医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

立ち位置のない1ヶ月

2005-02-28 20:49:36 | 日記
友人で随分スジの通ったやつが私のブログを読むきっかけになったのが、題名にきちんと「世にも珍しい医師国家試験浪人」と立場を明確に表示し、その立場から物を書いているからだと言ってくれた。なるほど、確かに私はこの1年、この学生でもない、医療関係者でもない、仕事もしていない自由な立場、というものを随分うまく利用させてもらった。その立場のおかげで得られた人間関係、情報、出来事は多々あった。学生ではなめられる。医療関係者では将来直接命に関わる付き合いがあるかもしれないからと穏便に接してくるし最初から「医者」という人種に対する偏見は誰にだってありそのフィルターで見てくる。仕事をきちんとしていれば時間はない。これらの立場を微妙にすり抜けた微妙な立場、それが医師国試浪人であった。

自分がどういう立ち位置にあるのか。重大な問題である。立ち位置を理解していなければ相手と会話をすることもできないし、何かリアクションを起こす事すらできないと言われている。私は中規模の団体で自分の立ち位置を見失い発言が出来なくなることが多い。20人から40人というのはフィールドとして苦手である。何故か。少人数であればまず一人一人に気を配る事が出来る。そしてその人たちに合わせて立ち位置をスライドさせることができるのだ。ところが規模が大きくなるとそういうわけにもいかない。第一全員に気を配ることはできないし、それほど多様性を持って立ち位置を変化させるのは物理的に無理である。ならばそこでうまくやる方法はなにか。最初から役割を作ってひたすらそれに徹するのである。途中で役割を変更する事は許されない。そういう場に身を浸しているとだんだん「アドリブの許されないおままごと」をやっている気分になるのである。

この気分から脱却させてくれる大いなるアイテムがある。「役職」である。この規模になると役職は大いなる力を発揮する。みながその役職の立場で相手の相対的立ち位置の差を見事に利用できるようになる。(そしてそれを勘違いして利用したのがセクハラなどである。)みながよりよい役職を求めて頑張るのもうなずける。私は役職なるものが好きではないので、多くの団体では縁の下でやってきた。すると面白い事に個人的会話は問題がないのに、中規模な集団での発言権がなくなってしまうのである。私はいつも微妙な立場でやってきた。のでみんながその立場に対するセリフを知らないのである。これはしょうがない。団体コミュニケーションとはほとんどが茶番である。いや、個人的コミュニケーションの総意であればそれでもいいのか。

国家試験を終え、(現役のみなは大学を卒業し)結果がでるまで私達は非常に立場上不安定な時期を迎える。(まぁ我々浪人生はなれっこだが)旅行に行くのもまぁはっきり言って時間つぶしである。自分探しなどいうが、旅行に言って地元での自分の立場がはっきりするわけもない。だから就職試験なんかで趣味は旅行です、などと言ってはいけないわけである。もし就職試験でぐっと来る面接にしたかったら、それまでの人生で立場が明確になる経験を沢山する事である。いくつかの立場を自在に操れると鬼に金棒である。話を戻すと、私はこの不安定な立場をおもっきり楽しんだ。この1ヶ月、内輪で旅行だののみだのもまぁ楽しいのだが、不安定な立場に気づき、利用できるような何かを楽しんではどうだろう。医者になれば一生あなたは医者である。違う立場に立てる最後のチャンスを逃してはもったいない。

かくいう私は3月1日から24まで南米を旅行してまいります。はっきり言って暇つぶしです。それなりのよさもあるんですが。ブログの更新は気が向いたらやります。この間連絡したい方はm00w0611@yahoo.co.jpまで

医師国試ダイジェスト

2005-02-23 03:25:45 | 医学ネタ
無事というか、あまり無事でないというか国試を終えて帰ってきました。最終日明日もあるというのに集まってくださったみなさん、遠くで気をつかってくれたみなさん、本当にありがとう。みんなのおかげでこの1年人間として過ごしてこれました。

