波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

Our Future in Asia[アメリカより見た日米の衝突]を捲って考えたこと 其の一

2005-07-14 01:46:04 | 雑感
 田中角栄首相がその金権政治と折からの第一次石油危機による狂乱物価に対する手遅れで批判の矢面に立っていた昭和48(1973)年の暮れ,文芸春秋だったと思うが,昭和における有名人物事典という趣の特別別冊を出版した.この本の内容に関して今でも記憶に残っているものの一つに,戦前から戦後にかけて海軍大臣を務めた米内光政についてのものがある.彼がつけていた日記の中の人名の部分を戦後剃刀で削除した事が触れられていて,この項目の著者は,削除という行為を[極東軍事裁判や公職追放等の]危害が他人に及ぶのを防いだとものとされると述べ,米内の人徳を称えた美談的仕上がりになっていた.世間に流布していた陸軍=悪玉,海軍=善玉という単純な大東亜戦争開戦責任論を既に受容していたためか,この米内に関する記述に此れといった疑問を挟むこともなかった.ましてや,陸軍の横車で米内内閣が総辞職に追い込まれたことや,三国同盟[正確には第一次交渉において]に反対したという予備知識があれば,米内に好意的な解釈に傾くのも当然のことであろう.
 ところが,相澤淳氏の『海軍の選択 再考 真珠湾への道』を最近読み,日米開戦前に日本海軍が果たした役割に対する歴史学者による精査の欠如や,戦後流布してきたものとは全く違う米内光政像に遭遇したことによって,前述の剃刀による人名削除の件は別の解釈が可能ではないかと思うようになった.相澤淳氏による開戦前の海軍の動向の読み方に従えば,米内光政の日記中には海軍としての長期的戦略に基づく南進論の証左になる海軍首脳の発言が書き留められていたのかも知れない.このため,終戦後,極東軍事裁判に対する組織防衛上,全省挙げて海軍史洗浄作業を行ったが,その一環として米内日記から海軍首脳名の削除が行われた,という解釈も可能となる.勝者による旧海軍に対する裁きを回避するため,旧海軍関係者がどの様に立ち回ったか,というような裁判上の対策については,左巻き系の研究者にとって「美味しい」論題かもしれないが,此れについては全く興味はない.知りたいのは,勝者の裁きを回避するために準備された洗浄済みの旧海軍像ではなく,日米開戦前の日本海軍の実像とは果たしてどの様なものだったのか,という点である.
 此れまで捲った日米開戦の経緯に関する本を読み直してみると,昭和14(1939)年の海南島占領等の日本海軍側の動きについては殆ど触れられていないことが分かった.元外交官で主要外交官を軸に日本近代史をまとめた『-とその時代』叢書を出している岡崎久彦氏にしても,海南島及び南沙諸島占領が米英蘭仏支に対してどの様な脅威を与える結果になったか,というような考察を行っていない.例外的な存在が,中川八洋氏による『近衛文麿とルーズヴェルト 大東亜戦争の真実』(1995年刊.絶版,その後,『大東亜戦争と「開戦責任」-近衛文麿と山本五十六』として改題再版)で,後編第8章第2節「帝国海軍」の「米内光政の対米挑発」で,海南島占領を対米挑発の一里塚とみなしている.
 紛争,戦争共に相手があってこそ成立するものである.ならば,日米開戦直前の英米人は日本の海南島占領等の南進をどの様に認識していたのかを知るため,図書館で戦前の日米関係の棚を眺めていると,
 
 『アメリカより見た日米の衝突』 ロバート・スミス著,石丸藤太訳 東京:高山書院,昭和16(1941)年

という本に遭遇した.前書きに相当する部分で抄訳と書いてあったので,原書名を調べると,

 Our Future in Asia by Robert Aura Smith. New York: Viking Press, 1940.
 
という本であった.因みに,同書は昭和15(1940)年10月に発行され,抄訳書が出版されたのは,半年余り経た翌年(日米開戦の年)の4月となっている.和書にしろ洋書にしろ,戦前のものになると大抵古書臭に悩まさたり,埃に忍んでいる爪壁蝨(tick)に噛まれて痒くなったり,酸化の進行が激しい場合は乱雑な頁捲りでは紙葉が取れる・砕けることもある.よって,寝転がっての安易な読書など出来るはずがなく,未だ見ぬ内容に惹かれつつも,本音ではやりたくない作業と言える.原書を探して,日本に関係したところを捲っていると,dejav vuというか,数年前何処かで読んだことや,最近見聞きしたことのような不思議な感覚にとらわれてきた.以下,同書を読んで感じたことについて,回を改めて,書き記してみたい.

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/13/2005/ EST]