生まれると「忠通」は「頼長」との養子縁組を破棄する。「忠実」はそれでも「頼長」に摂関職を譲るように「忠通」に要求したが「忠通」がこれを断った為、父の「藤原忠実」は激怒して「忠通」から屋敷を取り上げ、「藤原氏長者」を「藤原頼長」にしてしまう。

■久寿2年(1155年)子供が無かった「近衛天皇」が崩御し、「藤原忠通」の推す「後白河天皇」が即位すると「頼長」は「近衛天皇」を呪詛した嫌疑がかけられ、保元元年(1156年)7月2日、「鳥羽法皇」が崩御すると「忠実・頼長」は謀反人とされて「後白河天皇」により屋敷も没収されてしまう。謀反人とされた「藤原頼長」は「後白河天皇」と対立した「崇徳上皇」と共に白川北殿に立て籠もり【保元の乱】が勃発する。

■NHKの大河ドラマでも【保元の乱】の場面を描いていたが、結果、「藤原頼長」は首に矢を受けて死亡し、「崇徳上皇」は讃岐に流される。藤原氏長者の荘園は「藤原忠通」に受け継がれ、父の「藤原忠実」は京都洛北に幽閉される。しかし、「藤原頼長」の私領となっていた二十九か所の荘園は保元二年三月二十九日の太政官符で「後白河上皇」の荘園「後院領」に没官された。(※「兵範記」)






■[氷見市の「上庄川」の流域を「阿努庄」と呼び、代々、醍醐源氏の源家賢の所領であったが、保延5年(1139年)頃に「鳥羽上皇」の皇后で「藤原頼長」の姉の「高陽院」に寄進された。「保元の乱」の後、藤原摂関家領の荘園が没収されるのを恐れた父の「藤原忠実」と「忠通」は「高陽院」の荘園と摂関家に伝領する荘園を、新たに摂関家長者になった「頼長」の兄の「藤原忠通」に寄進した形として朝廷に没収されるのを避けた。結果、没収は「藤原頼長」の固有の荘園二十九ヵ所の没収に止まり、依然として越中の氷見周辺は藤原氏の荘園として残る事になった。]

■しかし、この処理のお陰で長く朝廷には「崇徳上皇」・「藤原頼長」が怨霊として恐れられる事になり、四国讃岐の金毘羅宮には「崇徳上皇」を祀り勅使も遣わしている。「藤原頼長」には位を授けて鎮魂したが、策略で二人を殺した「後白河上皇」の子孫の天皇家は「安徳天皇」の様に悲惨な末路をたどる事をひたすら恐れ、各地に両者の鎮魂の施設を設けたと云う。本来は海の神の金毘羅宮が各地の山中に鎮座しているのもこの結果なのかも知れない。

■長寛2年(1164)、「後白河上皇」は邸内に建てた三十三間堂(蓮華王院)に「越中吉岡庄」を寄進された。「後白河上皇」は三十三間堂に1001体もの千手観音像を安置し、熊野詣も行って熊野信仰が広まる。




■「吾妻鏡」文治3年(1187)3月には「吉岡庄地頭吉岡成佐」が不法を働き「源頼朝」が交代させた事が記載されている。



■文永8年(1271)秦守高注進状(小浜市秦家文書) に「御い庄」との記載がある。---「後院の庄の転化したものか?」



■加賀藩記録「宝永誌」※南砺市福光町図書館所蔵  には「後醍醐天皇第八皇子宗良親王が赤丸浅井城に在城の時、「吉岡庄」を「五位庄」と名付けられた」事が記載されている。






■応安4年7月28日「桃井直常」が後位庄で斯波・吉見と戦ったとの記載がある。
(※「花営三代記」群書類従)
 結果、越中守護「斯波義将」が功により「五位庄」を与えられる。---桃井氏は足利氏・斯波氏の同族、織田氏朝倉氏は斯波氏の家臣。

■「吉岡庄」は「後醍醐天皇」迄伝領されたが応安7年(1374)京都下加茂社領となる。(藤原仲光奉書・柳原家記録)



■応永12年(1405)「足利義満」により「五位庄」は、室の「日野業子」(ナリコ)(定心院)の追善料として京都相国寺に寄進される。
  ---「室町幕府三代将軍足利義満」は「日本国王」と名乗り、その妻の「日野業子」は天皇の准母(名目上の母)となり、義満の子義嗣は親王と同等の格式を許されたと云う。皇室領に準じて「日野業子」の追善料として「京都相国寺」に寄進されたものか?  「金閣寺」は「相国寺」の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為に「金閣寺」と呼ばれている。




■応永22年(1415)「足利義持」により「五位庄の半分」が足利氏菩提寺の「等持院」(京都市左京区)に寄進され下地は守護「畠山満家」に預け置かれた。(※「福岡町史」)






■名古屋の「大須観音」に残る古文書には「濱惣持寺」で「管領畠山満家」の三回忌法要が営まれた記録が在り、この時には黄金の観音像が波に反射した光「金波」で輝いていたとされる事から、この寺は一時期、赤丸から日本海沿いに移り、その後、高岡市内に動いた「総持寺」ではないかとされている。(※射水市松山学芸員の発表に拠る)
⇒古くは赤丸の「総持寺」(観音寺)の直前に小矢部川が流れており、この「金波」と表現されたものは、「小矢部川の波に反射した光」とも解釈できるが、地元の伝承ではこの頃に「赤丸から動いた」とされており、赤丸と同じく石黒氏が地頭であったという「新湊の牧野」か「五位庄の六渡寺村」に総持寺が一時期動いた可能性もある。
「総持寺」の「千手観音像の由緒」に「六渡寺浜より上がった仏像」と記載されており、室町時代には「五位庄」が「伏木港」から「福野町野尻」迄、拡がっていたと云う。
(※旧総持寺門徒総代池田家の伝承)


■長禄3年(1459)「等持院」・「等持寺」(京都市中京区)より畠山氏の年貢未進を理由に直務を訴えたが足利義政は今後の年貢納入を確実にする様に指示した。(蔭涼軒日録)

■《一向宗勢力の伸長》
・永正12年(1575)石堤長光寺に阿弥陀如来絵像が本願寺実如から下賜されている。
・大永5年(1525)五位庄内又五郎所有の山畠が長慶寺の後始末をする為に氷見森寺西念寺に寄進され、西念寺が氷見の阿尾から森寺に移動している。(吉滝定孝寄進状・西念寺文書)---「越中志徴」には「五位庄は(氷見)菊池氏の所領なりき」と記載されている。氷見菊池氏は「元寇」で活躍した九州の名門で藤原氏。同族の内紛で菊池氏は越中に落ち延びたものか?近隣に勢力を持った八代氏とも縁組し、能登畠山氏とも提携するが、当初は佐々成政に味方し、後には前田利家に味方して子孫は前田家に仕官する。子孫に菊池大学の名が有る。

■永禄の末 1568年頃、上杉謙信と一向宗の争いがあり、天正4年(1576)に和睦後、上杉は越中を所領とする。天正5年上杉謙信は柴野城主寺島牛介(高岡市国吉地内)に五位庄の所領を安堵している。(金沢・寺島家文書)
※「寺島家文書」は2013年に亡くなられた「寺島蔵人と加賀藩政」の著者「長山直治氏」がお世話されて所有者の寺島啓氏所蔵の古文書の写しを石川県の金沢市立玉川図書館近世資料館に収められたもので、原本は岐阜に在住される寺島家当主が保管されていると云う。金沢市内には観光施設となっている「寺島蔵人邸」が残されている。富山県高岡市立博物館には寺島蔵人が高岡町奉行をしていた関係で地元旧家に残る蔵人の絵を用いた屏風等が保管されている。
※「上杉御家中諸氏略系譜」に上杉謙信越中攻めの際に「砺波郡の紫野(柴野?)五郎衛門城を攻めた」と有る。(「小矢部川左岸地域における中世山城とその性格」高岡徹著) ⇒ 寺島牛介が入城する前は柴野五郎衛門が城主だったものか?

■天正11年(1583年)3月佐々成政が越中を制圧。2年後には前田氏の支配となる。


















🌸「吉岡庄」・「五位庄」赤丸村⇒「吾妻鑑・義経記・太平記」と「赤丸浅井神社」、「浅井城」!!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「赤丸村発掘の古代遺跡…城ケ平横穴古墳」と「頭椎の太刀」冠頭部分、類似の発掘刀剣



■富山県西部の石川県境の西礪波郡と呼ばれた地域は古代から栄えた地域で、富山県では最大の横穴古墳群が存在する。赤丸村の城ケ平古墳群からは、大和朝廷が北陸道将軍に任命した「大彦命」の時代の「冠頭太刀(太刀の取手に豪華な装飾をしたもの)」が発掘され、多くの刀や遺骨が発掘されており、白河天皇の時にこの地域は「吉岡庄」として、上賀茂神社の庄園になっている。その後、「保元の乱」の敗者の藤原氏長者藤原頼長の庄園から勝者の後白河上皇の「後院領吉岡庄」となり、以後、上皇の庄園、天皇の庄園の「吉岡庄」は、後醍醐天皇迄続いた。その後は、足利将軍家の庄園となり、相国寺、等持院の庄園とされた。後白河上皇の時には「蓮華王院」(※「三十三間堂」には1001体の千手観音像が祀られた。)や、足利義満の時代には「相国寺」(※塔頭寺院に「鹿苑寺金閣寺」がある。)の庄園や京都下鴨神社の庄園となり、中央の最高権力者の庄園、著名な寺社の庄園になった。こうした背景から、北陸道の「越中吉岡庄」やその後の「五位庄」は、「平家物語」、 鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」、源義経の奥州下りの「義経記」や「源平盛衰記」、南北朝の動乱期の「太平記」「花営三代記」等の著名な歴史書の舞台で在った。この地域に幾多の武将、兵士が戦火を交え、宗祇法師等の幾多の著名人が行き交った地域で在った。しかし、度重なる戦火の下にかつて繁栄した地域は焦土となり、前田利家の侵攻で、史蹟や歴史は徹底的に抹殺されて、住民さえも移動させられて、遺されたのは、営々として流れる小矢部川のみとなり、今はその繁栄の面影は、奈良時代創建の「延喜式内社赤丸浅井神社」を残すのみとなってしまった。

■「赤丸浅井神社」は元正天皇二宮(実は文武天皇の二宮の石川朝臣広成。)の創建と伝わり、この辺りは「赤丸浅井神社」の前で庄川と小矢部川が合流しており、六渡寺の渡し場迄の小矢部川の船下りの交通路を古くから「如意の舟渡し」と呼んでいた。延喜式に登場する奈良時代の「川人の駅」に有った「二位の渡し」が 後の「五位の渡し」で有った。又、「赤丸浅井城」は「文武天皇の二宮」が居城とされ、後には東大寺大仏造営の時に多額の寄進をして東大寺庄園の開発に尽力した「利波臣志留志」の後衛の「石黒氏」が長く居城にしたと伝わる。(※「肯構泉達録」参照)

■「吾妻鑑」1187年(文治3年)3月2日の条に「越中の国 吉岡庄地頭成佐不法---頼朝恐々謹言」の文書が残されている。
吉岡庄の地頭成佐が不法にも後白河上皇の直轄領で有る「後院領」の「吉岡庄」で不法を働いたので源頼朝が交代させた。「成佐」は高岡市福岡町加茂の吉岡谷に居館を構え、福岡町大滝村を開拓したとも伝わる。