さて肝心の国家試験ですが、やはり去年の傾向を引き継いで必修が難しくなり、一般問題も一般的な疾患からの出題が増えたと思います。一般問題の傾向は非常によいですが、難しくしたいのか一般的疾患の細かい症状について聞くことが多かったです。モスビーの勉強会などでは一般的疾患が多いので、これはSAHってすぐわかりますよね、終了、ではなくその時にみられる多くの付随症状まできっちり病態、生理、病理で追い、SAHにまつわる疫学、合併症などもちゃんと追えるといい勉強会になると思います。複合問題では鑑別を平行させながら解く問題もあったりと良問がちらほらと見られました。鑑別する力は宝です。勉強会ですらすら出てくるようになるまで繰り返してください。(某Mちんのように)個人的圧巻は境界型人格障害でもうそのまま教科書に載せて欲しいような文章でした。まぁあれがちゃんと復元されるとは思いませんが。一部リンパ節マニアとちんぽマニアを初め同じ疾患が山のように出るという偏りは否めませんので、やはり出た問題周辺をすぐに復習することは大切です。個人的に試験終了と同時に一応覚えている問題をざーっと書き出すのはいい方法だと思います。私の経験では一度解いた問題を再点検して最後に書き換えた結果ろくなことがないので、終わったらミスだけチェックして(2つ答えよ、とかマークミスとか)さっさと部屋を出てそれにいそしむのが正しい試験の受け方です。時間を無駄につかっちゃいけません。

今年は今まで2日目であった必修が初日にくるというハプニング(?でもないが)がありました。話題というものはこうやって、今まで同じものがちょっと変わっただけで出来上がるもので。かつての(いや今もですが)狂牛病による牛丼消滅事件を彷彿とさせました。結局人間など同じことが継続することしか望んでいないわけで、意識化で継続するとしていたものが変わると大事件になってしまうわけです。牛丼などなくなったところでそう大して生活が変わるわけではないのに、メディアはそれを仰々しく扱っていましたね。今や吉野家牛丼宗教みたいなことにもなり、大変な事です。こうやって経済的戦略はとられていくのかと勉強しました。またこの前何故かTVで見た映画「オーシャンズ11」では数十秒停電が起きただけでカジノは大パニック状態、再度復旧した時に大衆は暴徒と化し秩序はめちゃくちゃになってしまいます。人間とは潜在的にそうであろうとしている継続を少しでも覆されると恐ろしく混乱し、理性が働かなくなるものなのですね。我々は非日常など望んではいない。あくまで望んでいるのは、意識上にある非日常でしかなくそれは想定可能なものゆえすでに非日常などではないのです。

話を戻しましょう。今年も手技に関する問題が多かったのですが、結局手技などうまく出来ればいいのでいろんな方法があるわけで、今回も関節穿刺の場所など聞いてはいましたが、調べれば調べるほどどこでもいいことがわかりました。結局手技など主義にすぎません。あんまり真面目に勉強する事はないと思います。お上はそんな事までガイドラインを作りたい、ということでしょうか。我々は相当レベルの低いやつらだと見積もられているようです。馬鹿にしすぎです。馬鹿にしすぎといえば66歳男性の腹部X線で、よく見れば骨盤が女性の形でした。解らないとでも思っていたのでしょうか。酷い話です。X線の見間違いに注意しましょう、きちんと名前を確認しましょうとあれほど言われているのにです。骨盤の形をみて「あれ、これこの患者さんじゃないかも」と気づける能力は必要ないといっているのと一緒です。こうやって医師のレベルは下がっていきます。

今回も酷い問題は沢山ありました。いくつかさらしておきましょう。
喫煙者について誤っているものを選べ
a忘れました。明らかにあっていたのでしょう
b主流煙より副流煙のほうに(ニトロサミン)が多い(カッコ内が何かは忘れたが)
c女性の喫煙率は上がっている
d喫煙者は喫煙に関する害を理解していて吸っている
eレストランなどでは分煙室をつくるなどの対策が義務とされている

