前潟都窪の徒然草

折々の社会現象に対する所感、随筆、アフリエイト

木の青年愛の物語という作品の映像を見た。

2007-11-04 12:06:49 | 暮らしを楽しむ
 「木の青年」愛の物語という作品の映像を見た。5分間で涙がでる動画という噂に誘発されて「モノローグ」を見ると叙情性豊かな素晴らしい詩である。画像を見てストーリーを読むと、これは純愛の物語である。差別とかいじめや利己主義或いは自己中心主義に基づく事件が現代社会の病理現象として日々表面化し報道されているとき、「木の青年」はまた自己犠牲と惜しみなく与える愛の物語でもある。
 その昔木下藤吉郎の水攻めに遇った清水宗治が飢餓に苦しむ領民を救うために切腹したという故事を思い出させた。
 木の青年と清水宗治とでは時代背景も主人公の置かれた状況も異なっているとはいうものの、自己犠牲により愛する人を救うという人間愛がテーマとなっている点では共通項がある。
 自己犠牲は現代社会に欠けている徳目であるが故に、また純愛は希少価値であるが故に見る人をして涙させるのであろう。








「戊申(ぼしん)詔書」についての解説記事に共感

2007-11-04 10:05:25 | この意見に共感
 宮崎正弘氏は中国通として知られる保守の論客である。
時間に暇さえできれば足繁く中国へ渡り中国各地を踏査しマスメデアに載らない情報を提供してくれる。
 
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 11月2日(金曜日) 
通巻 第1987号

(((( 今週の書棚 ))))

  ♪
杉原誠四朗『日本の道徳教育は韓国に学べ』(文化書房博文社)
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  日本人がかくも軽い存在となったのは道徳の喪失が原因
     GHQに便乗して「修身」教育を撤廃した犯人を捜せ!



で紹介された道徳教育に関する記事に対して寄稿された(しなの六文銭)氏の
下記所論
は傾聴に値するので収録した。


(読者の声2) 貴誌で取り上げられた道徳教育に纏わる小論です。
1908年、明治天皇の名で発せられた詔書があります。その年の干支から「戊申(ぼしん)詔書」と呼び馴されています。
 日露戦争の後、にわかに台頭してきた自由主義・個人主義、そして社会主義的思想の潮流に危機感を抱いた桂太郎内閣が、天皇制度に立脚する国民道徳を強化する思想対策の一環として、天皇の名において制定したもので、華美を戒め、上下一致、勤倹力行して国富増強にあたることが強調されました。

道徳の涵養を目的として明治天皇が発したものは、他にもう一つあります。

 それは1890年(明治23年)に発布された「教育ニ関スル勅語」です。
「教育勅語」に比べると「戊申詔書」は、その名は薄く存在の軽いかそけきものですが、専門の学者は「教育勅語」と同様に明治国家体制を支えたイデオロギー、特に日露戦後の日本帝国形成期の国民教化政策として、見逃すことのできないものだと云います。
 勅語発布の直接のきっかけは、その4年前の明治19年、明治天皇が東京帝大を行幸したことでした。産学が一体になって技術革新に取組む必要があり、日本の大学教育は理工系を中心とするようになっていました。
 そのとき明治天皇は、大学の何もかもが西洋一辺倒になっていることに驚きこれでは日本の歴史、伝統、文化、精神が吹き飛んでしまうと感じられたといいます。
 西欧の科学教育のみでは人材を作ることができない。道徳を基礎として、その上で西欧の科学を学ぶようにしなければ、真の人材を育成できない。こう憂えた明治天皇は、これからの教育のよりどころとなるものの必要性を感じられたのです。

「戊申詔書」の発布経緯について、「資料近代日本史」は、次のように記しています。

 「日清、日露の両大戦役を経て、我国の地位愈々(いよいよ)重きを加うるに至るや、列国の間には往々我邦の真意を解せず、誤って好戦的国家なりと思惟するものを生じ、国内の人心も亦戦後軽躁浮薄に流れるのを傾向を馴致し、愈々列国の疑念を深からしめた。此の時に方り、10月13日を以て戊申詔書煥発せられ、国民に対して新に一大訓戒を加えられた」

 片山杜秀は『近代日本の右翼思想』の中で、「はなはだ砕いて言うならば、国民が不真面目になってきているように感じられるので立て直すように努力せよと、天皇から命令が出たということである」と述べています。

