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なぜ「気持ち悪い」のか

2015-09-09 13:14:54 | 日記
京都では台風が去っていったようです。

今日は朝から瞼の上がぼーっ。気圧の低いときには、いつもこんなふうに瞼の上がぼんやり重くなり、頭にヘルメットをかぶっているような感覚になります。頭痛まではいかなくても非常に不快なので、こんなぼんやり頭も「天気痛」とか「気象痛」に分類できるのではないかなと思います。

低気圧に弱いのは内耳に原因があるそうですが、まぁとにかくこの「酔いやすい」体質、どうにかできないものでしょうか・・・去年体幹トレーニングに通っていたのですが、帰ってくると「めまい」「吐き気」に襲われ、足が遠のいてしまいました。「なんでこんな簡単なエクササイズでしんどくなるんだろう?」としばらく疑問だったのですが、おそらく「立って、しゃがむ」動作を数分間にわたって続けるエクササイズに原因があったのではないかと今では推察しています。そもそも首を左右に動かしたり、ぐるぐるまわすだけでも「おえっ」となるのですから、視界が上下に変動し続けつつ、空間に占める自分の位置がすばやく変わっていくという負荷に耐えられるわけがないんだなぁ・・・今でもあの運動を思いだすだけで、「おえっ」ときそうです。

それにしてもなぜ視覚的な情報と、その他体感からの感覚情報が脳内で一致しないと、「気持ち悪い・・・」ということになってしまうのでしょう。大人の発達障害の方もよく「(なんだかわかんないけど、)気持ち悪い」と仰いますが、このときの「気持ち悪い」って私にはどういうことなのかさっぱりわからなかったんです。代表的なものでは、端っこがそろっていないと「気持ち悪い」というようなものもありますし、自分では「こうしたい」と思っているのにその通りにならないと「気持ち悪い」というのもあります。なんでみんな「気持ち悪い」という表現を使うんだろう?と思い、発達障害のキーワードなんじゃないかと思ったくらいです。

でもおそらく、私が「立って、しゃがんで」で酔って気持ち悪くなるのと、根っこは同じ、原理は同じなんじゃないかと思うとしっくりきます。ある一つの情報系統から「こういう情報が入ってくるはず」と予測し、そのとおりの情報が入ってくれば一件落着。でも予測と違う情報が入ってくると、うまいこと情報を統合できずに混乱、「気持ち悪い」という感覚を誘発してしまう・・・それがどうして「楽しい」とか「素敵♡」のようなポジティブ感覚につながらずに「気持ち悪い」に接続してしまうのかはわかりませんが、おそらく生存にかかわる人体(身体)の戦略なのでしょうね。情報が統合されずにバラバラでいてくれるのも愉快な人生のような気がしてしまいますが、もしかしたらサバイバルには向いていないのかもしれません。

以前歯科の治療を受けたときに、麻酔の注射をされました。くちびる半分の感覚がじーんとしびれている中、口をゆすごうと紙コップを持ち、くちびるに紙コップが触れたとたん・・・「コップが、凹んでる!」と思いました。ビックリして紙コップをまじまじと観察してみましたが、もちろん紙コップのふちはキレイに円を描いており、いびつに凹んだりなどしていません。それを理解したとたん、うわ~気持ち悪いな、と思いました。でもなんで気持ち悪いのか、その時には全く思い至ることができなかったのです。

しかし帰ってきて「なぜコップが凹んでいると思ってしまったんだろう?」ということを考えてみると、一つの仮説が立ち上がりました。身体のある部分が「しびれている」という状態は、「その部分の感覚が全くなくなる」ということではないですよね。現に、「じーんとしびれている」という感覚はあるわけです。でも外部から何かが触れてきても、その輪郭をとらえることはできません。コップから水を含もうと紙コップを持ち、くちびるに運んでも、「触れてくるはずの紙コップの輪郭情報」を知覚できない。そこにくちびるがあり、そこで知覚されるはずのものが「ない」・・・そんなおかしなことはないはずだ!と、脳は判断したんでしょうね。「紙コップがくちびるに触れた(はずだ)」という情報と、「くちびるからコップの輪郭情報がやってこなかった」という情報とを勝手につなぎあわせて、「紙コップのふちが凹んでいて、くちびるに触れてなかった」という答えをはじきだした結果が「コップが凹んでいる!!」という衝撃的結論・・・おいおい、そんなねつ造情報いらないぞ!と抗議したくなりますが、なんだか私の意思とは無関係に判断が下されてるっていうことに恐ろしさを感じます。

ですから紙コップは凹んでなどいなかった・・・ということに気づいて「気持ち悪い!」と感じたのは、生理的・感覚的なレベルでの気持ち悪さでもあったのですが、「判断を下す主体」が、今ここで世界を知覚していると感じている「わたし」以外にもいるのだという、「二重の主体」を感じていることにも依るのではないかと思います。まぁきっと普段は、「紙コップは凹んでいる」と判断を下した主体はバックヤードで粛々とお仕事しているのでしょうが、「わたし」とぴったんこにくっついているばっかりにその存在をありありと感じずにすんでいるのでしょう。ところがいったんそこに「ズレ」が生じてしまうと、うわっ、私以外のやつが私の中におった!みたいな感覚が生まれてしまうんだろうと思います。

人間って、ふしぎ。
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