ヤスパース『哲学』翻訳(第5部)第三巻「形而上学」「第三章 超越者への実存的関係の諸々」
(68頁)
第三章
超越者への実存的関係の諸々
反抗と帰依 (71頁)
没落と上昇 (83頁)
昼の法則と夜への情熱 (102頁)
多なるものの豊かさと一なるもの (116頁)
超越者は、限界状況において実存が自分の根源から自らを超越者へと方向づける場合に初めて現前するものであるが、すべてを吸収する灼熱であり得るものであり、あるいは、依然としてすべてのことを言いながら、それから再び、あたかも超越者は全く存在しないかのような静寂でもあり得るものである。
私自身の存在意識と結びついて、超越者は、私が超越者に向かって立つあり方に応じて、自らを明示する。超越者の存在を私は、ただ、いかに私が内的に行為しつつ私自身へと生成するか、その生成の仕方を通してのみ、把捉するのである。超越者は私に手を差し伸べるが、それは、私が超越者を摑み取るかぎりにおいてである。しかし超越者を強いることはできない。何処で、そして如何に、超越者が私に自らを示すかは、問われ続けることである。準備をして自制していることの能動性は、受動性ではなく、運命のなかで現存在を激情的に摑み取ることと同様に、決定的なことであり得るのである。
しかし決して、超越者への関係は、計画的な実施のようなものには接近可能ではない。むしろ、超越者無しで生きることこそ(69頁)、私が為し得ることにおいて、営業の合目的性において、成功することであり、こういった営業は、最も本質的に大事なものをも屈服させ、破滅させるものなのである。存在のどんな透明性も無いまま、生をまぎれもない凡俗さにおいて現実的に感じることに成功し得るというのであれば、生はもはや疑わしきものではないことになろう。
だが、実存が、あらゆる現存在を超え出て、本来的存在に目を向けるとき、この本来的存在は、ただ束の間の暗号の諸々においてではあるが、実存の目の前に歩んで来るのであり、これら暗号において実存は本来的存在を自らに近づけ、言表したいと思うのである。
この論述は、それゆえ、限界状況を見遣りながら、諸々の実存的関係を現前させるだろう。それらの実存的関係において経験された超越者は、観ぜられ思惟されたものとして、対象的となるのであり、そして再び溶けて消えるのである。
私が可能的実存として存在への関係へ歩み入るとき、この関係が一義的である処はどこにもない。すなわち:
実存が、疑わしい現存在から、超越者に対峙して己れを立てるのは、反抗と帰依においてである。諸々の限界状況は、現存在において破壊しつつ明示するものであるが、これらの限界状況から、何故現存在はこのようであるのか、という問いが生じる。この問いは、現存在の根元に対する反抗へと導くか、あるいは、理解不可能なものへの信頼としての帰依へと導く。
自分自身を実存は没落と上昇において捉える。そこにおいて実存は、超越者へと向けられるか、超越者を放棄するかなのである。自己存在の絶対的意識から、存在そのものは、沈没あるいは登攀として摑み取られるのである。
だが、実存は飛翔において何であるのかは、現存在においてははっきりしないままに留まる。実存の可能性のなかには、理性的現存在として現象するところの、昼の法則と秩序への道が存する。だがこれに対して、ひとつの他の道が、夜への情熱として存しており、破壊することにおいて、一層深い存在を要求するのである。ここに、最も恐ろしい両義性が現れている。盲目的で単に生命的な現存在のように実存が自己満足し得ることは、あり得ないのである。
真なるものの可能性は、一なるものとして自らを示す。この一なるものが私の超越者として私に語り掛ける場合に、この一なるものにおいて私自身が生成するのである。この一なるものを私が裏切るとき、私は無の中に没落する。しかし、自らの歴史的規定性をもつこの一なるものは、現存在の諸可能性の多様性によって再び問いに付されるのである。現存在においては、唯一の固定的で、客観的に確信されるような、実存一般の道は存在せず、在るのは可能性の不確実性なのである。この可能性の不確実性のなかでは、超越者は、人が知ろうと欲するかぎり、両義的で曖昧なままに留まるのである。
これら四つの実存的関係は、相互に駆り立て合って、実存を現存在において安らぎに至らせることがない。反抗と帰依は、それ自体においては一つとならないながらも、飛翔において融合するように見える(70頁)。がしかし、飛翔は、没落から初めて、そして没落の現実を前にして初めて、生じるのであり、そうして、自分自身も一義的となることはなく、昼の理性と無への情熱との対立へと自己分裂する[auseinanderfällt]のである。真なるものが両者において一なるものとして現前するかぎり、この一なるものは多なるものを、条件あるいは対抗する可能性とするものである。言表されてしまうと、どんな超越的関係も、二者択一的なものとなり、事実上緊張関係に立つものとなる。そしてその緊張関係になった超越的関係がその都度統一されることが、実存的現実というものなのである。この実存的現実をその緊張状態のまま思惟しつつ一つに取りまとめることは、そういうことが出来るとすれば、可能的実存において意識されるような本来的存在という、理解し得ないものを理解することであろう。しかし、我々は、思惟によっては、ただ、全体としては思想にとって接近不可能なものに留まるものを、様々な断片において開明することが出来るだけなのである。—
〔超越者への〕四つの実存的諸関係のなかの、どんな関係においても、超越者を、暗号であるところの、神話ないし思弁的思想において対象的に現前化させる、という可能性が存している。すなわち:
