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京都生活手帖

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ヨレヨレ

2015-09-16 14:44:36 | 日記
もうすぐ運動会・・・ですが、今年はどうしても仕事が入ってしまったため、観に行くことができません。こ初々さんには申し訳ありませんが、1種目目の競技だけ観れるか観れないか、ギリギリのところで東京に旅立たねばなりません。こ初々さん自身はちょっぴり寂しそうではありますが、運動会のあとにCOCOちゃんと遊べる!というところに気がいっている様子。

こんなことを言うと非常に冷淡なように受け取られかねませんが、なんというか、運動会って実のところあんまり好きではありません。というより、興味がわかないというか。(もっとヒドイか!)こ初々さんに「来たよ~」ということをアピールするために行っているという感じで、自分の中では全然盛り上がり行事ではありません。正直授業参観も、授業自体がつまらなさすぎて退屈ですし、学習発表会にいたっては子どもたちの「やらされ感」が気の毒すぎて、見ていてしのびない気持ちに・・・というわけで、学校行事のどれも盛り上がりません。大丈夫なのか、日本の公教育は・・・と一般化してはいけないかもしれませんが、もっと子どもがのびのび、いきいきと学ぶ姿が見たいなぁと思ってしまいます。こんな話をすると、「初々さんがオモシロく育ちすぎたんじゃないか。」みたいなことを言われるのですが、私自身も学校が楽しかったという記憶があまりなく・・・学校なんてそんなもの、と思えば、そんなもの、なんでしょうけれども、一日の大半の時間を過ごす場所がそんなふうに過ぎていくなんて、ちょっともったいないと思ってしまうのは私だけでしょうか・・

という愚痴はさておき。最近の「オモシロい!」ヒット作のご案内。

宅老所よりあい発行の、「ヨレヨレ」。ヨレヨレて!
ヨレヨレは福岡にある老人介護施設でのもろもろを取り上げている雑誌なんですが、もうその日々の悲喜こもごもがオモシロすぎます。もちろんそれらは大変であったり、悲しかったり、むかっときたり、切なかったり・・・と、いいことばっかりではないのでしょう。でもそういうことをひっくるめた、日常のあれこれ、その滑稽さ・・・が大好きすぎるワタクシ。私が特殊なのかもしれないので万人に勧められるわけではないと思いますが、お仲間と思われる方はぜひ!お手にとってご覧ください。もうね~、谷川俊太郎さんに「長谷川式」(←認知症の検査)をやってみちゃうところとか、抱腹絶倒です。

それでもって近々、「へろへろ」という本も出版されるそうなので。へろへろて!

まぁとにかく、こういうリトルプレスが最近面白いなと思っているのですが、またそれも後日ご紹介したいと思います。
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なぜ「気持ち悪い」のか

2015-09-09 13:14:54 | 日記
京都では台風が去っていったようです。

今日は朝から瞼の上がぼーっ。気圧の低いときには、いつもこんなふうに瞼の上がぼんやり重くなり、頭にヘルメットをかぶっているような感覚になります。頭痛まではいかなくても非常に不快なので、こんなぼんやり頭も「天気痛」とか「気象痛」に分類できるのではないかなと思います。

低気圧に弱いのは内耳に原因があるそうですが、まぁとにかくこの「酔いやすい」体質、どうにかできないものでしょうか・・・去年体幹トレーニングに通っていたのですが、帰ってくると「めまい」「吐き気」に襲われ、足が遠のいてしまいました。「なんでこんな簡単なエクササイズでしんどくなるんだろう?」としばらく疑問だったのですが、おそらく「立って、しゃがむ」動作を数分間にわたって続けるエクササイズに原因があったのではないかと今では推察しています。そもそも首を左右に動かしたり、ぐるぐるまわすだけでも「おえっ」となるのですから、視界が上下に変動し続けつつ、空間に占める自分の位置がすばやく変わっていくという負荷に耐えられるわけがないんだなぁ・・・今でもあの運動を思いだすだけで、「おえっ」ときそうです。

それにしてもなぜ視覚的な情報と、その他体感からの感覚情報が脳内で一致しないと、「気持ち悪い・・・」ということになってしまうのでしょう。大人の発達障害の方もよく「(なんだかわかんないけど、)気持ち悪い」と仰いますが、このときの「気持ち悪い」って私にはどういうことなのかさっぱりわからなかったんです。代表的なものでは、端っこがそろっていないと「気持ち悪い」というようなものもありますし、自分では「こうしたい」と思っているのにその通りにならないと「気持ち悪い」というのもあります。なんでみんな「気持ち悪い」という表現を使うんだろう?と思い、発達障害のキーワードなんじゃないかと思ったくらいです。