■宮本武蔵が戦った吉岡一門の祖の吉岡鬼一法眼は京都鞍馬寺で修業して京都の八人に伝えたと云われる京八流を編み出し、源義経に剣術を教えたと云う。吉岡庄赤丸に、南北朝期に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が勧請されたと云う「鞍馬寺」が有るのは何の縁か?
「義経記」に拠れば、義経・弁慶主従が東北に落ちる時、五位庄(「宝永誌」によれば後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が吉岡庄を五位庄と名付けられたと云う。)を通過し、二位の渡りから船に乗って六渡寺迄下ったと伝わる。二位の渡しで弁慶は平権の守に見とがめられ、義経を扇子で打ち据えて嫌疑を晴らしたと「義経記」は伝える。このシーンは脚色されて後の歌舞伎では石川県小松市の「安宅の関」の物語となっている。頼朝は義経を探索する為、全国に地頭を配置して摘発を強化していた。

■後醍醐天皇の庄園で在った「越中吉岡庄」は、必然的に「南朝の牙城」となり、後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王が赤丸浅井城に入られ、南朝の忠臣石黒氏等を鼓舞されたと云う。その為に「五位庄」は南北朝の戦火の渦中にあり、南朝の忠臣の桃井直常は「五位庄の戦い」で敗れて飛騨に去り、行方不明になったと云う。赤丸村舞谷の麻畑の地には桃井直常の三男が「西大寺」を建立したと伝わり、この寺はその後、高岡市佐野に移り、後に高岡市の小矢部川の沿川に移り、現在も「光釜山西大寺」として桃井住職の下で存続している。又、桃井直常の孫が創作した「幸若舞」は、長く赤丸村舞谷村、石堤村、福光町等に伝承されて、明治の初め迄、越中西部にその躍り手の「舞々人」が住まいして伝承されたと云う。(※「幸若舞」は織田信長が好んだ「敦盛」等が人気となり、戦国武将に愛唱されて徳川にも好まれたが、一子相伝の為に衰退して、現在は九州の「みやま市」と織田信長の故郷の福井県織田町の隣地の朝日町に伝わるのみである。「幸若舞」の敦盛は「人間五十年、下天のうちを比ぶれば…」の一節で有名だが、現在の謡曲と異なり、勇壮な武者が足音で拍子を取りながら躍った風を残している。………現在は京都市立芸術大学が保存を試み、DVDに残している。)

■源義経の奥州落ちルート(※「義経記」小学館版 解説)




■「吉岡成佐の不法行為を伝える記事」(※吾妻鏡)



■「義経記」に登場する「如意の船渡」=「六渡寺川船渡し」
高岡城、福岡町の木舟城の近くに大きな河川が流れて、水運を確保していた様子が判る。



■昔の「小矢部川」は西山の麓を流れ、庄川から多くの支流が流れ込み、本流も途中で小矢部川と合流していた。



■「吾妻鑑」延応元年(1239年)2月20日 後鳥羽法皇が隠岐の島で崩御された。「吾妻鑑」1239年5月2日 五十嵐小豊次太郎惟重と北条朝時の家臣小見左衛門尉親家が、五十嵐氏が承久の乱で功名を立てて与えられた「国吉名」について争い、評定衆出席の上、親家を侍所に預かりと決せられた。五十嵐氏は後の加賀藩政では十村役を務め、国吉、赤丸等の五位組の十村を明治初年まで長く務めた。加賀藩政時代には讒言により一時期、能登島に配流された「断獄事件」に見舞われたが、五十嵐篤好(五十嵐小豊治)は著名な国学者であり、射水市の測量で著名な「石黒信由」と親交が有り、測量、算学に堪能で、新たな農地の開拓も行っている。この五十嵐氏の居宅跡は高岡市東五位小学校の敷地で、現地には五十嵐家の墓と墓標が立っている。

       

 
■五十嵐家の家紋は「剣かたばみ紋」。「五十嵐篤好」の屋敷跡の有る能越道高岡インター周辺の池田地区を開発した池田氏は「源平盛衰記」で木曽義仲を埴生八幡宮へ案内した国人領主池田次郎忠康の一族と思われる。池田姓が赤丸、国吉、岩坪、立野に多く残り、その総本家は「丸にエ文」だが、その他の池田氏は「かたばみ紋」か「剣かたばみ紋」を使用している。十村役を務めた五十嵐氏の先祖は新潟の出身と云われるが、その先祖は五十嵐小豊次太郎惟重であったのだろうか?源氏に加勢して手柄を立てている事と、国人領主池田次郎忠康が源氏の木曽義仲軍に従軍していた事から五十嵐氏と池田氏には共通性が有り、両者は縁者なのか?
「五十嵐氏」については、「肯構泉達録」には、古代に大山町上滝付近の越中三室郷に住んだ豊成彦の末裔が、「寿永年中に侍となり五十嵐小文治と名乗り、源平盛衰記にも見えたり」と記載されており、「三室郷湯花に城を築き河上中務(飛騨の豪族江馬の武将)と戦い、畔田入道円空に及んで戦い疲れて農に復した」と記載されている。
しかし、新潟県の「五十嵐神社」では、この五十嵐氏は先祖を新潟県の五十嵐氏として、「承久の乱」で幕府に協力した恩賞として「越中国吉名」を北條氏から授けられたとしており、その時に、五十嵐氏が越後(新潟県)から越中に移り住んだとされる。

🔴🏯 【中山国松米貸付証文】 と【龍梅伝説】⇒【赤丸浅井城城主中山国松】は越中国吉名に住む龍神の呪いで殺された!!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村





■「赤丸浅井城 中山家由緒」(※敦賀市立博物館 蔵)


■「中山治部佐衛門尉国松」の「赤丸村 妙法寺(※長善寺)」への米貸付証文
(※敦賀市立博物館 蔵)⇒口入人(連帯保証人)は「中山国松」の一族の「吉右衛門尉」







■「越中五位庄に残る龍神伝説と赤丸浅井城城主中山国松」⇒【高岡市国吉の信光寺・白山池に残る「龍梅伝説」】

 今から五百年程前に小矢部川が西山の山裾の国吉名手洗野の里を流れており、その深淵に雌龍が住んでいた。又、五十辺の白山池に雄龍が住んでいてこの二匹は夫婦で鍾乳洞を通じて行き来していた。ある日、赤丸浅井城城主中山国松が五十辺の山中へ狩りに出かけた。そこで、山を巡っていた身の丈60尺の大蛇の雄龍に出くわし、驚いて弓矢で射殺した。以後、国松は原因不明の病気になってついに亡くなってしまう。 国上山信光寺の住職の梅山和尚が夜明け前からお経をあげていると、いつからともなく一人の美しい女の人がお堂の外でそっと手を合わせている。和尚が声をかけると、「実は私は龍の妻で夫の龍が赤丸城主に殺された為に私は赤丸城主を呪い殺してしまった。罪を悔いて私も夫と共に往生したい。」と救いを求めた。和尚は龍女を哀れに思って仏門に入る為に本当の姿で来るように説いた。約束の日、ものすごい暴風雨と共に黒雲が辺りを覆い一匹の巨大な龍が禅堂に巻き付いていた。和尚は、仏・法・僧に帰依する為に三気戒を授け、仏弟子を示す血脈をこの龍の耳にかけてやると龍女は涙を流して何処ともなく飛び去った。後日、龍女が人の姿になってお寺に来て何かお礼がしたいと言う。和尚は「この寺の水の便が悪くて困っている」と言うと、龍女は「お寺の境内の人肌の様な木の根元を掘ると水が湧くだろう」と告げ、二個の梅の実を置いて立ち去った。後日、村人は国吉の山中の白山池の淵で先に死んだ夫の龍の死骸に折り重なるようにして死んでいる妻の龍を見つけた。龍女の言った通り、境内のサルスベリの木の根元から清らかな水が沸きあふれ、龍女の残した梅の実は芽を出し立派な紅梅・白梅の花を咲かせたと言う。それから二百年位後に紅梅は枯れてしまったが、当時の住職の密宗和尚はその梅の木で二体の観音像を彫って龍の夫婦の追善供養を行った。信光寺では今でも観音井戸の跡が大切に残され、枯れた梅の木の跡には新しく梅の木が植えられた。現在も信光寺は曹洞宗の古刹として背景の山中に巨大な観音像を祀り、近郷の信仰を集めている。

◎高岡市国吉の「信光寺」は能登総持寺の前身の「永光寺」と共に曹洞宗の古刹で在り、室町幕府奉行人飯尾元連からの文書が残っている。




◎赤丸には二つの城が在った。「赤丸浅井城城主中山国松」は弟の「中山次郎兵衛」に赤丸城ケ平山の「赤丸城」に城を構えさせていた。赤丸には近接して浅井神社隣地に「浅井城」が、加茂集落と浅井城の中程には高い山城として「赤丸城」が立ち並んでいた。いずれも「上杉謙信」が来襲した時に焼き尽くされたと云う。「赤丸浅井神社」もこの時に一旦、燃えたと伝わる。

■「龍梅伝説の背景」
赤丸浅井城城主の中山氏は「赤丸名勝誌」に拠ると、鎌倉幕府北条氏を後ろ楯に前城主の石黒氏を追放して浅井城に入城したとする。中山氏は秩父平氏で他所の武将だが、先の石黒氏は古代から続く越中の名門である。中山氏はこの後、「吉岡庄」が南北朝期の後醍醐天皇の荘園になると再び石黒氏の配下になった様で浅井城城主は石黒氏になっている。石黒氏の祖とされる利波臣は東大寺大仏の造営に多額の寄進をした仏教を信奉する天皇系の氏族で、越中、加賀はこの氏族の地盤で有り、住民は武力で侵攻してきた中山氏には反感が強かったと見られる。中山氏はいつの頃からか赤丸浅井神社への奉献米(※浅井神社は勅許を得て各戸から知識米1升を集める権利があった。)を勝手に集めて、広範囲に貸し付けて利息を取り、「石堤村史」に拠ると思いのままに末社の石堤、加茂等の神社に配分していた様だ。赤丸浅井神社は「元正天皇の二宮」が創建されたとして天皇家と深い関係を持ち又、この地域は藤原氏や歴代天皇家の庄園「吉岡庄」で有り、無頼の坂東武者の諸行には反感も大きかった筈である。「吾妻鏡」に、源頼朝の配下の地頭が吉岡庄で無謀を働き後白河上皇から頼朝に苦情が申し入れられた事が記載されている。中山氏は、赤丸村に在った「川人山鞍馬寺」を圧迫して福岡町一歩二歩地域へ寺が移ると、その寺に再三攻撃して火をかけ執拗に圧迫したらしい。これ等の悪業は地元住民や仏教関係者にとっては悪業の限りを尽くす最も憎むべき為政者とされたらしい。それを「龍神の祟り」、「仏敵」として、「赤丸浅井城城主中山国松」が死んだ物語に託したものだろう。殺された「雄の龍神」は中山氏に圧迫された小矢部川の水神を祀る地主神の「赤丸浅井神社の神」で有り、あるいは無残に殺された地元民の怒りを象徴している。非情な武士に対する恨みが中山国松を殺した物語である。

▼「赤丸浅井城中山国松」の別の伝承
・「浅井城」の「中山氏」は、「後醍醐天皇の皇子宗良親王の随臣で在った」とする説が在る。(※「礪波誌」)
・「越中石黒氏は北条氏を忌みて浅井城を去り、新川に逃れた」(※「赤丸名勝誌」)