さて、難しいですな。bはあっているはずです。主流煙はフィルターを通しているのでほとんどの物質は副流煙の方が多いですから。c、最近のデータでは女性の喫煙率は横ばいですが、若年層は増えてますからねぇ。これが答えなんでしょうか。問題はこれ、d。何と!国家は解って政策やっていることを暴露してますねぇ。(前のブログ参照)しかし副流煙の問題など果たして「他人に対する」害を理解しているのでしょうかね?私はある店で妊婦さんがいたのでお客さん達に彼女がいるときはタバコを控えようぜ、といったことがあります。多分そこまでの理解はなかなかないのではないでしょうか。だいたい頭で解っていて体が解っていないのは理解、している事になるのでしょうか。今の「頭社会」の時代、頭で解っている事は理解している、ことになっているんでしょうね。まぁそれを見事に利用してガツガツ儲けている奴等がいるのですが。どう考えても体で理解していないことは理解していません。最後eですがこれも微妙です。健康増進法では「努力義務」となっていますが、「義務」と「努力義務」は何が違うのでしょうか?司法関係の友人に聞いても実はきちんとした定義はないと教えてくれました。義務には罰則が付きまとうが努力義務には罰則がないそうです。では努力義務は義務なのでしょうか?というより何でこんな法律用語を我々は考えなければならないのでしょうかね。それを考えるのは法律家です。我々のレベルでは法律用語はきちんとつかいましょう、ということでこれも間違い。おやおや、答えが二つありますね。一応私はeにしておきましたが。しかしこういう問題が出ると私は15分くらい上記のような事を考え出すので出来ればやめていただきたいものであります。

次はこれ、最もむかついた問題である。
20歳女性、初めてビールを50ml飲んだところすぐに顔面紅潮、動悸、吐き気、頭痛をきたしたため病院にやってきた。父はお酒を全く飲めない、母弟もお酒はほとんど飲めない。患者に言う言葉でで正しいものはどれか?
Aエタノールの分解代謝がはやい
Bアルデヒドの分解代謝がはやい
C訓練しても飲めるようにはならない
Dアルコール依存症になりやすい
E忘れたが間違ってる選択枝だったと思う

これは難しいよ。エタノール症状は動悸、アルデヒド症状は吐き気頭痛などがある。でB、Dは明らかに間違っているが気になるのはC。おそらくだよ、おそらく国家はこれを答えさせたいのだろうが、ちょっとまった。そんな患者の未来の事を軽々しく医者が断定していいのだろうか?確かにこの人はお酒に弱い人だろう。訓練して飲めるようになる公算はかなり低い。しかしだ。彼女にも人生がある。お酒の席もあるだろう。一杯だけ飲まなければならない事もあるかもしれない。それを訓練しても飲めるようにはなりませんから、残念!とぴしゃりというのはどうかとも思う。ほんの少しから家で飲む練習をしよう、と健気な彼女の意欲を絶ってしまうことにもなるのではないか?だってお酒が飲めなくて困っているから病院に来たわけでしょう?飲めなくても支障ないや、と思っているのなら来ないはずです。昔「可哀想な犬の話」とブログで書いたでしょう。医者ごときに訓練しても飲めるようにはならない、などといって欲しくないですね。どうせエタノールやアルデヒドの分解酵素がない、みたいなしょうもない物語を語るのでしょう?そんな話どうでもいいですから。彼女も少しずつ練習して、それでもやっぱり飲めない。自分で納得するまでやればいいんです。そのストーリーは自分で考えればいいじゃないですか。もし自信があれば医師がいいストーリーを話し合いながら作ってゆく。相手のニーズに合わせる形で。というわけで、この設問、医学的に正しいものを選べとはかいてなかったんです。「正しいアドバイスはどれか」みたいなことが設問だったので、正解はA。あまりいい答えではありませんが。一応アルデヒドの症状も出ているのでメタノール分解はそこそこしてそうです。ちなみにアルデヒド分解酵素は訓練すればやや増えるという事も解っているので訓練すれば少しくらいは飲めるようになるといいですね。と言ってあげたいです。

国家試験を楽しむ方法がいろいろあります。あの問題達は一体何が聞きたいのかよくわからないものがとても多い。で出題者の意図を考える。いろんな事に気づきますよ。その中で自分のポリシーを守って解く。私の友人で「よくわからないベータブロッカーはつかえない」と果敢にもその解答をすべて拒否したやつがいます。たいしたものです。「国家」試験に自分のポリシーが打ち勝って受からなければ自分のやりたい医療など結局できません。そうでないと将来も同じ理由で迎合することは決まっているのですから。私はこう答えて医師免許をとってるんだ、と心からいえなければ国家にたてついた患者のための医療はできないです。もとより自分のポリシーを守って国試に受からないのであれば「公」としての医師の職業は向いていないということです。

