最近腎臓内科ばかりか糖尿病・内分泌内科外来、感染症コンサルトもやるはめになってしまい大忙しです。もうどんな医者になりたいのかよくわからない状態。講義や講演も増えてきました。曲者なのはこっちで医療関係の講義講演って、基本的に面白くない。色んな講演会・発表会に参加してきたが目からうろこが落ちたり、興奮したりするような講演・発表て本当に数えるほどしかない。データがどうだとかエビデンスがどうだとかそんな話ばかりで、そこに新しい何かなど一つもない。では数少ない興奮する講義・講演には何があったか。
最近印象派展が目白押しである。ルノワール展なんかもなかなか良かった。光のあたる風景や人物画が作品として好まれ沢山の名作がならぶ。印象派の絵を見ているととにかく光の表現方法に今までなかった新しい手法が用いられている。その場の空気、雰囲気までをどうやって表現するか、写実を超えた何かを。そこには「見えたままに描く」という意味が問われている。写実だけでは表現しきれないものがある。それは写真では伝わらない雰囲気、と似ているのかもしれない。そこに生まれた斬新な手法、鉛を使った輝かしい白と勢いのあるタッチ、実際には見えていない色を添えて強調される色。しかし考えてみればその対象となる風景・人物は昔からその場にそのままの姿であったわけで、結局とらえる側の変化が新しい作品を生んでいる。
逆に表現にポリシーがないためにダメになってしまった例にルパン三世がある。私にとってルパンは初代ルパンが最もかっこいいルパンであった。おそらく私の好きなルパンをダメにしたのは宮崎駿なのだが、カリオストロの城で(これはこれで名作ではあるのだが)彼の考えるかっこいいルパンを表現したわけだがそこにいたルパンは本当に一般的なカッコよさを追及したルパンであった。初代ルパンとの決定的な違い、それはカッコつけないことである。そして真剣な顔はしない。しれっと適当な感じで、少々ドジっても結局はさらっと困難を解決するのが私の好きなルパンである。ルパンは基本的に顔に集注を持ってきてはいけない、眉間にしわを寄せて口をぎゅっとつぐんではいけない。こういう顔がいけている、と考えたのは一体誰なのだろう。真剣さのカッコよさの集大成はおそらくキムタクなのだろうが、ルパンにそれを求めてほしくはなかった。
結局表現方法のポリシーなのだろうと思う。たとえばパワーポイントを使わない発表、今アメリカではパワポに頼った発表はよくないし、印象にも残らないと極力減らす風潮にあるようだ。いつから学会発表はパワポを駆使する、むしろ使わないほうが変わっているような感じになってしまったのだろう。NHKで今やっているサンデル教授のハーバード大学の講義はパワポなど使わなくても引き込まれる優れた講義である。では教授は口だけで、どのような内容、話の進め方で観客を引き込んでゆくのだろうか。もちろん圧倒的に充実した内容はもちろんだが、それだけでよいのだろうか。
そういえば、このブログの初期に同じような問題提起をしたことを思い出した。当時感染症の講義に燃えていた私はそれを「ライブ」と表現していた。魅せるためのライブのために必要なことは第一に熱意。細かい内容は2の次で少々間違っていても抜けていてもよいのだと。熱意が伝われば後は自分たちで感染症を勉強してくれる、それで十分だ。実際私も大野先生のライブの熱意がまさに感染してここまで興味をもてた部分が大きい。しかし今回はそこからさらに一歩踏み込んで考えてみたい。今私たちができる魅力的な講演講義、つまりライブ。そのポリシー・視点の変化、細かい中身はまた次回に考えることにしてみよう。
最近印象派展が目白押しである。ルノワール展なんかもなかなか良かった。光のあたる風景や人物画が作品として好まれ沢山の名作がならぶ。印象派の絵を見ているととにかく光の表現方法に今までなかった新しい手法が用いられている。その場の空気、雰囲気までをどうやって表現するか、写実を超えた何かを。そこには「見えたままに描く」という意味が問われている。写実だけでは表現しきれないものがある。それは写真では伝わらない雰囲気、と似ているのかもしれない。そこに生まれた斬新な手法、鉛を使った輝かしい白と勢いのあるタッチ、実際には見えていない色を添えて強調される色。しかし考えてみればその対象となる風景・人物は昔からその場にそのままの姿であったわけで、結局とらえる側の変化が新しい作品を生んでいる。
逆に表現にポリシーがないためにダメになってしまった例にルパン三世がある。私にとってルパンは初代ルパンが最もかっこいいルパンであった。おそらく私の好きなルパンをダメにしたのは宮崎駿なのだが、カリオストロの城で(これはこれで名作ではあるのだが)彼の考えるかっこいいルパンを表現したわけだがそこにいたルパンは本当に一般的なカッコよさを追及したルパンであった。初代ルパンとの決定的な違い、それはカッコつけないことである。そして真剣な顔はしない。しれっと適当な感じで、少々ドジっても結局はさらっと困難を解決するのが私の好きなルパンである。ルパンは基本的に顔に集注を持ってきてはいけない、眉間にしわを寄せて口をぎゅっとつぐんではいけない。こういう顔がいけている、と考えたのは一体誰なのだろう。真剣さのカッコよさの集大成はおそらくキムタクなのだろうが、ルパンにそれを求めてほしくはなかった。
結局表現方法のポリシーなのだろうと思う。たとえばパワーポイントを使わない発表、今アメリカではパワポに頼った発表はよくないし、印象にも残らないと極力減らす風潮にあるようだ。いつから学会発表はパワポを駆使する、むしろ使わないほうが変わっているような感じになってしまったのだろう。NHKで今やっているサンデル教授のハーバード大学の講義はパワポなど使わなくても引き込まれる優れた講義である。では教授は口だけで、どのような内容、話の進め方で観客を引き込んでゆくのだろうか。もちろん圧倒的に充実した内容はもちろんだが、それだけでよいのだろうか。
そういえば、このブログの初期に同じような問題提起をしたことを思い出した。当時感染症の講義に燃えていた私はそれを「ライブ」と表現していた。魅せるためのライブのために必要なことは第一に熱意。細かい内容は2の次で少々間違っていても抜けていてもよいのだと。熱意が伝われば後は自分たちで感染症を勉強してくれる、それで十分だ。実際私も大野先生のライブの熱意がまさに感染してここまで興味をもてた部分が大きい。しかし今回はそこからさらに一歩踏み込んで考えてみたい。今私たちができる魅力的な講演講義、つまりライブ。そのポリシー・視点の変化、細かい中身はまた次回に考えることにしてみよう。