赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸「吉岡庄」・「五位庄」赤丸村⇒「吾妻鑑・義経記・太平記」と「赤丸浅井神社」、「浅井城」!!

2021-04-16 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「赤丸村発掘の古代遺跡…城ケ平横穴古墳」と「頭椎の太刀」冠頭部分、類似の発掘刀剣



■富山県西部の石川県境の西礪波郡と呼ばれた地域は古代から栄えた地域で、富山県では最大の横穴古墳群が存在する。赤丸村の城ケ平古墳群からは、大和朝廷が北陸道将軍に任命した「大彦命」の時代の「冠頭太刀(太刀の取手に豪華な装飾をしたもの)」が発掘され、多くの刀や遺骨が発掘されており、白河天皇の時にこの地域は「吉岡庄」として、上賀茂神社の庄園になっている。その後、「保元の乱」の敗者の藤原氏長者藤原頼長の庄園から勝者の後白河上皇の「後院領吉岡庄」となり、以後、上皇の庄園、天皇の庄園の「吉岡庄」は、後醍醐天皇迄続いた。その後は、足利将軍家の庄園となり、相国寺、等持院の庄園とされた。後白河上皇の時には「蓮華王院」(※「三十三間堂」には1001体の千手観音像が祀られた。)や、足利義満の時代には「相国寺」(※塔頭寺院に「鹿苑寺金閣寺」がある。)の庄園や京都下鴨神社の庄園となり、中央の最高権力者の庄園、著名な寺社の庄園になった。こうした背景から、北陸道の「越中吉岡庄」やその後の「五位庄」は、「平家物語」、 鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」、源義経の奥州下りの「義経記」や「源平盛衰記」、南北朝の動乱期の「太平記」「花営三代記」等の著名な歴史書の舞台で在った。この地域に幾多の武将、兵士が戦火を交え、宗祇法師等の幾多の著名人が行き交った地域で在った。しかし、度重なる戦火の下にかつて繁栄した地域は焦土となり、前田利家の侵攻で、史蹟や歴史は徹底的に抹殺されて、住民さえも移動させられて、遺されたのは、営々として流れる小矢部川のみとなり、今はその繁栄の面影は、奈良時代創建の「延喜式内社赤丸浅井神社」を残すのみとなってしまった。

■「赤丸浅井神社」は元正天皇二宮(実は文武天皇の二宮の石川朝臣広成。)の創建と伝わり、この辺りは「赤丸浅井神社」の前で庄川と小矢部川が合流しており、六渡寺の渡し場迄の小矢部川の船下りの交通路を古くから「如意の舟渡し」と呼んでいた。延喜式に登場する奈良時代の「川人の駅」に有った「二位の渡し」が 後の「五位の渡し」で有った。又、「赤丸浅井城」は「文武天皇の二宮」が居城とされ、後には東大寺大仏造営の時に多額の寄進をして東大寺庄園の開発に尽力した「利波臣志留志」の後衛の「石黒氏」が長く居城にしたと伝わる。(※「肯構泉達録」参照)

■「吾妻鑑」1187年(文治3年)3月2日の条に「越中の国 吉岡庄地頭成佐不法---頼朝恐々謹言」の文書が残されている。
吉岡庄の地頭成佐が不法にも後白河上皇の直轄領で有る「後院領」の「吉岡庄」で不法を働いたので源頼朝が交代させた。「成佐」は高岡市福岡町加茂の吉岡谷に居館を構え、福岡町大滝村を開拓したとも伝わる。


■宮本武蔵が戦った吉岡一門の祖の吉岡鬼一法眼は京都鞍馬寺で修業して京都の八人に伝えたと云われる京八流を編み出し、源義経に剣術を教えたと云う。吉岡庄赤丸に、南北朝期に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が勧請されたと云う「鞍馬寺」が有るのは何の縁か?
「義経記」に拠れば、義経・弁慶主従が東北に落ちる時、五位庄(「宝永誌」によれば後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が吉岡庄を五位庄と名付けられたと云う。)を通過し、二位の渡りから船に乗って六渡寺迄下ったと伝わる。二位の渡しで弁慶は平権の守に見とがめられ、義経を扇子で打ち据えて嫌疑を晴らしたと「義経記」は伝える。このシーンは脚色されて後の歌舞伎では石川県小松市の「安宅の関」の物語となっている。頼朝は義経を探索する為、全国に地頭を配置して摘発を強化していた。