反抗と帰依からは、私は諸々の神義論において超越者を正当化することを思弁的に探求するか、あるいは、神義論を反駁することで反抗の根拠を探求するのである。
没落と上昇のなかに立つことによっては、単独的個人は、超越者を彼の護り主として、そして彼の不死性として、その語ることに傾聴する。自由の過程は、神話的に、超感性的な存在過程の根源における可能性として、係留されるのである。
生の理性的秩序としての法則性が、魔力としての情熱に対して緊張しているような生からは、二つの超越的根源という思想がどうしても浮かび上がってくる。私の善意志が服従することで私がそれに護られていると私が知るところの神に対峙して、冥界の神々のような暗黒の形姿が立っている。その神々に従うことは非理性的な罪[Schuld]の深淵の中に引き裂かれることであるが、この神々は、拒絶されると、復讐を強要するのである。
「私は、現象においては、実存としての存在を、私の歴史的規定性のその都度一なるものと同一化してのみ、有する」、という確信において、私は「一なる神」という思想を摑み取る。しかし、現存在の様々な可能性という豊かさは、この豊かさ自体の超越者を主張するのである。すなわち、一なる神に対して多なる諸神が立ち上がることになるのである。
実存的諸関係も、そこにおいて現われる超越者の諸暗号も、二律背反のなかに留まるものである。超越者の非対象的な存在は、現存在の現前するなかで様々な形態において現われる。これらの形態は、必然的に相互に結び付いた諸対立として、対象的となることで破壊し合うことによって、哲学することを刺激する棘であり続けるのである(71頁)。哲学することは、知において解決する代わりに、むしろ問いつづけることで、それらの形態が新たに出現するのを見るのである。誤った知による欺瞞を拒絶しつつ、人間は諸々の限界状況のなかで実存するように、自分の超越者への眼差しに映る諸々の二律背反のなかでも、実存するのである。このなかで人間は、様々な神話や啓示を超え出る飛躍を遂行する。哲学することは、それら神話や啓示に対して自らを際立たせることによって自らを遂行するが、それは、哲学することが、その通用形式では存立し続けられないだろうと思われる内実を、守りたいがためなのである。
しかし我々が諸々の二律背反の一側面を独立させて思惟するならば、この一側面は心理学的体験としてか、あるいは神話的客体として、存立するものとなってしまっているのであり、自らの生命を失ってしまっているのである。諸々の二律背反における緊張のみが、己れの超越者へと関係する実存の真なる現象なのである。この緊張を思惟することが、形而上学としての、超越する働きをもつ実存開明の路なのであり、この路が、この目下の章において試みられるのである。
反抗と帰依
習慣によってぼんやりと生きつづけるなかで、諸々の限界状況が私に覆い隠されたままである場合、生は単に現存在である。超越者は盲目の魂の中には歩み入らない。だが、諸々の限界状況においてあらゆる欺瞞が止むとき、現存在の根源に対して投げ掛けられる憤怒が間近になってきているのである。それから、私は存在への帰依に引き返すかどうするか、という問いが生まれることになる。
1.憤怒。— 現存在の現実に面して、これを吟味し評価することで、つぎの問いが生じ得る、すなわち、この現存在現実が在ることは良いことなのか、あるいは無いほうがより良いのか、という問いである。諸事物の経過は恣意的に見え、いかなる正義も世界を支配していない。善意の者にも悪意の者にも、高貴な者にも下劣な者にも、この世の経緯は無選択に不都合だったり好都合だったりする。諸々の限界状況において、すべてのものの破滅が開示されるのである。
現存在は基盤無きものに見える。すべてのものは無である。自分を騙して何かを信じ込むかぎりで、人は耐えることができる。だが、何も本来的には存在せず、人は自分の現存在をほんの束の間生き長らえるだけであることが明らかになると、生は我慢のならないものとなる。私は無として現存することは欲さないからである。私は、幸福を幸福として摑むことを拒否する。幸福もやはり衰退の流れのなかの無の如き一瞬にすぎないのである。自らの現存在にたいする憎しみから、私は現存在の現実に反抗する。私はこの現存在を私のものとして引き受けることを欲さず、そこから私が出来したところの根拠にたいして憤怒する。私は、私の意志が無いのに私に与えられたものを、反抗から自殺する可能性をもって、独断的に返却するのである。
(72頁)
2.知欲の中での決断の停止。— このような反抗を実現し得る私は誰なのか? 特定のこの現存在を欲さないことによって自らの存在を持つはずの者である。しかしこの「欲さない」という意識の中には、ひとつの自由が在って、この自由は、自らの性急さを理解することが出来るものである。すなわち、この自由は、過激な断念という限界から、自分自身を展開しようと押し出て来て、現存在において何かを試みる行為へと回帰することが出来るものなのである。この場合、反抗は、根源的な知欲の姿をとり、この知欲は妥協無く物事を研究し、問い、自分自身で出した答えを再び吟味に付すのである。現存在はもはや全体として価値判断されることはないが、しかし、現存在というものを経験するために、個人自身の本質を投入して絶え間なく歩み抜かれるのである。私は、あらゆる手段を用いて知へ至ろうと欲し、私自身が現存在として認識する者なのである。可能性は開いたままなのであり、現存在を拒絶するか、あるいは、再び根源的な同意をもって現存在の中に歩み入るか、である。反抗が、あまりに性急に、究極的な答えを得たと信じた後では、今や反抗は、絶えず問われるものとなったのである。
