波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

TBS制作の『タイガー&ドラゴン』を視て

2005-08-05 01:22:51 | 雑感
 日本のTBSが今年4月から6月にかけて放映していた『タイガー&ドラゴン』(http://www.tbs.co.jp/TandD/)を知るきっかけとなったのは,糸井重里の網頁『タイガー&ドラゴンwithほぼ日テレビガイド』(http://www.1101.com/TandD/index.html)だった.結局全11回を通しで視たのは番組終了後一ヶ月程経った先週だったが,やはり放送と並行して視なくて幸いだった.と言うのは,放送と並行して視ていれば,次週の回はどうなるのか等あれこれ揣摩臆測して貴重な時間を浪費していたに違いないからだ.
 大学入学後のTV無しの10年間が始まる前は,大衆演芸物は落語を含めてあれこれ満遍なく視ていたと思うが,かといって古典落語に強い関心をもっていたわけでもない.落語をある程度知ることになったのは,TVではなくニッポン放送の早朝ラジオ番組「早起きも一度劇場」だった.東京の放送が四国の片隅で聴ける時間帯は,当時,夜から早朝に限られていて,深夜放送の「オール・ナイト・ニッポン」が朝5時終了して暫くの間は何とか聞ける電波状態だった.5時から確か短い報道番組が間にあったのか,それとも番組の冒頭に報道が挿入されていのか忘れてしまったが,「オール・ナイト・ニッポン」の後続の番組が「早起きも一度劇場」だった.「早起きも一度劇場」は,落語,浪曲その他の古典的録音を放送していた番組で,番組の冒頭には「東京オリンピック」で日本が女子バレー・ボールで優勝した瞬間の実況中継が挿入されていた.五代目古今亭志ん生の「火焔太鼓」や「唐茄子屋政談」を最初に聴いたのも当該番組で,『タイガー&ドラゴン』の第一回の元ネタである「芝浜」や浪曲の二代目広沢虎造の十八番「清水次郎長伝・石松三十石船」も当番組で知った.TVを持っていなかった10年間は,新宿の末廣亭(http://www.suehirotei.com/)で生の落語を一度観ただけで,落語とは殆ど縁が無かったが,故滝田ゆう氏の古典落語を描いた漫画を読んだのは此のTV無しの時代だった.
 『タイガー&ドラゴン』の各回において,元ネタの古典落語を当時(江戸時代)風に再現したものが含まれていたが,1970年代前半,古典落語をネタにした御笑い時代劇が何処かのTV放送網で日曜日夕方放映されいた.今でも覚えている配役が,岸部シロー(四郎)が演じていた若旦那で,「酢豆腐」の回では酢豆腐を食べさせられたり,「幇間腹(たいこばら)」の回では俄か覚えの鍼を幇間に打っていた.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/05/2005/ EST]

ONISHI and FRENCH:NY Times 日支共五十歩百歩批判記事

2005-08-04 07:47:19 | 雑感
 米国では購読していない新聞でも,その網站で個人情報を登録することにより,或る程度の期間中新聞掲載記事が全文無料で読めようになっている.御蔭で,新聞記事を読むために図書館に出向いたり,自腹を切って売店で新聞を買うということも殆どなくなった.しかし,印刷体版がの一面がどの様な記事構成になっていたかについては,新聞社によってはその日の第一面をPDFやGIF形式で提供している物もあるが,現物や有料電子版あたりで確認するしかない.とは言え,全国紙になると,各地域版,全国版が存在して,且つそれらについて,早版から最終版が出されるので,何を基準とするかという共通の諒解事項がなくては,第一面掲載云々と言っても余り意味は無いが.
 昨日NY TimesのNew England版最終版の一面に,比較的小さい大きさの元・現在同紙東京特派員の揃い踏み的記事が掲載された.