長くなったので一応この辺で

親愛なる後輩たちへ

2005-02-18 05:23:58 | 日記
知らないうちにこのブログも一日50から100人くらいの人たちがチェックしてくれているようで、一体どんな物好き達が読むのだろうとびっくりしております。おそらく試験前の更新はこれが最後になる気がしたので(気が向いたら携帯からの更新もありえますが)最後に書きたい事を書いておきます。このブログ終わりの方は国家試験が近い事もあってか国家に対する恨み辛みで占められておりましたね。お見苦しい文書も多かったと思います。沢山の方が見てくれていた割には反響が少なかったのはムカツクからでしょうか。徹底的な医療批判を展開したのでしょうがないのかもしれませんが。

私としてはとにかく今の医療観を根底から一度すべてぶち壊したかったのです。現代科学が、医療がすげぇのは医学を学んだ者なら百も承知です。ここ数年での白血病治療の進歩、移植、感染症治療の進歩。分子生物学が救った命も沢山あるでしょう。しかし一方で科学は多くの人たちを犠牲にしてきたのも事実。誰かを救った時誰かが犠牲になっている可能性は大きいのです。規格化された資本主義、科学主義が生んだ精神疾患、癌。批判的精神はあっても当事者意識の薄い我々。そして「~以前」を全く考えられず鵜呑みにさせてしまう構造。医療という宗教は医療の為の医療になっているにも関わらず、知らずのうちに民衆の間に受け入れられてしまっている事実。それらは一度徹底的に解体し、見直さねばならなかった。しかし徹底的にぶち壊してもやはり大切な何か、というものはあるもので。あるからこそ「医療」なんていう宗教がここまで大きくなるわけで。おそらく今年の4月からはそれを大切に1からまた医療観を築いて行くのだろうと思ってます。

非常に幸運なことにこの一年は素晴らしい仲間に囲まれて過ごす事が出来ました。それは医学生達もあり、そうでない人たちもあり。そこであるべき医療像の姿について随分考えました。途中で気がついたのです。本来なら尊敬するウィトゲンシュタイン先生がとっくの昔におっしゃってくれていたのですが。
医療を内側から規定してはならない。
ということです。いくつかの医療問題に取り組む団体のところに顔を出して思ったのですが、ほとんどのケースで医療は内側から規定されがちでした。それは医療問題に意識の強い一般市民といわれる人たち(私から言わせれば医療問題のプロですが)にも同じことが言えます。ほとんどが犯しがちな間違いです。自我の概念からみんな抜けきれないからでしょうか。医療は明らかに外から形づくられたものでなければいけません。勉強会をやっている皆さんにも言っておきたいのは医学の勉強はそこそこでいいです。うまいもの食べにいって話して、映画みて、飲み屋で知らない人たちと話して。新たな友達つくって。。そこで注意しなければならない事は、最初は医療という言葉を抜きにした立場から話を進めてください。自分の心に身をきちんと任せて話を進める。でそこから医療に近づいてゆく。これを繰り返してください。飲み屋で知らないおじちゃんと話をする時も同じです。ともすると彼らはこちらが医療関係者と知るとそれにあわせた話やテレビのコメンテーターのような話をしてくれます。その時はきっちりと「おれはそんな話が聞きたいんじゃねぇ!」と言いましょう。間違ってもあぁ、やっぱりテレビや市民プロが言っている一般市民像は正しいんだ、などと思わない事です。