赤丸浅井城を拠点とした越中石黒氏は、南北朝時代には南朝の武将で在った。「越中吉岡庄」の領主の「後鳥羽上皇」が「承久の乱」を起こされた時に上皇の味方として都に攻め登り、敗れて降伏したとされる。その後、南北朝時代には再び赤丸浅井城に入り、後醍醐天皇の皇子「宗良親王」を赤丸浅井城に迎え、親王軍として活躍したが、南朝が敗れると「石黒重行」は名を「長谷川」と変えて、奥州経由で尾張国如意に入り如意郷に如意城を築いたとされる。その後、南北朝を合一した「足利義満」は「越中五位庄」を「臨済宗相国寺」へ寄進した。この時期に「越中守護畠山持国」の居城の赤丸浅井城の周辺から臨済宗以外の宗派が追放された。この時に、「赤丸浅井神社48坊」と呼ばれた「川人山鞍馬寺」は七坊の内の「西宝院」一坊を遺して赤丸村を去り、浄土真宗に改修して「法筵寺」と名を変えて福岡町一歩二歩の寺侍「浜木家」の領地へ逃れた。しかし、赤丸浅井城の中山氏は再三に亘り法筵寺を攻撃して火をかけたと言う。
(※「中世城館報告書」福岡町教育委員会)
中山氏は室町幕府の意を受けて法筵寺を追放したものの、依然として赤丸村の米を集める権利を持っていた法筵寺に対して、その権利を奪い取る為に攻撃したと見られる。赤丸村に残った「西宝院」は「川人山鞍馬寺」の一坊を継ぎ、「三社権現川人山鞍馬寺」の後継者になったが、依然として赤丸村を去った「法筵寺」がその尊像の「木造釈迦如来立像」等の主要な仏像を持ち去っていた為に、「西宝院」の抱える「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」の財政基盤は弱く、「法筵寺」がその権利を所有していた。
その為に、「赤丸浅井城」に入った中山氏は、「五位庄の米を各戸、米一升づつ」集め始めた。
しかし、その米は封建領主中山氏が独占して、中山氏は「近隣に米を貸し付けて利ざやを取り、赤丸浅井神社を軽視して石堤浅井神社」を崇敬したと見られる。「石堤浅井神社」は室町幕府と連携していた「吉田神道」で在り、石堤浅井神社神官吉田家は「聖護院派山伏赤丸浅井神社」を排除して直接、この「各戸米一升」を集め始めた。「石堤村史」に拠れば、「石堤浅井神社の神官」は吉田社家の者が担当していた事が記載されている。
「石堤村史」には「赤丸浅井城の中山氏は当社(※石堤浅井神社)への崇敬が篤く、度々、参詣していた事」が記載されている。「吉田神道」は、「伊勢(白川)神道」の「神祇官」を模した「神祇官領頂上」等と名乗り、全国の神官の任命権を持ち始めて、「唯一神道」を唱え、両部神道の「川人山鞍馬寺」の一坊で在りながら神社の独立を唱え始めた。その背景が「川人山鞍馬寺」の本尊を祭る「浄土真宗法筵寺」の度重なる攻撃に在ったと見られる。その争いは加賀藩時代に両者の対決となり、「石堤浅井神社」は無断で領内から初穂米を集めて独占し、「石堤浅井神社」には、無断で両部神道の本尊の仏像を排除して、吉田神の祭具を飾り立てた。これに対して、天皇家と密接な加賀藩内の聖護院派山伏は連携して、「聖護院本山」や、「加賀藩寺社奉行」への訴えを起こして、「吉田神道高岡関野神社関神主」を初めとした一味を訴えた。その結果、前田利家が豊臣恩顧の大名として多額の寄進や人夫を派遣して建てた京都の方広寺・京都大仏が「聖護院」の系列に在った事や、聖護院は時に天皇の御所にもなっていた天皇家ゆかりの寺院で在った事も在り、徳川政権と組んで横暴を尽くしていた「高岡関野神社関神官」、「石堤浅井神社清水神官」に排除命令を下し、「直ちに原状復帰する様」に命じている。
(※加賀藩裁判記録「持宮一件の事」⇒「金澤市立図書館古文書)




■「赤丸城中山氏」に付いては様々な家系を唱える系図が在り、能登末森城の戦い以後、越前敦賀に落ち延びた「本家」と見られる一族はその系図では「藤原氏」と唱え、加賀藩に仕えた一族は「源氏」と唱えている。

◆藤原氏の名門の「中山氏」は皇室や下鴨神社等との多彩な関係があり、「柳原家記」には、「越中吉岡庄が下鴨神社の庄園で在った」との記録があり、南北朝時代末期、室町時代の二度に亙って「越中吉岡庄」が「下鴨神社」の庄園になっていた事と《中山氏が赤丸浅井城に入城した事》との関係が窺われる。
中山氏の系図では、江戸時代にも中山元親の子供の中山英親の代に「柳原家」へ嫁いだ系図が見られる。

🔻《柳原家;京都十三名家。藤原北家の日野家の分流。》
🔻《中山家`;藤原北家花山院家の支流。花山院忠宗の子中山忠親を祖とする。江戸時代後期の中山愛親の曾孫の忠能は【明治天皇の生母である典侍中山慶子】の父で、幕末から明治維新にかけては政治的にも活躍し、和宮親子内親王の降嫁を推進した。明治維新後に、中山忠能は侯爵に叙せられ、神祇伯を務めた。wikipedia》







🔴【越中吉岡庄】 藤原氏(道長→頼長)、皇室(元正→後醍醐)、源氏(鎌倉 源頼朝→室町 足利義満)と「越中吉岡庄」 !!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

■元、赤丸村に在り、現在は高岡駅南に移転している「天景寺」にも源氏の家紋「笹竜胆」が用いられており、「五位庄」と「源氏」の関わりが推測される。

■富山県高岡市福岡町赤丸村の「赤丸浅井神社」は「元正天皇二宮創建」と伝わり、一条天皇の時に勅使として「川原左京」(河原町の左京大夫→一条天皇の叔父藤原道長)が赤丸浅井神社に遣わされて「勅使桜」をお手植えされたと云う。(※「赤丸浅井神社三社誌」) 白河天皇の時に「越中吉岡庄」として「上賀茂神社」の庄園となり、崇徳天皇の時には藤原摂関家藤原頼長の庄園となっていた。「保元の乱」で敗れた頼長の庄園は後白河上皇の庄園「後院領」となり、その後も後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄皇室領として伝領した。上賀茂社領、藤原摂関家領、後白河上皇領(蓮華王院領)~後醍醐天皇領、下賀茂社領、斯波氏領、足利氏領(相国寺領)と変遷した「越中吉岡庄」「五位庄」は、皇室、藤原氏、時の政権等の超一流の支配者により所領とされた 越中では珍しい歴史を持つ。「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」を築城したと伝わる石黒氏は、聖武天皇が東大寺大仏を造営した時に、その祖先が多額の寄付をして大仏造立に貢献した「利波臣志留志」と云われ、現在も尚、東大寺お水取り行事では必ず「利波臣志留志」の名前が過去帳の中で読み上げられる位に著名な人物である。古書には、[赤丸浅井城は、当初、元正天皇二宮の居城となり、その後、利波臣志留志の子孫が累代居城とした。]と記載され、歴史的には福岡町の「木舟城」に石黒氏が入る前から赤丸浅井城は石黒氏の居城だった様である。「木船城古今誌」には、「大竹*大滝 地区は吉岡成佐が開発した。」と記載されている事から、源頼朝が越中吉岡庄の地頭として吉岡成佐を配置した時期に、大滝地区が開発された事が判る。 天皇復権を目指した南朝の後醍醐天皇(石黒、桃井)の後は足利室町幕府(斯波、中山)の支配地となり、「五位庄」と名称が変わって、足利氏の影響下では「相国寺、等持寺、等持院」と著名な寺院の所領となった。その後、畠山氏、上杉謙信(神保氏張、寺嶋牛介)、佐々成政、前田利家と支配者は変わるが、いつの時代にも、良質の米を大量に産して、越中と能登、加賀との要衝に当たり、石黒氏の拠点として発達した福光町と河口の伏木港の中継点として、庄川と小矢部川の合流点として小矢部川水系の水運でも赤丸地区は重要な地域で在った。前田利家が氷見阿尾城の菊地氏を懐柔する時も、「赤丸事は富田治部佐衛門に相談して決めたら良い。」(*「越中志微」)と、特に赤丸村の差配について菊地氏に条件を出している。加賀藩になってからも、赤丸村は加賀藩の重臣の長九郎佐衛門や前田家の親族の知行地となっていた。

・応永12年(1405)足利義満により五位庄は室日野業子(ナリコ)(定心院)の追善料として京都相国寺に寄進される。
  ---足利義満は「日本国王」と名乗り、その妻日野業子は天皇の准母(名目上の母)となり、義満の子義嗣は親王と同等の格式を許されたと云う。皇室領に準じて日野業子の追善料として京都相国寺に寄進されたものか?  金閣寺は相国寺の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為「鹿苑寺」は「金閣寺」と呼ばれている。

・応永22年(1415年)足利義持により五位庄の半分が足利氏菩提寺の等持院(京都市左京区)に寄進され下地は守護畠山満家に預け置かれた。(※「福岡町史」、「等持院常住記録」)

■こうして表面的な歴史を見ると判らないが、実はこの「日野氏」は京都伏見の日野の里を本拠とする「藤原鎌足の子孫」であり、バリバリの藤原氏である。JR京都駅を挟んで二条城等の北部に対して、南部の山裾に広がる京都伏見日野には、日野氏歴代の菩提寺の「法界寺」が在る。この寺には足利義政の妻で応仁の乱を起こした張本人の「日野富子」の廟所がある。この古刹は「日野薬師」と呼ばれ、「薬師如来」と「阿弥陀如来」を祀っている。藤原氏長者の元荘園の五位庄の半分が京都相国寺に寄進された背景も日野氏と藤原氏の関係が背景にあった為だろうか?

■「法界寺」は浄土真宗の開祖「親鸞」が産まれた場所で、「日野資成」から4代目の「日野有範」と「吉光女」(※キッコウニョ。清和源氏八幡太郎義家の孫娘、源義朝の娘とも伝わる) の子供が浄土真宗の開祖「親鸞」(※幼名松若丸) で有る。「親鸞」は幼くして両親を亡くした為、9歳の時(1181年)、叔父の日野範綱卿に伴われて知恩院近くの京都東山に在る天台宗青蓮院(天台宗比叡山延暦寺の三門跡寺院の一つ)に出向き出家得度をされた。青蓮院は「藤原師実の子の行玄大僧正」を第一世の門主とする寺院で、その後も門主は皇族か五摂家の子弟に限られる名門寺院である。この寺院の三代目門主が「藤原兼実」の弟で「愚管抄」を書いた「慈円」で有る。慈円は、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護した為、現在でも青蓮院は浄土真宗との関係は深い。浄土真宗の祖親鸞聖人は、慈円門主により得度した為、青蓮院は浄土真宗の聖地の一つともなっている。この寺には親鸞聖人が得度の際に剃髪した髪の毛を祀る植髪堂が境内北側に在る。
この様に見ると、藤原氏の日野氏と源氏の血筋が親鸞には流れており、源氏の足利氏とも密接な関係に有り、親鸞が「阿弥陀如来」を本尊として「浄土真宗」を興した事のルーツも判る。

■源氏の時、後白河上皇の後院領吉岡庄に源頼朝が地頭の「吉岡庄地頭成佐」を配置していた事が「吾妻鑑」に見られる。その後、「吉岡庄」は後醍醐天皇迄、皇室領として続いたが、室町幕府になってからも幕府が直接関わっている。その後、石堤村長光寺を拠点として浄土真宗が五位庄に普及し、一向一揆の際には上杉謙信に立ち向かうために「後(五)位庄」に集結している。又、加賀藩士 森田柿園著の「越中志徴」には「五位庄浅井城には一向一揆の指導者の下間頼竜が居城した」とも記載されており、一時期には赤丸村の浅井城は浄土真宗の牙城で在ったらしい。元、五位庄赤丸村に有り、現在は高岡市の瑞龍寺近くに移転している「天景寺」は現在、金沢に移転している「雲龍寺」(※元、五位庄賀茂村) の末寺だが、家紋には「笹竜胆」の源氏の家紋を用いており、「雲龍寺」も当初は後醍醐天皇に味方した播磨の源氏の赤松氏ゆかりの寺と云われる。赤松氏の子孫は「石野」と名乗り、加賀藩に仕えている。

