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京都生活手帖

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看護師の立場からインフォームドコンセントに思うこと 2

2007-06-12 17:28:25 | 生活デ哲学スル
先日は中途半端なところで記事が終わってしまい、申し訳ありませんでした。赤ちゃんがいると、なかなかまとまった文章を書く時間がないもので・・という言い訳はさておき。前回の続きです。

前回は、組織で看護師という専門職として働く以上、自己防衛のためにあれこれと策を講じることは当然であるというお話をしましたが、組織を離れた今改めて思うことは、「結局、訴訟を恐れるような人間関係しか作れていなかったのだなぁ」ということです。だいたい患者さん(とその家族)の側からおこされる民事訴訟は、心情的なものによるところが大きいと思います。それは大別するとふたつあり、「充分なことをしてもらえていなかった」という不満と、「何か隠されていないだろうか」という不信。転倒などの事故に関して言えば、まず「転倒のリスクが予見されていたのだろうか」、そしてその上で「適切な対応がされていたのだろうか」というようなことを「隠されていないだろうか」という不満と不信が訴訟につながってくると思うのです。しかしこれらのことは、患者さんとその家族、医療者がじゅうぶんにコミュニケーションをとっていればたいていの場合はクリアできるように思います。患者さんのどのようなところが転倒につながりやすいのか、そして医療者はどんなことに気をつけているのか、また家族の人たちにもどんなことに気をつけてもらいたいのか・・・そういったことを日頃から伝えていくことを怠らなければ、不信や不満というものを招かずにすみます。そしてそこに信頼関係が生まれれば、最悪の場合やむを得ず転倒がおこったとしても(多くの場合、やむを得ない事情がある)、「訴えてやる!」と権利の主張をされるよりも、「あの看護師さんがついていても転倒してしまったんだから、仕方が無い」と思うものなのではないでしょうか。所詮医療は人間の営みですから、最善を尽くしていても事故が起こる可能性をゼロにはできません。それ以上のことは、あるいは人がどうこうできるものではないのかもしれません。そして残念なことに事故が起きてしまった場合、両者がそれぞれ「仕方が無い」と心情的に納得できるためには・・・医療者が最善を尽くす。そして患者さんと家族には、最善を尽くしてもらえていると感じてもらえる。そういう関係を築いていかなければならないのだと思います。

ただこれも時代が移り変わり、患者さんが強い消費者意識を持って医療の現場に現れてくると、事態はもっと複雑になります。そんなお話も近いうちにできたらいいのですが・・・い、忙しい・・・
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看護師の立場からインフォームドコンセントに思うこと 1

2007-06-08 23:37:05 | 生活デ哲学スル
先日は患者の立場からインフォームドコンセントについて語りましたが、今回は看護師の立場からお話しようと思います。

同意書をとる、ということに関して看護師が深く関わるのは、治療や検査の同意書ではなく「抑制」の同意書です。「抑制」と聞いても一般の人にはぴんとこないと思いますが、抑制とは患者さんの身体拘束や行動制限のことです。いわゆる「縛り」。もちろん縛りといっても患者さんの身体を物理的に縛るような身体拘束は稀で、病状の管理上「病棟内から出てはいけませんよ」というような比較的緩い行動制限や、マットコール(ベッドのそばにナースコールと連動するマットを置き、患者さんが立ち上がるとナースコールが鳴る仕組み)やヒモコール(患者さんの身体にクリップをつけ、患者さんがベッド上で起き上がろうとするとマグネットが外れてナースコールが鳴る仕組み)の使用に際して同意書をとることが多かったです。マットコールやヒモコールは主に、認知的な障害(高齢によるもの、認知症、昏睡など)のある患者さんの安全を守るためーすなわち、転倒や転落を予防するためーに使われ、行動制限は精神科で治療の必要上行われていました。どちらにしても同意書をとるのは医師でしたし、抑制に関して最終的な責任は医師にあります。しかし現実には、「抑制が必要かどうか」を見極めるのは看護師です。そして抑制の必性要が認められれば医師に報告して同意書をとってもらう、という手順になっており、抑制に関する責任は看護師が負っていたといっても過言ではありません。また実際に療養中の事故(転倒、転落など)が起きた場合には看護上の過失として責任が追及され、インシデントレポート(事故報告書)を書くことが義務づけられていました。このインシデントレポートは看護師個人の過失を責めるためのものではなく(ましてや反省文でもない)、「同じような事故をおこさないためにはどのような対策が必要か」を検討するためのもの。その趣旨と性質についてはじゅうじゅう承知しているのですが・・・いざ、レポートを書かなければならなくなると、自分が責められているような気になって本当に気分が憂鬱になるものです。明らかに自分のミスで起こった事故に関して書くときも、「私のせいじゃないよなあ」と思うような時も、憂鬱という意味では変わりない。とにかくいずれにしても、「インシデントレポートを書くような事態は避けたい」と思ってしまうものでした。

