居酒屋系医療をしようと思っているとどうしても避けて通れないのがコミュニティの話。医療というのは絶対コミュニティに溶け込んでないとできるものではないと思っています。(特殊な高度な医療は別ですが)極論を言わせてもらえればやっぱり「知らない人は診れない」です。普段がどんなだか分からない人を責任を持って診ることなんかできるのでしょうか?まぁ急に病気になって来られれば診ます。けど健康な時を知らない、信頼関係もそういった緊急の状態から作っていかなければならなかったりでお互いが大変な思いをするでしょう。医師はコミュニティに溶け込んでいなければならないと思うのです。「医師よ、診察室を捨てて街へ出よう」と言いたいわけです。街飲みをしているとわかります。いかに街の人たちがお医者さんとつながりが薄いか。お医者さんの知り合いがいない。皮膚の状態が悪い、けどどこに行ったらいいかわからない。かかりつけ医がいない。いてもそのお医者さんがどんな人かはあんまり知らない。医療知識がTVの放送するものばかりで固められ偏っている。もう酷い状態です。そういった人たちに少しでも接してあげれれば医療現場はそれだけで劇的に変わると思うのです。
ただコミュニティと言った時現代社会には沢山の問題があります。まず一つにはコミュニティの細分化が進んでいるということです。昔なら村全体が一つのコミュニティになっていたわけで、その村に住んで一緒にお祭したりしていればだいたい全員の事が把握できる。ところが現代の都市化によって一つの街で把握できる量は非常に限られてくる。(街の範囲の境界すら曖昧になってきているが。村なら本当に一つに固まっていてここまでが~村の人、と言えただろう)私はつくづくいい街、住みやすい街の条件にある程度住んでいればその街のことをある程度把握できる規模、があると思う。そういう意味で京都は一人の人間が把握できる最大ギリギリの規模ではないかと。大概のこと、住人は一人あいだにはさめば分かったりするわけで。東京は手の届かないものが多すぎて恐ろしく不安です。池袋一つをとっても物、店、人が多すぎて掌握しきれない巨大なモンスターのような印象があるのです。知らない事が多すぎる場所は精神衛生上よくないはずです。特にその街に住んでいるにも関わらず分からないというのは。そして分からない不安をかき消すように分からないということから無関心でいる、そういった流れが数々の問題を生んでいるような気もするのです。無関心さが生む犯罪、無関心さが生む心の閉塞、無関心さが奪ってゆく情熱・・・この前東京に行ったときに池袋駅で酔っ払っていたおじさんが突然頭から地面に落ちてピクリとも動かなかったのです。遠くからでも大きな音が聞こえてきてびっくりしたのですが、もっとびっくりしたのはそれを見ていたそばの人たちが本当に何もなかったかのように平然としていた事です。そして平然と横を歩いて通り過ぎてゆくのです。その事にあまりに衝撃を受けしばらく立ち尽くしてしまったのですが(最低な自分でした)、結局同じく遠巻きに見ていた女子高生が駅員さんに言って事なきを得たようでした。非情なまでの無関心、これは街の構造が生んだ無関心なのかもしれない、分からないことから逃げるための。その時そう思ったのです。
話をもどすと、そうやって巨大化した都市ではコミュニティは細分化されざるをえない。しかもそのコミュニティは住んでいる場所で区切られるのではなく仕事先であったり趣味であったりとある店であったり複雑な分布をしている。さらにコミュニティが閉塞していたり、さらに酷いケースではどのコミュニティにも所属できていない人たちも沢山いるのである。こうなるとコミュニティを使った医療はあまりに難しいものにも思えてくる。そこで開業してもそこの街はただ単なるベッドタウンでコミュニティがなければそれは使えないのである。そういえば従兄弟に会いに神戸の名谷というところに言った時も衝撃を受けました。駅前にでかいダイエーと総合施設があるだけで後はだだっ広いところに高層マンションだらけ。バスでそこまで向かうのです。そういえば西神戸医療センターのある西神中央駅も同じ構造でした。こういう街は多いのでしょうか。見たとき「うわっひど過ぎる」と思ってしまったのです。そういえば震災後の神戸の街も一部そういう構造の街になってしまいました。大きな総合施設と区画整理された高層マンション。前そこに住んでいた友人が街が死んだとつぶやいた事を忘れる事が出来ません。そういった構造の街でいかにコミュニティのある医療をするのか、が大きな課題でもあります。私の住んでいる京都はそういう意味ではあまりに恵まれすぎた環境でした。こういう街でコミュニティ医療の大切さを解くのは藤井フミヤが目と目が合ったら恋におちるよ、といってるのと同じですよね。とにかく、コミュニティと街の構造は大きく関係していて私が何か居酒屋系医療を唱える時に街づくりの視点からも物を考える必要性が出てくる事が分かってきました。今知り合いに街づくりで起業しようとしているやつがいます。あまりに優秀でとにかく動くのが早く、へんてこりんに魅力的なやつです。思ってもみなかったですがこういう人たちと連携する必要がでてくるのかもしれません。