知欲のこの態度は、人間存在の不可欠な条件となる。問う者は自己存在なのであって、この自己存在は、ひとつの全体から引きちぎられているもののように、自らにとって現象する。この自己存在の自由は、「研究することが出来る」ということであり、自分自身の根拠からする行為を決心することが出来ることである。この全体は、彼には近寄れないものとなったのである。彼は、全体であるものの可能性すら、対象的な明晰さにおいて的確に思惟することができない。私の知欲と行為の自由において私の本質として私に現前しているものを、私は同時に、己れを引きちぎる我意として経験するのである。
3.知欲における我々の人間存在は既に反抗である。— ゼウスが没落させようと欲し、荒廃状態にあった人間たちに、プロメテウスは意識と知と技術をもたらしたので、プロメテウスは有罪判決を受けるのである。人間を、限界づけられない発展の可能性を有する人間にするものは、プロメテウスの憤怒として示されている人間の根源である。プロメテウスは岩壁に繋がれながらも自分自身であり続け、無力であることの測り知れない苦痛の中にありながら、感動させる告発の叫びを上げることが出来、しかもこの無力さは権力に屈さず、神性のほうが態度を変えて、プロメテウスのほうも、帰依の態度になって和解し合う準備ができるようになるまで、持ち堪えるのである。
これは、「人間となること」にまつわる太古の罪の神話である。このような根源性においてこの神話と唯一比較しうるのは、堕罪の物語である。人間をして初めて本来的に人間にし、人間の活動的な未来の全可能性を人間に与えるのは、「知」であるが、この「知」はアダムを楽園から突き出すのである。旧約聖書の神もまた、アダムの危険な隆盛に驚愕して言う、『アダムは我々の一人のようになった』、と。そして(73頁)彼を追放して、一度生じたものを更に続くものとし、もはや元に戻らないようにするのである。生成する自由の有する原罪は、同時に、強圧的な神性の有する原罪なのである。
そのように人間は、神の世界の中に取り込まれるものである。人間の自由意識は、人間の可能的実存の比類なき真理として、失われることのないものであるが、それでも完全に真なるものではなく、人間を、不可解な仕方で、罪ある者とするものである。この自由意識を、人間はここで、神話において理解したのである。人間の価値と偉大さとは、自力の反抗のことなのである。そうでない場合は殆ど何処でも、諸民族の宗教において、神性の優位の前での無力と不安が、幸福と救いを求める人間の服従を決定しているのである。だが、人間のヒロイズムが、人間にとって、人間の本質の比喩である神的なものの存在の中に踏み入ったことは稀であった。この存在は、堕罪〔の神話〕においては僅かに示唆されているのみである。ギリシア人こそが、完全に決定的に、神々の現実性に拠って、人間が事実的に自らそうであったものを、敬虔に経験し、表象することが出来たのである。ギリシア人は、そこに、ひとつの「人間の尊厳」[Menschenwürde]を捉えたのである。この人間の尊厳は、それ以来、人間が自らに求めて為し得たもののための基準となった。たしかに、ギリシア人は、超越者が、彼らの神々の彼方の運命神[Moira]のなかにある新たな限界へとずれてゆくに任せた。この限界においてギリシア人は超越者に触れることはまだ殆どなかった。しかし、反抗と帰依をギリシア人は不滅の諸表徴のなかに描いたのである。
己れを引きちぎる我意、限界無き可能性の中に入って行く知欲、その、このような罪は、人間実存の自由な自己存在を、その根源においては神から逸れて、そして神に反して、展開するのである。この、己れを引きちぎる意志は、しかし、それ自体神的である。この意志は偶然な路を行くのではなく、自分自身を変化させる神性へと還帰するのである。というのは、もしも人間の存在と行為が神性に反するものであって、自ら神的ではあり得ないとするならば、この人間の行為は支え無きものであろうし、それどころか不可能なものであろうからである。何らかの意味においてこの行為が神性そのものであり、神性がこの行為において作用し、あるいはこの行為をさせておくのでないならば。しかし、神話世界においてのみ、表象作用にとってふさわしい諸基準があるのであり、この諸基準において、神性の意志に抗う行為という不可能なものが、つぎの原理に従って思惟され得るのである。すなわちその原理とは、「自ら神でないならば、誰も神に抗しない」[nemo contra deum nisi deus ipse]、というものである。
4.反抗する真理意志は神性へ呼びかける。— 知る行為において、現実としては耐え難いものが認識される。その場合、真理は、それが存在することによってすべてを打ち砕くようなものでは、あり得ない。私が遠慮の無い真理意志をもって、しかし、現実をそれがある通りに承認することしか出来ない、ということは、(74頁)私が現実を究極的に全的に知ることは決してないかぎり、私をして不断の問いのなかで前へ前へと駆り立てる。真実性への仮借なく一貫した態度は、それ自体、超越者へ本来的に関係する態度となるのである。[Die unerbittliche Konsequenz der Wahrhaftigkeit wird selbst die eigentliche Beziehung auf Transzendenz.]