Ill Will Rising Between China and Japan
http://www.nytimes.com/2005/08/03/international/asia/03nationalism.html

元東京特派員は現在上海派遣記者となっているので,日本対中共の歴史問題等をめぐる昨今の関係緊張を報じたものだ.言論の自由のある国と全く無い国を,「言論の自由の旗手的存在と自負する国」の新聞が両者を対等に並べてあれこれ比較するのは無理がある,即ち,論議の前提であるはずの事前諒解事項:

「中共への常駐派遣記者が此れ此れの対当局・国・国民批判をすると国外追放処分になりますので,同紙の派遣記者署名の記事においては,当該方針に抵触する事柄は一切触れないことになっていますので,予め御諒承下さるよう御願いします」

を記事の冒頭或は最後で読者に対する警告的に注記するのが筋と思われる.しかし,最近の経済的紐帯の形成で米政権の対中共批判に凄みが欠落しているのを反映して,米の一般的対中共認識は軟化する一方だ.当該記事には,最後の方にそのような中共における検閲状況を確認する語句が用心深く一応含まれている.最近太田述正氏が,中共には文革その他で無実の罪で命を落とした人々に対する慰霊用公共施設等が無いのは何故云々という靖国神社からみの中共批判を展開していたが(http://ohtan.txt-nifty.com/column/2005/07/0797_5a4e.html),当該NY Times記事は,これと類似の批判を余傑氏から引き出して(彼の『鉄と犂』(http://www2s.biglobe.ne.jp/~youta/osamu053.htm)は中共当局の逆鱗に触れたようだ),同記事の最後を締め括り,記事が媚中的と見做されないように批判を巧く交わした終わり方になっている.日本に関する部分はOnishi記者の十八番の「築地節」の独演会状態で,保守派叩きに費やされていた.結局毎度御馴染,日本と中共は五十歩百歩で,双方とも米の高みの見物的批判を受ける対象という枠組み書かれた記事で,口では東京を持ち上げるが,本心は北京に在りという趣の米国で典型的な一極東観が窺われる仕上がりと言える.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/04/2005/ EST]

使用済への敏感度 その一

2005-08-02 02:31:51 | 雑感
 すっかり忘れていたが,今の集合住宅に引越して来たのが丁度二年前の今日だった.波士敦近辺の賃貸契約の慣例では,契約当初の契約期間終了前に賃貸契約を店子が解約したい場合,店子側が身代わりの入居者を見つけてこない限り,契約終了までの家賃を払う義務が店子側にある.このため,波士敦近辺,特に学生向けの集合住宅等では引越時期が分散せず,典型的な契約期間9月より8月までに呼応して,引越が8月末・9月第一週に集中し,波士敦市内及びその近辺は引越貨車で大混乱となる.引越と言えば歩道に置き去りの粗大塵の山が出来するのは日米変わらずで.新聞等では,この荒れ具合を日本の「台風一過」的比喩で表現するのが慣わしのようだ.
 塵の回収は毎日やっているわけではないので,引越の際の「後は野となれ山となれ」的塵の置き去りは近隣住民の怒りを買うことは間違いない.昔読んだ或る雑誌の記事では,粗大塵が包装出来る大きさならば,包装紙で綺麗包んだりして贈答品的な修飾を施して置き去りにすると,欲気の有る連中の置き引きに遇う可能性が高く,比較的早く塵が消えてくれる,という米版引越の知恵が披瀝(ひれき)されていた.勿論,日本同様,資源再利用系転売業者が引越の時期になると活発に活動しているのは言うまでもなく,時間的余裕のある連中は救世軍の回収所に引き受けてもらえる不用品を持っていったり,引越の特別投売りを前庭その他で開くことになる.最近のeBay等の線上取引の拡大は,かつて引越時に集中していた不用品の吐き出し(地元紙の「売りたし買いたし」欄への入稿等)を均す方向に働いているかもしれない.
 他人が使用した物を再使用するか,しないかの程度は文化によって異なると思われるが,最近の日本の若者の抗菌その他の清潔志向は明らかに人手に渡る形の再使用の妨げになるだろうが,資源再利用の御経が官民共に声高に唱えられている日本の状況は資源回収・再加工を加速させているに違いない.米国の場合,特定の例外を除き,清潔さに関して大雑把であるため,前者については全く問題なく,「もったいない」を最近国際的に売り出している日本が自己嫌悪に陥るくらいの再使用が徹底している.しかし,後者の使用済み物を丁寧に集めて再加工する事については,塵埋立地に余り困っていない,再処理を促進する政府の取り組みが弱い(地球温暖化の取り組みに見られるように,数年という選挙周期に沿った視野で環境問題を認識するので,数十年先,百年先のような遠い将来の事象については検討対象外となる),社会において再処理の強迫観念が十分醸成されていないこともあり,特定の地域や特定の資源(空き缶,瓶,紙類)について例外はあるものの,日本ほど広範に進んでいるとは思えない.但し,日本から環境保護に関心の無い共産圏国に多量の産業廃棄物が統計に残らない形で輸出されているならば,日本の資源再処理・加工も評価の割引が不可欠に違いない. 
(以下,その二に続く)
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超境主義と地元第一主義 その二 論議の前提:「大きいことはいいことだ」の是非

