赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴【越中の中山氏】 越中五位庄赤丸村「赤丸浅井城」、「赤丸城」の『城主中山氏』とその素性!!

2021-04-15 | 富山県高岡市福岡町赤丸村





●「赤丸浅井城中山氏」の四つの子孫!!
■敦賀市立博物館「中山正彌家文書」


■高岡市羽広「中山清輝家文書」






■能登末森城の戦いで前田利家に敗れて敦賀に逃れた【赤丸浅井城の「中山直治」の系統の「中山正弥家」東京都①】と、【赤丸に残って加賀藩に仕官した「中山孫左衛門清直」(高岡市羽広)②】の系統を示す系図を入手した。
「赤丸浅井城」の中山氏の系統では、敦賀の中山氏は「藤原氏」、高岡市の中山氏は「源氏」を名乗るが、中山氏が敦賀の今井氏の養子になっている事、近江中山氏は近江の中山八幡神社を氏神とする事、近江の今井氏(徳川の旗本)が「桧扇紋」を使用し、【赤丸村の中山氏(性宗寺)③】が「桧扇紋」を使用している事等から、この一族は「近江の出身」「藤原氏」で、「近江今井氏」の縁者と見られる。
(※徳川家康は元々藤原氏だが、征夷大将軍になる時に足利将軍家の後継者と名乗る為に「源氏」に替えた経過から、同じ理由で高岡市の中山氏も藤原氏の「下リ円に藤」と云う藤原氏の家紋を使用しながら「源氏」と名乗ったと見られる。)

■現在迄、中山氏は【赤丸村在住の中山赤圓家④】が遺した「赤丸名勝誌」に拠って秩父平氏の中山次郎重定の末裔としていたが、この一軒を除いて他の三軒は「藤原氏」を原点とする事から、「中山氏の本姓は藤原氏」と思われる。「中山正弥家文書」(※敦賀市立博物館)では、敦賀へ移った先の中山氏(中山正弥は越前の中山一族を頼ったが後には今井家の養子に成ったと言う。今井氏は近江の武将で大族である所から養子縁組をしたものか?)が越前朝倉家から安堵状を貰っている事から、足利尊氏の家臣の斯波高経が越中守護となった時に足利方の朝倉家の家臣として赤丸村に進出し、石黒氏は「承久の乱」で破れた時に「赤丸浅井城」を去ったものと見られる。しかし、石黒氏も中山氏も本姓を「藤原氏」とする事から、何らかの交流が在ったとも考えられる。「越中石黒氏」は「角鹿臣」の同族とされ、又、敦賀の女を妻とした「藤原利仁」の末裔とされる事から、同じく敦賀に所縁の藤原氏と云う事になる。赤丸村の中山赤園家では≪「石黒氏は北条氏を嫌い新川に去り、代わって「中山氏」が「赤丸浅井城」へ入った≫と伝える所から、「承久の乱」で敗れた「後鳥羽上皇」軍の「石黒氏」が奥州へ落ち延び、やがて姓を長谷川と変えて尾張国如意郷に如意城を開いた「石黒重行」を指すものと見られる。
(※「浪会記」・「湯原家記」。加賀藩記録⇒金沢市立玉川図書館近世図書館)

■「中山氏」は近江の「中山神社」を氏神とする一族と云われ、「赤丸浅井城」の城主「中山国松」は近江中山氏の一族共云われる。

◆「中山氏」の中で、赤穂浪士四十七士の「中山安兵衛」は堀部家に養子に入り「堀部」を名乗っているが、中山氏は元々、秀吉の家臣で加賀大聖寺に居城を構えた溝口氏の家臣となり、豊臣秀吉に転封を命ぜられて主家溝口氏に従って越前新発田に移った一族だと云う。
赤穂藩家老「大石内蔵助」自体は、オオムカデ退治で有名な「田原(※俵)藤太」と呼ばれた「近江の藤原氏の藤原秀郷」の末裔に当たると云われ、藤原氏で近江の田原に住して「田原」を名乗った一族と云われる事から、「越中吉岡庄(赤丸村領三日市)」に工房を構えた「宇多刀工」の出自の「宇多源氏佐々木氏」や「中山氏」、「大石氏」等が全て近江国を出自としている。越中の藤原氏はそのルーツを近江や越前に持っている。中山氏の中に、「源氏」や「藤原氏」と名乗るルーツの違いはその背景が在るのかも知れない。

■「赤丸城城主中山次郎兵衛」は「赤丸浅井城城主中山国松」の弟と伝える。
「赤丸城城主 中山治部左衛門尉国松」から「赤丸村長善寺」の開基「真言宗僧道正」への米貸付証文。保口入人として赤丸村の国松の一族「中山吉右衛門」(※このキッチョンサの末裔は現在の赤丸村古村に残る。)が立ち会っている。「長善寺」は一向一揆が赤丸村を占領すると浄土真宗に改宗した。「僧道正」は元は源氏の武将と言われ、姓を「旭」と名乗っている所から、倶梨伽羅山の源平合戦を戦った源氏の「木曽義仲」の四男の系統と見られる。(※「福岡町史」)
加賀の大聖寺にも木曽義仲の子供が開いたと言う寺院がある。
中山吉右衛門家には赤丸城の山裾一帯に山林を所有して、一族の墓もある。庭には蔵が在り、多くの古文書が在ったが解読もされずに田畑で消却されたと言う。一族は「中山国松の子孫」と語り伝える。


(※「米貸付証文」は敦賀市博物館の中山正弥家文書から引用。高岡市福岡歴史民俗資料館にはその写真が保管されている。)

■「赤丸浅井城城主中山正弥家」の末裔は、現在、敦賀市の杉津に近い地域に残っているが、近年、総本家は「中山正弥家文書」を処分して東京へ移住し、縁者の数軒が残っている。一族が守り伝えた寺院は今も杉津地区に残る。「中山正弥家文書」は敦賀市立博物館が購入した。





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