だが、神性の名において、否むことのできない経験的現実や洞察力のある理性を前にしては持ち堪えられないものが、真理として主張される場合、とりわけ、あらゆる現存在に存する不公正さを前にして、たとえ隠れてはいても実際には公正さが存しているのだと積極的に主張される場合、そこでは、ヨブにおけるように、真実性を求める意志が、このような形態の神性と争うことになる。というのは、真理への情熱は、自らの自由のなかで、自らが自らの神と一致していることを知っているからである。神性は、いわば弁証法的な運動のなかで二重化しているのである。ヨブは、彼が真理意志において帰依するところの神性を信頼しながら、つぎのような確信をもって生きるのである。すなわち、神性は、彼がそれに対して反抗しているところの神性において、彼を正義あるものとするだろう、という確信をもって。
5.自己自身を欲することにおける割れ目。— 真理であるところの、自己自身を欲することにおいては、ひとつの割れ目がある。たしかに、単なる現存在の我意は、熱情なく、衝動的なものや、故意に自ら囚われるなら悪であるものの、無価値さのなかに留まっている。一方、自由が敢えて引き起こすところの、自己存在における割れ目は、自立的な本来的存在の熱情の条件なのである。この割れ目において、反抗は、実存の無制約性の可能性として、実存の根源なのである。この割れ目において、緊張が、自分自身にとっては暗黒なままでありながら、成長する。そして、嘗て存在というものが真摯に向き合われたからには、この緊張から、いつか再び、超越者が摑み取られ得るであろう。超越者への路は、まだ塞がれている。反抗が、いわば、自らの内に鬱積しているのである。反抗は、自らを超越者のなかで止揚する飛躍の途上に[auf dem Sprunge]あるのである。だが、反抗は飛躍のなかで凝り固まっている。反抗として私は可能性なのである。
反抗は、固められた握りこぶしのようなものであって、開いてはならず、また、殴りかかることもできない。というのは、交わりの歴史性が現存在における実存の積極性となるよりも以前に既に、握りこぶしが自らを開くならば、それは、あの実存的関係においては、裏切りとなるからである。この実存的関係においては、能動的な存在と行為の形態で現実的となるべきものが、反抗として保護されているのである。反抗の可能性は、反抗の放棄によっては真実に止揚されず、現存在における実存の歴史的実現において初めて真実に止揚されるのである。これとは反対に、握りこぶしが、神性に命中しようと欲するかのように殴りかかるのであれば、反抗においてはただ絶望があるのみであって、この絶望において私は、無の中に向け盲目的な一撃を加えることで、可能性から否定的現実へと生成する。その場合、「否」においてもはや護るもののない反抗の罪責[Schuld]が、自己消耗することになり、この「否」は、欺瞞的に自己閉塞する知のなかで、破壊行為を為すのである。一方、護る行為である反抗の「否」は、「然り」を欲するものであり、(75頁)この「然り」のために「否」は用意されるのである。この「否」が差し当たり経験することは、緊張が増大することですべての存在が瞭然としなくなることであり、この経験によって、この「否」は「然り」のために用意されることになるのである。
6.帰依。— 反抗が決定的になるところには、帰還の可能性がある。たしかに、何ものも帰還を強要しない。帰還の必然的は、洞察され得ることではない。しかし、自己存在は、己れが対立すると見えるところのものとの合一へと迫るのである。自立的な自由が忘れることの出来ない思想、すなわち、私が自分を自ら創造したのではなく、ゆえに私は最終的な存在であってはならない、という思想は、反抗における不安静であり、反抗を脅かすものである。
反抗は、様々な一般的根拠によっては止揚され得ず、ただ己れ自身の[seinem]根拠においてのみ止揚され得る。私の自由に拠って私を私自身へと生成させるような神性のみが、私をして自己存在を通して反抗を克服させるのである。だがこの克服が成るのは、何か奇蹟のような超感性的作用を介してではなく、私が現存在において自分を一なるものに結びつけることによってであり、この一なるものに私は歴史的に無制約的な仕方で結び合わされ続けているのである。私がこの一なるものに帰依することによって、この一なるものと共にのみ、私は私自身となるのである。帰依が遂行されるのは世界の内においてであって、世界を介するのでなければ、超越者へは、いかなる路も通じていないのである。
というのは、超越者は、現存在現実において私の帰依を欲するからである。反抗が幸福を、束の間のものであり欺瞞に結びついているからという理由で、拒んだというなら、帰依においては次のような意識が生成する、すなわち、すべての者には、彼が拒否してはならないものが、そのものの時宜に至った瞬間に、充実させられるはずである、という意識が。反抗において不幸が回避されたにしても、あらゆる現存在にたいする憎しみが生まれたというなら、帰依は再び次のように要求する、すなわち、この現存在は私に与えられたのであって、私はこの現存在を克服すべきである、私はこの現存在に耐えなければならず、耐えることを欲する、私が滅んでしまうに至る時まで、と。しかし、帰依においては、もはや、盲目的な現存在の幸福が経験されるのではなく、克服された反抗から摑み取られた幸福が経験されるのである。後者の幸福の上には、更に、到来する可能性がある災難という覆いが掛かっており、この幸福は、それゆえにこそ、単なる現存在には疎遠な深みを有している。— 克服された反抗から摑み取られた幸福が、そのように経験されるのと同様、苦悩もまた経験されるが、単に惨めなだけの苦しみが経験されるのではなく、克服された反抗の有していたような深みを持つ苦悩が経験されるのである。こうして、苦悩にたいして、そうでなければ〔反抗と帰依の過程がなければ〕得られたかも知れない幸福の輝きが、尚も示され得るのである。存在するすべては、その占める場では、現存在であり、私は自分を、私の占める場から引き離すべきではない。帰依は、生への用意であり、その生がどんなものであろうとも、その生を自らに引き受けようとするのである。その生がどのように到来しようとも。
