■【祭神も調べずに神社の是非を論ずる「高岡市史」】
「高岡市史」は高岡市福田の「荊波神社」(※ウバラジンジヤと呼ばれている)の祭神は【「十禅師(地蔵菩薩)」で在り、古代の越中砺波郡の郡ク司一族の「利波臣」の祖先とされる「彦刺方別命ヒコサシカタワケノミコト」で在る。】とし、「高岡市万葉歴史博物館」は【延喜式内社の「荊波神社」は砺波市池原の神社が該当する】と記載しているが、「富山県神社誌」には【祭神は瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト)】と記載され、この神社の祭神は高岡市の「二上射水神社」の祭神と同じで在ると記載している。「延喜式」と言う国法で在る律令に記載された神社は何れも天皇家の祖先神の神代の神々で在り、祭神の「格」からしても福田の神社が「延喜式内社」としてふさわしい。これ等から見ると、明らかに、「高岡市史」は意図的に「福田荊波神社」を否定する論陣を張っており、立地する高岡市が「福田荊波神社」の由緒を否定している理由が分からない。本当の「延喜式内社荊波神社」とは?
(※別の「福田神社」と称する神社が高岡市立野地内に立地している。)
▼「延喜式内社五位庄惣社赤丸浅井神社由緒」
■六宗兼学の「東大寺」と歴史的に密接な「東大寺庄園石粟庄図」にも掲載される「川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」の在る「五位庄」には天台宗、真言宗の教義が混在して伝わっている。「五位庄」の一角に在った高岡市福田の「荊波神社」は「天台宗妙法院領」になった時に「十禅師」の内の「地蔵菩薩」を祀ったとされるが、「十禅師社」は比叡山に祀られている。
・「越中吉岡庄」の領主で在った「後醍醐天皇」の第八皇子「宗良親王」はこの時期に「妙法院主」に就任されている。「宗良親王」は興国三年には越中に入られ、赤丸浅井城にも入られたと伝わる。「宗良親王」は「妙法院院主」の後に「天台座主」も勤められて、三度に亘り妙法院院主に就任されたと云う。
・真言宗の「総持寺」には南北朝時代の正平八年に「後醍醐天皇所縁の河内金剛寺」から黄金の仏像が伝来している。
・「荊波神社」は「赤丸浅井神社」の門前に屋敷を構えていた奥田、桜木の総本家の池田家の持宮「イバラの宮」と見られ、この池田家は高岡市福田周辺の池田地区を開発した一族と伝わっている。現在の福田荊波神社は元々近くに在ったものを現在地に動かしているが、神社側では元々の所在地は不明としているが、池田家は「イバラの宮が区画整理の時に動かされた」として従前の敷地の写真と遺跡の一部を保管している。(※「石堤村史」)
又、高岡市福田六家地区は「赤丸浅井神社」を総鎮守とした皇室領の「吉岡庄」(※後に「五位庄」)の一角に当たる。
「高岡市和田新村」は藩政時代に「和田佐助」が開発した村で、その住民は「赤丸西円の住民を強制移住させた」もの。(※「城端別院文書」富山県立公文書館)
その殆どの住民は無産の「頭振り」と呼ばれた「水呑み百姓」で「農奴」として扱われた。和田佐助自体も隠田の罪で「磔」で虐殺された。高岡市羽広の「諏訪神社」の社殿は「赤丸浅井神社の拝殿」を移設したもの。⇒建物には浅井神社と同じく皇室の「十六菊紋」が刻まれて居る。(※「富山県神社誌」)
■「赤丸村領高田島」(現在は高岡市高田島)には、「五位庄 郷社 赤丸浅井神社」の末社として「聖武天皇勅願社」(※「富山県神社誌」)と伝える「五位庄神社」が在り、「赤丸浅井神社」の祝詞にも記載されている。
■「十禅師」と「空海」