そうなってくると人というのは弱いもので、過剰に予防してしまいがちなんですね。その方の能力を過小に評価して、事前にあの手この手と策を講じておく。「とにかくやれるだけのことはやった」と満足する。それは本来であれば「患者さんの安全を守るため」であるはずなのに、いつの間にか「あとで自分が責められないため」のものに代わってしまっていました。そんなおかしなことに無自覚になっていた頃、先輩の看護師に言われた一言が今でも忘れられません。

「もっと、患者さんを信用しないと。」

がっつーん、ときました。
私がしていたことは、変な話が「患者を見たら、転倒すると思え」のようなことだったんですね。そこには信頼関係などと呼べるようなものは何もなく、あるのは自己防衛だけ。もっと言ってしまえば、信頼関係がないからこそ自己防衛に走るよりほかなかったということです。

もちろん自分がしていた行為は、病院という組織の中で働く以上必要不可欠なことです。もしそれらの義務を怠って重大な事故が起きて患者さん側から訴訟をおこされた場合、刑事的にも民事的にも専門職としての責任を追及されることになります。組織で働く看護師は、組織が定めた手続きに従うことによって、「看護師である自分」を守らなければなりません。目の前に現れた見ず知らずの人とその家族から、「必要なことをしてもらえていなかった」と思われないため・・・それは万がいちのことが起こって訴訟になった場合、「自分は組織が定めたルールに従った。必要なことは全てした。」とエクスキューズできるようにするためであるともいえますが・・・そのような論理で行動することは、組織の一員として、また専門職として働くうえでは必要なことでもあります。ですから先輩の一言が胸に刺さりつつも、どうしようもない部分もあったのです。

次回に続く・・
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インフォームドコンセントに思う

2007-06-05 13:49:04 | 生活デ哲学スル
先日、離乳に関しては何も自分で調べておらず、その道の信頼できる人に教えを請うているというお話をしましたが・・・そのことをぼんやりと考えていたら、「これって、インフォームドコンセント(説明と同意)が重視される昨今の風潮に逆らう生き方だな」とふと思いました。医療の現場における「インフォームドコンセント(説明と同意)」とは、医療者が患者に対して病状と治療に関する正確な情報を与え、患者からの同意を得て治療を行うためのもの。実際臨床では、侵襲の大きい検査や手術が行われるときに必ず検査や治療の説明がなされ、患者さんから同意書をとります。この同意書、医療とはあまり関わりない人は見たことがないと思いますが、かなり恐ろしいことが書いてあったりするんですね。検査や手術によって、これこれしかじかの怖いこと(大量の出血だとか、感染だとか)が起こる可能性があります・・・その可能性を踏まえたうえで、「私は検査(手術)に同意します」とサインすることが、半ば強要されているのです。おそらく元をたどれば、「病状と治療の内容についてきちんと理解したうえで治療を受けたい」という患者側の要請を受けた手続きだったのでしょうが、現在では「ちゃんと怖いことが起こる可能性については説明して同意を得たうえでした治療なんだからね。」という医療側の(危機)管理上の手続きになっている感が否めません。言い換えれば、同意書をとることによって医療者は「(説明して同意を得たのだから)何が起こっても、それはあなたの責任の範疇にある」と言っているようなものです。そしてそれは訴訟回避の方策でもあるわけで、インフォームドコンセントの本来の目的よりも「世知辛い」使われ方をされているのが現状のようです。