ほとんどの概念は外から規定されています。外から何とか境界を規定してぼやっと内側の形が明らかになる感じです。前にも書きましたが医療には必ず「医療以前」があります。それを大切に考えてください。何故医療なんてものが出来たのだろう。どういう目的があってこれは存在するのだろう。運良く私と同じ結論に達しそうな方、連絡ください。将来一緒に仕事しましょう。まぁその時には随分考えも変わってるんでしょうが。さっきも書いたように物事を内側から規定すると鋳型が出来て「こうでなきゃだめだ」となってしまいますから。自己も医療もそうであってはならないと思います。でも知らず知らずの内に鋳型が出来ている。それを壊す方法論をいくつか持ってください。私のブログにもそのヒントはいくつかあると思います。ぶっちゃけて言えばこうやってブログに書いた事も明日には「そんな事書いたっけ?今日はちょっと違うんだけど」となってくださいってことです。私と一緒に勉強会をした人たちならわかると思います。
人生適当です。
なんとなく、適当、でも何故かうまくいっている。それが理想ですよね。自然界ってそうじゃないですか。そりゃ必死になる時も必要なんですけど。その時その時は必死なんですけど。あぁ、最後は禅宗とか岸田秀みたいなことかいてるなぁ。理性<本能 ですよね。

試験は19日から3日間です。大阪でホテルに泊まってやる大げさな試験です。おそらく3日ともお酒が手放せないでしょう。そういう試験です。適当に流して参ります。ではまた

最後に私が影響を受けた本を羅列しておきます。これを読めば今まで言っていたことがなぁんだ。の一言で全部済んでしまうはずです。
「世間知らずな私達が読む本」

で、結局医療は何に支えられてきたのか

2005-02-17 00:08:00 | 医学ネタ
まとめです。まとまらないでしょうし、明日は違う事を言っている可能性も高いのですが。
医療がうまくいく方法は1つです。「人間の機械化」です。実はこれ、資本主義の考え方と全く一緒です。ようは消費者の規格化、標準化によって生産物も規格化、標準化させることができる。生産物が規格化されればまた消費者も規格化が進むという繰り返し。我々は気づかないうちにこのサイクルに入り込み能動的にドライブさせています。これが資本主義の「思惑」です。いちいち「個性的な人間達」相手に販売戦略など立てられませんから。あくまで消費者が規格化されているからこそ「戦略」などという概念が生まれる。

医療だって同じです。我々がまず学んだのは人間の規格化からでした。それは生理学、解剖学などによって進められ納得させられます。人間はこうすれば確実にこうなるのだ、と。この辺の分野はまだいいですよ。確かに規格化するに足る似た部分が多いですから。しかしこれだってちょっとした差異というものは無視されます。もちろん主体的に無視するのです。ところがそうもいかなくなってきたのが精神面です。こればっかりは規格化が難しい。分類はどんどん細かくなってゆきそれは要は差異の消滅する次元まで進められる。そこで初めて精神の規格化が完了するのでしょう。話をもどすと、こうやって医療によって人間は規格化されているから治療が可能となっているわけです。人間が個々にバラバラの身体、身体観、身体像を持っていればいちいち標準的な治療なんてできないのですから。

今我々がやっている医療の研究、治療の成果(EBMという概念で大流行ですが)はすべて医療に都合のいいように人間を規格化する作業です。いいですか、こうやって医療だけでなく特に経済の面でも我々は規格化されているのです。今や大量消費経済によって生活はほとんど同じ、メディアによって考え方もほとんど同じ、薬によって体質だって同じに。規格化する、ということは人間を「機械」だと思うことと同じです。こうすれば人ってこう動くよね。そうやってマーケティングはなされています。ある意味人を馬鹿にしていますが、実際我々はそう動いてしまうのでしょうがありません。移植医療だって人間を機械だと思っているからこそ出来る医療です。もし臓器に心が宿っていると考えればできないでしょう?脳を移植するってありえないでしょう?でもこうやってすべてのものを取り替えて不老長寿を目指す今の医療は人間を機械のように扱って故障したから取り替えましょう、と言っているのと同じです。大量生産のテレビと同じアイデアです。

我々は真の個性など望んではいません。それは生産者にとっても扱いにくいですし、消費者としても理解不能な個性など恐怖の対象にすぎないのです。(理由も解らず人を殺す事件。みんなが必死で理由をでっち上げますよね)結局中身の理解できるちょっとしたバリエーションを望んでいるだけです。標準化された商品の色が違うものを望んでいるだけです。そして標準化の為の戦略は次々と進められてゆくのです。