 日露平和を克復した世相は、資本主義経済の発達と近代産業の発展の中で、有産資本家階級と無産労働者階級の分化・対立を惹き起こし、労働運動・社会主義運動が勃然と起って、これに明治政府は脅威と危機を感じていました。
 文部省は、たびたび訓令・通牒を出して、弊風の打開に努めましたが成果があがらず、時弊は拡散していきました。
 この難局に決着をつけるために明治天皇の名で発せられたのが、「戊申詔書」でした。
戊申詔勅(明治41年10月13日)
「朕惟フニ、方今人文日ニ就リ、月ニ将ミ、東西相倚リ、彼此相済シ、以テ其ノ福
利ヲ共ニス。朕ハ爰ニ益々国交ヲ修メ、友義ヲ惇シ、列国ト与ニ永ク其ノ慶ニ頼ラ
ムコトヲ期ス。顧ミルニ、日進ノ大勢ニ伴ヒ、文明ノ恵沢ヲ共ニセムトスル、固ヨ
リ内、国運ノ発展ニ須(ま)ツ。戦後日尚浅ク、庶政益々更張ヲ要ス。宜ク上下、
心ヲ一ニシ、忠実、業ニ服シ、勤倹、産ヲ治メ、惟レ信、惟レ義、醇厚、俗ヲ成
シ、華ヲ去リ、実ニ就キ、荒怠相誡メ、自彊息(や)マサ(ざ)ルヘシ。抑(そも
そも)我カ神聖ナル祖宗ノ遺訓ト、我カ光輝アル国史ノ成跡トハ、炳トシテ日星ノ
如シ。寔(まこと)ニ克ク恪守シ、淬礪(さいれい)ノ誠ヲ輸サハ、国運発展ノ本
近ク斯ニ在リ。朕ハ方今ノ世局ニ処シ、我カ忠良ナル臣民ノ協翼ニ倚藉シテ、維新
ノ皇猷ヲ恢弘シ祖宗ノ威徳ヲ対揚セムコトヲ庶幾(こいねが)フ。爾臣民其レ克ク
朕カ旨ヲ体セヨ」

「戊申詔書」は全文305文字で、「教育勅語」の315文字とほぼ同じ字数からなっています。
 日露戦役後の情勢認識と、列国と並び立つようになったわが国の心得を語り、国運の発展のために、上と下は心を一つにして、それぞれ忠実に業務に仕え、勤勉倹約につとめ、信義醇厚に振る舞い、華美を避け、荒れて怠惰な暮らしをしないよう、たゆまず心を引き締めよと述べ、この修養は皇祖皇宗の遺訓であり、光り輝く国史に刻まれており、これを一心に守ってゆくことが、国運発展の本だと説いています。

 高須芳次郎の「詔勅謹解」によれば「上流といわず、中流といわず、下流といわず、全国民がその向かうところを一にして、志を合わせ、各自の業務を忠実に守り、少しの怠慢もなく、勤めはげんで、いやしくも奢侈などの風習に染まってはならない。万事質素を旨とすべきである。総じてこの場合、よいと信じたことは必ずこれを実行し、空論放言にふけるべきではない。また人間の当然ふむべき道筋はこれを固く守り、義にそむくようなことがあってはならぬ。従って日常の風俗は、深みあり、厚みあり、清純なるべきで、それが無意識のうちにも、自ずから実現されるようにありたい。(中略)以上のような充実した生活を送るには、精神を緊張して、自らすさみ怠ることをやめ、丁度、天体の運行が、四時正しい活動をなして、休まないが如く、一般国民は、つとめて善を為すことに全心を傾け、しかも一日たりとも、ゆるむようなことがあっては、いけない」という意味となります。

 「戊申詔書」は文部大臣から、その直轄する学校長、府県知事にその捧体を求める訓令をし、各種団体が主催して詔書奉読会が行われました。 詔書を一番強力に支持して、その恢弘を推進したのは内務官僚が参画した大日本産業組合中央会、報徳会、勧業協会などの有力経済団体でした。 詔書で要請された徳目は国家経済の発展と不可分で、奉体すべきは学校の学童生徒より青年大人でした。

 1918年東京日日新聞に連載された『礼儀小言』というエッセイで、森鴎外が、「今の人類の官能は意義と形式とを別々に引き離して視ようとする。 そして形式の中に幾多の厭悪すべき瑕疵を発見する。 荘重変じて滑稽となるのはこの時である。 ・・・ わたくしはこれに反して今人に内省を求めたい。今はあらゆる形式のまさに破棄せられむとする時代である」と嘆き、警世の声を発していたことに、上掲の片山氏の著書は触れています。

 鴎外は、日露戦争後の新時代の風潮のなかで、古い形式が時代遅れと看做され破壊されてしまい、新しい形式がすみやかに創出されないと、好ましくない事態が招来されると危惧していたのです。
 日露平和克復に弛緩した日本人の精神は、内からは軽く薄っぺらになっていき、外からは社会主義・共産主義思想に毒され、日本の指導者のみならず鴎外のような大識者もそれに危機感を抱いていたことが判ります。                      (しなの六文銭)