2005-07-30 01:38:01 | 雑感
 昭和40年代初頭というか1960年代末に,故山本直純主演の森永製菓のTVCMで,「♪大きいことはいいことだ,...,森永エールチョコレート」とものがあった.平均的日本人の感覚からすると,自分の住んでいる自治体の人口が増加することについて,激しく嫌悪感を抱くということは余り無いのではなかろうか.特に戦後の高度成長の時代を知る者にとって右肩上がりの現象は余り違和感を感じないに違い無い.ところが,米国の場合は,我が「まち」の人口が増加することについては賛否両論が当たり前で,大都市以外の場合は,大抵,反対者の割合が多いと思われる.ましてや,戦後日本において強力に推進されてきた市町村合併による自治体規模の増大などは,特定の地域を除き,絶対反対というのが常識的な米国住民の反応と言える.
 なぜ自分の住んでいる自治体の人口規模が増大することを嫌がるのか,そこには自治体の財政制度に由来する経済的要因,都市=堕落の巷というような都市認識という文化的要因が根底にあり,これらの条件からすると,事業所・人口が増える⇒税負担が増す,諸環境が悪化する(道路が更に混雑する,大気汚染や騒音公害,そして風紀が乱れ犯罪が増える)という構図がそれなりの説得力を持つのだ.また,人口の増加により,政治過程がより複雑になり,政治上の既得権益の分け前が減少する,という要素も加わる.米国の場合,日本とは違い,土地利用や用途の規制が厳しく施行されて,新開地の場合,住宅地内に商店があったり事業所があったりするこは先ずありえない.日本の場合,居住可能な空間の僅少さにより,一戸建て住宅の金銭的価値がその周辺の住環境によって天と地の差異が生じることは余りないないが,米国の場合,その周辺住環境によって金銭的価値が決まる部分が非常に高く,新開地の場合,様々な契約上の細かい規制(庭先に植えて良い物,窓の装飾等)が掛けられて,開発地区内の住環境にばらつきが生じないような仕組みになっている.即ち,米国の郊外の新開地住民は,江戸時代の五人組制度ではないが,隣組からの厳しい縛りを受けていることになる.
 また,日本の県都と言えば県内人口最大都市という認識があるが,米国ではこの等式は一般的に成立しない.州内の都市部の政治的影響力を田舎が掣肘するという構図が一般的で,州都は政事を司るだけの弱小都市になっている州が殆どだ.例えば,日本人が"New York"と聞くと頭に浮かぶのが市の部分と思われるが,New York州自体にとってNY市は州の東南端に辛うじて付着している(面積的には)猫の額的部分であり,同州内の政治地図では,NY市とそれ以外が何かにつけて厳しく対立する形になっている(因みに州都は内陸に入ったAlbany).勿論,州同士の競争・対立では,このような都市対田舎の争いは一先ず休戦で大同一致団結することは言うまでもない.
 此処で話がややこしくなるのが,一昔以上前の東京の杉並塵戦争(同区住民が同区内での塵処理場建設に反対)と同じく,自分の地元が人口が増えて混雑するのは絶対反対だが,自分の直接利害空間外なら,工場誘致,新住宅地の開発,公共施設の建設,何でも御勝手に,というNIMBY(Not My Back Yard)症候である.よって,自分さえ「ばば」を引かなければ結構,自分の居住する自治体の中での工場誘致は反対だが,同州内の他の地域なら州の財政が潤うならそれはそれで良いという考え方だ.結局自分の持ち家の資産価値を守る,或は高める変化以外は絶対お断り,また,税負担の増加を強いる変化も駄目ということになる.この背景には,日本の自治体の規模がそれなりに大きい=服務供給の規模が大きく(広く),また財源の税種が多様で,更に県・国による自治体間財源均霑(きんてん)化の仕組みによって,服務提供水準において天と地的な格差が生じていないのに対して,米国の場合,自治体間の財源均霑(きんてん)化の仕組みが弱く,市町村の基本財源は住環境因子によって左右される資産税に大きく依存している為,服務水準に関して自治体間に天と地の格差が生じていて,それが常態と認識されていることだ.即ち,中金持ち以上が主に住んでいる郊外は,自腹を切ってまで過疎のど田舎や所多瑪(Sodom)的様相を呈している金欠堕落都市を救済する気は殆ど無く,芥川龍之介の『蜘蛛の糸』的NIMBY状況を強化する悪循環が出来していることになる.
 (以下,その三に続く)
 
