波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

愛媛県の知られざる側面 その二

2005-07-25 01:01:21 | 雑感
 前回,扶桑社の歴史教科書採択等で話題になる愛媛県の教育界が,半世紀前,他県同様左傾化していたことを述べた.なぜ他県と全く異なる道を歩むことになったのか,直接の原因は「日教組の壊滅に近い頽勢」にある.民間企業では,「第二(御用)組合」立ち上げによる好戦的な第一組合の弱体化というのは至極当然の労務対策であるが,愛媛県教育界の場合,「第二組合」の役割を果たしたのが「愛媛県教育研究協議会(愛教研)」(http://aikyoken.parfait.ne.jp/)である.第一組合から名目上脱退しているが,実質的には第一組合の同伴者という擬態や組合脱退後の帰属感の喪失から再加入等が発生しないように,旧組合員に生産的な活動の場や帰属感を満たす場を提供する「更生寄せ場」乃至「止まり木」という役割を当該協議会が果たしたと言えよう.
 しかし,第二組合を立ち上げても第一組合から組合員が前者に移らなくては意味が無いわけで,重力により水が高い所から低い所に流れ落ちる様に,何らかの誘因が不可欠となる.この過程は,先の羅馬教皇John PaulⅡ世が,中米の尼加拉瓜(Nicaragua)を訪問した際,説教中に会衆から野次を受けて激怒,中南米等で当時盛んだった「開放の神学」系の聖職者を遠島的人事異動で頽勢に追い込んだ経緯と全く同じである.教師である以上,自分の子への教育についての関心がより高いのは当然,毎年の僻地から僻地への人事異動,昇給その他で横並びではなく明らかな差異を設定した減り張りの効いた人事考課となると,鉄板的な個人的信条・信念ではなく,職場の単なる集団圧力から日和見的意思決定で組合に加入していた者は簡単に脱落,愛媛県の日教組は「丹頂鶴(頭だけ赤い)」状態であったことを見事に露呈したのだった.
 (以下,その三に続く)

註:
頽勢に追い込まれた側(愛媛県日教組)からの恨み節的解釈は歴史教科書問題で時々名前が出てくる松山大学の法学部教授田村譲の網頁(http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kinnmuhyouteitousou.htm)が詳しい
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