■五位庄は藤原氏を名乗った石黒氏とも関係が深いと思われるが、この様に歴史を追跡すると、平家追討の後は、ずっと「五位庄」は藤原氏や源氏の影響下に有った事が判ってくる。

🔴🌙 【加賀藩記録 三壺聞書】高岡市の【高岡】命名の真実⇒ 加賀藩「前田利家」は「豊臣秀吉」から秀次屋敷の「聚楽第」を与えられ、その木材を城郭に使用したと云う。!!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
●加賀藩記録「三壺聞書」に見られる城郭の変遷
⇒「豊臣秀吉から聚楽弟受領」⇒「金沢尾山城」⇒「富山城」⇒(「魚津城」)⇒「高岡城」



■「三壺聞書」(※金沢城城郭研究所にて再版)は加賀藩士山田四郎右衛門が3つの壺に書き貯めた記録を纏めたものと言われ、「加賀藩主前田綱紀」も関心を持って調査したと言われる加賀藩本藩の歴史資料だ。「前田綱紀」は京都の東寺へ「百箱の桐箱」を寄進して東寺に伝わる古文書を整理させた。これが「東寺百合文書」と言われる貴重な資料だが、この中には越中の鋳物師や「五位庄」に関わる古文書も多数含まれている。「前田綱紀」が収集した歴史書、古文書類は「松雲公採集録」として金沢市立図書館に保管されており、この時期に水戸の水戸光国も全国へ「佐々木介三郎」こと、「佐々木宗淳ムネキヨ」を全国へ派遣して史料を収集して資料収集を積極的に行っていた。
(※「佐々木宗淳」(通称 助さん)は「佐々成政」の家老の富山県高岡市福岡町木船の「木船城主佐々平左衛門」の子孫で、娘婿の木船城主前野加賀守を祖先として、僧籍に十数年を置いた人物で、還俗して水戸光国に仕え、「大日本史」の編纂に従事していた。)



■この記録には、豊臣秀吉から聚楽第を拝領して江戸に差し廻されていた聚楽第の解体材料を金沢に運び、尾山城の築城に利用した様に記載されており、その城が火災で焼けた為に富山城に移ったが、慶長14年3月18日に富山城も焼けた為に、越中関野に城を建てる為に一時期、魚津に移り、その間に金沢の【愛宕波着寺】の僧「空照」を招聘して地鎮祭を行って「関野」を【高岡】と命名し、慶長14年8月16日には竣工の祝いを盛大に行ったと云う。










■この記載では、聚楽第の材料が高岡城や菩提寺の建設に用いられたとか伝わる内容とは異なる様で、「材料が運ばれたのは金沢で在り、尾山城に使用されたものの火災に会ったとされる。その後も更に、富山城も焼けて城の材料は飛騨から運んだとされている。又、高岡市の「曳き山」は「利家拝領の聚楽第屋敷から高岡へ移され、七台が市民に下げ渡された」とされるが、高岡市末広町の関善道所蔵の高岡市指定古文書の慶長年間の「高岡御車山文書二通」には、「御車山を作る際に屋形を加えた方が良い」とするものと「完成後のお褒めの言葉」が残る事から、この伝承も異なる様だ。

■昭和、平成の大修理が終わった時に刊行された富田景周著作の「瑞龍閣記」(復刊)には、「高岡開町」、「高岡の命名」、「曳き山祭りの由緒」、「熊野社の由緒」、「聚楽第拝領の誤り」、「繁久寺」の変遷等について記載されている。その中で特に富田景周が「聚楽第拝領の誤り」について記載しており、この説明では高岡の町民達が様々な流布を行って高岡町民の特権の権威づけに躍起になっていた事を暗に指摘している。現在の高岡市役所でも、「前田利家が開いた1600年以前の歴史は高岡市には存在しない」とまで市民に説明して、「前田利家の政治に文句を付けさせない」と云う「前田教」とも云うべき新興宗教が旧の高岡町民の誇りとして吹聴され続けており、このデマに市民も黙々と追従している。





■「高岡市」の元の名前が平安時代の地誌の「和名類聚抄巻 二」に記載されており、古くは「越中国第百 射水郡」の内に、【塞口】と在り、「越登賀三州史」には「関野ケ原 在射水郡関野、又、志貴野とも旧記にあり今の旧号成り」とし、「越中旧記」には「今ノ高岡ハ塞野 狭野 サルヲ関野ト書キタルハ寿永ノ頃ナリ 其ノ後 上関カミセキ 下関シモセキ 狭野ト分レタリ 塞野ト云ハ此辺ハ和名抄ニ出タル塞口ノ郷ニアル野ナル故 名ツケタル者也 」と記す。又、旧記には「関野を高岳と被改 後改 高岡」と在り、当初は「高岳」と称したと云う。





■加賀藩士「富田景周」は「越登賀三州史」の中で、又、「森田柿園」は「越中志徴」の中で
「初名 高岳、再改 高岡 号高岡は昔、徳の高い姫がおられ、鳳凰鳴高岡の韓(漢)詩から引用されて名付けられたとか、又、三壺記、習練抄等には加賀藩の臣下の三休が名付けたとするのは恐らく間違いだろう。この名前は既に古い記録の「治乱記」、「北越太平記」、「北越軍談」等に在り、後世にこれ等の由緒が作り上げられたものだろう」としており、この「高岳」(高岡)と言う地名は古くから在った名前だとして、「鳳凰鳴高岡」の詩経の一節からきているとする説を否定している。
(※「高岡史料」高岡市役所 昭和47年編纂)






(※吉田神道の高岡関野神社の神官関氏はあらゆる高岡市の歴史を偽造して高岡市内の有力町民と共にデタラメの歴史を唱えている。「三壷聞書」は加賀藩の前田家にも伝えられた史書で在り、加賀藩士で歴史家の富田景州、森田柿園は何れも「三壷聞書」に拠って、「総持寺」の住職が詩教の「鳳凰鳴けり高き岡に」から名付けたと言う説を否定している。加賀藩の藩主や藩士が否定的で在るにも関わらず、高岡町民は関野神社の関神官の妄言を今も信じており、この誤った「高岡市の歴史」を高岡市役所自らが発信し続けている。⇒昭和47年に高岡市役所が発行した「高岡史料」は比較的公正に事実を指摘しているが、近年の高岡市役所の不勉強な幹部は「高岡市に1600年以前の歴史は無い」と嘯き、「高岡は前田利家によって初めて開かれた」と主張したいらしい。「関野」と呼ばれた頃には石黒氏の鴨島七郎等が現在の高岡市の地域を所有した事や、高岡開町以前には既に現在の瑞龍寺の敷地等には幾つかの寺院が在った事も「高岡史料」は指摘している。)

▼通説では、高岡市関町の「真言宗高野山派総持寺住職」が「高岡城の地鎮祭を行った」とされているが、「三壺聞書」では、「前田利長」が福井県の「真言宗 愛宕波着寺 法印 (※空照)」を呼び寄せて地鎮祭を行ったとされる。(※「空照」については「波着寺縁起」参照)



・【波着寺縁起】「越の国三十三番札所案内(札所参拝のしおり)」<昭和49年>では、『足羽郡誌によると天正年間長谷川藤五郎秀一愛宕坂へ移せりとあり、調査の所現在の鯰の堂と五岳楼との間にあった・・・』また、『金沢市に波着寺なるものあり調査の処山号泰澄山波着寺と読んでいる。開祖は安養坊空照。越前足羽郡波着寺に居た頃前田利家の祈祷所であったので金沢に召寄られ広坂の地に寺地を賜りたが元和五年現在の所に移転せしめられた。寺封十一石五斗とある。』
(※「波着寺」の「空照」は、この後に「前田利家」が全山焼き払い、全山の僧や民衆を殺害した「石動山」の住職に任命されており、石動山の復興を目指した。⇒《※「石川県史」》)

■「富山県大百科辞典」(※富山新聞社刊)には、「高岡」は元々、「総持寺」の山号「高岡山」が「瑞龍寺」を建設された時に加賀藩に召し上げられ「瑞龍寺」は「高岡山」と名付けられたと言う。この由来からすると、「高岡」は元々、高岡開町以前からの地に在った「高岡山総持寺」の「山号」の「高岡」を採ったものであり、高岡開町の時に名付けられたと言う「高岳」は、本来、「立山」等の高山を意味する言葉で在り、「高岡」と改名されたのは「瑞龍寺」が建立された時で在り、その為に、《総持寺の住職が提案した》とされたのではないか?
「鳳凰」と言う言葉は「皇帝」や「天皇」を指す言葉で在り、この「鳳凰」を前田家に例える等の高岡市の伝承等は、正に朝廷を軽視する暴論で在り、高岡市の「御車山祭り」を、「後陽成天皇の聚楽第行幸の時の牛車を拝領した行事」として吹聴する等、前田家の格式を上げる為に高岡の有力町民がでっち上げたものと見られる。「天皇」の専用の乗り物は「鳳輦」と言う【「鳳凰」を飾った輿】で在り、それに対して、「御車山祭り」で使用されているのは四輪の「御神輿」で在る。
唯一、二輪車の「二番町の山車」は、「越中宮極楽寺由緒」によれば、「極楽寺や総持寺が元々、在った赤丸村は後醍醐天皇の庄園で在ったが、南北朝争乱の時に後醍醐天皇第八皇子宗良親王が越中に入られた時に使用された與車で在る」と記されており、この車両は他の町内の山車とは由来を異にしており、元々はこの祭りのルーツも「越中宮極楽寺」所縁の祭礼で在ったと見られる。




■高岡市関町の「総持寺」に祀られる「国指定重要文化財木造千手観音像」の胎内には「越中吉岡庄」の庄園領主の「後鳥羽上皇」の法名が記載されており、「鳳凰鳴高岡」は「法皇 泣けり 高き岡に」の意味だと見られる。
(※「衆徳山総持寺」や「越中宮極楽寺」等は元々、皇室庄園「越中吉岡庄」(高岡市福岡町)の赤丸村に在った寺院で在り、この庄園は「後白河上皇」から「後鳥羽上皇」~南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、皇室の上皇庄園で在り、「後鳥羽上皇」は鎌倉時代の「承久の乱」で敗れて隠岐島に流罪に成り、生涯、幕府を怨みながら赦される事無く、隠岐島で亡くなった。この「泣けり」はこの法皇の気持ちをこの漢詩に込めて説明したものと見られる。)










■「千手観音像」が国宝に指定された時の「国宝概説」には、「総持寺は元々、赤丸村に在った」と記されている。


■「千手観音像」の胎内には、「後鳥羽上皇」の法名「金剛位理卿 本願聖人」が記されており、この千手観音像が「後鳥羽上皇の祈願仏」で在った事が記されている。



🔴🌄福岡歴史民俗資料館「西山歴史街道を行く」シリーズ(※平成27年)⇒『後醍醐天皇皇子・宗良親王の足跡をたどる。』が開かれた。

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村








「西山歴史物語・後醍醐天皇皇子・宗良親王の足跡をたどる」が開催されました!!(終了)