註:
森永エールチョコレートのCMについては以下の網頁参照:
http://www31.ocn.ne.jp/~goodold60net/yell.htm
http://jellyjam.hp.infoseek.co.jp/yell.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/山本直純
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/30/2005/ EST]

超境主義と地元第一主義 その一

2005-07-29 02:21:24 | 雑感
 過日ある網誌の見出しに惹かれて中を覘いてみると,或る米政治家の「とんでも」発言が批判されていた.米国の場合,一般的に,各議会の議員は小選挙区から選出されるので,広い見識云々よりも狭い選挙区に焦点を絞った地元密着利益誘導型の溝板政治家が選ばれやすい構造になっている.よって,選挙区の民度如何によっては「とんでも」系の香ばしいキャラを持った議員が選出され,中には日本の地元密着利益誘導型溝板政治家の一例とされる鈴木宗男元衆議院議員(http://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木宗男)あたりでそれなりに免疫を付けている筈の日本人でも瞠目してしまう者もいる.
 このような選挙区限定の視野しか持たない議員やその支持者については,比較的最近まで,田舎者という認識で全く歯牙にも掛けていなかったのだが,日本の「戦後民主主義」系文化人の発想をあれこれ批判している内に,もう少し真剣に論議の対象にすべきではないか,と思うようになった.そのような再考の糸口の一つになったのが,柴田純氏の『江戸武士の日常生活』(講談社メチエ196 2000年刊)だった.以下,今の平均的日本人が知らず知らずのうちに受容していると思われる或る二分論(超境主義[善],地元第一主義[悪])について最近考えたことをまとめてみたい.
(以下 その二に続く)
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/29/2005/ EST]

NY Times掲載竹島反日広告,共産主義革命エヴァンゲリオン杉井奈美子による転び沖鮎要の折伏・帰服

2005-07-28 00:33:11 | 雑感
 昨日27日(水),NY Times(New England Final版)を捲っていると,国内欄の下の余り目立たない一角に半島系団体(www.koreandokdo.com)の意見広告"DOKDO IS KOREAN TERRITORY"が掲載されていた(同網站に同広告のgif版が掲載).一面の十分の一程度の面積で,しかも両脇を同じ広さの商業広告に挟まれていたので,口を出す割には財布の紐が硬いという中途半端な調略結果に終わっている.昨今の熱烈的反日振りからすると,政府の機密費や民族資本の肩入れで,NY Times, Washington Post, Wall Street Journalの三主要米紙上で一面広告を同日揃い踏みで沙烏地荒火屋的金満広告を打つ,という対米調略も十分考えられるが,当該広告を打った団体は多分俄仕立てのものに違いない.同じ面積で勝負なら,OP-ED(open-editorial)頁の一角を買う方がまだ効果的に読者の注目を浴びる筈だが,予算不足であのような結果になったのであろう.
 保守系網誌上では,ここ数日漫画『嫌韓流』が色々注目を集めているようだ.小林よしのりの『戦争論』にしても今回の『嫌韓流』にしても,文字だけの硬派の情報伝達では駄目で,画像に頼っているところが何と無く気にかかる.映像・画像や図解でしか伝えられない「百聞は一見に如かず」のものも此の世には沢山あるが,今の人間社会の根本を仕切っている約束事(憲法,法律,契約等)は原則的に文字で表現されて,画像や図解は補助的に使われているに過ぎない.厳しい国際環境で日本を守るのも最終的には条約等に書かれた文字であることを考えると,音に聞く日本の学校教科書での漫画の多用というのも,文章の読解・言葉選びの訓練を疎かにして,将来における平均的日本人の文字による表現力=交渉力の低下をもたらすのではないか.米国の印刷媒体の場合,日本のそれとは比較にならない程,詳細な図解に空間・金をかけているが,「話の筋」又は「伝えるべき情報の『展開』」を一連の画像が主で文字が従という形式の説得・伝達方法は,大人向けの媒体では殆ど御目に掛かることがない.即ち,日本の絵巻物の長い伝統とは異なり,絵巻物形式の情報伝達系が歴史的に余り試みられてこなかったものによるのか,それとも,飲酒・喫煙等に顕著な子供と大人の世界の峻別傾向に基づく二分法「大人=文字,子供=絵」に由来するのかも知れない.
 ところで,『嫌韓流』に関する読者の意見を色々読んでいて,一ヶ月余り前網誌「ヒロさん日記」に「共産主義革命のエヴァンゲリオン:杉井奈美子」(6月13日付)という記入(http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1080426)があったことをふと思い出した.今回の『嫌韓流』の売り上げに危機感を抱いた左巻き系が一矢を報いんと,東京都は杉並区の地元密着系キャラ杉井奈美子を全国区debutさせ,沖鮎要的な「転び」キャラに対して破邪の折伏に挑み,再び左巻き信者として帰服させる,というような漫画を田宮龍一に急遽依頼ということになるのかも,というような白昼夢をつい見てしまったのだった.
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愛媛県の知られざる側面 その三