7.神義論。— 帰依は自らを根拠づけたいと思う。知欲である反抗にひとつの根源を持ち、反抗を養うものであるところの知る行為は、じつは、すべてのことを神性に基づいて理解し得るものにしたいと思う帰依にこそ、奉仕すべきものである〔、という思想が生じる〕。〔そのような思想である〕諸々の神義論は、(76頁)現存在の諸害悪や、避けることのできない罪への、また、悪意への、問いにたいする、様々な答えなのである。そのような問いは次のようなものである、すなわち、どうして神はその全能にもかかわらず、この世界を、このような諸害悪と諸々の不正義とが神から許されるように、つまり、悪が存在するように、創造することが出来たのか? あるいは、広義において、この問いは、どのようにして現存在において価値否定的なものは理解可能であるのか? というものなのである。現在の災厄を、子孫たちの幸福で埋め合わせること(例えばユダヤ人のメシア思想や、社会主義的理想郷におけるような)が、あらゆる希望が打ち砕かれたので、自己欺瞞に思われる場合でも、さらに、彼岸の世界による埋め合わせ(例えば、報いかつ罰する超感性的審判)が架空のものとなる場合でも、埋め合わせが必要なのではないかという問いは、常に新たに浮かんできて止まない。この問いにおいては、傍観者を満足させるような相殺が目指されているのではなく、帰依によって現存在においても卓越性が達せられる可能性こそが、目指されているのである。そのような可能的卓越性を、単独的個人は、一般的な答え〔となる思想〕のもつ影のなかに、再認識するのである。
インドは、そのカルマ説において、非人格的な世界法則なるものを思いついた。魂の変転は、人間の魂を、生けるものの位階世界のあらゆる諸形態の中に入らせ得るものであるが、この魂の変転において、再誕と特殊な運命とのあり方によって、前世の生活で為された善と悪とが、報いられたり償いをさせられたりするのである。倫理的な賞罰の、隙間の無い仕組みが、すべての現存在を支配している。前世での現存在を意識的に思い出して前世に結びつくことは決してないのではあるけれども。すべての者は自分の運命を自ら生み出したのであり、自分の次の運命をも生み出すであろう。倫理的行為の意味は、より良い再誕を目標としており、終極的には、魂の変転の車輪からの解放を、再誕の揚棄によって、目標としているのである。
このカルマ説は、引き延ばされた時間の表象によって、あらゆる実存的行為の永遠な意義にアクセントを置いている。この説は、分かりやすい暗号として、あらゆる災厄の意味を合理的な一義性において言表しているのである。神義論の問いは無用になった。なぜなら、いかなる全能の神性も存在するのではなく、存在するのはただ、現存在の法則と、非存在こそが努力して得られる存在であるという測り難さとだけであるからである。
ツァラトゥストラ、マニ教徒、グノーシス派の人々は、二元論を唱えた。すなわち、神は全能ではなく、悪の力を自らに反して持つのである。二つの原理が互いに戦っている。災厄と悪意は、光の神性の存在を濁す闇の諸力の部分的勝利の結果である。世界は戦場であり、あるいは、世界自体が悪しき世界創造者の産物である。この悪しき創造者は、純粋な神性に対して立ち上がって、この不敬な作品を創り上げたのである。たとえ最後には善なる神々が勝利を確立するにしても、そこへ至る世界過程は、やはり(77頁)苦難と無意味さとで充満しているのである。この世界過程において、分散していた光の担い手たちは、一歩一歩、隠れていた状態から解放されて、善の力と悪の力との究極的な分離へと還帰するに至るだろう。善と悪との分裂は、純粋なものと不純なもの、光と闇、など、あらゆる価値対立において、再認されるのである。
このような二元論は、現存在の最根源における二重化という、悟性の視点からは単純な解決である。その固定性と非弁証法的な粗雑さとによって、この二元論は、二元論であることそれ自体のゆえに、現存在を更に徹底的に思惟することをけっして許さない。その許すことといえば、ただ可能的なだけの様々な価値づけのすべてを挙げて、絶えず繰り返される諸事物の分類的包摂の外には、無いのである。しかし、この二元論が〔いわば〕弁証法的に展開されると、この二元論は、超越的に〔:超越者に〕基礎づけられた現存在としてのあらゆる現存在の闘争[Kampf]にとって、その単純さによって感銘深い暗号[Chiffre]となるのである。反抗と帰依は、二つの側面に沿って転向し合い得るものであり、この二つのものの両義性を、それらの可能性の様々な反転によって、昼の法則と夜への情熱として、経験し得るものなのである。
運命予定説[Prädestinationslehre]においては、隠れたる神(deus absconditus)が、人間のあらゆる倫理的要請とあらゆる理解可能性の彼方に立っている。この神の意思は測り知り得ないとともに確固としている。この神意がすべての単独的個人にたいしてその運命を地上においても永遠においても決定しているのである。この世の正義の基準は、この神意には適用され得ない。この神意は、どんなその類の限定された意味をも無限に凌駕しているからである。地上での存在と行為は、単独的個人にとって、彼が何らかの自分の功績によって神の決定とこれとともに彼の運命を変えることができる、という意味を有しているのではなく、彼が選ばれた者であるか拒絶された者であるかがそこで気づかれる、象徴の意味を有しているのである。
運命予定説は、根源的には、神義論問題というものが解き得ないものであることの言表なのである。しかしそうなると、運命予定説は、即座に、この説以上のものであることになり、その規定的な知と合理的な諸公式によって、議論を通して結論を引き出す仕方で、その合理的な諸公式から、理解不可能なものが積極的に理解されるような、ひとつの大規模な神学がつくられることになるのである。時間における決断の揚棄は、選択行為のもつ可能性を壊滅させるものであり、自由はもはや公式上は存在しないことになる。自由はただ、特定の考えからする事実的な行為としてしか存在しないことになるのである。