でもおそらく、私が「立って、しゃがんで」で酔って気持ち悪くなるのと、根っこは同じ、原理は同じなんじゃないかと思うとしっくりきます。ある一つの情報系統から「こういう情報が入ってくるはず」と予測し、そのとおりの情報が入ってくれば一件落着。でも予測と違う情報が入ってくると、うまいこと情報を統合できずに混乱、「気持ち悪い」という感覚を誘発してしまう・・・それがどうして「楽しい」とか「素敵♡」のようなポジティブ感覚につながらずに「気持ち悪い」に接続してしまうのかはわかりませんが、おそらく生存にかかわる人体(身体)の戦略なのでしょうね。情報が統合されずにバラバラでいてくれるのも愉快な人生のような気がしてしまいますが、もしかしたらサバイバルには向いていないのかもしれません。

以前歯科の治療を受けたときに、麻酔の注射をされました。くちびる半分の感覚がじーんとしびれている中、口をゆすごうと紙コップを持ち、くちびるに紙コップが触れたとたん・・・「コップが、凹んでる!」と思いました。ビックリして紙コップをまじまじと観察してみましたが、もちろん紙コップのふちはキレイに円を描いており、いびつに凹んだりなどしていません。それを理解したとたん、うわ~気持ち悪いな、と思いました。でもなんで気持ち悪いのか、その時には全く思い至ることができなかったのです。

しかし帰ってきて「なぜコップが凹んでいると思ってしまったんだろう?」ということを考えてみると、一つの仮説が立ち上がりました。身体のある部分が「しびれている」という状態は、「その部分の感覚が全くなくなる」ということではないですよね。現に、「じーんとしびれている」という感覚はあるわけです。でも外部から何かが触れてきても、その輪郭をとらえることはできません。コップから水を含もうと紙コップを持ち、くちびるに運んでも、「触れてくるはずの紙コップの輪郭情報」を知覚できない。そこにくちびるがあり、そこで知覚されるはずのものが「ない」・・・そんなおかしなことはないはずだ!と、脳は判断したんでしょうね。「紙コップがくちびるに触れた(はずだ)」という情報と、「くちびるからコップの輪郭情報がやってこなかった」という情報とを勝手につなぎあわせて、「紙コップのふちが凹んでいて、くちびるに触れてなかった」という答えをはじきだした結果が「コップが凹んでいる!!」という衝撃的結論・・・おいおい、そんなねつ造情報いらないぞ!と抗議したくなりますが、なんだか私の意思とは無関係に判断が下されてるっていうことに恐ろしさを感じます。

ですから紙コップは凹んでなどいなかった・・・ということに気づいて「気持ち悪い!」と感じたのは、生理的・感覚的なレベルでの気持ち悪さでもあったのですが、「判断を下す主体」が、今ここで世界を知覚していると感じている「わたし」以外にもいるのだという、「二重の主体」を感じていることにも依るのではないかと思います。まぁきっと普段は、「紙コップは凹んでいる」と判断を下した主体はバックヤードで粛々とお仕事しているのでしょうが、「わたし」とぴったんこにくっついているばっかりにその存在をありありと感じずにすんでいるのでしょう。ところがいったんそこに「ズレ」が生じてしまうと、うわっ、私以外のやつが私の中におった!みたいな感覚が生まれてしまうんだろうと思います。

人間って、ふしぎ。
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地蔵盆がおわりました

2015-08-26 11:48:49 | 日記
地蔵盆が無事に終わりました。

今年は私(たち家族)が大・大好きなSwingさんにワークショップに来て頂きました。地蔵盆の日が迫る中で「ワークショップに来ていただけませんか?」と無理をお願いしてしまったのですが、快くお引き受けて頂いて、紙製のバッジを作る「バッジ・グー」というワークショップをしてくださいました。子どもたちみんなすごく熱心に集中して取り組んでいて・・・その様子にすごーく心動かされました。