ただそれでいいのでしょうか?もちろん私は群れをなして生きる野性の水牛達にあえて外から「そこから離れろ!」などというお節介を焼くつもりはありません。標準化は生きる為の知恵でもあるし、それを喜んでやる人たちならこちらも喜んで規格化を利用させていただくつもりです。しかし本当にそれで楽しいのか?人生生き生きと生きているのか?そこを問い詰めたい。規格化、機械化された身体。そこにあるのはいつだって生気を奪われた物体が転がっているだけである。これを「健康」と呼んで良いのか。人が活力を持って、生きるために自分で生命を築いてゆく。それが「健康」なのではないか。そう思うとどうも機械化された身体は医療にとって扱いやすく健康に運びやすいのでしょうが、私の思う「健康」とは違うようです。

規格化はコントロールしやすい。そしてそれを一番利用したいのは国家であり、企業であり、医療である。仮に人間が全部同じ材料、仕組みで出来ていたとしよう。すべての人に標準化された治療をすればみな同じ結果が期待できる。医療の勝利です。今我々が困っているのは同じように薬を出しても同じように結果がえられないからです。もしかしたら薬を投与してコントロールする、という作業は身体を大雑把に管理することで標準化しようとする作業なのかもしれません。

結局私がやろうとしていた医療はそういった身体の標準化の解除なのかもしれないと、ちょっと思います。どんどんと現代医療に敵対し、遠ざかるかたちの。今あちらこちらで見られる社会問題。それは身体の標準化と関係がある気がします。世間によって身体は標準化されていくのに、やっぱり身体は人それぞれ違う。そのひずみで悲鳴をあげているのではないかと。私が目指しているのは治療できなくなる医療なのではないか。

ソメイヨシノは完全なクローンだと書きました。一斉に咲くあの姿は確かにきれいです。しかしあれがきれだと言うのは一糸乱れぬ北朝鮮の軍隊パレードが美しいといっているのと同じで一部の地域がそうだからまだいい、というもので日本中すべての草木がソメイヨシノではきれいでも何でもないでしょう。映画の黒沢監督が言っていたのですが、全く違うキャラを4人(確かそれくらい)生み出すのは神業であると。人間などというもの、それほど多くの違いをきちんとは認知できないのだと。あとは解らぬまま。そういうもんだと思います。占星術で12に性格を分類したり、整体で10に体癖を分類できるのは本当に神業だと思います。つまりいいたいことはこういうことです。人ってほとんど分からないものです。それをきちんと過不足なく分類することすら難しい。だからこそいいもの、興味をもって接せられるのだと思います。私は最近になってようやく「人間には恋をすると胸がドキドキしないで頭がバラ色になる」人種がいる事を知りました。だって、私は恋をすると確実にのどが、胸が苦しくなって呼吸困難に陥り湖の中で溺れている感覚に陥り、間違っても頭がお花畑でバラ色なんてことにはならなかったものですから。

そうすると結局ありのままをなんとなく、でいいんじゃないかと。もう人間をコントロールして規格化して機械化して整備しやすくする医療には飽きました。これから科学が経済が進歩すれば今の医療は魔法のようにうまくいくでしょうけどね。だって一般市民はそのタネ(自分たちが規格化されてしまっている)を知らないのですから。でも確実に「健康」ではなくなるだろうなと、そう予想します。私は今、もっと「生きる」ってどういう感覚なのか、追っていかなければならない。そう感じています。

医療とはデザイン業だったのか

2005-02-16 00:25:11 | 医学ネタ
そう考えると私は一昨年医者になろうと思った理由にえらい事を言っていた気がする。だいたい医師になろうと思った理由を聞くような病院にはろくなものがないのだが、どこでも聞かれるのだからしかたがない。まさか昨年祖母がなくなって、などとお涙ちょうだいな話を期待しているのだろうか。おれだったら絶対そういうやつは信用ならんと落とすだろう。だいたいそういうことを聞くこと自体が「医師ってすげぇ」と思っている証拠で、ならおまえはレジ打ちのバイトを雇う時は何故レジ打ちのバイトをしようと思ったのか聞くのかと問い詰めたかった。私に言わせれば医師もレジ打ちもそれほど仕事に差があるとは思わない。そんなに医療ってすげぇのか?