「宗良親王」は後醍醐天皇の第八皇子で、南北朝の後醍醐政権が危うく成ると、妙法院院主・比叡山座主を下りて武将として中部各地を転戦された皇子で在り、高岡市二塚では、同じく後醍醐天皇の皇子「恒性皇子」が幕府側の名越時有に幽閉されて終には暗殺された。この「恒性皇子の墓」は高岡市二塚に宮内庁管理の宮として現在も遺されている。
高岡市福岡町赤丸村には『宗良親王屋敷跡』が伝承される。赤丸村は元、後醍醐天皇の庄園『越中吉岡庄』(※南北朝末から五位庄)の中核地域で、赤丸村にはこの庄園の中核施設の『延喜式内社赤丸浅井神社』と『赤丸浅井城跡』が在り、その遺構を止めている。『赤丸浅井神社』は「国吉名24ケ村、小矢部市宮島郷二ケ村を含む赤丸村を核とした計53ケ村の郷社」とされて、親王から許されて毎年、米一升を各戸から集める権利を与えられた。この習慣は現在も脈々として赤丸村に伝えられている。
















◆【高岡市福岡歴史民俗資料館(高岡市福岡町 TEL 0766-64-5602)
期間 平成27年9月19日⇒27年11月29日 午前9時⇒午後4時30分 月曜日休み
入場料 100円 小中学生 50円(土日祝日 高校生以下無料)
学芸員説明 9月19日(土)、10月10日(土)、11月7日(土)の午後2時から】




《今回取り上げられた伝承地》
「氷見小境浦と大栄寺」、「佐野の里と妙法院領福田荘」、「奈呉の浦と牧野の仮寓」、「赤丸の宗良親王伝承」、「織田陸奥守氏知と長光寺」、「安養山極楽寺」

🔴 【越中吉岡庄】消え行く伝承!! 越中で唯一の皇室領「後院領」 越中の「赤丸村」のものがたり!!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■輝かしい歴史を誇る「越中吉岡庄」に伝わる伝承

1.「宝永誌」(※加賀藩の奉行が書いた記録)

■浅井城に「元正天皇二宮」が在城された事「元正天皇二宮」が「延喜式内社赤丸浅井神社」に「毘沙門天」を祀られた事。
(※元正天皇二宮とは実際は文武天皇の二宮「石川朝臣広成」の事⇒「続日本紀」※「元正天皇」は「文武天皇」の姉で在り、聖武天皇、石川朝臣広成の育ての母として即位。)

2.福岡町教育委員会が発行した「赤丸浅井神社」、「浅井城」の物語「赤丸のおおむかで」。
(挿絵は福岡小学校生徒達の共同作品。)










■高岡市が広域合併し、旧高岡市の歴史が喧伝される中、被合併の市町村の文化が忘れられて行く事に甚だ危惧を感じる。高岡市と福岡町は対等合併と聞かされていたが、周辺の市町村の文化は忘れられ、中心市街地のみの開発が進められ、周辺市町村は過疎化、高齢化に歯止めがかからない。行政の姿勢によって遠からず周辺は原野になってしまうのか? 交通体系、教育・通学環境の偏在にも歯止めがかからない。敢えて古い伝承を検証して何故古い伝統は壊されていったのかを検証し、反省すべきである。

🔴【光釜山西大寺】「観応の擾乱」で「吉岡庄(後に五位庄)」で散った南朝の武将「桃井直常」の三男が赤丸村に高岡市木町の「西大寺」を開いた !!

2021-04-15 | 富山県高岡市福岡町赤丸村





●後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」に従った「桃井直常」は「太平記」・「花営三代記」に拠ると、観応元年(1350年)10月、越中守護であったが、同族の足利尊氏と敵対した弟の直義派に加わり尊氏方と戦った「観応の擾乱」が起きる。応安4年7月28日、足利尊氏方の斯波氏・能登の吉見勢との「後い庄(五位庄)の激戦で直常は敗れた」(越中志徴)が、桃井直常の首を取られるのを恐れた家臣は遺体を富山市の興国寺に埋葬したと云う。長男の直和は松根城等を拠点としたが長沢の戦いで敗れた。直和の子の幸若丸は越前朝日町に生まれ、後に幸若舞を創始したと云う。直常には9人の子が有ったと云われ、次男は砺波市秋元の光福寺を、三男の直弘は元赤丸村舞谷に在った高岡市木町の西大寺を、妙寿寺は五男の開いた寺と云われ、それぞれ「二羽の雁」「三羽の雁」「五羽の雁」を寺の紋としている。又、本門法華宗の流祖日隆は桃井直和の子で大門町浅井城城主桃井尚儀と斯波義将の娘益子との間にでき、1429年に京都の本能寺を開いたが、本能寺はその後数回の建替えを経て、当時は織田信長の京都での宿舎として要塞化し、織田信長の鉄砲入手も裏で支援していたと云う。織田氏も元々は斯波氏の被官であり、信長は幸若舞をこよなく愛して本能寺で光秀に殺される前にも幸若舞を舞ったと伝承される。富山県には直常の弟の直信が立山の芦峅寺衆に協力を求めた書状が残る。系図に見られる弟の直弘は元々直常の3男だが弟にしたと伝わる。

◆応安四年(1371年)、「観応の擾乱」で足利尊氏の弟「足利直義党」の中心として活躍した「越中国前守護桃井直常」が兵を挙げた。「飛騨国司姉小路家綱」は「桃井直常」を支援するために越中に出兵したが、「越中守護斯波義将軍」との【越中後い庄(※後院領から五位庄に転化したと見られる)の戦い】で大敗し、飛騨国司姉小路家綱の舎弟らが降参あるいは生け捕られた。その後の桃井直常は飛騨へ落ち延びた共、越中で討ち死にした共言われ、飛騨国司姉小路家綱の動向は詳らかではない。(※「花営三代記 群書類従」、「飛騨国治乱記」)





飛騨国の戦記には、「飛騨国治乱記」が在り、「姉小路家」の動静が載る。


■元赤丸村舞谷の清水山の麓の麻畑地内に在ったという西大寺は、その後、高岡市一之瀬の近く佐野地内の紅屋という場所に移り、更に高岡開町の時前田利長より寺地1500坪を現在地の木町に賜わった。寺の伝承では、西大寺の開基は南北朝期に南朝の側で戦い、五位庄の戦い以後所在不明になった足利一門の名将桃井直常の幼い3男が、直常敗走と知り奈良の西大寺に預けられたが、成長して一人前の僧になり、西大寺よりその寺号を頂いて、父直常の縁の越中に赴き、初めは倶利伽羅山の越中側に寺を建立したと云う。その後、寺は舞谷村に動き、更に高岡市の紅屋という場所に動いたが、その地に「光釜」という泉が有り、その池の中の沈んだ釜に蛇が絡んでいた事から「光釜の伝説」が有った。その為、この寺は「光釜山西大寺」と名付けられて、前田利長が高岡を開町した今から400年程前に、前田家に呼ばれて現在地に動いたと云う。現在地は小矢部川沿いにあり、伏木と高岡の間に有り、小矢部川と千保川の合流点の木町は前田家の防衛拠点としての意義も有った様だ。西大寺の門徒に赤丸村舞谷に古くから多くの門徒がおり、越後から南朝の後醍醐天皇第八の皇子の宗良親王に従って吉岡庄(後の五位庄)に入り、後には「下加茂社」の神官を務め、長く「越後どん・越後さん」と呼ばれてきた名家の越後家(本家は北海道に移転)等舞谷村20軒中12軒がこの寺の門徒であり、今も麻畑地内の奥山には約15,000坪の山林が有り、此の山からは長い間、西大寺の燃料や正月の松飾り等が賄われていたと云う。西大寺は今も、住職が「桃井」を名乗る。
(※「高岡市史」は創建を高岡市佐野としている。この歴史的経過は実際に西大寺、門徒衆にヒアリング調査し西大寺山の登記関係も調査したものである。)

■「西大寺」の末寺の【越中国分寺】と越中の「西大寺」の創建
【丹後、尾張、加賀、越中、因幡、伯耆、周防、長門、讃岐、伊予、奥州の各国分寺が室町時代には西大寺末寺と成っている。】(※「西大寺末寺帳」→羽曳野市史第一巻本文編)に見られる様に、南北朝時代には至近距離の高岡市伏木に在った「越中国分寺」が、西大寺末寺と成っていた事も在って、室町時代には「利波郡」に属した二上山に在った「越中国分寺」の末寺として赤丸村の舞谷村に現在の「光釜山西大寺」が創建されたと見られる。







■「赤丸村の史跡」





■「西大寺」は赤丸村舞谷の永賢寺後ろの麻畠島に在ったと伝わる。
■この跡には一時期、現在高岡市瑞穂町の「聖安寺」が在った事が「由緒」から解る。
【石川県七尾市湯川西得寺境内聖安寺旧跡地碑】
『南無阿弥陀佛
天正九年利家公の命に召されて河北郡北中條大坪村より当地に移住す、後石動山兵乱の節兵火の為め党宇を亡し慶長十四年利家公の誘引に任せて越中砺波、舞の谷、中谷内、富山を経て高岡に至る。 昭和五十二年春建之』
⇒「越中砺波郡舞の谷」は高岡市福岡町赤丸村舞谷の事で、「中谷内」とは「赤丸村寺谷内」の事の様だ。「聖安寺」は石川県河北郡大坪村に創建され、七尾市に動き、更に赤丸村に動いて、後に高岡市瑞穂町に動いた。

🎌🔴【高岡市史】の欺瞞 ⇒【延喜式内社赤丸浅井神社】に祭られる神々と【後醍醐天皇第八皇子宗良親王】!!

2021-04-15 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

■『越中の平安時代の藤原氏の庄園』


■『後白河上皇の庄園と成った越中吉岡庄』の記載
⇒【兵範記】(※以下は、別名「人車記」と言われる近衛家陽明文庫保管の原本の陰影版)






■赤丸浅井神社由緒(部分)




■赤丸村は南北朝期迄「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室領で在った事は、国立歴史民俗博物館のデータベースを調べても判る。その中心は高岡市石堤の「長光寺」の敷地に在った「総持寺」で在ったと「高岡市史」は主張したい様である。長光寺の敷地に総持寺が在ったという事実は聞いた事が無い。一方、赤丸村では古地図に在った赤丸の「観音堂遺跡」が総持寺の旧地で、総持寺は元々、両部神道「川人山鞍馬寺」の48坊の一つとしている。総持寺の過去帳には赤丸浅井神社の別当の西宝院の法名が残り、総持寺の持宮の「熊野社」は現在赤丸浅井神社に合祀されている。(「※越中古文抄」高岡市中央図書館蔵)
「高岡市史」は、高岡市の「福田荘」こそ「天台宗妙法院領」で在り、宗良親王が越中に入られた興国三年頃は持妙院統の「北朝」の亮性法親王が座主で在ったから、天台座主もされた「南朝」の宗良親王(大覚寺統)は当然、福田荘を頼りにされたと云う。??

