約半年ぶりに、東京へ帰省してきました。写真は、予告通りの「ジブリ美術館」にて。「親から離れて、一人で乗れるだろうか?」と懸念されていたねこバスにも平気でよじのぼり、大満喫していた彼女。こちらが思うよりも、もうお姉ちゃんなんだね。
・・・とはいうものの、たまにしか会わない孫娘の甘ったれ・わがまま放題の様子を見て、おばあちゃん(つまり私の母)は「これじゃあ全然どうしようもない」と喝。普通はたまにしか会えないとなると余計に「可愛くて甘やかす」ほうへ傾くと思うのですが、基本的に「強き母」のおばあちゃんだからでしょうか、甘やかすどころかビシバシとスパルタ。見ていると「私(と弟)もきっとこんなふうに育てられたんだろうなぁ。かわいそう、私(と弟)・・・」と思うくらいなのですが、まぁでも「たまには」こういうのもいいもんだと思いましたね。なかなか私自身が「強い母」を役割としても演じにくいキャラなもので、ついつい常に「言いなり系」になりさがってしまうものですから。ですので今回は「強い母」の演じ方を少し学習することができてよかったと思います。もちろん、使い分けが大切なんですけれどもね。
さて具体的な場面をひとつ。日頃から「歩かせよう」とは努力しているつもりなのですが、甘ったれさんは全然歩きたがりません。ちょっと歩いては「抱っこ~」ですし、ひどい時には全然歩く努力なしに「抱っこ『だけ』~!!」と泣いて地団駄を踏む始末。今回帰省の折りにもおばあちゃんと3人で出かけたのですが、バスをおりた途端に「抱っこ!!」が始まり、全く歩こうとしません。その場で地団駄を踏んで泣き叫び、挙げ句の果てにはその場に泣き崩れて寝転がる。そんな孫娘の様子を見ておばあちゃんは呆れ顔、「歩かないなら帰るわよ。」とにべもなく告げます。そして私に「歩かないなら帰る。歩くならこのまま出かける。泣き止んで落ち着いたら、ちゃんとどちらかを選ばせなさい。もう何でも分かってるんだから。」と言って、泣くにまかせてじっと待ちつづけること30分。しかし泣きやむどころか、「おしっこ~!!」と言いながら大号泣のためのおもらしもしてしまい、私はすっかり「とほほ」な気分。通行人の多い、大都会東京のとある駅の改札口での出来事ですから、色々な人の目だってそりゃあ気にもなります。特に中高年の女性は「あらあら、どうしたの?」と声をかけていって下さいますし、こちらは被害妄想的に冷たい視線を感じざるを得ません。そこで「もうこれだけ泣かせたらいいだろう」と思って子どもを抱きかかえると、おばあちゃんは冷静に「だめ。それをするからいつまでたっても分からないのよ。結局泣いたらどうにかなるって思っちゃうでしょ。降ろしなさい。」と言う。うーん、強い。そこでまたしばらく泣かせていたのですが、彼女の「抱っこして、出かける。歩かない!!」という主張は全く変わらなかったため、おばあちゃんは「一度家に帰ろう。そうしないと、歩かなければお出かけはできないってことが分からないわよ。何度か繰り返したら分かるでしょ。」と私に言うのです。正直私は「ええ~、ここまで来たのにまた家に帰るのは嫌だな。」と思ったのですが、おばあちゃんの意思はかたい。仕方なくあばれまくる娘(げんこつで叩いてくる始末)を抱えて、家へと向かうバス停に引き返していったところ・・・バスが見えるなり、ぴたりと泣き止んで「歩く!!!」と言い始めたこ初々さん。これには私がびっくりです。以来、歩く・歩かないでごねることが殆どなくなり、あれほどの抱っこ生活だったのに、今ではしっかりと歩く子どもになってしまいました。そして時々人差し指を一本立て、「ちょっとだけ抱っこして」と言う娘がちょっぴり可哀想でもあり愛おしくもあります。そう、「ちょっとだけ(その場で)抱っこ」してあげるだけで満足して、また再び歩き始めるのですから。
いやしかし「寝ない!!」騒動でも思いましたが、やはり子どもの気持ちに共感しすぎてもだめですし、「子どもの主張を受け入れる、受け入れない」という「枠」はすごく大切なのだなぁと思います。歩かせることがいいことなのかどうかという議論は置いておいても(別に手があいているのだから抱っこしてやってもいいという考え方だってありますよね。ずっと甘えているわけではないですし。)、子どもの中に生まれるわがまま心や甘えたい心がエスカレートしていくのは、おそらく子ども自身だってしんどい。それらがどこかで「ごつん」と枠にぶつかって、しゅるるるるる・・・と収められるほうが、「どこまでもどこまでも行ってもぶつからない」よりいいのではないか。まぁそれは人の欲望だって同じことが言えるわけで、「与えられたものの中でやりくりしよう」と思うか「もっともっと」と思い続けるかどうかで、精神的な安定はずいぶんと違うような気がします。もちろんその枠は小さすぎても大きすぎてもいけないでしょうし、そこが親のさじ加減に委ねられるのが難しいところなんですけれどもね。しかも「子どもひとり、貧乏というわけではない」という状況では、「親が頑張ればいつでも抱っこしてやれるし、欲しいと言うものを本当に買うことが出来ない経済状態でもない」わけですから、外的な制約が枠として機能しないため、「親がその都度枠を設定し、意思を持って運用する」しかありません。これが「子だくさんで抱っこもしてやりたくてもしてやれない。買ってやりたいけれどお金がない。」という状況でしたら、自ずと枠が設定されてしまい、親の決断や意思が問われるわけではないので楽と言えば楽ですよね。・・・もちろん、それが現代的豊かさの代償なのですが。
そして、家へと向かうバスを見た途端に「歩く」と主張を覆した娘を目の当たりにして、枠の設定とともにそれを「本気で」運用することの重要性をしみじみと感じました。きっと「歩かないなら帰るよ」と言っている内は、「泣いたらどうにかなるだろう。」という「交渉の余地」を感じていたのでしょうね。しかし実際にバス停へ向かって本気で帰ろうとしているのが分かり、「これはもう交渉の余地がない」と諦めた。おそらくいつでも駄々をこねている時には、親の「本気」をはかりながら、自分の「本気」をアピールしているのでしょうねぇ。つまりは「本気」合戦。そう思うと、「本気を示す」術をこちらが身につけなければならないと痛感するに至りました。もちろんそのためには感情的になったりせずに、常に冷静に子どもの前に立つ必要も出てくるのですが。
いやしかし、ずいぶんと強いおばあちゃんでしょう。弟などは「(強すぎて)何を言っても無駄だと諦めていた。」と言っているので「それも可哀想なことだったなぁ」と思い(私自身はおそらく初めから主張を引っ込めるタイプだったようで、あまりぶつかり合った記憶がないのですが)、それが完全にいいことだというふうには言えないのですが、それでも見習うべきところはいくつかありました。そしてこんなふうに母の姿を見て、「見習うべきところがいくつかある」と思う自分が新鮮で、子育てってやっぱり面白いな、と思うのでした。