これら三つの教説における様々な思弁が示していることは、理性にとって、否むことのできない答えというものは、神の存在への問いにたいしてと同様、義神論の問いにたいしても、存在しない、ということである。ひとつの公式を普遍妥当的なものにしようとすることは、甲斐の無い努力である。これらの合理的な(78頁)諸形式は、偉大な諸民族にとって、生を形成する意義を有したものであり、後の世の我々にとっても、おそらく、まだ少しの間は、表現の形式であることは出来るものであるからには、我々の努めることは、現在の歴史的な境位において、非知の知を通して、より深く掘り下げることである。これらの教説の諸内容への信仰の許に生きた人間たちの実存的な底力は、それらの諸内容の歴史的な真理を告知するものではあるが、諸教説の真理を我々にたいして証明するものではないのである。これらの教説が挫折した後では、むしろ、理解不可能性を理解することが試みられる。我々の意識は、もはや無疑問に、自らの神話的信仰内容を伴う歴史的実体に属してはおらず、もはやひとつの全体の知られざる深みから現前して安全に生きてはいないので、問いを投げかけることには、いかなる限界も知らないのである。我々の意識においては可能的実存として在る自由は、自らの超越者と共に、自分自身によって問われるが、それは、反抗と帰依の弁証法の眩暈のなかで、知による解決は全く不可能であることを、反省しつつ経験するためなのである。神話による神義論においては、解決は、知られないながらも信じられていたのであるけれども。
罪過や争いや、あらゆる災厄は、何に由来するのか、という問いにたいして、なにか解り易い解決が我々に出て来るならば、限界状況は廃棄され、実存の可能性からは、それ自らの根源的な経験が奪われるだろう。単なる知のためのいかなる解決も無い、ということが、まさに、我々は諸々の限界状況としての我々の状況から出発して、単独的個人のその都度歴史的な飛翔を、交わりのなかで摑み取らなければならない、ということの根拠なのである。どんな神義論も失敗するということが、我々の自由の能動性に呼び掛けることになるのであり、この我々の自由は、反抗と帰依への可能性を保持しているものなのである。
それゆえ帰依は、知ることを断念している。すなわち、帰依において私は、存在の根拠を信頼しているのである。帰依が真であるのは非知においてのみであり、帰依は、存在の中で、存在が知られ得ることなく、現存在が止揚されることなのである。帰依が自らを知りつつ正当化しようと欲する処では、帰依は非真実となる。だが、能動的信頼としての恭順は、非知のなかで超越者に眼差しを向けるのである。
否定的なものにおいて本心を露呈する反抗は、研究行為をしつつ路を求めているのであり、この路の途上で反抗が抱いている信念は、いかなる神も存在せず、ただ、盲目的な自然法則や、有限な諸事物の総体などが、在るだけである、というものである。そこから反抗は、自らの知る活動に基づいて、嘲弄的にこう言う、「汝自身を助けよ、そうすれば神も汝を助けるだろう」、と。だが帰依は、このようにお返しをする、「帰依は知るということはない。それでも、神性が手を貸すのは、勿論、自ら行為する者にだけである。ただ自由への途上にある場合のほかは、何ものも授けられない。事実、私は私自身を助けるべきである。しかし私がそうする時、私は(79頁)帰依において信頼することが許される。このような信頼するということは、いかなる知にも基づくものではないが、生きることの敢行なのである」、と。
ところで、帰依が、このうえ更に全体の調和について語ることがあり、災厄と悪とを弁明することがあれば、帰依は諸々の幻想のなかに自らを失うであろう。これら幻想で帰依は隠蔽行為をすることになろう。この事態から反抗は生じたのであり、この反抗の面前でのみ、帰依は真正な帰依であり続けることが出来るのである。真正な帰依は、いかなる知からも逃れることをしないのである。
8.神性の秘匿性のための時間現存在における緊張。— 神性である超越者が可視的に語るとすれば、神性の前で恐れ入って服従することしか残らないであろう。問いは止んでしまう。秘匿性から現象の中に歩み入る全能の力の前に叩きつけられて、私は私の自由を喪失するだろう。反抗も帰依も不可能だろう。というのは、この二つとも、問いのなかで、秘匿された神性と向き合っているからであり、この問いの答えが、可能的実存の敢行なのである。
我々は、相変わらず時間現存在のなかに在るのである。神性が、秘匿されたままであり、答えることをせず、あらゆる暗号を両義的にしておく限りは、この神性は人間を人間自身の自由へと突き戻しているのである。人間の運命は緊張であり、この緊張から出発して人間は、自分がそれへと向けて生きようと欲するところのものを、敢えて為すことをしなければならないのである。人間には、真理の探求において残されているものとしては、ただ、真理をこのような路の途上において見いだすこと、これあるのみである。神性は盲目的な帰依を欲してはおらず、自由を欲しているのであり、この自由は反抗を為すことが出来るものであって、反抗から初めて真の帰依に至ることが出来るものなのである。
それゆえ、緊張は解消されない。帰依は自らの根源を反抗のなかに保持しているのであり、信頼は問いを揚棄しないのである。終極的な合一は時間現存在においては不可能であり、そういう合一があるとしたら、それは非真実な先取であろう。実存は歴史的な現象においてのみ、自らの真理を、この緊張から自らにとって見いだすのである。その場合、実存は自らの「存在への信頼」[Seinsvertrauen]を、自らの「自己への信頼」[Selbstvertrauen]を越える途上において有する。すなわち、実存は自らの帰依を自らの反抗を越えて見いだすのである。しかしそれに劣らず実存は、自らの「自己への信頼」を、自らの「存在への信頼」を越える途上において有する。すなわち、実存は自らの反抗的自立性を、帰依を越えて見いだすのである。
反抗は、その否定的本質においても、そもそもの初めから神へと方向づけられているので、神を否認することは、無関心となることにはならず、超越者へと関係づけられていることの消極的な表現なのである。反抗は—神を否認するにせよ呪うにせよ—それ自体、超越者に捕えられていることなのである。反抗は、疑問無き信仰よりも深いものであることが出来る。神と争うことは、ひとつの、神の探求なのである。あらゆる「否」は、「然り」が欲しいのであるが、しかし、真理と誠実とにおいて欲しいのである。あらゆる帰依は、真なる帰依としては、反抗を克服することを通って来てのみ、可能なのである。
