昨日からオットさんとこ初々さんは実家へ帰省中。私は仕事があるためお留守番です。
この夏は、本当に忙しかった・・・町内の役員もそうですが、ある学会の立ち上げに関わり、学術大会の企画委員をしていました。学会の運営って、こんなに大変なんだなぁ・・・ということを身をもって思い知り・・・とはいっても私なんかは、中心になってとりまとめて下さっていた方がたのご尽力にはとうてい及ばない働きしかできなかったのですが、それでも最後のほうは「はやく、ぶじに、終わってほしい」ということばっかりを願ってしまうくらいには大変でした。このあと秋には別の学会のシンポジウムをお引き受けしているので、そろそろそちらの準備もしなくてはいけませんね。この春から研究生も辞めてしまい、研究活動もしていない無所属の人間がこんなに学会活動に関わっていていいんだろうかと申し訳ない気持ちと、肩身の狭い思いとでおります。・・・研究・・・まっっったく出来てません。出来てませんというか、してませんというか、する気がないというか。(←どんどんサイテイ度が増していく・・困ったもんです。)
そんな冴えない私の近況は置いておいて。
今日のテーマは「作文」。
いきなり自慢をするようですが、私は文章を書くことが得意な方だと思っています。「得意」というのはもちろん相対的なものですし、ここで私が比較の対象にしているのは「他者」ではなく、「自分の中にある他の能力」です。要するに、絵を描くのも酷い、手先が不器用、立体感覚がアヤしく手芸も造形も困難、極度の方向音痴、空間認識がまずい・・・とか色々のマイナス能力に比べると、言語能力だけはずいぶんマシであり、その能力に頼りながら生きている、ということです。細かいようですが、その様々な能力はイコール「好き、嫌い」に直結するわけでもなく、文章を書くのが得意とは言っても「好き」かと言われればさほどですし、手先が不器用で立体感覚がないけれども「ヘタの横好き」という言葉がありますように、手芸が好き。うまくいかなくて泣こうがなにしようが、「またやりたい」と思えるくらいには好きなんです。不思議ですね、人間て。
さてさて本題からずれてしまいましたが、とにかく私は言語に頼って生きてきたタイプなので、気づいてみると「作文」という課題で困ったことがありませんでした。何か特別な教育を受けてきたわけでも、自分で文章修業をしたわけでもなく、自分の感覚としては「もとから、今のよう」。もちろん小学生の時の文章能力と今とを比較したら「そんなことあるわけないだろう!」ということにはなると思うのですが、ベーシックな部分ではそんなに違わなかったんじゃないかなぁと思うんです。これってどういうことだろう?と考えると、もちろんテクニックであるとか表現力であるとか、語彙力なんかは今のようになかったと思うんですよ。でも小学生なりに思ったり感じたことを表現するのには十分だった、ということなんじゃなかなぁと思うのです。つまり、「言いたいこと、伝えたいことを、文章という形で十全に表現できていた」ということ・・・だから「作文が書けない!」と騒ぐことがなかった。思い、経験したこと・・・を表現する手段として、私は文章(言語)が最もフィットしていたという感覚が、「今も昔も、大して違いはなかった」につながるような気がします。きっと絵が得意な人、造形が得意な人も、それぞれの表現手段に対して、そう思うんじゃないかなぁと想像します。
また話がそれてゆきましたが、「作文を書く」ことに苦労したことがないので、「作文が書けない」という状況がどういうものであるのか、私には全くわかりませんでした。「別に、なんでも思ったこと書いたらいいじゃん。」という冷たい感じ。絵?どうやって描いたらいいの!?と思う私が、「別に、なんでも好きなように絵を描いたらいいじゃん。」なんて絵の得意な方に突き放されたら悲しい気持ちになりますが、正直教えようもない、と思っていました。それは思考のリズム。表現そのもの。そんな感じなのです。
しかし子どもの作文につきあってみると、逆にいろんなことが分かってきました。
と、ここからが本題なのですが、続きはまたのちほど・・・いいか悪いかは別として、作文を教えることはできるという気づきについて書けたらと思います。
