愛用している「ほぼ日手帳」。
今年のカバーは明るい黄色を選びました。「金運がよくなりますように」なんて、取ってつけたような理由を考えてみましたが、別にこれ以上お金が欲しいわけでも必要なわけでもありません。何しろ私は風水で「一生お金に困らない」と言われたひと。それは以前にもお話したと思うのですが、「お金持ちになる」と理解して安心したわけではなくて、「お金があってもなくても困らないってことか!それは何より幸せなことだなぁ!」と解釈してニコニコしたのでした。そしてお金もそうだけれども、「病気になっても困らない」「障害を持っても困らない」・・・そういう社会になったらいいなぁとつくづく思います。
・・・って、話がずいぶん脱線です。
年が明けてから心機一転色々なことを初めている(単純な)私ですが、「一日の中で、手帳に向かう時間を作る」というのもその一つです。書き方にルールは定めておらず、「これからの予定をたてる」「することリストをつける」以外はただただ頭に浮かんだことをひたすら文字にして書き付けておくということをしています。きっと今までも頭の中で漠然と予定をたてていたでしょうし、考え事もたくさんしていたのでしょうが、とにかく「書いて考える」というだけで、これほど頭の中が整理されるものなのか!と非常に驚いています。何がどう違うのか、ということを言語化することが難しいのですが、もやもや~っとした「考えごと」をぼん!と頭の中から取り出して、手帳の中にぐいぐい、むぎゅう!と押し込んでしまうような感じ。おそらく「書く」という行為によって、様々な懸案事項を自分からいったん切り離して客体化することができるのでしょうね。
しかし明日の予定をいちいち手帳に書きつけるなどという「まめな」ことを自分がするとは、ちっとも思っていませんでした。でもね、実はこの行為、大して「まめな」ことでもないんですよ。ただぼんやりと頭の中で考えていたってそれなりに時間を要するわけですし、考えていると同時に手帳に書きつけてしまえばタイムロスはほとんどない。そしてむしろ「こうして、ああして」と何度も考えたり、「どうしよう」と迷わずにすむだけ、案外効率的でもあります。ですから手帳に向かう時間というのは必要以上にまめなことではないのだということに、私はこの年になって初めて気づいたのでした。
そう、考えてみたら忙しい病棟勤務の時だって、受け持ちの患者さんごとに「することリスト」を作り、タイムテーブルをひっぱって「必ずすること」をメモしてから仕事を始めていたのでした。それは「し忘れ」を防ぐことが最大の目的でしたが、それと同時に時間の制約がある中で「いかに効率的に動くか、仕事をまわしていくか」を具体的にイメージして計画をたてるということも私にとっては大切な作業だったのです。もちろん機転のきく人や、ベテランの先輩たちはそれらがもうすでに身体化しているというか、わざわざ計画をたてなくともするすると動けているようでしたが、基本的に要領のよくない私はそれが出来ませんでしたし、計画をたてるという行為にも人より時間を要しました。なので申し送りが始まる30分以上も前に勤務について、だーれもいないナースステーションでひとりメモ板に向かうというのが日常でした。それを人は「真面目だ」と称していてくださっていたように思いますが、それは真面目なのではなくて要領が悪かっただけ。私には一日のスタートラインに立つための準備体操時間が人より多く必要だったのです。
そんな私は退職と同時にメモ板もどこかにやってしまい、「家事だって基本的に同じことだ」と気づくまで4年もの歳月を要してしまいました。(やれやれ)効率よく、そして気持ちよく行動するためには、それなりのルール(原則)とタイムマネジメントが必要だったんですね。比較的気ままなタイプの私は、そういったものを「不自由で嫌だな」とこれまで思っていた節がありますが、いざそれらを導入してみるとそれは全く逆なのだということに気づきました。そう、「全く逆」、すなわち「自由でいるためには、それらルール(原則)とタイムマネジメントが必要」なのです。それはどういうことなのか?
あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ。でもその時の自分の気分に合わせて、出来るようにしよう。そのような状態でいられることを、普通人は「自由」と言うのだと思います。つまり「しなければならない」というルールに縛られない、という意味において。一方「こうするのだ」というルールを設定してしまうと、自分の行動に制限が加わるという意味で人はそれを「不自由」と言うのでしょう。しかし、一旦「こうする」というルール、つまり枠を設定すると、常に「それはもうあるものとして」行動するようになります。ここがとても不思議なことのように思われるかもしれませんが、「制約」のように思われるようなことがいつの段階かで「当たり前」のことになり、それを制約だとも思わなくなる時が来るのです。しかしルールや枠がなく暮らしていると、「あれもしなくちゃ」「これもしなくちゃ」という全てのことが、常に自分の制約として目の前にぶら下がっていることになります。その状態を「不自由」と言わなくて、何と言ったらいいのでしょうか?
この「不自由と思われるものを取り入れることで、むしろ自由になる」というブレークスルーは、実は私一度経験したことがあります。それが、結婚。様々な事情で結婚というものにポジティブな印象を全く持っていなかった私は、結婚とは自分の行動を制約する不自由なものだという考え方をどこかに持っていたように思います。ところがいざ結婚してみると、とても自由な気持ちになったのです。もちろん結婚することで、いわゆる「自分のしたいように、思いのままに生きる」ことは出来なくなったかもしれません。それは例えば、今までだったら何の相談もなく好きなときに好きなように自分のやりたいことを追いかけることができたかもしれませんが、結婚すればそういうわけにもいかない。しかしそういった「制約」らしきものを取り入れて暮らしてみると、つまり常に「自分と相手の暮らし」単位でものを考えていると、それが当たり前になりすぎて、「その制約がない状態」というものがどういうものなのかだんだん分からなくなってきますし、大体相手のことを考えずに純粋に「自分のしたいこと」なんていうものさえ存在しなくなってくるんですよね。そうやって、「制約と思われていたものが制約でなくなる」瞬間、人は自由になれるのだということに加えて、「もう自分単位で、自分のことばっかり考えてなくていいんだ!」という気づきも、私にとっては自由ですがすがしいことでした。
とはいえ、家事においてはまだまだその「ブレークスルー」がやってきません。もうちょっと続けて、それらが身体化してこないとダメなんですよね。時間はかかりますが、のんびりペースでぼちぼちやっていきたいと思います。