「空海」は、「清和天皇」の時に、宮中の内道場に奉仕して天皇の御斎会の読師等の勤めをした高徳の僧一〇人(※十禅師。供奉。内供)の内の「真済僧正」が天皇に申請して「大僧正」に任じられた。
(※「六国史 三代実録 清和天皇」)
★「十禅師」には二つの意味が在る。
①毎年、正月に朝廷で法要を行い国家安泰を祈願した高僧で、「十禅師」に任じられた高僧には【天台宗】最澄、光定、円仁、相応、円珍 【真言宗】真済、真紹 等が任命されている。
・「五位庄」に「十禅師社」が祀られた理由→「空海」は東大寺に真言宗の教義を伝えたとされるが、中世以前は宗派間の区別は明確では無く、東大寺は六宗兼学の寺とされており、「五位庄」の宗派も天台、真言の区分が明確では無かった。天台宗系の聖護院派川人山鞍馬寺の周辺寺院48坊の一つとされる総持寺が真言宗で在った事もその背景が在った為と見られ、現在、総持寺の持宮の「熊野社」が「赤丸浅井神社」に合祀されており、「総持寺」の過去帳には「赤丸浅井神社」の神官の先祖一族の名前が記載されていると云う。
(※「越中古文抄」高岡市中央図書館蔵)
元々、 「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を祀っていた「荊波神社」は「赤丸浅井神社」の両部神道の影響を受けて関係が在る「地蔵菩薩」を祭神としたものと見られる。「延喜式内社赤丸浅井神社」は延喜式が定められた遥か昔の「第五代孝昭天皇の御代」に古い社が創建され、後に「八の河の江の神」⇒「八河江比売」を祭神にされたと云う。
(※「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」)
▼「神名帳」には「ウバラノ」と注意書きが付されており、「ウバラノヤブナミ」と記載される写本も在り、本当は「荊原里」に在る「荊波神社」を指している。高岡市立野地区に比定される「東大寺庄園杵名蛭庄」の絵図には「杵名蛭庄」の隣接に「荊原里 ウバラノサト」と明記される。
■「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」には「杵名蛭庄」の位置について平成29年(2017年)6月に「高岡市立野地区」が追記された。
②比叡山に祀られた日吉山王七社権現の一つで、国常立尊(クニトコタチノミコト)からかぞえて第十の神に当たる「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を「地蔵菩薩」の権現として名付ける。
「高岡市史」は高岡市福田の「荊波神社」(※ウバラジンジヤと呼ばれている)の祭神は【「十禅師(地蔵菩薩)」で在り、古代の越中砺波郡の郡ク司一族の「利波臣」の祖先とされる「彦刺方別命ヒコサシカタワケノミコト」で在る。】とし、「高岡市万葉歴史博物館」は【延喜式内社の「荊波神社」は砺波市池原の神社が該当する】と記載しているが、「富山県神社誌」には【祭神は瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト)】と記載され、この神社の祭神は高岡市の「二上射水神社」の祭神と同じで在ると記載している。「延喜式」と言う国法で在る律令に記載された神社は何れも天皇家の祖先神の神代の神々で在り、祭神の「格」からしても福田の神社が「延喜式内社」としてふさわしい。これ等から見ると、明らかに、「高岡市史」は意図的に「福田荊波神社」を否定する論陣を張っており、立地する高岡市が「福田荊波神社」の由緒を否定している理由が分からない。本当の「延喜式内社荊波神社」とは?
