医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

まっくら街のうた

2010-10-21 00:40:35 | 日記
 夜が気持ちいい季節、特に深夜、車も減ったころが素晴らしい。全く静かな、澄み切った空気の中散歩していると日常とは違う感覚が周囲を包んでくれる。その瞬間は昼間とは明らかに違う自分が歩いている。この感覚は学生のころから変わらずあって、京都の街の深夜は特に楽しんだ。深夜の平安神宮の前の閑散とした感じ、丸山公園のさびしくも怪しい感じ、大文字山から望む暗い京都の街並み、そして深夜の大学の校舎。どれもとても孤独だったけどその間に心の奥底に少しずつエネルギーをため込んでいった感覚が残っている。こっちに来てもそういう感覚はやっぱり思い出すし、また少し違う感覚も芽生えてくる。それを楽しみながら散歩したりするのだが、最近ちょっと事情が違う出来事が。

 家々につく「あのライト」である。誰が入れ知恵したのか知らんが、人が通るとパッとつくあの防犯ライト。もうすべてぶち壊しである。しらない家の前を通る時にパッと点かれて驚かしいことはもちろんだが、防犯ライトがあるのがわかっている家の前ですら通るのがストレスになる。そもそも防犯のためなのだろうからストレスをかけるのが仕事なのだろうが、善良な市民にまでストレスをかけることはなかろうに。はっきり言って最初から煌々と照らし続けてくれているほうがまだましである。あれを設置した時に住人は何とも思わなかったのだろうか。何となく自分のところだけ良ければよいという利己的な発想がして好きになれない。あんなものがすべての家についているのを一度想像してほしいものだ。防犯するならもうちょっと奥ゆかしい方法を考えてほしい。たとえば敷地内に入ったら重力感知で家の扉がすべて自動で開くとか。逆にビビって入らない気がする。やっぱり夜は夜らしくいてほしいものなのだ。

 夜はとにかく暗くて情報が遮断されているもの、妄想・想像の時間なのだ、いい意味でも悪い意味でも。夜の真っ暗な商店街を歩いてみる、そこでちょっと目をつむってみる。ほら、何かいいものが見えてくる、何かのヒントが見えてくる。シャッター通りの夜は悲しみ愁うための場所ではない、そこにかつてあったであろう活気と、これから来うる活気を思い浮かべる場所なのだ。だからその通りにはあまりライトを立ててはいけない。できるだけ真っ暗で、でもそこにぽつんとしがない屋台なんかが一つだけ出ていると想像を掻き立てるのでよい。穴のあいたシャッターを覗いてみると壊れた机とその上に割れたコーヒーカップがぽつんとあるとなおよい。そんな建物が並んでいればまるで美術館・テーマパークである。夜の真っ暗な博物館。そういえばみんなのうたで「まっくら森のうた」がありましたね。まさに現代社会の森を表現できる場所だとも思うのですが。

コメントを投稿