2005-07-26 02:07:50 | 雑感
 前回述べたように,全国にある四十余県中,日教組対策において愛媛県が突出することになってしまったのは何故なのか.非保守系の県政が長く続いた県は別として,愛媛県のような強力な日教組対策を実行に移して日教組と激突を繰り返すよりも,落とし所を適当に決めて共存を図るという穏便な選択の方が現場にとって楽だったと想像される.そして半世紀経ち,この妥協がもたらした呪縛と国の命運を懸けて今対決せざるを得なくなっている.ここ数年,石原慎太郎知事の東京都では,小中高校での国歌斉唱・国旗掲揚をめぐる新方針について(http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/pr031023s.htm),日本の報道媒体だけでなくNY Times等の世界の報道媒体からも注目を浴びているが,このような方針は愛媛県あたりでは三十年以上前に実施されていたものでしかない.組合員の待遇・福利厚生向上よりも,政治活動の方を優先する日教組を生み出した環境が,占領軍の超法規的な戦犯指名・公職追放と上からの「民主改革」という国の歴史から隔絶した人工環境=占領であった以上,その克服は穏便な常套的説得手段では無理であったに違いない.況してや,占領下の日本という特殊事情下で誕生・成長を許された組織が,占領終了後も疑似占領状態の維持拡大を担う一主要団体として活動する企図を持っていた以上,非常時における緊急避難的処置として,あのような手段が愛媛県で行使されても致し方なかった,という解釈も可能かもしれない.
 では,小中高校の教師の信念・信条の底が日和見的なものでしかないことを露呈させた所で,果たしてこの話の終わりになるのだろうか.転向の動機が日和見であるならば,将来状況が変化すれば,また,それに応じて日和見を繰り返すだけで,このような底の浅い他律的な動機付けでは根本的な解決にはならないのではないか.山本武利氏の『日本人捕虜は何をしゃべったか』(文春新書214)中に綴られている第二次大戦中の日本軍捕虜の軍機漏洩に見られるように,日本に対する自分自身の思いを基礎に,社会において自分の果たす役割(教職他)の重みを自律的に考慮して判断した結果では無いからだ.昨秋の園遊会で東京都教育委員の米長邦雄氏に対する天皇陛下の御言葉の真意は斯様なものではなかったかと信じたい.
 占領下に開花した幻想への帰依は,戦後60年経てもなお報道界・学界・教育界に未だ根強く蔓延っている.これを克服するためには,当該幻想を別の何かによって置き換えなくてはならない.新たな「止まり木」を用意しない破壊は徒に混迷を招き他国に干渉の余地を与えるだけだろう.丁度百年前の日露戦争で勝利を得た日本は,その6年後,西欧列強との間で幕末に失った関税自主権を回復し,幕末以来の喫緊(きっきん)の国家目標を此処に喪失した.どの様な日本を目指すか,そして,それを実現する日本人は互いに何を最低限共有し,精神的底支えとすべきか,国家目標を自律的に選択・設定する機会を得たのも束の間,露西亜を震源とする世界共産主義革命との対決を余儀なくされ,此処に於いて数々の運命的な選択を行い,本来守るべきものを崩壊に至らせただけでなく,逆に,憲政の原則を捻じ曲げてまで封じ込めたはずのものの呪縛を60年の長きに亙って受けたままになっている.日露戦争後の前世紀初頭から昭和にかけて日本が直面した日本人の内面に関する課題は,百年後の21世紀初頭を生きる今の日本人の今日的課題でもあるのだ.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/26/2005/ EST]