Swingさんは知的障害のある方が通っておられる事業所さんなのですが、そういう説明ではとてもSwingさんとその活動の魅力を表現できません。様々なアート活動、地域のゴミ拾いをする「ゴミコロリ」、子どもと遊ぶワークショップなど、とても楽しくて面白くて愉快な活動をされておられて・・・子どもを含め、家族みんなが大ファン。ブログで活発に情報発信もされておられるので、魅力あふれるSwingメンバーさんたちの日々の様子を伺い知ることもできます。「がんばっている福祉施設を応援する」というのではなく、実のところSwingメンバーさんたちの魅力にハートをわしづかみ&胸きゅん!という感じのミーハーファンで、たまに道でお見かけすると密かに「やった♡」とニヤけてしまいます。そういうのも方向の違う差別なのでは?というイジワルな声が聞こえてきそうではありますが(私の被害妄想?)、こんな素敵な人たちと、楽しいことができたらすっごく嬉しいな!という念願がかなっての地蔵盆ワークショップでした。それに、地域の人たちも、子どもたちも、身近でこんな素敵な活動をしている方がたのことを知らないなんて、あまりにもったいない!事実、楽しく取り組んでいた子どもたちだけでなく、保護者の方がたからも「来てもらってよかった」という声が届いています。

そんなワクワクの時間もありましたが、いやぁとにかく怒涛の一日でした・・・とにかく無事に終わってよかった。地域の子どもたちが年齢関係なく一堂に会する機会などそうありませんから、どんな子どもたちが地域にいるのかを知ることができたのもよかったですね。と言っても、私は人の顔と名前を覚えることに困難を持つので、こういう役につくと非常に困るときがあるのですが・・まぁでも、そういう弱さを抱えながらも、出来るひとが、出来るときに、出来るように。そんな息苦しくないコミュニティは、私自身の振る舞いからも作られるのだということは胸にとめておきたいなと思います。「おばちゃん、なかなか名前覚えられんのよ~」って堂々と何度でも言ってやれ~。

ところで「苦手」つながりで。
こ初々さん、毎年算数検定をがんばって受けています。つい最近10級に合格したのですが、誤答した問題が二つありました。そのうちの一つが、これ。

10分おくれている時計があります。この時計が8時40分をさしているとき、正しい時刻は何時何分ですか?

ワタクシもこの問題を解くのに、しばし時間がかかりました・・・解こうとすると、いいいい~!ってなりませんか?なりませんよね、普通。でも私は考えるとなんだか頭がこんがらがってきて、焦燥感さえ感じます。言語優位の二次元の脳には、この空間的把握がめっちゃ困難なんです。もちろん、解けないことはないんです。ゆっくり時間をかければ、答えることはできます。でも、正直なところ考えたくない。この問題を考える、ということを、脳が全力で拒否している感じなんですよねぇ。分かるかなぁ、この感覚。この「感じ」になるのは、例えば「けしごむハンコを作る(≒つまりデザインを反転させる)」とか、「B5のプリントを2枚置いてB4のプリントになるようにコピーする(≒これも反転の問題ですな)」とか、「烏丸御池の交差点で東西南北どっち向いているのか分からない(なぜか私にとって烏丸御池が鬼門)」というときですね。みじめなくらい考えないとできないし、それだけ考えてやっているのに失敗したりする。こうなってくると、苦手の底上げなんぞできるかってんだ!という気分になりますね。
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作文について(後編)

2015-08-21 22:44:32 | 日記
作文を書くにあたり、まず初めに子どもと一緒に確認していることがあります。それは、「今から、こ初々ちゃんが経験したことを知らない人に、こ初々ちゃんがどんなことをしたのか、その時どんな気持ちだったのかを教えてあげるために、作文を書きましょう。」という、当ったり前な前提(目的)。くどいくらい毎回確認しますが、そうでもしないと「なんのための作文なのか」(≒なにをどう書いていいのか)全くといっていいほど理解できていないと思います。オトナからしたら、なんでそんなことも分からないのか・・・という気分になりますが、そりゃ作文なんて「押し付けられたもの」であって、「この出来事を・この思いを伝えたい」なんていう内発的な動機づけがあるわけではないんですから、「なにを書けっていうのさ~!」となるのも頷けます。「ねぇねぇ聞いて聞いて!」という強烈な「伝える」動機づけで向かっていく相手は、彼・彼女たちの身近な他者(要するに日常のもろもろを共有している他者)であって、見知らぬ人や日常を共有していない人たちでは決してない。ところが作文の宛先というのは、彼らにとっては想定外の「(彼らの日常を)よく知らない人々」です。ですからまず作文というものは、そういった人たちを宛先にして書くのだということを確認しなければなりません。そのうえで、「自分や身近な人は知っていても、それを知らない人たちがいて」「その人たちに分かりやすく」書くことが必要なのだということを理解する必要があります。それができないと、読み手と自分がどこまでを共有しているかが不明瞭になり、「説明する必要があるか、ないか」の境界線が自分寄り(≒説明不足のマイワールド)になってしまいます。