この夏は、本当に忙しかった・・・町内の役員もそうですが、ある学会の立ち上げに関わり、学術大会の企画委員をしていました。学会の運営って、こんなに大変なんだなぁ・・・ということを身をもって思い知り・・・とはいっても私なんかは、中心になってとりまとめて下さっていた方がたのご尽力にはとうてい及ばない働きしかできなかったのですが、それでも最後のほうは「はやく、ぶじに、終わってほしい」ということばっかりを願ってしまうくらいには大変でした。このあと秋には別の学会のシンポジウムをお引き受けしているので、そろそろそちらの準備もしなくてはいけませんね。この春から研究生も辞めてしまい、研究活動もしていない無所属の人間がこんなに学会活動に関わっていていいんだろうかと申し訳ない気持ちと、肩身の狭い思いとでおります。・・・研究・・・まっっったく出来てません。出来てませんというか、してませんというか、する気がないというか。(←どんどんサイテイ度が増していく・・困ったもんです。)
そんな冴えない私の近況は置いておいて。
今日のテーマは「作文」。
いきなり自慢をするようですが、私は文章を書くことが得意な方だと思っています。「得意」というのはもちろん相対的なものですし、ここで私が比較の対象にしているのは「他者」ではなく、「自分の中にある他の能力」です。要するに、絵を描くのも酷い、手先が不器用、立体感覚がアヤしく手芸も造形も困難、極度の方向音痴、空間認識がまずい・・・とか色々のマイナス能力に比べると、言語能力だけはずいぶんマシであり、その能力に頼りながら生きている、ということです。細かいようですが、その様々な能力はイコール「好き、嫌い」に直結するわけでもなく、文章を書くのが得意とは言っても「好き」かと言われればさほどですし、手先が不器用で立体感覚がないけれども「ヘタの横好き」という言葉がありますように、手芸が好き。うまくいかなくて泣こうがなにしようが、「またやりたい」と思えるくらいには好きなんです。不思議ですね、人間て。
さてさて本題からずれてしまいましたが、とにかく私は言語に頼って生きてきたタイプなので、気づいてみると「作文」という課題で困ったことがありませんでした。何か特別な教育を受けてきたわけでも、自分で文章修業をしたわけでもなく、自分の感覚としては「もとから、今のよう」。もちろん小学生の時の文章能力と今とを比較したら「そんなことあるわけないだろう!」ということにはなると思うのですが、ベーシックな部分ではそんなに違わなかったんじゃないかなぁと思うんです。これってどういうことだろう?と考えると、もちろんテクニックであるとか表現力であるとか、語彙力なんかは今のようになかったと思うんですよ。でも小学生なりに思ったり感じたことを表現するのには十分だった、ということなんじゃなかなぁと思うのです。つまり、「言いたいこと、伝えたいことを、文章という形で十全に表現できていた」ということ・・・だから「作文が書けない!」と騒ぐことがなかった。思い、経験したこと・・・を表現する手段として、私は文章(言語)が最もフィットしていたという感覚が、「今も昔も、大して違いはなかった」につながるような気がします。きっと絵が得意な人、造形が得意な人も、それぞれの表現手段に対して、そう思うんじゃないかなぁと想像します。
また話がそれてゆきましたが、「作文を書く」ことに苦労したことがないので、「作文が書けない」という状況がどういうものであるのか、私には全くわかりませんでした。「別に、なんでも思ったこと書いたらいいじゃん。」という冷たい感じ。絵?どうやって描いたらいいの!?と思う私が、「別に、なんでも好きなように絵を描いたらいいじゃん。」なんて絵の得意な方に突き放されたら悲しい気持ちになりますが、正直教えようもない、と思っていました。それは思考のリズム。表現そのもの。そんな感じなのです。
しかし子どもの作文につきあってみると、逆にいろんなことが分かってきました。
と、ここからが本題なのですが、続きはまたのちほど・・・いいか悪いかは別として、作文を教えることはできるという気づきについて書けたらと思います。