赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴【加賀藩の圧政】 地域の人達の記憶に残る「加賀藩」の北陸の統治思想と「血」で購われた地域の占領政策!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越前占領」、「能登荒山」・「石動山」の合戦、「能登末森の戦い」での地域の民衆の虐殺の記録。

■「加賀藩史稿 七巻」(※前田直行著 明治32年)には加賀藩の歴代当主や家臣の履歴、役職等について詳細が記されている。








■その中には「公租の多くは越中に頼り、能登は公村とした為に、越中は家臣達に知行された」事が記載される。
越中の西部→殊に小矢部川西部の守山~小矢部市にかけては基本の4公6民の税制からかけ離れた60%~75%もの酷税をかけて搾り取り、能登は公領として搾取したと云う。能登では加賀藩士が貧しい農民を奴隷化して金沢等で遊郭等で働かせて終身奴隷化した者迄出ていたと云う。越中では酷税を払いきれずに小矢部川には多くの遺体が流れ着き、農民は葬儀の費用を恐れて遺体を下流に押し流したと言う。越中の河川近くには現在も多くの石仏が残る。

●加賀藩の治世には「赤丸村」は長九郎左衞門、前田典膳等に知行された。


●高岡市頭川村に残る「加賀藩 三千石 前田監持」の「年貢皆済目録」
(※年貢の受取完了確認状)




■「加賀藩の税制」では越中、能登には過酷な税制を課して被占領地として隷属させた。能登の「能登島」・越中の「五箇山」は罪人の流罪地とされ、「五箇山」では秘かに床下に尿を撒いて火薬の「煙硝」を生産させていた。
特に「能登末森城の戦い」で佐々成政軍に属した越中国の小矢部川河西地域には、報復として幕末に至る迄『75%』もの酷税をかけて搾り取り、農民の大半を農奴化して「頭振り」と云う無産の百姓に落として、赤丸村の農民は高岡市和田村の開発の為に移住させている。和田村を開発した「和田佐助」も貧困に喘ぐ百姓を庇って、「隠し田」の罪で「磔」の極刑にされた。現在も高岡市和田町では町を挙げて「和田佐助」の慰霊祭が行われている。
一方、佐々軍や五位庄の民衆をを裏切り、佐々軍を山中へ誘導して前田軍に味方した「五位庄沢川村」の「田畑兵衛」には「40%」の優遇税率をかけて、加賀藩の庄屋に当たる「十村役」の束ねや山廻り役に任じて優遇している。
(※「城端別院文書」富山県立公文書館、「加能越三箇国高物成帳」金沢市立玉川図書館)



■石動山の攻撃の様子を記載した「北国太平記」と「荒山合戦記」、「末森合戦」に見られる「力」と「血」の占領政策。



「荒山合戦記」





「北国太平記」




「末森合戦」


■上杉謙信の石動山の攻撃よりも大きな被害を出した前田利家の石動山攻撃は残忍を極め、全山の僧や婦女子の惨殺で、その山々の谷川は紅の大河と化したと云う。前田利家は殺害した民衆の首一千人余りを石動山の山門に吊るして晒した。天正10年、前田利家は柴田勝家や丹羽長秀の応援を受けて、能登守護として長く君臨してきた能登畠山氏の遺臣の遊佐、温井、三宅等と戦った。石動山に逃げ込んだ畠山遺臣を絶滅させる為に、「子供や乞食迄も民衆で寺の内に居る者は全て殺害」したとこれ等の戦記に記載されている。その上で、全山に火をかけて徹底的に破壊し尽くした。
この状況はこの「北国太平記」や「荒山合戦記」により長く言い伝えられた。前田利家は打ち取った敵の首を腰にブラ下げた肖像を絵描かせて、家臣に床の間に飾らせていたと言う。福井県では、一揆の農民を女子供の区別無く、草の根を分けて捜し出して12000人余りを「磔」、「釜茹で」、「火炙り」で全員を虐殺した。福井県の「味真野史跡保存会」にはこの様子を書き記した「屋根瓦」が現在も保存されており、「後世の為に書き記した」と書かれており、又、佐々成政と争った「末森合戦」では、砺波山を越えて侵入した前田軍は小矢部市の蓮沼の大寺に逃れていた婦女子、子供も含む民衆300人余りを全員、虐殺して村々に火をかけて民間人を殺害している。

(※参考ー古書に見られる絵図)




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