先日は中途半端なところで記事が終わってしまい、申し訳ありませんでした。赤ちゃんがいると、なかなかまとまった文章を書く時間がないもので・・という言い訳はさておき。前回の続きです。
前回は、組織で看護師という専門職として働く以上、自己防衛のためにあれこれと策を講じることは当然であるというお話をしましたが、組織を離れた今改めて思うことは、「結局、訴訟を恐れるような人間関係しか作れていなかったのだなぁ」ということです。だいたい患者さん(とその家族)の側からおこされる民事訴訟は、心情的なものによるところが大きいと思います。それは大別するとふたつあり、「充分なことをしてもらえていなかった」という不満と、「何か隠されていないだろうか」という不信。転倒などの事故に関して言えば、まず「転倒のリスクが予見されていたのだろうか」、そしてその上で「適切な対応がされていたのだろうか」というようなことを「隠されていないだろうか」という不満と不信が訴訟につながってくると思うのです。しかしこれらのことは、患者さんとその家族、医療者がじゅうぶんにコミュニケーションをとっていればたいていの場合はクリアできるように思います。患者さんのどのようなところが転倒につながりやすいのか、そして医療者はどんなことに気をつけているのか、また家族の人たちにもどんなことに気をつけてもらいたいのか・・・そういったことを日頃から伝えていくことを怠らなければ、不信や不満というものを招かずにすみます。そしてそこに信頼関係が生まれれば、最悪の場合やむを得ず転倒がおこったとしても(多くの場合、やむを得ない事情がある)、「訴えてやる!」と権利の主張をされるよりも、「あの看護師さんがついていても転倒してしまったんだから、仕方が無い」と思うものなのではないでしょうか。所詮医療は人間の営みですから、最善を尽くしていても事故が起こる可能性をゼロにはできません。それ以上のことは、あるいは人がどうこうできるものではないのかもしれません。そして残念なことに事故が起きてしまった場合、両者がそれぞれ「仕方が無い」と心情的に納得できるためには・・・医療者が最善を尽くす。そして患者さんと家族には、最善を尽くしてもらえていると感じてもらえる。そういう関係を築いていかなければならないのだと思います。
ただこれも時代が移り変わり、患者さんが強い消費者意識を持って医療の現場に現れてくると、事態はもっと複雑になります。そんなお話も近いうちにできたらいいのですが・・・い、忙しい・・・
前回は、組織で看護師という専門職として働く以上、自己防衛のためにあれこれと策を講じることは当然であるというお話をしましたが、組織を離れた今改めて思うことは、「結局、訴訟を恐れるような人間関係しか作れていなかったのだなぁ」ということです。だいたい患者さん(とその家族)の側からおこされる民事訴訟は、心情的なものによるところが大きいと思います。それは大別するとふたつあり、「充分なことをしてもらえていなかった」という不満と、「何か隠されていないだろうか」という不信。転倒などの事故に関して言えば、まず「転倒のリスクが予見されていたのだろうか」、そしてその上で「適切な対応がされていたのだろうか」というようなことを「隠されていないだろうか」という不満と不信が訴訟につながってくると思うのです。しかしこれらのことは、患者さんとその家族、医療者がじゅうぶんにコミュニケーションをとっていればたいていの場合はクリアできるように思います。患者さんのどのようなところが転倒につながりやすいのか、そして医療者はどんなことに気をつけているのか、また家族の人たちにもどんなことに気をつけてもらいたいのか・・・そういったことを日頃から伝えていくことを怠らなければ、不信や不満というものを招かずにすみます。そしてそこに信頼関係が生まれれば、最悪の場合やむを得ず転倒がおこったとしても(多くの場合、やむを得ない事情がある)、「訴えてやる!」と権利の主張をされるよりも、「あの看護師さんがついていても転倒してしまったんだから、仕方が無い」と思うものなのではないでしょうか。所詮医療は人間の営みですから、最善を尽くしていても事故が起こる可能性をゼロにはできません。それ以上のことは、あるいは人がどうこうできるものではないのかもしれません。そして残念なことに事故が起きてしまった場合、両者がそれぞれ「仕方が無い」と心情的に納得できるためには・・・医療者が最善を尽くす。そして患者さんと家族には、最善を尽くしてもらえていると感じてもらえる。そういう関係を築いていかなければならないのだと思います。
ただこれも時代が移り変わり、患者さんが強い消費者意識を持って医療の現場に現れてくると、事態はもっと複雑になります。そんなお話も近いうちにできたらいいのですが・・・い、忙しい・・・