書くテーマについては、本人から「これが書きたい!」というものが出ればそれでもちろんいいのですが、大概は「え~・・・分かんない・・」なんてことに。親のほうは「なんで!?色々あったじゃない!」とイラっとしてしまうポイントではありますが、これもね、(経験の)分節化の問題と根っこは同じなんだと思うんですよ。なので本人から「これがいい」というテーマが出てこなかったら、選択肢を提示して本人に選んでもらいます。

次に書く内容についても、まずは「何を書きたい?」と聞いてみます。そして本人が言ったことを私は箇条書きにしていきます。あまり出てこない場合は、「こういうこともあったと思うけど、どう?」というように、トピックの提示をします。本人が「それはいい(要らない)」と却下することもありますし、「あっ、そうだった!入れておいて。」と言うこともありますので、本人が望むようにしたらいいと思います。ある程度箇条書きにしていったら、「これとこれは同じくくりかな?」というように内容をまとめていきます。そうやってまとまりを作ったら、「書いていく順番を決めよう」と促し、本人に番号を振っていってもらいます。そこまで来たら、あとは順番に並べて書いていくだけ。ただし、あくまでも箇条書きにしてあるものは文章として不完全なので、接続詞をつけたり、語尾をかえたり、読みやすいように工夫をしたりということが必要になってきます。それもはじめのうちは、「ここの文章の頭に何か言葉を入れると読みやすくなるんだけど、なんだと思う?」「それは話し言葉だよね。作文では、もっとかっこいい言葉があるんだけど、なんだと思う?」と細かく声かけをしていきます。そうしていくうちに、不思議と「ここは、『しかし』だ!」とか、「理由の『だから』でしょ。」なんて本人から気づいて入れるようになりますし、「ここはこういうふうにしたらいいと思う。」と自分から提案するようにもなります。そして最後に書きあがった文章は、必ず声に出して読んでもらいます。これは私がこだわりすぎるのかもしれませんが、私にとって文章は流れやリズムがとても大事。文法うんぬんより、どこか変な文章に出会うと、それこそ生理的にむずむずかゆーくなってしまうんです。なのでこ初々さんにも「読んでみておかしくない」感覚を感じてもらいたくて、頭から読みあげてみる。そうするとこれもまた不思議と、私がむずがゆくなるところで「ここは直したほうがいい。」と自分から気づいて直したりしています。

こうして出来上がった作文は、果たしてこ初々さんの作文なのか?私の作文なのか???ここまで手を出す必要があるのか、否か。賛否両論あると思いますし、私も現時点では「わからない」としか言いようがありません。ただ私がここまで口を出し手を出しやっているのは、「まともな作文を提出させたい」という対外的な理由からではなくて、「作文というものがどういう意図や目的をもっているのか。そのためにどんな構造を持っているのか。その構造を成り立たせるための、最低限の技法とは何か。」を体験的に知ってもらうためなんです。この「体験的に」というところがポイントで、「作文とは・・」とレクチャーする(例えば起承転結で書けとか)のではなくて、自分の経験の中から伝えたいことをピックアップしてくることであったり、それをどう並べたらわかりやすいのか自分で考えることであったり、どんな工夫をしたら流れのよい文章になるのか試行錯誤すること、そういう訓練の積み重ねをすることが大切であると思っています。なのでそれ以外の負荷はとりあえず排除しておくほうがよいように思い、箇条書きをしていく作業も今のところ私がしています。慣れてきたら、自分で書き出すことができるようになると思いますが、大事な訓練部分にたどり着く前にブルーになったり力尽きてしまったら勿体ない、と思うのです。

おそらく私がそうであったように、言語に偏った能力を持つ子どもたちは、こんな細かい手ほどきなどなくても、スイスイと作文を書いてしまうのだと思います。そうではない子ども―言語以外で表現をしていくことが得意な子ども―に、言語を強化するような訓練がどこまで必要なのか、私にはわかりません。もっと本人の得意な面を伸ばしていくことにリソースを配分するべきなのかもしれません。表現手段は言語だけではないですし、多様な表現を身につけていってもらえたらこれほどうれしいことはありません。それでいてなお私が作文の訓練も必要だと思うのは、いいか悪いかは別として、今の世の中においては言語が表現手段、コミュニケーション手段として大きな割合を占めているのだという事実があるがゆえです。なので、せめて苦手意識を植え付けず、そこそこに「伝え合える」手段にしていってもらえたらという願いをもっています。