(80頁)
9.諸々の極を孤立化して高める過ぎることの破壊性。— 世界現存在において、緊張の一極を過度に高めることは、どんなに偉大な完成を目指していようとも、そのような完成は、時間の内に留まる実存にとって、不可能なものである。すなわち:
実存は、反抗において自らの自由から、神に対し、あるいは神無しに、自らの意味を、自ら創造したものとしての世界において実現するために、巨人的に、自分自身に拠って立とうとする。世界は何かの役に立つのか、立たないのか、という問いは、実存にとっては、もはや如何なる意味のある問いでもない。問題であるのは、私が意味を創造することによって、私こそが役に立つものであることなのだ。つまり、私こそが、存在するところのものであるか、無であるか、なのである。
〔これに対し、〕帰依の英雄主義は、自らの真理を、殉教者の自己破棄に持つ。ひとつの尊厳が、この破棄への意志に存するのである。この意志が実現するのは、世界に無関心な生が、世界の中で把持された超越者の真理に無制約的に帰依することである。
しかし、自力の巨人と帰依の聖者は、世界現存在から出て完成の中へと歩み入る。この完成が、この両者を、交わりにとって接近できないものにするのである。この両者は、讃嘆の対象となることがあり得、また、可能的なものを定位するものとなるのである。
10.諸々の極の孤立化における無意味な逸脱。— 私が自己存在の諸々の可能性を投げ捨てることによって単なる現存在になりたいと思って、一つの極に自分を孤立化するならば、私は無意味さへと逸脱せざるをえない。
その場合、反抗は、私が自分の現存在をまさに私のものとして欲する、その仕方のために、起こされる。私は、生が続くかぎり、良心の疑念無しに生を享受することを欲するのである。私は、破壊と支配とを享受する力を欲し、私の現存在を邪魔する現存在に対する憎しみと復讐心から、力を欲する。このような憤怒は、もはや、反抗する自己存在の自由ではなく、断固たる主観性の恣意なのである。— もっと力のない諸形態においては、反抗は、浮遊状態に留まる代わりに、自らを、いわば固定的に切り離す(festrennnen)。反抗は、超越者の純粋像としての神性のために闘う代わりに、空虚な虚無主義の最終形態となるのである。反抗は、他人の不幸を喜ぶ気持ちのようなものとなる。すなわち、そこでは、人は世界をあるがままに見る、というわけである。神性にたいして、自分の現存在に即して、それが一般にあるがままの様子を示すために、人は平凡なものに服従する。このような憤怒は、ルサンチマン〔弱者の強者への無意識の妬み〕である。このような憤怒は、深みの無いままである。
〔一方、〕帰依は受動性へと逸脱する。争うことの可能性は廃棄され、実存の時間的現象には、いかなる力ももはやない。実存は、存続的な調和を時間の中に採用したのであるが、(81頁)このような調和は時間の中では、現存在としては不可能なのである。このような受動性は自由を放棄してしまっており、現世的な諸権威に信心ぶって服従している自分を見いだすのである。
11.信頼の無い帰依、神を見捨てること、神無しでいること。— 反抗と帰依は、超越者の前では自らが否定されていることを知っているところの、拒絶されているという意識における、自己存在の喪失の許で、結びついている。この意識は、信頼の無い帰依という絶望である。人間は超越者への自らの関係において、単におののいている自分を感じるのみならず、希望を持っていないのである。人間は自らが永遠に助け無く打ち砕かれているのを感じるのである。人間は、むさぼり喰う力に面している不安として、無である。(つづく)帰依は、そうはいうものの、信頼を包含していたのであるが、いまや、残り無き依存性のなかで、自らを喪失しているのである。一方、己れを肯定する自己存在のほうは、自分に敵意をもって優越する超越者の不気味さを前にして、戦慄しながら立ちつくしているのである。
反抗は、神を見捨てること[Gottverlassenheit]においてあるのではない。神を見捨てることにおいてあるのは、無信仰であることとしての遠さの意識である。この無信仰性は、反抗することも、帰依することも出来ない。諸々の限界状況のなかでの覚醒に先んじる無自覚な状態が、この無信仰性なのではなく、この無信仰性はむしろ意識的な状態であり、この状態は、反抗をも帰依をも嘗ては為し得たが、いまやそれらを失ってしまっているのである。この状態が無関心さではない場合は、この状態は、自分に超越者が到来することを待っているところの空虚さなのである。いま言った無関心さにおいてなら、もはや如何なる真摯なものも私にとって存在しないが故に、私はもはや何も本来的に欲することはなく、喜ぶことも苦しむことも出来ないのである。神を見捨てることは、「神は死んだ」という意識に高まることがある。この意識はもはや如何なる反抗でもなく、しかし反抗のように可能性を自らの内に持っているところの驚愕[Entsetzen]である — 一方、問うことも絶望することもしない、ぼんやりとしていい加減な、だらだらと生きることのみが、あらゆる可能性を過ぎ去らせてしまうのである。
人間が現実に、そして問うこと無く、神無しであり得るような場合があるとしたら、その場合には、反抗は止む。次のことが伝えられている、すなわち、《キリスト教化時代のスカンディナビア地方には、いかなるものも信仰せず、自らの強さを信頼していた人々がいた》、と。このことが言葉通りに事実であったとすれば、これによって、ひとつの無自覚的な現存在が性格づけられることになろう。この現存在は、先を見越すことも反省することもなく、完全に瞬間にのみ生きているのであり、未だ反抗することも知らない。なぜなら限界状況を知らないからであり、それでもやはり、野生の独立性をもつ現存在なのである。この現存在は、他のどんな現存在とも違って、反抗への可能性を自らに蔵していない。すなわち、神を情熱的に探求することへの可能性を蔵していないのである。