■以下の歌は「赤丸浅井神社」では宗良親王が「赤丸浅井城」に入られ、城ケ平の親王屋敷に入られた時の歌としているが、「高岡市史」はこれを全否定して「これは妙法院領の福田庄で歌われたもの」としている。
「李花集」宗良親王の御歌
興国三年越中国にすみ侍りし頃、羇中百首よみ侍ける歌の中に神祗を
【かそふれば七とせもへぬ頼みこしななの社のかけを離れて】

■「高岡市史」では、赤丸浅井神社に伝わる宗良親王の「七の社のかけを離れて」の御歌は実は、「福田庄」で歌われたものだとして、赤丸の浅井城の話しは「勝手に改変される伝説で史料的価値は認められない」と否定している。しかし、この時の妙法院座主は次の資料を参照すると持妙院統の北朝初代光厳天皇の時代で有り、大覚寺統で、南朝の為に越中に入られた宗良親王が敵側の福田庄を頼られたというのは信じ難い。又、その福田庄で地元民が「延喜式内社荊波神社」と唱えている事についても「高岡市史」では「式内社を称するのはいささか疑わしい」と資料も示さず根拠も無く否定している。地元で「延喜式内社荊波神社」として信仰している神社も実は「十禪師社」という神社で天台宗の比叡山七社の一つの神社と主張している。地元の福田地区では、当初は「延喜式内社荊波神社」であったが妙法院領になってから神仏混淆の「十禪師大明神」になったとし、現在は「延喜式内社荊波神社」と称して高岡市の観光コースにも入っている。しかし、これも「高岡市史」は地元民の信仰を否定して、その史実も否定しているのだ。ある人にとってはその「神」は至上のもので、信仰の自由は根拠無く否定されてはならない。否定するなら根拠資料をキチンと示して、「史実」を明らかにして、後に混乱が生じない様にするべきだろう。

■一説に、宗良親王は「佐野に入られた。」とする説がある。高岡市佐野は古くは現在の越中宮極楽寺の敷地の裏の段差部分迄が「佐野」で在ったと地元の古老は言う。(佐野台地)
とすれば、後に極楽寺が守山から現在地に動いたのは、元々、宗良親王の御所が在った地域に動いたのだろうか?

(※「歴代妙法院座主」・部分
●尊澄法親王(宗良親王) (南朝:大覚寺統) 後醍醐院皇子。母藤原為世女贈従三位為子。還俗宗良。二品〔諸門跡譜作一品〕。天台座主。護持僧。【1325年(正中2年)妙法院門跡を継承。続いて1330年(元徳2年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。】
🔹宗良親王が越中に入られたのは興国三年だから、北朝の光明天皇(北朝)の時代である。この時期には妙法院領福田庄も北朝の影響下に在ったものと考えられる。
●亮性法親王(1318-1363) (北朝:持明院統) 後伏見院皇子。天台座主。護持僧。
●堯仁法親王(北朝) 後光厳院皇子。母勘解由小路兼綱女仲子(崇賢門院。実石清水八幡宮祠官紀〔善法寺〕通清女。号梅町殿)。一品。天台座主。護持僧。
●堯性法親王 (北朝) 後光厳院皇子。応安4/建徳2(1371)年生。嘉慶2/元中5年正月26日(1388年3月5日)自害。
◎亮性法親王(リョウショウ)(1318年-1363年 鎌倉-南北朝時代,北朝後伏見天皇の第9皇子)は康永3年(南朝 興国5年)近江守護佐々木高氏父子が妙法院を焼き討ちして寺領券が消失した為に官符により証明を求め、天台座主慈円⇒後鳥羽上皇皇子朝仁親王⇒妙法院領として伝領し、妙法院では円実法眼の私領⇒浄仁比丘尼⇒公性僧正⇒尊教僧正(父は太政大臣西園寺公相)⇒実静僧正(西園寺公基の子)⇒亮性法親王に伝領した事の経緯を述べている。(※「妙法院文書、大日本資料6/8」)(【角川日本地名大辞典16富山県】参照)
この経緯を見ると、尊教僧正は正和3年(1314年)4月妙法院門跡及び荘園・坊舎などを西園寺実兼の子の権僧正性守に譲与した経緯が抜けているものの、この中に宗良親王の所有については出ていない。宗良親王は妙法院に入り1325年(正中2年)に妙法院門跡を継承。続いて1330年(元徳2年)には天台座主に任じられた。宗良親王の弟子として亮性法親王の名が見られる。

★光厳天皇(北朝1代目:1331年10月22日-1364年7月7日 (正和2年7月9日<1313年8月1日>- 正平19年7月7日<1364年8月5日>)
★光明天皇(北朝2代目):1336年9月20日(建武3年<延元元年>8月15日)- 1348年11月18日(貞和4年<正平3年>10月27日)
★崇光天皇(北朝3代目):1348年11月18日(貞和4年<正平3年>10月27日) - 1351年11月26日(観応2年<正平6年>11月7日)
★ 後光厳天皇(北朝4代目):1352年9月25日(文和元年<正平8年>8月17日) - 1371年4月9日(応安4年<建徳2年>3月23日)

興国 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年
西暦 1340年 1341年 1342年 1343年 1344年 1345年 1346年
北朝 暦応3年 暦応4年 康永元年 康永2年 康永3年 貞和元年 貞和2年
干支 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌

【参考】(妙法院の歴代住職の流れ)【出典:安藤希章著『神殿大観』】
1最澄:日本天台宗開祖。伝教大師。延暦寺浄土院に墓。
2円仁:天台宗山門派開祖。慈覚大師。比叡山に墓。
3恵亮:内供奉十禅師。西塔宝幢院検校。大楽大師
4常済:西塔院院主。
5延昌:法性寺座主。天台座主。慈念とも。
6陽生:竹林院に住す。天台座主。
7教円:天台座主。
8勝範:天台座主。定慶
10源暹
11相命
12快実
13快修:天台座主。この頃から妙法院と号したらしい。
14後白河法皇(行真)蓮花王院三十三間堂建立、越中吉岡庄を蓮花王院に寄進。
15昌雲:新日吉神社検校
16実全:天台座主。綾小路座主と呼ばれた。
17尊性法親王:守貞親王(後高倉院)の第1王子。天台座主。四天王寺別当。綾小路宮。
18尊恵
19俊円
20尊守法親王:土御門天皇の第2皇子。高橋宮。
21性恵法親王:亀山天皇の皇子。綾小路宮。
22尊教
23性守
24尊澄法親王(宗良親王):後醍醐天皇(南朝)の皇子。天台座主。井伊谷宮祭神。宗良親王墓。⇒亮性法親王の師に当たる。
25亮性法親王:後伏見天皇(北朝)の第9皇子。日厳院住職。天台座主。⇒以降は北朝の親王に受け継がれるが、数度に亘り『宗良親王』が妙法院院主に再任されたと云う。
26亮仁:後光厳天皇の第2皇子。
27尭仁法親王:後光厳天皇の第7皇子。天台座主。四天王寺別当。
28尭性法親王:後光厳天皇の皇子。
29明仁法親王:木寺宮出身。
30教覚:天台座主。
31覚胤法親王:伏見宮貞常親王の王子。日厳院住職。天台座主。
32尭尊法親王:伏見宮貞敦親王の王子。天台座主。
33常胤法親王:伏見宮邦輔親王の第5王子。天台座主。『方広寺別当』(聖護院)。妙法院宮墓地。
34尭然法親王:後陽成天皇の第6皇子。天台座主。妙法院宮墓地。
35堯性法親王 ;(北朝) 後光厳院皇子。応安4/建徳2(1371)年生。嘉慶2/元中5年正月26日(1388年3月5日)自害。 (以下省略)

🔻「門跡寺院聖護院」と「赤丸浅井神社」の関係
門跡寺院とは歴代の天皇の皇子が入寺された皇室ゆかりの寺院で在った。京都大仏で有名だった『方広寺』は、この時期には「聖護院派」に属し、聖護院別院の扱いを受けていたと云う。「赤丸浅井神社」は聖護院派(本山派山伏)で在った為に徳川家康が豊臣恩顧の宗教として弾圧し、関ヶ原の戦い後、聖護院別当は江戸に呼ばれて暗殺されたと云う。

🌸「豊臣秀吉」、「豊臣秀頼」が情熱を注いだ「方広寺」と『京都大仏』
数回の火災、震災等で倒壊したと云う。






■【「高岡市史」は高岡市福田の「荊波神社」に「式内社」としての疑議をはさみ、この「福田庄は妙法院領で在った」からだとしている。その為に「砺波市」や「福光町」の「延喜式内社荊波神社」と称する神社を取り上げてその反証を試みているが、他の神社は何れも越中石黒氏の祖先神を祀っており、「延喜式神名帳」に記載される当時の国家指定の神社としてはその要件を満たしていない。
因みに、「延喜式内社荊波神社」は富山県福光町岩木にも有り、ここは石黒氏の祖の越中利波臣の先祖の「日子刺肩別命」を祭神にしている。岩木集落の浄土真宗大谷派金色山慶誓寺が在り、神社には「荊波神社」が鎮座する。昔は近くに在った山伏石黒山寛勝寺が別当で、この神社後方の山中には福光町指定史跡の「志留志塚」(利波臣志留志の墓とされる)が在る。この別当は宝歴二年から大正八年迄の167年間、石黒氏が石動山修験道の山伏として別当を勤めたが、明治に入り修験道を真言宗か天台宗に改宗させる動きになって横浜に移住して火災で亡くなり途絶えたと云う。1653年(承応二年)「越中国式内等旧記」に「岩木富士神社 同郷(石黒郷)岩木村鎮座、称富士権現 旧社地」と有り、当初は富士権現と呼ばれたこの神社は、「1759年(宝歴九年)神社改書上帳」にはじめて寛勝寺と共に「荊波神社」として記されたと云う。大正時代に寛勝寺が無くなり、宮司が城端町北野の利波氏が宮司となり、宮内省諸陵寮が「記塚経塚」(志留志塚)を調査して「利波臣志留志」の塚と認定されると、一躍、この神社に「延喜式内社荊波神社」としての認定運動が起こったと云う。この神社も当初は「富士権現」と呼ばれたが、大正になって一躍、「延喜式内社」とされた神社で有り、この神社にも明確な資料は無い様だ。しかし、歴史に触れるなら、少なくとも何に基づいて判断したか記載すべきで、感情や推測だけで公的な歴史書を作成してはいけない。それでは私小説と何ら変わりが無い。(※「砺波地区散居村地域研究所研究紀要第18号」尾田武雄氏論考 参照)

■「高岡市史」は「赤丸浅井城」に宗良親王が入られたと言う事を否定している。
「高岡市史」は「吉岡庄」については触れていても、その歴史や「赤丸浅井神社」が「越中吉岡庄」という「後醍醐天皇の庄園」(※「日本庄園史大辞典」、「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」)の中心施設で在ったという事も調べていないらしい。






何故、赤丸浅井城に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が滞在されたのか、牧野に滞在されたのか? その何れもが赤丸浅井城城主石黒氏が地頭で在ったからに他ならない。「射水郡史」に拠れば「牧野」の地頭は(赤丸浅井城)の石黒氏の「牧野太郎二」で在ったとしている。「高岡市史」は「福田荊波神社」や「赤丸浅井神社」、「浅井城」の歴史を否定している。歴史を批判し、否定するなら詳細の調査をしてからにすべきで、特に公的な刊行物で「個人の信仰、思想、信条」に触れる場合は、「信教の自由」を尊重して、「事実を示さず個人的な意思だけで安易な否定」はすべきでは無い。場合によっては何万人もの市民の信仰の否定につながる大罪を犯す事になる。まず初歩的な間違いは「神社を検証するのにその神社の祭神すら調べていない」事だろう!】