もちろん治療に関してきちんと説明され、患者も納得してその治療を受ける・・・それが大切であることは否定しません。ですが誤解を恐れずに言えば、「そんなものが必要でないような人間関係ーつまり契約関係ではない関係ーを誰とでも築けたらいいな」というのが私の本音です。様々な選択肢が提示され、そのリスクについて周知されたうえで自己決定することが求められるような関係より、「きっとこの人は、私にとって悪いようにはしないだろう」と思えるような関係づくり。どれだけその道に長けていようと(例えば手術件数が多いだとか、病院ランキングで上位であるとか)、同意書に書いてあるような「万が一のこと」や「ミス」が起こるときには起こるものです。ですから、自分のために最善を尽くしてもらえると信頼できること、そして最善をつくしたうえでなお起こってしまったことに関しても「悪いようにはしないだろう」と思えること、それが私にとってはインフォームドコンセントとよばれるものよりは重要に思えるのです。そしてその「信頼できるかどうか」を決めるのは、手術件数でも病院ランキングでもなく・・・「その人が大切にしているものが同じかどうか」。医療者に関して言えば、人・命を慈しみ敬意を払っているかどうか、患者の病気だけをみずに生活者としての「生きた体験」を知ろうとしているかどうか・・・そういった、ここだけ外さなければ大丈夫という「根っこ」の部分が共有できるようであれば、あとの瑣末なことはあとからいくらでもすりあわせていくことが可能であると思うのです。逆にいえば、いくら名医といわれている人でも「そこ」を外していれば、後々すれ違いが生じて問題が噴出してくるに違いない。私はそう考えています。

告知の問題も私にとっては同じことで・・・告知する、しないということを画一的に決めて、いわば告知が医療者の義務として行われることになったら嫌だなあと思います。告知の是非は患者と患者を取り巻く環境に応じて変わってくるものであり、それは患者とその周囲の人々、そして医療者の人間関係によって決められていくのです。「告知が義務づけられているからする」のではなく、「その人(あるいは自分)にとってどうすることがベストであるか」ということを、それぞれがそれぞれの立場で考えてなされるべきこと。医療者の義務があるとすれば、その環境を整える以外ありません。

ちなみに私自身に関して言えば、告知をして欲しいとは積極的に思っていません。「ほんとうのことを知りたい」という欲求が元来希薄であるというせいもあるでしょうが、「真実を知って病気と向き合いたい」「これからの人生を、自分の思うように生きてしめくくりたい」という主体的な生き方よりも、「私を大切に思ってくれている人たちが、私とって一番いいと思われることを考えてしてくれているだろう」と信頼して、告知するにしてもしないにしても、考慮の結果選んでくれたことに対して感謝できるような生き方ができたらいいなと今は考えています。例えば私は結婚前、オットのことを「この人は、私が死にゆくときにも、決して私をがっかりさせるようなことを言ったりしたりしないだろう」と確信できたので今現在に至りますが、その確信があるので告知に関しても、「どちらでもいいよ」と思っているのです。「どっちにしたって、悪いようにはしないだろう」と。

ここでようやく離乳に戻りますが・・・教えを乞うている助産師さんに対しても、私は「この人は、悪いようにはしないだろう」と信頼をよせることができたのです。それはやはり、「赤ちゃんとお母さんの健やかで幸せな暮らし」を願う気持ちが、言動や立ち居振る舞いから伝わってくるから。そこさえ確信できれば、「この人の教えは本当に正しいのか」と自分で調べたり、根拠の提示を求めたりする必要もない。インフォームドコンセントを含め、様々な選択肢の中からベストなものを「自己責任」で決定することが求められる昨今の風潮に抗う生き方をこれからも続けていくことになりそうです。
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愛がなければ 其の二

2007-05-25 13:06:34 | 生活デ哲学スル
ファミニズムにも愛がなけりゃね。
なんて大声で言ったら糾弾されそうなので、ビビリの初々さんはそうっとお話することにします。

婦人参政権から始まり、近年の雇用機会均等法・・・女性の社会進出、地位向上にフェミニズムが果たしてきた役割は非常に大きく、その功績に対して「愛がなけりゃね。」なんて言うつもりは全くありません。ここでお話しようと思っているのは、フェミニズムが議論を広げていった「ジェンダー」の話、とりわけ「家事(労働)の分担」について。

フェミニズム的「家事を分担せよ」という主張は、つまるところ「夫婦が生活していくうえでどうしても発生する労働を女性だけに押し付けず、男性も分担する義務がある」という論理ですよね。そして女性には、家事の分担を主張する権利がある、と言っているんですね。そこには、「間違いはありません」。でも同時に、「愛がありません」と私は思うのです。