そして練習を重ねてみると、私が当初思っていたよりも「ぐんぐん伸びる」ということが分かりました。今でもこ初々さん、作文となると構えてしまうところはありますが、涙ポロリンの修羅場になることはなく、前向きに取り組んでいます。書いているうちに、「こういうことを付け加えて書きたいの。」ということが出てくるようにもなってきて、自信もついてきたようです。大作を狙うのではなく、日ごろからほんのちょっとの短いものでいい、「文章を書く」という練習を続けていけたらと思っています。夏休みの自由研究で取り組んだスクラップを、夏休みが終わってからも続けたいと意欲的なので、その場を活用して練習していこうかな。

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作文について(中編)

2015-08-20 21:53:53 | 日記
こ初々さんがまだ1年生の夏休み、「絵日記」という宿題が出されました。これがこ初々さんにとって、「まとまった文章を書く」という初めての経験。さぁどんな感じかな~と興味津々だったのですが・・・あまりの出来なさに愕然。もうなんだかウンザリしてきてしまって、こちらもイライラ、こ初々さんは涙ポロリン、の修羅場になってしまいました。あとから、どこのご家庭でも同じような状況であったらしいことを知り、「そもそもこの学齢の子どもの能力的に、作文を書かせる意味などあるのか?」とさえ思いました。彼・彼女らの能力をはるかに超えた課題ではないのか???

そう思ったのは、まずこ初々さんが「出来事を振り返って、ポイントをつかむ」ような時間経験をしていないのではないか?という疑問が生じたからです。オトナの私たちは、つまらないっちゃつまらないのですけれども、例えば「海水浴に行きました」ということについて書けと言われれば、その中でも特に楽しかったり、印象に残ったイベントについて書こうと思いますよね。「シュノーケリングで魚と戯れて楽しかった」とか、「初めてすいか割りをした」とか、そういうトピックが自然とクローズアップされてくるわけです。もっと言ってしまえば、「他者(読者)の視点に立って」「どういう話が求められているか」という「作文のお決まり」みたいなものに基づいて、自分の経験を再構成してしまうことさえ出来ます。そうやって意識的にも、無意識的にも、「ここがこの経験の盛り上がりポイントだよな」というものを作ってしまいますし、実際にも「今日のメインイベント」というような形で分節化された上で経験していたりもします。でも、子どもの場合はどうも全然違うような気がしてならない。色々な出来事があまり分節化されずに、「いま」を全力で生きているというか、「いま」しかない感じ。それを振り返るとぜーんぶひっくるめて「あ~楽しかった!」ということになって、何がその中で際立っているのか(盛り上がりポイント)、すべてが地続きという経験の中から取り出してくるのが難しい。だから「何が一番楽しかったの?」と聞いても、「はぁ?そこ!?」みたいな話しか出てこない・・・そこで出てくる話というのは本当に本人が経験した中で楽しかったことと、こちらが期待する答えとがズレているというだけはないんですよね。きっと、全部楽しかった中から一番を取り出してくることが難しいので、何か直近のことで気になったりとか気がかりであったことなんかに「引っ張られて」無理やり出してきた答えだったりするような気がします。

色んな出来事が分節化されずにごたまぜで経験されている人たちに、「作文を書け(≒分節化しろ)」というのは非常に酷なことだと思うのです。そりゃあ、「何書いたらいいのか分からない(涙)」に決まってます。だって「書ける」ように経験していないんだから。むしろそのごったまぜの経験を大事にして欲しい。分節化される以前の経験を、「いま」を生き生きとそのまま経験していたらいい。低学年のうちはそれでいいと思っていました。

しかし中学年になってくると、いろんな面で「他者に伝える」ということが課題になるように思います。もちろんそれは自分の経験を作文という形で他者に伝える、というだけにとどまりません。自分の思い、自分の意見を他者に伝える、というようなことももちろん含まれます。要するに、そのような社会的立場に立たされるようになってくる、ということなんですよね。そういう意味で、この夏は作文に挑戦する時がきているなというふうに私は思い始めました。

ところが本人は文章を書くことに苦手意識がすでに満載、書きたがりません。それに私自身も、作文の「型」やテクニックを教えるということに対して躊躇がなかったわけではありません。言葉の力を知っているだけに、彼女の生の経験を言葉で捻じ曲げてしまうのではないかという不安、経験を型にはめてしまうのではないかという疑念・・・いまだにそれを払拭できていませんが、それでも今は「訓練は必要」と思っています。やや居直りの感は否めませんが・・・

次は、どんなふうに訓練をしているのかということについて書きます。それは衝撃の・・・「ほぼ私(ハハ)が書いているようなもの」という形をとっていますが、その理由はいかに?(後編へつづく)
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