愛媛県の知られざる側面 その二

2005-07-25 01:01:21 | 雑感
 前回,扶桑社の歴史教科書採択等で話題になる愛媛県の教育界が,半世紀前,他県同様左傾化していたことを述べた.なぜ他県と全く異なる道を歩むことになったのか,直接の原因は「日教組の壊滅に近い頽勢」にある.民間企業では,「第二(御用)組合」立ち上げによる好戦的な第一組合の弱体化というのは至極当然の労務対策であるが,愛媛県教育界の場合,「第二組合」の役割を果たしたのが「愛媛県教育研究協議会(愛教研)」(http://aikyoken.parfait.ne.jp/)である.第一組合から名目上脱退しているが,実質的には第一組合の同伴者という擬態や組合脱退後の帰属感の喪失から再加入等が発生しないように,旧組合員に生産的な活動の場や帰属感を満たす場を提供する「更生寄せ場」乃至「止まり木」という役割を当該協議会が果たしたと言えよう.
 しかし,第二組合を立ち上げても第一組合から組合員が前者に移らなくては意味が無いわけで,重力により水が高い所から低い所に流れ落ちる様に,何らかの誘因が不可欠となる.この過程は,先の羅馬教皇John PaulⅡ世が,中米の尼加拉瓜(Nicaragua)を訪問した際,説教中に会衆から野次を受けて激怒,中南米等で当時盛んだった「開放の神学」系の聖職者を遠島的人事異動で頽勢に追い込んだ経緯と全く同じである.教師である以上,自分の子への教育についての関心がより高いのは当然,毎年の僻地から僻地への人事異動,昇給その他で横並びではなく明らかな差異を設定した減り張りの効いた人事考課となると,鉄板的な個人的信条・信念ではなく,職場の単なる集団圧力から日和見的意思決定で組合に加入していた者は簡単に脱落,愛媛県の日教組は「丹頂鶴(頭だけ赤い)」状態であったことを見事に露呈したのだった.
 (以下,その三に続く)

註:
頽勢に追い込まれた側(愛媛県日教組)からの恨み節的解釈は歴史教科書問題で時々名前が出てくる松山大学の法学部教授田村譲の網頁(http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kinnmuhyouteitousou.htm)が詳しい
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/25/2005/ EST]