■後醍醐天皇第八皇子宗良親王は元は天台座主もされたが、天台宗から還俗されて越中では時宗に改宗されて極楽寺を各地に創建されたと云う。赤丸城ケ平の「親王屋敷跡」の後ろには高岡市の「極楽寺由緒に記載される極楽谷」が在る。(※「越中宮極楽寺由緒」)
この様に資料も示さず、宗良親王が元天台座主だから比叡山系妙法院領の福田荘を頼ったと結論付けても良いのだろうか? ここは「高岡市史編集者和田一郎氏の独断場?」である。
「七の社のかけを離れて」とは、「比叡山(日枝山)の日枝信仰から離れて、保護から離れて」とは解釈できないだろうか? 赤丸浅井神社では「七の社」とは比叡山山王七社では無く、「後醍醐天皇が頼りにされた両部神道の山伏の信仰の神々を宗良親王は信仰されて勧請された」としている。赤丸浅井神社の神々の内容と浅井神社合祀の神社を見れば如何に多くの神社を赤丸浅井神社が御守りしていたかが判る。一方、福田庄には「七つの神社」は無い。又、赤丸浅井神社の宮司が、加賀藩の時代にも小矢部市から国吉村、立野村、福岡町迄の広範囲の神社の宮司をしていた事は「小矢部市史」や「福岡町史」にも掲載されている。「赤丸浅井神社」は「五位庄郷社」で有り、その祭神の格式を見れば、「石堤浅井神社」が「郷社」と称して単一の神を祀っていた事と比べても何れが郷社であるかも歴然としている。この実態を見れば、「石堤浅井神社」や「舞谷八幡宮」を吉田神道が必死になって赤丸浅井神社から分離するべく画策した実態も自ずから明らかになる。かくのごとき「赤丸浅井神社」を否定しようとするデマは全て徳川幕府と組んでいた「吉田神道」の影響のせいである。これ等は全て、伝統有る「皇室庄園越中吉岡庄」の歴史を知らない無知な人達が吉田神道の宣伝に惑わされてでっち上げた「ウソ」で有る。【「延喜式内社浅井神社」には「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」と言う「論社」が有る。】と高岡市は吹聴しているが、「延喜式内社浅井神社」は皇室の神「正一位 高皇産霊神」(※「文徳実録」)を祀っている「赤丸浅井神社」以外にはあり得ない。

🔻「赤丸浅井神社の七の社の伝承」は「赤丸浅井神社」が以下に示す数多くの祭神を祀っている事から来ている。
《主祭神》[八河江比売神] [高皇産霊神]

「赤丸浅井神社祝詞と赤丸の管理神社」は以下の祝詞にも記載されている。「赤丸浅井神社」ではこの長い祝詞を毎朝神前で読み上げていた記録も遺されている。



◆「赤丸浅井神社祝詞」
掛巻毛畏支比乃御社尓添弖(そえて)齋比奉利座寸奉畄。神皇産霊(かむみむすびの)大神。八幡(やはたの)大神。相(あへ)殿(どの)尓(に)座(ま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。熊野(くまのの)大神。
八幡(やはたの)大神。天満(てま)大神。八幡(やはたの)大神。諏訪(すわの)大神等(たち)。日吉(ひよしの)大神等(たち)。愛宕(あたごの)大神。白山(しらやまの)大神。富士大神。庚能(かなへの)大神。
赤丸舞谷(まへのや)入會(いりあへ)尓座(ま)寸(す)。清水(きよみづの)大神。向野新(むかへのしん)尓座(ま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。石名田尓座(いしなだにま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。麻生谷(あそや)尓座(ま)寸(す)。熊野(くまのの)大神。少名彦(すくなひこの)大神。諏訪(すわの)大神。八幡(やはたの)大神。西廣谷(にしひろたに)尓(に)座(ま)寸(す)。
白山(しらやまの)大神。天照(あまてらすの)大神。諏訪(すわの)大神。沢川尓座(そうごうにま)寸(す)。愛宕(あたごの)大神。東石堤尓座(ひがしいしづつみにま)寸(す)。八幡(やはたの)大神。笹川尓座(ささがわにま)寸(す)。丹生川(にふかわ)大神。熊野(くまのの)大神。高田島尓座(たかたじまにま)寸(す)。五位庄(ごいのしょうの)大神等乃(たちの)。御前乎遥尓(はるかに)拝美奉利弖。畏美々々毛白左久。敷座畄氏子等乎。守利恵美給倍止稱言竟(おえ)奉良久止白寸。
■赤丸浅井神社管理の宮
・愛宕社 祭神 軻愚突智命
赤丸村古谷五四〇二(古村)
・清水社 祭神 大巳貴命  清水山鎮座
赤丸村古谷五三六三(古村)
■赤丸浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)
・神明社 祭神 天照大御神
赤丸村向野新村字石名田八一八番(向野新村)
・神明社  祭神 天照大御神
赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
・八幡社 祭神 誉田別尊
赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
・熊野社 祭神 伊弉諾命
赤丸村古谷五〇三一(古村)
・天満社 祭神 菅原道真
赤丸村子吉三八七三(古村)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村縄田二五一七(川原)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山彦命
赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山媛命
赤丸村古谷五二七五(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村勝負田一四五四(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村山王四三九八(古村)
・富士社 祭神 木花咲夜比売命
赤丸村山王四五〇六(古村)
・白山社 祭神 白山媛命
赤丸村古谷四八三八(古村)
■「赤丸浅井神社由緒」





■「赤丸浅井神社」は「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園を経て「後白河上皇」の「後院領」になった「越中吉岡庄」と「赤丸浅井城」の鎮守社で有る。(※「兵範記」、「人車記」)
「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」が聖護院(総本山三井寺園城寺ー天台宗寺門派本山)に入り聖護院は門跡寺院となったが、赤丸浅井神社の別当寺の「川人山鞍馬寺」は聖護院派(本山派)の両部神道である。「聖護院増誉」は「白河法王」が熊野行幸の時に先導した為、【熊野三山検校】に補されて修験道の統轄を許され、「聖護院」を勅旨により建立した。「白河法王」の時に「越中吉岡庄」は【京都上鴨神社】の社領として寄進されている。「後白河上皇」は【三井寺】で出家し、強大になった比叡山延暦寺を牽制されたと云う。「後白河上皇」は度々熊野三山に行幸されたと言われ、「赤丸浅井神社」の奥山にも「総持寺」の持宮の「熊野社」が勧請されている。「越中吉岡庄」の「赤丸浅井神社」は【元正天皇の二宮御創建】と言われ、「一条天皇」の時には勅願所になり、「後白河上皇」の時には「蓮花王院、三十三間堂」の庄園として、後は「後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄伝領した」皇室領で在り、時の幕府とは常に対立してきたが、「足利義満」の時には義満創建の京都の「相国寺(金閣寺)」の庄園になり、以後、足利氏菩提寺の「等持寺」、「等持院」領になった。
唯一神道を唱えた「吉田神道」はこれに対して時の幕府に近づき、徳川家康の久能山での葬儀は吉田神道で行われた。その後、天海僧正により改めて日光東照宮に改葬され、「東照大権現」とされた。前田家は当初 南光坊(倶利伽羅長楽寺の住職?)と言う僧で「瑞龍寺」の地鎮祭を行ったが、改めて「まつ」の提言により吉田神道により行われたと云う。 「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」は、両部神道山伏の「赤丸浅井神社」と吉田神道「石堤浅井神社」の争いとなったが、前田家は徳川牽制の背景から、天皇家所縁で両部神道の「赤丸浅井神社」の立場を尊重した。これは前田家が菅原道真(神道)の末裔として梅鉢紋を使用した事もあったと思われ、今も尚、旧加賀藩領内には正月に菅原道真像の軸を床の間に掛けて「学業成就」を祈る習慣が続いている。赤丸浅井神社には「菅原道真」が御神体として合祀されている。


🔴【越中の中山氏】 越中五位庄赤丸村「赤丸浅井城」、「赤丸城」の『城主中山氏』とその素性!!

2021-04-15 | 富山県高岡市福岡町赤丸村





●「赤丸浅井城中山氏」の四つの子孫!!
■敦賀市立博物館「中山正彌家文書」


■高岡市羽広「中山清輝家文書」






■能登末森城の戦いで前田利家に敗れて敦賀に逃れた【赤丸浅井城の「中山直治」の系統の「中山正弥家」東京都①】と、【赤丸に残って加賀藩に仕官した「中山孫左衛門清直」(高岡市羽広)②】の系統を示す系図を入手した。
「赤丸浅井城」の中山氏の系統では、敦賀の中山氏は「藤原氏」、高岡市の中山氏は「源氏」を名乗るが、中山氏が敦賀の今井氏の養子になっている事、近江中山氏は近江の中山八幡神社を氏神とする事、近江の今井氏(徳川の旗本)が「桧扇紋」を使用し、【赤丸村の中山氏(性宗寺)③】が「桧扇紋」を使用している事等から、この一族は「近江の出身」「藤原氏」で、「近江今井氏」の縁者と見られる。
(※徳川家康は元々藤原氏だが、征夷大将軍になる時に足利将軍家の後継者と名乗る為に「源氏」に替えた経過から、同じ理由で高岡市の中山氏も藤原氏の「下リ円に藤」と云う藤原氏の家紋を使用しながら「源氏」と名乗ったと見られる。)

■現在迄、中山氏は【赤丸村在住の中山赤圓家④】が遺した「赤丸名勝誌」に拠って秩父平氏の中山次郎重定の末裔としていたが、この一軒を除いて他の三軒は「藤原氏」を原点とする事から、「中山氏の本姓は藤原氏」と思われる。「中山正弥家文書」(※敦賀市立博物館)では、敦賀へ移った先の中山氏(中山正弥は越前の中山一族を頼ったが後には今井家の養子に成ったと言う。今井氏は近江の武将で大族である所から養子縁組をしたものか?)が越前朝倉家から安堵状を貰っている事から、足利尊氏の家臣の斯波高経が越中守護となった時に足利方の朝倉家の家臣として赤丸村に進出し、石黒氏は「承久の乱」で破れた時に「赤丸浅井城」を去ったものと見られる。しかし、石黒氏も中山氏も本姓を「藤原氏」とする事から、何らかの交流が在ったとも考えられる。「越中石黒氏」は「角鹿臣」の同族とされ、又、敦賀の女を妻とした「藤原利仁」の末裔とされる事から、同じく敦賀に所縁の藤原氏と云う事になる。赤丸村の中山赤園家では≪「石黒氏は北条氏を嫌い新川に去り、代わって「中山氏」が「赤丸浅井城」へ入った≫と伝える所から、「承久の乱」で敗れた「後鳥羽上皇」軍の「石黒氏」が奥州へ落ち延び、やがて姓を長谷川と変えて尾張国如意郷に如意城を開いた「石黒重行」を指すものと見られる。
(※「浪会記」・「湯原家記」。加賀藩記録⇒金沢市立玉川図書館近世図書館)

■「中山氏」は近江の「中山神社」を氏神とする一族と云われ、「赤丸浅井城」の城主「中山国松」は近江中山氏の一族共云われる。

◆「中山氏」の中で、赤穂浪士四十七士の「中山安兵衛」は堀部家に養子に入り「堀部」を名乗っているが、中山氏は元々、秀吉の家臣で加賀大聖寺に居城を構えた溝口氏の家臣となり、豊臣秀吉に転封を命ぜられて主家溝口氏に従って越前新発田に移った一族だと云う。
赤穂藩家老「大石内蔵助」自体は、オオムカデ退治で有名な「田原(※俵)藤太」と呼ばれた「近江の藤原氏の藤原秀郷」の末裔に当たると云われ、藤原氏で近江の田原に住して「田原」を名乗った一族と云われる事から、「越中吉岡庄(赤丸村領三日市)」に工房を構えた「宇多刀工」の出自の「宇多源氏佐々木氏」や「中山氏」、「大石氏」等が全て近江国を出自としている。越中の藤原氏はそのルーツを近江や越前に持っている。中山氏の中に、「源氏」や「藤原氏」と名乗るルーツの違いはその背景が在るのかも知れない。

■「赤丸城城主中山次郎兵衛」は「赤丸浅井城城主中山国松」の弟と伝える。
「赤丸城城主 中山治部左衛門尉国松」から「赤丸村長善寺」の開基「真言宗僧道正」への米貸付証文。保口入人として赤丸村の国松の一族「中山吉右衛門」(※このキッチョンサの末裔は現在の赤丸村古村に残る。)が立ち会っている。「長善寺」は一向一揆が赤丸村を占領すると浄土真宗に改宗した。「僧道正」は元は源氏の武将と言われ、姓を「旭」と名乗っている所から、倶梨伽羅山の源平合戦を戦った源氏の「木曽義仲」の四男の系統と見られる。(※「福岡町史」)
加賀の大聖寺にも木曽義仲の子供が開いたと言う寺院がある。
中山吉右衛門家には赤丸城の山裾一帯に山林を所有して、一族の墓もある。庭には蔵が在り、多くの古文書が在ったが解読もされずに田畑で消却されたと言う。一族は「中山国松の子孫」と語り伝える。


(※「米貸付証文」は敦賀市博物館の中山正弥家文書から引用。高岡市福岡歴史民俗資料館にはその写真が保管されている。)

■「赤丸浅井城城主中山正弥家」の末裔は、現在、敦賀市の杉津に近い地域に残っているが、近年、総本家は「中山正弥家文書」を処分して東京へ移住し、縁者の数軒が残っている。一族が守り伝えた寺院は今も杉津地区に残る。「中山正弥家文書」は敦賀市立博物館が購入した。




🔴上皇の庄園「後院領吉岡庄(赤丸村)」に在った高岡の「極楽寺」と「衆徳山総持寺」!!