(※別の「福田神社」と称する神社が高岡市立野地内に立地している。)
▼「延喜式内社五位庄惣社赤丸浅井神社由緒」
■六宗兼学の「東大寺」と歴史的に密接な「東大寺庄園石粟庄図」にも掲載される「川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」の在る「五位庄」には天台宗、真言宗の教義が混在して伝わっている。「五位庄」の一角に在った高岡市福田の「荊波神社」は「天台宗妙法院領」になった時に「十禅師」の内の「地蔵菩薩」を祀ったとされるが、「十禅師社」は比叡山に祀られている。
・「越中吉岡庄」の領主で在った「後醍醐天皇」の第八皇子「宗良親王」はこの時期に「妙法院主」に就任されている。「宗良親王」は興国三年には越中に入られ、赤丸浅井城にも入られたと伝わる。「宗良親王」は「妙法院院主」の後に「天台座主」も勤められて、三度に亘り妙法院院主に就任されたと云う。
・真言宗の「総持寺」には南北朝時代の正平八年に「後醍醐天皇所縁の河内金剛寺」から黄金の仏像が伝来している。
・「荊波神社」は「赤丸浅井神社」の門前に屋敷を構えていた奥田、桜木の総本家の池田家の持宮「イバラの宮」と見られ、この池田家は高岡市福田周辺の池田地区を開発した一族と伝わっている。現在の福田荊波神社は元々近くに在ったものを現在地に動かしているが、神社側では元々の所在地は不明としているが、池田家は「イバラの宮が区画整理の時に動かされた」として従前の敷地の写真と遺跡の一部を保管している。(※「石堤村史」)
又、高岡市福田六家地区は「赤丸浅井神社」を総鎮守とした皇室領の「吉岡庄」(※後に「五位庄」)の一角に当たる。
「高岡市和田新村」は藩政時代に「和田佐助」が開発した村で、その住民は「赤丸西円の住民を強制移住させた」もの。(※「城端別院文書」富山県立公文書館)
その殆どの住民は無産の「頭振り」と呼ばれた「水呑み百姓」で「農奴」として扱われた。和田佐助自体も隠田の罪で「磔」で虐殺された。高岡市羽広の「諏訪神社」の社殿は「赤丸浅井神社の拝殿」を移設したもの。⇒建物には浅井神社と同じく皇室の「十六菊紋」が刻まれて居る。(※「富山県神社誌」)
■「赤丸村領高田島」(現在は高岡市高田島)には、「五位庄 郷社 赤丸浅井神社」の末社として「聖武天皇勅願社」(※「富山県神社誌」)と伝える「五位庄神社」が在り、「赤丸浅井神社」の祝詞にも記載されている。
■「十禅師」と「空海」
「空海」は、「清和天皇」の時に、宮中の内道場に奉仕して天皇の御斎会の読師等の勤めをした高徳の僧一〇人(※十禅師。供奉。内供)の内の「真済僧正」が天皇に申請して「大僧正」に任じられた。
(※「六国史 三代実録 清和天皇」)
★「十禅師」には二つの意味が在る。
①毎年、正月に朝廷で法要を行い国家安泰を祈願した高僧で、「十禅師」に任じられた高僧には【天台宗】最澄、光定、円仁、相応、円珍 【真言宗】真済、真紹 等が任命されている。
・「五位庄」に「十禅師社」が祀られた理由→「空海」は東大寺に真言宗の教義を伝えたとされるが、中世以前は宗派間の区別は明確では無く、東大寺は六宗兼学の寺とされており、「五位庄」の宗派も天台、真言の区分が明確では無かった。天台宗系の聖護院派川人山鞍馬寺の周辺寺院48坊の一つとされる総持寺が真言宗で在った事もその背景が在った為と見られ、現在、総持寺の持宮の「熊野社」が「赤丸浅井神社」に合祀されており、「総持寺」の過去帳には「赤丸浅井神社」の神官の先祖一族の名前が記載されていると云う。
(※「越中古文抄」高岡市中央図書館蔵)
元々、 「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を祀っていた「荊波神社」は「赤丸浅井神社」の両部神道の影響を受けて関係が在る「地蔵菩薩」を祭神としたものと見られる。「延喜式内社赤丸浅井神社」は延喜式が定められた遥か昔の「第五代孝昭天皇の御代」に古い社が創建され、後に「八の河の江の神」⇒「八河江比売」を祭神にされたと云う。
(※「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」)
▼「神名帳」には「ウバラノ」と注意書きが付されており、「ウバラノヤブナミ」と記載される写本も在り、本当は「荊原里」に在る「荊波神社」を指している。高岡市立野地区に比定される「東大寺庄園杵名蛭庄」の絵図には「杵名蛭庄」の隣接に「荊原里 ウバラノサト」と明記される。
■「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」には「杵名蛭庄」の位置について平成29年(2017年)6月に「高岡市立野地区」が追記された。
②比叡山に祀られた日吉山王七社権現の一つで、国常立尊(クニトコタチノミコト)からかぞえて第十の神に当たる「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を「地蔵菩薩」の権現として名付ける。