愛媛県の知られざる側面 その一

2005-07-24 02:23:06 | 雑感
 過日,網誌『ぼやきくっくり 』の読者書き込み欄を眺めていると,四国は愛媛県の或る高校に関係した人間しか知らないはずの「掛け声」が繰り返し記入されていた.なぜ他県出身者があの「掛け声」を知っているのか,この謎はGoogle検索で直ちに氷解,記憶の糸を手繰り寄せると,数年前に制作された或る映画が最近フジテレビ系列で連続劇化されていたのだった.日本史教科書選択の季節になると何かと登場するのが「愛媛県」と言える.国会議員その他の選出から判断すると保守的な県と見做されるが,松山市など都市部では左巻き系知識人が大学その他での活動拠点を確保している.昔見た或る調査によると,同県は中央での流行に非常に敏感な県となっていたが,一周以上遅れて大都会の左傾化に追いつく心算なのか,地元紙「愛媛新聞」の最近の仕上がりは,隣県香川の「四国新聞」(http://www.shikoku-np.co.jp/)同様,見出し構成と内容で「しんぶん赤旗」に急迫中という趣だ.
 今年は日露戦争戦捷百周年にあたるが,中央に数週遅れての左傾化の一例をJR四国が数年前作成した「えひめ歴史紀行」というの観光客向け小冊子等に見出すことが出来る.司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に肖(あやか)って他県からの観光客を松山市等に呼び込みたいが,同小説の目玉的存在の秋山好古・真之兄弟は軍人で,日露戦争戦捷への貢献解説だけでは左巻き系からあれこれ批判をかってしまう.結局,刷り上った解説では,両人の写真は非軍服着用のものを使用,解説文は半分が軍功,残り半分を非軍功のもので御口直し的に埋める,という戦後の平均的日本人の事勿れ主義的発想を忠実に具現化したものだった.一方,県庁所在地の松山市は現在(仮称)『坂の上の雲』記念館を建設中だが(http://www.city.matsuyama.ehime.jp/sakakumo/index.html),前出の左傾化が著しい愛媛新聞の網站では,「坂の上の雲記念館 戦争関連抑えた展示に(2005年7月6日収録)」(http://www.ehime-np.co.jp/douga/kisha/0507sakanoue/)という映像情報が掲載されている.松山市としては,地元左巻き系『職業市民』が他県(最近は他国も含まれるようだ)から援軍を募って展示専門委員会に様々な圧力・批判等を繰り出してくるかも知れないので,同委員会の報告を事務局主導で玉虫色的仕上がりで御茶を濁したのであろう.左巻き系の行動様式から想像すると,「侵略戦争賛美」という基本主張で今後も同館の運営についてあれこれ干渉してくるに違いない.
 以前触れた「丹頂鶴」の比喩ではないが,愛媛県は人口移動の観点からすると,同県内農村部から非農業世帯が都市部に転入して都市部が更に赤くなり,農村部は潜在的左巻き系が都市部に転出して一層保守化という構図になっているのであろう.しかし,愛媛県も嘗ては,他県同様,日教組が猖獗(しょうけつ)をきわめた県の一つであった.では,なぜ現在教科書選択等において他県と異なる意思決定が愛媛県では可能になったのか(以下,「その二」に続く).

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/24/2005/ EST]