■後醍醐天皇の庄園で在った「越中吉岡庄」は、必然的に「南朝の牙城」となり、後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王が赤丸浅井城に入られ、南朝の忠臣石黒氏等を鼓舞されたと云う。その為に「五位庄」は南北朝の戦火の渦中にあり、南朝の忠臣の桃井直常は「五位庄の戦い」で敗れて飛騨に去り、行方不明になったと云う。赤丸村舞谷の麻畑の地には桃井直常の三男が「西大寺」を建立したと伝わり、この寺はその後、高岡市佐野に移り、後に高岡市の小矢部川の沿川に移り、現在も「光釜山西大寺」として桃井住職の下で存続している。又、桃井直常の孫が創作した「幸若舞」は、長く赤丸村舞谷村、石堤村、福光町等に伝承されて、明治の初め迄、越中西部にその躍り手の「舞々人」が住まいして伝承されたと云う。(※「幸若舞」は織田信長が好んだ「敦盛」等が人気となり、戦国武将に愛唱されて徳川にも好まれたが、一子相伝の為に衰退して、現在は九州の「みやま市」と織田信長の故郷の福井県織田町の隣地の朝日町に伝わるのみである。「幸若舞」の敦盛は「人間五十年、下天のうちを比ぶれば…」の一節で有名だが、現在の謡曲と異なり、勇壮な武者が足音で拍子を取りながら躍った風を残している。………現在は京都市立芸術大学が保存を試み、DVDに残している。)

■源義経の奥州落ちルート(※「義経記」小学館版 解説)




■「吉岡成佐の不法行為を伝える記事」(※吾妻鏡)



■「義経記」に登場する「如意の船渡」=「六渡寺川船渡し」
高岡城、福岡町の木舟城の近くに大きな河川が流れて、水運を確保していた様子が判る。



■昔の「小矢部川」は西山の麓を流れ、庄川から多くの支流が流れ込み、本流も途中で小矢部川と合流していた。



■「吾妻鑑」延応元年(1239年)2月20日 後鳥羽法皇が隠岐の島で崩御された。「吾妻鑑」1239年5月2日 五十嵐小豊次太郎惟重と北条朝時の家臣小見左衛門尉親家が、五十嵐氏が承久の乱で功名を立てて与えられた「国吉名」について争い、評定衆出席の上、親家を侍所に預かりと決せられた。五十嵐氏は後の加賀藩政では十村役を務め、国吉、赤丸等の五位組の十村を明治初年まで長く務めた。加賀藩政時代には讒言により一時期、能登島に配流された「断獄事件」に見舞われたが、五十嵐篤好(五十嵐小豊治)は著名な国学者であり、射水市の測量で著名な「石黒信由」と親交が有り、測量、算学に堪能で、新たな農地の開拓も行っている。この五十嵐氏の居宅跡は高岡市東五位小学校の敷地で、現地には五十嵐家の墓と墓標が立っている。

       

 
■五十嵐家の家紋は「剣かたばみ紋」。「五十嵐篤好」の屋敷跡の有る能越道高岡インター周辺の池田地区を開発した池田氏は「源平盛衰記」で木曽義仲を埴生八幡宮へ案内した国人領主池田次郎忠康の一族と思われる。池田姓が赤丸、国吉、岩坪、立野に多く残り、その総本家は「丸にエ文」だが、その他の池田氏は「かたばみ紋」か「剣かたばみ紋」を使用している。十村役を務めた五十嵐氏の先祖は新潟の出身と云われるが、その先祖は五十嵐小豊次太郎惟重であったのだろうか?源氏に加勢して手柄を立てている事と、国人領主池田次郎忠康が源氏の木曽義仲軍に従軍していた事から五十嵐氏と池田氏には共通性が有り、両者は縁者なのか?
「五十嵐氏」については、「肯構泉達録」には、古代に大山町上滝付近の越中三室郷に住んだ豊成彦の末裔が、「寿永年中に侍となり五十嵐小文治と名乗り、源平盛衰記にも見えたり」と記載されており、「三室郷湯花に城を築き河上中務(飛騨の豪族江馬の武将)と戦い、畔田入道円空に及んで戦い疲れて農に復した」と記載されている。
しかし、新潟県の「五十嵐神社」では、この五十嵐氏は先祖を新潟県の五十嵐氏として、「承久の乱」で幕府に協力した恩賞として「越中国吉名」を北條氏から授けられたとしており、その時に、五十嵐氏が越後(新潟県)から越中に移り住んだとされる。


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