12.最後には問い。— 反抗と帰依の緊張を解消するために知を客体化することは、実存から、実存の歴史的自由の呼吸を奪う。実存は時間現存在に在りつづけているのである。
(82頁)
反抗は、本来的に人間的なものである。目を開いて諸事実を視て問う者は、「否」への路を見いだすであろう。帰依の信頼は、私がそこにおいて既に安らぎを有しているような、妨げられない予断であるなら、真なるものではあり得ない。帰依の信頼が真なるものであるのは、ただ、この信頼が、現実の現存在の希望無き恐ろしさに面と向かいつつ獲得される場合のみである。この信頼は、怪物ゴルゴンの、人間を硬直化させて石にする眼差しに、耐えたものでなければならないのである。
本当に恐怖の中に入って試練を克服しない者は、信頼を知ることはない。信頼は誰にも押しつけられはしない。信頼は、信頼すること自体はいかなる功績にもならない、という意識を伴っている。信頼を有することは、それを有する者のいかなる上級価値でもない。信頼は、信頼して正しいのかという懸念と結びついたままなのである。
信頼しない者は、単に身を引くか、あるいは逆に、真剣に信頼する者として、同様に信頼を有する他の者の最も身近に寄り立つのである。この他の者は、その者自身として存在し、現存在的運命の実存的な共同体を、相手である当の者と共に経験するのである。
世界をいわば尋問することによって、私は言うなれば超越者を問うているのである。すなわち私は、天意が在るのか、在るならどういうものか、と問うているのである。その問いにおいて私が誠意を保ちつづけるほど、私はいっそう途方に暮れることになる。すなわち:
私は、何が持続するべきであり生きるべきであるかを知らないし、何が没落すべきであるかを知らないのだから — そして、私が知るかぎりでは、一つのものが優勢であり続けることは決してないのだから — そしてまた、私は、持続するものはそのこと自体でより良きものであるのではなく、それどころか、ただ持続するだけのものは、しばしば最も拙劣なものである、ということを、一般的に知っているのであるから — 、私は決して、神性の応答を、事象生起の結果や行為の成果において知るのではないのである。没落は拒否を、そして聖別を、意味し得るのであり、勝利は課題であり得、あるいは逃避であり得るのである。
次のような思いの発端が、ほんの僅かでもあると、私の態度は混乱したものになってしまう。そういう思いとは、神性が諸事物を一定の方向性をもって生起させることを私は期待できる、というのは、そうであってこそ意味があるのであり、そうでなければ意味がないからだ、とか — あるいは、このような高貴な生、このような善き意志、このような最善のものへの着手が、挫折することはあり得ない、とか — あるいは、私は何かに値する功績を成すか成さないかであって、それゆえ、私は期待してよいか、恐れる必要はないか、どちらかであるだけだ、とか — 、そういった思いなのである。こういった思いは、すべて、私の態度を混乱させるものなのである。こうなると、私は、近づき得ないものに押し迫ってゆき、摂理あるいは天意がそこから生じるところの本来的存在の中を瞥見しようとするか、あるいは、私は、いまだ優れて公正な思想を通してであろうとも、密かに摂理に影響を与えたいと思い、それどころか摂理に強制を及ぼしたいと思うのである。このような思惟のなかには、ひとつの洗練された魔術があり、この魔術は、魔法の技術をもってではなくとも、人間の存在と行為とをもって、神性を導こうと欲するのである。
実存と理念のみならず、全的で途方もない、圧倒的な世界や、そのほかの、可能的実存を内的に(83頁)萎縮させ得るか外的に破壊するようなものをも、現存在は容れているのである。意味や権利や善行の諸表象に照らせば不可能であろうようなことも、端的に言って、すべて在り得ることなのであるから、反抗と帰依においては、様々な緊張があり続けるのである。したがって、実存が自己拒絶状態になること[existentielles Versagen]は、挫折の無意味さへの絶望においても、成功の誇りと満足においても、同様にあるのである。しかし、幸運な者においても、挫折する者においても、また、無意味さにおいても意味への意欲においても、これらの両方に、問うことがあり続けるならば、超越者への信頼が真実なものとしてあり得るのである。
私が、神性は自己満足する者や傲慢な者や不寛容な者の側にも、狭隘さや盲目さの側にも在るのか、と問う場合、私は敢えて否とは言わないのである。そこに在るのは私の神性ではない。私は知っている、私の諸力に応じて私から、私のものではないその神性にたいする戦いが求められていることを。しかし私は、私がその神性にたいして勝利することを、期待は出来ないのである。隠れたる神性は、間接的に私に語り掛ける時、決して全的に私に語り掛けるのではない。この神性が私に歩み寄るのは、私にとってこの神性そのものではないものにおいてである。このものを神性は現存在させ、自己主張させるに任せる — そして、この神性は、もしかしたら私から、私がそれを拙劣で悪いものとして戦っているところのものの勝利と存立を見ることを求めているのかもしれないのである。
〔「反抗と帰依」ここまで〕
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詳細目次(作成途上)
反抗と帰依 (71頁)
1.憤怒 —(71頁) 2.知欲の中での決断の停止 —(72頁) 3.知欲における我々の人間存在は既に反抗である —(72頁) 4.反抗する真理意志は神性へ呼びかける —(73頁) 5.自己自身を欲することにおける割れ目 —(74頁) 6.帰依 —(75頁) 7.神義論 —(75頁) 8.神性の秘匿性のための時間現存在における緊張 —(79頁) 9.諸々の極を孤立化して高める過ぎることの破壊性 —(80頁) 10.諸々の極の孤立化における無意味な逸脱 —(80頁) 11.信頼の無い帰依、神を見捨てること、神無しでいること —(81頁) 12.最後には問い —(81頁)
没落と上昇 (83頁)
昼の法則と夜への情熱 (102頁)
多なるものの豊かさと一なるもの (116頁)
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