米国報道界におけるMuckrakerの伝統とその死角

2005-07-19 04:48:10 | 雑感
 大学水準の米国史の歴史教科書を捲っていると,聞いたことがない米単語にしばしば遭遇する.Mucrakerという語もその一つで(http://www.answers.com/Muckraker),狭義には前々世紀末から前世紀初頭において,普通の記者ならば腰が引けて書けないような話題について調査報道記事を書いた者を指し,広義には,当該時期とは無関係で,そのような調査報道記事を書く者を意味する.このような報道の範疇が登場し読者を獲得して歴史に残るということは,当時の米報道媒体界に全く別の範疇が存在したことを意味し,1898年開戦の米西戦争(http://ja.wikipedia.org/wiki/米西戦争)を教唆煽動したyellow journalism(http://www.answers.com/yellow-journalism)が此れにあたる.但し,報道媒体による「煽り」というものは,商業主義のyellow-journalismの独占物ではなく,Muckraker系にしても発行媒体が商業的成功を目指している以上,「煽り」による読者獲得という営利目的の報道媒体の「原罪」からは逃れられない.
 昨日の記入で触れたRalf Townsendは,このような報道媒体の十八番の一つである「煽り」が外交・安全保障政策に与える害毒を批判して止まなかった.彼の批判は今日の米国においても通用する.米西戦争開戦直前の紐育(New York)で,「煽り」の東の横綱的存在であったのがWilliam Randolph Hearst(http://www.answers.com/William%20Randolph%20Hearst)系新聞だった.21世紀初頭の第二次湾岸戦争では,豪州生まれで米国籍を取得したRupert MurdochのNews Corporation系列の有線報道局Fox News Channelが類似の役割を果たしたと言える.Fox News Channelの報道姿勢を注意深く観察していると,報道の精度よりも限りない報道の娯楽化による視聴率獲得が第一目標であることが明確だ.以前の記入でWashignton Timesを宣伝系と分類したが,Fox News Channelの場合は宣伝系と非宣伝系の境を宣伝側に偏りつつ振動していると見える.勿論,同局の番組では非保守系の論者も呼ばれるが,これは鉄板的保守論者の毎回の揃い踏み・左翼攻撃の連呼では番組構成が単調になり,娯楽性に欠けて視聴率が稼げないので,結果が事前に決まっている娯楽格闘技と同様,非保守の連中を生贄・悪役として敢えて呼び込み,彼等を叩きのめすことに主眼がある.よって,そのような悪役・生贄が間違っても主役や叩く側にならないように,招待される非保守論者の人選や番組司会のやり方に色々な工夫がなされている.即ち,日本の時代劇「水戸黄門」や「遠山の金さん」的な紋切り型の結果になるような番組構成になっているので,保守系の視聴者は安心して番組を最初から最後まで通して見れる=視聴者の局固定時間・忠誠度が向上し,番組提供者の獲得上まことに好都合なのだ(調査によると,Fox News Channelが視聴者の局固定力で優れているのに対して,競争相手のCNNは局固定力は弱いものの覗き見的な視聴形態ではFoxを凌ぐ).
 一方,Muckraker的な路線も看板の一つに掲げている従来の報道媒体についても,色々な死角を持っている.例えば,Muckraker的な路線を志向すると,日本の朝日新聞が釣られた赤井報道氏の「声」投書事件のように,その性向(未報の悪事を暴くぞという条件反射的正義感)を衝かれて,まんまと釣師に釣られる危険性がある.昨年から今年にかけて話題になった,米4大地上波放送網の一つであるCBSのDan Ratherが報道番組辞任に追い込まれた事件も,つまるところ,裏取りの用心不足で,見事に「釣ネタ」に引っかかったのが真相である(但し,当該「釣ネタ」に書かれていた内容自体は,関係者の証言その他の裏取りによって「事実」として提示することも可能だった.CBSは単に報道の論拠の「ネタ」選びを間違えただけで,視聴者に伝えようとした内容そのものが間違っていたわけではない).また,第二次湾岸戦争の根拠とされた「Iraq内の大量破壊兵器」情報も,反体制派が同派への資金援助・存在意義を示すためにでっち上げたものが多く,現在別件で監獄に入獄しているNY Timesの女性記者も,当該「ガセ・ネタ」を掴まされて提灯持ち記事を書いてしまった記者達の一人なのだ.
 このようなMuckraker特有の性向が増幅してしまう好例が,海外特派員の報道の場合である.ある地域への派遣特派員の絶対数は限られるので,国内のような社内の同僚間・競合社間での競争に由来する報道の切磋琢磨は余り期待出来ないし,大抵の場合,土地勘・語学力に欠けるので地元の通訳その他に依存し,はたまた手抜きで地元発行の英字紙を参考という可能性もある.そのため特派員個人の素質頼みになり,場合によっては,国内報道以上の偏向が生じ,事の背景を全く知らない・地理に疎い読者・視聴者は偏向した情報をまともに鵜呑みにすることになる.昔NY Timesを仕事上丁寧に捲っていた頃,南米のPeruから送られてくる情報が,例のNorimitsu Onishiの東京発報道ではないが,毛沢東主義に基づく国家転覆を図っていた極左暴力集団に明確に肩入れはしていないものの,当該集団の根絶を目指す政府に対して非常に批判的で,人権の隠れ蓑によって当該暴力集団の破壊行為を隠蔽している姿勢がありありと見られた.
 このように,判断をある程度保留して状況を把握するのではなく,政権・与党=強者=不当な権力行使,野党=弱者=自衛の破壊活動,という単純な構図での先入観で,外信記事を書いてしまう傾向の背景には,前述の条件反射的正義感という性向以外の理由があるのではないか,と思われてならない.その一つとして,強者=政府側の立場は大抵の場合既に報道されているので,話題にならない=読者の関心を引けない,ならば,読者の注目を独占するような何か未報の美味しいネタは無いか?という常に新奇なものを探し求める,という営利目的の報道媒体の「宿命」が考えられる.人々の暗黙の常識や本来の期待・予想を裏切る出来事,例えば,政府側ならば腐敗,庶民側ならば破天荒の快挙,というように.

註:
米国の電視番組を色々見ていると米国人好みの傾向が分かる.其の一つが,「格闘技」仕立ての演出を好むことだ.フジTV系列で放映された『料理の鉄人』の翻訳放送は此方で高い視聴率を稼ぎ,当番組の趣向を真似た料理番組などが色々制作されている.格闘技仕立てにすることが男性の視聴率向上に繋がるのかもしれない.以前は冷静な会話の遣り取りという硬派仕立てが主流だった討論物も,最近はプロレス仕立ての絶叫型が増えてきた.
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