波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

愛媛県の知られざる側面 その三

2005-07-26 02:07:50 | 雑感
 前回述べたように,全国にある四十余県中,日教組対策において愛媛県が突出することになってしまったのは何故なのか.非保守系の県政が長く続いた県は別として,愛媛県のような強力な日教組対策を実行に移して日教組と激突を繰り返すよりも,落とし所を適当に決めて共存を図るという穏便な選択の方が現場にとって楽だったと想像される.そして半世紀経ち,この妥協がもたらした呪縛と国の命運を懸けて今対決せざるを得なくなっている.ここ数年,石原慎太郎知事の東京都では,小中高校での国歌斉唱・国旗掲揚をめぐる新方針について(http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/pr031023s.htm),日本の報道媒体だけでなくNY Times等の世界の報道媒体からも注目を浴びているが,このような方針は愛媛県あたりでは三十年以上前に実施されていたものでしかない.組合員の待遇・福利厚生向上よりも,政治活動の方を優先する日教組を生み出した環境が,占領軍の超法規的な戦犯指名・公職追放と上からの「民主改革」という国の歴史から隔絶した人工環境=占領であった以上,その克服は穏便な常套的説得手段では無理であったに違いない.況してや,占領下の日本という特殊事情下で誕生・成長を許された組織が,占領終了後も疑似占領状態の維持拡大を担う一主要団体として活動する企図を持っていた以上,非常時における緊急避難的処置として,あのような手段が愛媛県で行使されても致し方なかった,という解釈も可能かもしれない.
 では,小中高校の教師の信念・信条の底が日和見的なものでしかないことを露呈させた所で,果たしてこの話の終わりになるのだろうか.転向の動機が日和見であるならば,将来状況が変化すれば,また,それに応じて日和見を繰り返すだけで,このような底の浅い他律的な動機付けでは根本的な解決にはならないのではないか.山本武利氏の『日本人捕虜は何をしゃべったか』(文春新書214)中に綴られている第二次大戦中の日本軍捕虜の軍機漏洩に見られるように,日本に対する自分自身の思いを基礎に,社会において自分の果たす役割(教職他)の重みを自律的に考慮して判断した結果では無いからだ.昨秋の園遊会で東京都教育委員の米長邦雄氏に対する天皇陛下の御言葉の真意は斯様なものではなかったかと信じたい.
 占領下に開花した幻想への帰依は,戦後60年経てもなお報道界・学界・教育界に未だ根強く蔓延っている.これを克服するためには,当該幻想を別の何かによって置き換えなくてはならない.新たな「止まり木」を用意しない破壊は徒に混迷を招き他国に干渉の余地を与えるだけだろう.丁度百年前の日露戦争で勝利を得た日本は,その6年後,西欧列強との間で幕末に失った関税自主権を回復し,幕末以来の喫緊(きっきん)の国家目標を此処に喪失した.どの様な日本を目指すか,そして,それを実現する日本人は互いに何を最低限共有し,精神的底支えとすべきか,国家目標を自律的に選択・設定する機会を得たのも束の間,露西亜を震源とする世界共産主義革命との対決を余儀なくされ,此処に於いて数々の運命的な選択を行い,本来守るべきものを崩壊に至らせただけでなく,逆に,憲政の原則を捻じ曲げてまで封じ込めたはずのものの呪縛を60年の長きに亙って受けたままになっている.日露戦争後の前世紀初頭から昭和にかけて日本が直面した日本人の内面に関する課題は,百年後の21世紀初頭を生きる今の日本人の今日的課題でもあるのだ.
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