ただコミュニティと言った時現代社会には沢山の問題があります。まず一つにはコミュニティの細分化が進んでいるということです。昔なら村全体が一つのコミュニティになっていたわけで、その村に住んで一緒にお祭したりしていればだいたい全員の事が把握できる。ところが現代の都市化によって一つの街で把握できる量は非常に限られてくる。(街の範囲の境界すら曖昧になってきているが。村なら本当に一つに固まっていてここまでが~村の人、と言えただろう)私はつくづくいい街、住みやすい街の条件にある程度住んでいればその街のことをある程度把握できる規模、があると思う。そういう意味で京都は一人の人間が把握できる最大ギリギリの規模ではないかと。大概のこと、住人は一人あいだにはさめば分かったりするわけで。東京は手の届かないものが多すぎて恐ろしく不安です。池袋一つをとっても物、店、人が多すぎて掌握しきれない巨大なモンスターのような印象があるのです。知らない事が多すぎる場所は精神衛生上よくないはずです。特にその街に住んでいるにも関わらず分からないというのは。そして分からない不安をかき消すように分からないということから無関心でいる、そういった流れが数々の問題を生んでいるような気もするのです。無関心さが生む犯罪、無関心さが生む心の閉塞、無関心さが奪ってゆく情熱・・・この前東京に行ったときに池袋駅で酔っ払っていたおじさんが突然頭から地面に落ちてピクリとも動かなかったのです。遠くからでも大きな音が聞こえてきてびっくりしたのですが、もっとびっくりしたのはそれを見ていたそばの人たちが本当に何もなかったかのように平然としていた事です。そして平然と横を歩いて通り過ぎてゆくのです。その事にあまりに衝撃を受けしばらく立ち尽くしてしまったのですが(最低な自分でした)、結局同じく遠巻きに見ていた女子高生が駅員さんに言って事なきを得たようでした。非情なまでの無関心、これは街の構造が生んだ無関心なのかもしれない、分からないことから逃げるための。その時そう思ったのです。
話をもどすと、そうやって巨大化した都市ではコミュニティは細分化されざるをえない。しかもそのコミュニティは住んでいる場所で区切られるのではなく仕事先であったり趣味であったりとある店であったり複雑な分布をしている。さらにコミュニティが閉塞していたり、さらに酷いケースではどのコミュニティにも所属できていない人たちも沢山いるのである。こうなるとコミュニティを使った医療はあまりに難しいものにも思えてくる。そこで開業してもそこの街はただ単なるベッドタウンでコミュニティがなければそれは使えないのである。そういえば従兄弟に会いに神戸の名谷というところに言った時も衝撃を受けました。駅前にでかいダイエーと総合施設があるだけで後はだだっ広いところに高層マンションだらけ。バスでそこまで向かうのです。そういえば西神戸医療センターのある西神中央駅も同じ構造でした。こういう街は多いのでしょうか。見たとき「うわっひど過ぎる」と思ってしまったのです。そういえば震災後の神戸の街も一部そういう構造の街になってしまいました。大きな総合施設と区画整理された高層マンション。前そこに住んでいた友人が街が死んだとつぶやいた事を忘れる事が出来ません。そういった構造の街でいかにコミュニティのある医療をするのか、が大きな課題でもあります。私の住んでいる京都はそういう意味ではあまりに恵まれすぎた環境でした。こういう街でコミュニティ医療の大切さを解くのは藤井フミヤが目と目が合ったら恋におちるよ、といってるのと同じですよね。とにかく、コミュニティと街の構造は大きく関係していて私が何か居酒屋系医療を唱える時に街づくりの視点からも物を考える必要性が出てくる事が分かってきました。今知り合いに街づくりで起業しようとしているやつがいます。あまりに優秀でとにかく動くのが早く、へんてこりんに魅力的なやつです。思ってもみなかったですがこういう人たちと連携する必要がでてくるのかもしれません。