2021-04-15 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


「安養山極楽寺・熊野社」
高岡の曳山祭りは有名だが、その時に役員が陣笠・裃でお参りに行くのが高岡の税務署裏の博労町に在る「安養山極楽寺(熊野権現)」である。このお寺は元五位庄に在り、赤丸城の中腹に後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王が創建されたと伝わる。貴重な高岡の極楽寺の由緒にもその事が記載され、極楽寺には数々の宗良親王所縁の品が伝わっていると云う。赤丸村舞谷の一角に極楽谷・極楽寺跡が有り、赤丸城に宗良親王が滞在されたという事を推定させる。









「衆徳山総持寺」
高野山真言宗「衆徳山総持寺」は、国指定重要文化財木造千手観音座像が国宝に指定(昭和十二年)された時、その国宝概説で「元赤丸に在った」と記載され、旧地とされる吉岡庄(高岡市福岡町赤丸村他)の舞谷地内に残る古地図には「総持寺下」と記載され、周辺には「観音堂遺跡」「熊野社址」等の地名が残されている。「総持寺下」や「観音堂遺跡」を福岡町で調査した際には幾らかの埋蔵文化財も発掘されているが、現在は山林や農地になっている。元々、現地には「総持寺址」の標識が建てられていたが、平成25年度の高岡市西山丘陵観光案内事業では改めて案内標識が建てられている。赤丸浅井神社四十八坊の一つと伝えられ、両部神道の川人山鞍馬寺の一部の僧坊とみられる。伝承では1002年頃河内の国から總院という僧が赤丸村に来て創建し観音像を安置して「観音寺」と称したと云う。皇室の荘園であった「越中吉岡庄」は後醍醐天皇の時、南朝の牙城となり石黒氏等の越中の領主が支援したが、南朝の武将の桃井直常が五位庄の戦いで敗れ、北朝勢力の足利氏一族の斯波氏が統治する様になると南朝勢力は圧迫されて吉岡庄を追放され、石黒氏が地頭をしていた現在の高岡市の一部へ移転したと伝わる。長く総持寺の門徒総代を務めた国人領主と推定される池田家の伝承では「後小松天皇の時、応永九年頃(1402年)当時の国主の命令により池田氏の所領400石の内、40石程の土地の寄進を受けて現在の高岡へ移転した。」と伝わる。宗家の池田家は元々、赤丸浅井神社の門前に居宅を構え、その後、四十九村、細池村と移転したが、現在もその跡地にはその弟一族で長く肝煎りを務めた「五右衛門家」の屋敷が残る。元々、総持寺が赤丸村に在ったと云われる場所の周辺は今も「池田島」と呼ばれ、法務局の公図にも残されている。宗家の池田家には総持寺の千手観音像の胎内仏と伝わる鎌倉時代の僧形の仏像が伝えられている。











🔴 富山県民が知らない【歴史の真実】➡【越中国之絵図】(大阪府羽曳野市資料叢書) 室町幕府直轄領【御料所】で在った【越中国五位庄】!!

2021-04-14 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
●室町時代の【越中国之絵図】(※大阪府羽曳野市[羽曳野資料叢書])に見られる「歴史の真実」!!

この絵図は富山県の歴史書では見た事が無く、一般的に室町時代の越中の状況は「推定」の地図資料が使用されていた。この度、羽曳野市教育委員会から「羽曳野市史」、「羽曳野資料叢書」を入手して、室町時代に「越中守護」として越中に君臨した「畠山文書」の調査を行った。「畠山氏」は、「本国 羽曳野市」で在ったが室町幕府の足利家同族として幕府の重職を担い、「越中」、「能登」、「紀州」等の諸国を統治して、「室町幕府守護」、「室町幕府管領」として歴代、幕府の中心に在った。富山県では、室町幕府で実際に越中を統治した「室町幕府」の【足利将軍家】や足利一族で「幕府管領」・「幕府守護」を勤めた「畠山一族」、「室町幕府政所代越中蜷川一族」等の研究が、「神保氏」等に比べて極めて少ない。これは、越中には「源平盛衰記」でも著名な「越中石黒氏」や「宮崎氏」、「井口氏」等の国人に脚光が当たっていた事も関連が深い。時代の経過と共に「越中の歴史」は忘却の闇に消えようとしている。特に「越中」の中世研究は少なく、他県に比べて保存資料も少ない。これは長期に亘り他県からの統治を受け続けた為に、歴史資料が富山県に遺っていない事とも密接だ。しかし、その為に、富山県の歴史が推測や誤解の積み重ねの上に作り上げられている事を容認すべきでは無い。特に、高岡市では、「史書」である「高岡市史」にすら「資料編」が存在しない情けないものである。その歴史資料は殆どの重要資料が石川県立図書館や金沢市立玉川図書館に修蔵されている為に、富山県の住民は殆どその資料を目にする事も無い。その為に伝聞や憶測がそのまま歴史として認識されている。その間隙を縫って「吉田神道」の様に意図的に作り事を吹聴した者達が居た為に、「高岡市の歴史」の様にデタラメが真実と混同して伝えられている。それに気着いた者達も周辺や権力者に忖度してそのまま放置し続けてきた。今や、その偽造された歴史は回復が困難な程に鉄板の「信仰」として伝えつづけられている。歴史的な真実は一つしか無い。歴史教育を怠ってきた「教育委員会」はその最も重罪犯である。「教育」と云う権力に隠れて嘘やデマを吹聴する「教育委員会」にその存在意義は無い。



◆【赤丸浅井城】には【越中守護畠山持国】、【福満城】に【石黒氏】、【木船城】には【遊佐氏】の記載が在り、近年迄富山県の歴史書に記載されていた内容と異なる記述も見られる。


◆「富山県」発行の「富山県のあゆみ」には、越中で唯一、「天皇家庄園」として続いた「越中吉岡庄」は認識もされていない。











🔴💢【高岡市の教育を阻害する吉田神道高岡関野神社の正体】
天皇家の「伊勢神道」に対抗して、神道を簒奪した「吉田神道高岡関野神社」を信奉する「高岡市の指導層」や「加賀藩恩顧の高岡の裕福な町民達」が高岡市役所や高岡市の様々な部署に浸透して、【高岡市の裏社会】を構成しており、「近代高岡市の発展」を阻害している。
高岡市役所は「前田利家」を密かに天皇に例えて天皇の象徴の「鳳凰」の像を高岡市のシンボルとして各所に設置して、広報でも「高岡市」の起源は「前田利長が採用した[鳳凰鳴けり高き岡に]から来ている」としている。「鳳凰」は誰でも知っている「天子」・「皇帝」のシンボルで在り、天皇や皇帝の衣裳しか使用できない紋で在るにも関わらず、何故か天皇と直接関係が無い「旧高岡市」へ来ると、市街地のアチコチに「鳳凰像」を見かけ、無知蒙昧な一部市民達は、これが「高岡市のシンボル」だと説明している。それにも関わらず、平安時代の「保元の乱」以後「後白河上皇」の庄園に成った富山県で唯一の皇室庄園「越中吉岡庄」(五位庄赤丸村他)については「延喜式内社赤丸浅井神社」には伝えられていたものの、「富山県の歴史」や「高岡市の歴史」では今迄、歴史の俎上にすら上った事は無く、加賀藩時代には吉田神道の影響でこの庄園についてのあらゆる記載すら消し去ろうとしていたフシが見られる。







■憲法で定められた「象徴 天皇家」や「伊勢神道」に密かに対抗して高岡市の旧町民達は「前田家」を核にしたクーデターでも企む気なのか?
高岡市の旧町民達は、「高岡御車山祭り」が「吉田神道高岡関野神社」の祭礼行事で在る事も知らないのか、この祭り自体が伊勢神宮の権威を奪い、天皇家に反逆する者達の「吉田神道」の祭りと成っている事を知らないのか、熱狂して受け入れている。その顔は新興宗教を信じる人達と同じ、熱狂的で輝かしい顔に満ちている。この姿を見ると、「何処かの新興宗教が作り上げた街」を思い出して慄然として恐怖感すら覚える。

🔽「吉田神道の正体」(参照)
https://honz.jp/articles/-/21325


■後鳥羽上皇の庄園「越中吉岡庄」(五位庄赤丸村)に在った「後鳥羽上皇」ゆかりの「総持寺」(現在、高岡市関町)は、「高岡市教育委員会」に拠れば「元々高岡市石堤村に在った」と偽造して機関紙迄も発行している。総持寺の「国指定重要文化財木造千手観音座像」について国が発行した「国宝概説」には明確に「元々赤丸村に在った」と記載されているにも関わらず、高岡市選出の富山県議をしていた自称郷土史家の「飛見丈繁氏」は「吉田神道高岡関野神社」が主張した【総持寺は元々高岡市石堤村に在った】とする主張を受けて、「国宝概説」の「赤丸村に在った」と記載されている部分を「筆者言う 高岡市石堤村の誤り」と改竄して図書を出版して各施設に配布した。この背景には高岡関野神社が「赤丸浅井神社」の末社の「石堤浅井神社」を関野神社の配下にする神社簒奪の企みが在った。高岡市教育委員会はこの動きに便乗して「高岡市の広報誌」に「総持寺は高岡市石堤村に在った」と広報し、現在もその姿勢を変えていない。そこには「吉田神道高岡関野神社」の作為を弁護しようとする明確な意図が在る。これが高岡市の教育を統括する「高岡市教育委員会」の本性で在り、「歴史の偽造を目指した高岡市教育委員会」の真の正体なのだ。この様な詐欺師達が高岡市の幹部達、教育委員会を牛耳っているのだから、高岡市が破綻するのも尤もな話しだ!!







■【高岡関野神社の正体】
「吉田神道高岡関野神社」の「赤丸浅井神社」の神社簒奪の動きを報じた地元の「郷土誌」




◆加賀藩は「赤丸浅井神社」の主張を是として「吉田神道高岡関野神社」の一派に「敗訴」を宣告しているにも関わらず、明治維新に乗じて吉田神道を強化しようと企んだ「吉田神道関野神社」は高岡市役所の中枢に入り込んで、「高岡市役所」自体を教化して「吉田神道」で洗脳した。
その為に、かつて加賀藩が裁判で確定した「延喜式内社赤丸浅井神社」とその末社の「石堤浅井神社」の神社簒奪騒動を現在もブリ帰して、「吉田神道高岡関野神社」の思想を新生高岡市にも普及しようと企んでいる。その為に高岡市の財政は食い尽くされ、かつて無い「財政危機」をもたらしている。