そもそも、「家事」というものをどう捉えるかというところから議論は出発します。フェミニズム的「家事」は、おそらく「生活上発生する雑事」、要するに「あんまりしたくないけれど、やらないといけないからやる仕事」なんでしょう。何故家事がそのように捉えられるのか?それはもう当然、「経済モデル」で家事を考えているからなんですよね。家事を経済モデルで考えれば、「生産性」(つまりお金で換算できる利益)は全くありませんから、積極的に引き受けたい価値のある仕事というふうには捉えることはできません。生産性はない、しかし生活していく上でどうしても誰かがやらなければならない仕事ー確か村上春樹は、そんな仕事を「雪かき仕事」と言っていたように思いますがー、そんな仕事が「義務」となり、その義務を果たすべきだと皆で「権利」を主張しあうーつまり押しつけあうーというのが、「家事の分担」議論だと思うのです。

経済モデルで家事を考えると、家族の構成員同士で家事を押し付け合うという結果は当然の帰結のように思います。そこには、「家族みんなが快適に過ごせるように掃除をしたい」だとか「家族みんなが健やかであるために、美味しくて安全な食事を提供したい」という「願い」が入り込む余地がありません。だから私は、フェミニズム的家事の分担議論には「愛がない」と言うんです。「家族みんなのために」立ち働くことが、損得で考えられてしまう。そこにフェミニズムの限界を感じてしまいます。家族の健やかで快適な生活を願うことが出来れば、家事を引き受けることの「損得」なんて軽く超えることができるのです。

もちろん、家族みんなのために立ち働くことが女性だけに求められるわけではありません。それは、「家族の構成員みんな」に求められることなのです。そこには、男性だから、女性だから、おとなだから、こどもだからという区別はありません。それぞれが、それぞれの立場で、「家族の健やかで快適な生活」を願い、立ち働くことが求められてしかるべきなのです。そのためには、お互いに「配慮しあう」ということが必要になります。この「配慮」というものは、一般に考えられているより高度な技です。どういうことかというと・・・

フェミニズム的家事の押し付け合いでは、「私はご飯を作るんだから、お皿洗いぐらいしてよね。」ということになります。つまり、具体的な労働の割り振りになる。そしていったんその割り振りが決まってしまうと、また誰かの不満が高まってくるまでは、「それだけしていれば、とりあえずはいい」のです。一方配慮するということは、「家族の健やかで快適な生活のために、今、この状況で、この自分に出来ることは何か」ということをその都度考えて行動するということが基本になります。状況に応じて役割と仕事を変化させるというのは、固定された役割と義務を果たすよりも、はるかに高度な能力が必要になってくると思います。普段は食事作りから後片付けまでを妻がしているという場合でも、何かがあってとても忙しい日、家の中のことがまわっていないようであれば、夫が後片付けを手伝うというのは当然配慮として求められることです。そのような「家の中のことがまわっていない様子」を状況判断して、「自分が今一番何をすれば、家の中がまわるか」を考えて行動する。これが配慮ということなのです。とにかく家の中のことがまわっていないのにそのことに気づかず、普段通り見ても見なくてもいいようなテレビを見て過ごしていれば、「配慮が足りない」と非難されてしかるべきということになります。

この「配慮」ができるかどうか、というのは・・結局話がもとに戻りますが・・「家族の健やかで快適な生活」を願えるかどうか・・つまり愛があるかどうか、関心を持てるかどうか・・だと思うんです。おそらく「家事を分担してくれない」と憤る女性の多くは、仕事量そのものに対して負担感を強めているだけなのではなく、そこに「夫の配慮(愛)が見えない」ということへの不満が隠されているように思うのです。家事を分担してくれない夫に対して、「配慮=愛がない!」と訴えるのは身も蓋もないので、とりあえずは「家事をしてよ」ということになるのでしょうが、本当のところは配慮(愛)を求めているということが多いように思います。

で、話は少し変わりますが・・・
家族の構成員である以上、私は赤ちゃんにも配慮を求めます。どうしても何か用事をしなければならないとき、「今お母さんはお洗濯ものを干さないといけないから、ここでよい子して見ていてね。」と赤ちゃんに協力を依頼します。そしてよい子していてくれても、そうでなくても、待っていてくれたことーそれはその時、赤ちゃんが出来た最大のことーに「ありがとう」を伝える。赤ちゃんも立派な家族の一員ですから、これは大切なことだと思っています。
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愛がなければ

2007-05-20 14:00:59 | 生活デ哲学スル
某元首相が言及したことで一時話題となった「鈍感力」。先日買い物へ行ったついでに立ち寄った本屋さんで、パラパラと立ち読みをしました。まぁ全部を読んだわけではないので文句言うのもなんなのですが、おそらく「悪い意味で」鈍感な人たち(某元首相を含む)が、「オレたち、間違ってないよね」と正当化、あるいは自己肯定するためには恰好の本です。

「鈍感力」読まずともだいたい内容を推測できる方も大勢いらっしゃると思いますが、要するにストレス社会を生き抜くためには、ストレスに対して、あるいはストレスフルな状況において「気がつかない」「過敏に反応しない」という戦略をとるべきだという論旨なんですね。言い換えれば、センサーを可能な限り下げておくべきであるといっているんです。

ストレス社会において、実際にこのような戦略が最も生存率を高めるかどうかというのはさておき(少なくとも自然界では、最も生存率の低い戦略だと思われる)、私個人としては「そのような人と一緒に仕事をしたくないし、家庭生活もしたくない」と思います。なぜなら常にセンサーの低い人間というのは、ひとや状況に対して「無関心」であり、結果的に周囲に対しての配慮を欠く「気の利かない」人間であるということだからです。あなたはそんな人と一緒に働いたり、生活したいと思いますか?

そもそもストレスというものは、常に「取り除かれるべき悪」であるというわけではありません。なぜならストレスとは、「人が、何か、誰かを大切に思うこと」から生じてくるものだからです。例えば、あなたが愛する人を突然亡くす。その状況というのは、ものすごくストレスです。それというのも、あなたが亡くなったその人を大切に思っているからであって、もしその人のことをあなたがどうでもいいと思っているならば、その人が亡くなってもストレスに感じることはないでしょう。「鈍感力」の論旨でいえば、もしあなたがストレスを引き受けたくないのであれば、「その人をどうでもいいと思え」ばいいというわけです。そんな馬鹿な!ですよね。少なくとも私は、ストレスを避けるために「何か、誰かを大切に思う」ことのない人生を選ぶなんて、まっぴらごめんです。

私たちは多かれ少なかれ、「何か、誰かを大切に思うこと」とひきかえに、そこから生じるストレスを引き受けなければならないようになっているのです。ストレスの原因(私たちが大切に思う何か、誰か)を取り除くことはできない。しかし、折り合いをつけていくことはできる。ストレスとは、そういう性質のものです。その折り合いをつけていく過程(ストレス・コーピング)で、戦略的にセンサーを上げたり下げたりすることはあるかもしれませんが、ストレスを引き受けることを避けるために、はじめからセンサーを下げて無関心でいることを選べというのはあんまりだと思うのです。

また話は少しかわりますが、この本の中で「母親とは鈍感の最たるものだ」ということが書かれていました。赤ちゃんのためならば人目を憚らずにおっぱいを出す、赤ちゃんの泣き声をうるさく思わない・・・などの例が挙げられていました。ここでもまた「しょーもないなぁ、この人は」と憤りを通り越して呆れたのですが・・・母親こそ、センサーを高く保っておかないといけない存在なんですね。それはもう、種の存続のために絶対的に必要なことなのです。赤ちゃんが泣いていることに気がつかなければ、赤ちゃんが死んでしまう可能性もあります。またその泣き声も、お腹がすいて泣いているのか、おしめがぬれているから泣いているのか、はたまた常とは違うことが赤ちゃんに起こっているのか、敏感に察知しなければなりません。母親が赤ちゃんの泣き声をうるさく思わないのは、それが赤ちゃんからの必死なサインであるからであり、それをキャッチして読み解く必要があるからです。センサーを低くしていては、赤ちゃんからのサインをキャッチすることはとうていできません。そして母親が赤ちゃんのためにセンサーを高くしておけるのは、ー先ほどは種の存続のためといいましたがそれだけではなくー赤ちゃんを大切に思う気持ち、すなわち愛の存在なんです。赤ちゃんへの愛が母親のセンサーを高め、結果的にそれが赤ちゃんの生存率を高めることにつながるという仕組みになっているのだと思われます。

こう書いてきて気がつきましたが・・・
要するに鈍感力を発揮できる人=センサーが低い人=愛のない人、なんだ。
だから「ダメ」なんだね。
愛がなければ、どれだけ正しそうなことを言っていてもアウトです。そういう意味でも、フェミニズムにも愛が必要だと思う今日この頃なのですが、長くなるので今日のところはこれにて失礼・・・
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