しょうがないから私はある話をでっち上げることにした。医療とはデザイン業である、と。昔デザインの仕事をしていたこともあり、デザインというものは依頼者がいて、その人の望む形で商業デザインを考えなければならない。それがたとえ一番いい形でないとしても、ロゴを大きくしてくれといわれればするのだ。今までの医療は芸術家の仕事だった。新しい価値観を生み、どうだと見せつける。移植医療などは完全に芸術の領域である。医療ってのはそうではだめでデザインでなければならないと。本人が受け入れられる技術、美的感覚だけを選び取らなければならない。人はそれぞれ生きる上で美的感覚があり、それで生きてきた。病気とはその美的感覚を損なう何かで、我々に出来るのはそれを出来るだけ依頼者の望む形に修繕するデザイン業であろうと。そういう仕事がしたかったんだと。

しかし、今はっきり言える。上記のことは全部間違っていた。デザイン業は人まねである。だいたい美的感覚なんて大層なものが人にあったろうか。あるとしたらその人の周りの環境と同値である。でそういう人たちがメディアに踊らされて存在しない人まねを欲しがる。一体我々はどこへ向かおうとしているのか。デザインには必ずとある思惑がある。医療行為にも必ず思惑がある、のだろうか。あるとすればどの様な誰のための思惑なのか。もう答えるのもいやになってきた。

思惑亡き世界よ、もう一度。なんとなく生きていく世界よもう一度。回りの思惑に敏感だった人たちにごめんなさい。あなた達のように周りの世界からものを読み解く能力が優れている人たちを苦しめたのは私達です。私もこれから医療人のはしくれとして、思惑なき世界の構築に一役買える日がくればいいなぁと思っています。

一連の「頭をつかう」問題の矛盾

2005-02-15 04:02:21 | 日記
前回2つのブログを比較していただきたい。もう全く書いてることが正反対。不感症の話では考えるな、頭をつかうな、感じろ、と騒いだ割には次の試験期間中では頭をつかえ、怠けるなと。そうは言ってもこの矛盾、どうも表面的なことに過ぎないような気がします。こういうときは大概言葉の定義がおかしいだけ、という場合が多いです。「意識」と「意識する」がどうも全く別の事らしいように。

頭をつかうってどういうことでしょう。ともすれば人間の頭などブラックボックスのようなもので普通に考える行為をとると思考パターンというのは決まっています。我々はそれほど独創的な生き物ではありません。というより自我とか独我論を私は支持してはいないのですが。心に浮かんだ何か、感情ですらもしかしたら、いや多分、外から入ってきたものなのではないかと。内外の区別すらつけたくない勢いです。だから私とか我々という単語も好きではありません。日本語は言わなくても意味が通じる場合が多いのは素晴らしいことですよね。はなっから自分なんてものを信じてなかったんじゃないかと。自分を観るという行為は実は回りを観ている事と同義なんじゃないかと。

さて、「春」→「桜」→「花見」と「考える」行為は何なのでしょう。この思考経路にはどうも悪の手がひたひたと忍び寄って作られたようにしかみえません。「春」は簡単に認知できます。カレンダーみても、花が咲いてくるのを見ても、少し敏感な人なら風で感じる事もできるでしょう。ではそこからくる桜、花見って何でそうなったの?だいたいここでいう桜って本当に桜なんでしょうか。いにしえの歌人達が詠んだ桜なのでしょうか?今見ている桜はそのほとんどがソメイヨシノですが、実はあれこそ完全なるクローン生物です。何と自分たちで繁殖できないんですよ。人の手を借りないと生き延びる事も出来ない種。単一クローン生物ゆえにある温度になると一斉に咲き、一斉に散ってゆく。これが作られたのは江戸末期といわれていますが、今の様に景勝地として計算されて植えられるようになったのは明治以降です。いにしえの人たちは山桜を見て詠んだのですよね。じっくりと花をつけ、じっくりと散ってゆく。桜は武士道の精神などと誰が言い始めたのでしょうか。ソメイヨシノを想像してはいけませんよ。ほら、ここからしてどうも陰謀の匂いがしてきました。明治政府と組んだ新渡戸稲造の思考統制のせいでしょうか。いいですか、この思考回路は実は誰かによって統制された回路なんですよ。それには大概何らかの目的があります。そしてほとんどの場合それは思考統制した人に利益が及ぶ様な目的です。春から花見の思考経路を統制するだけで一部の人たちが大きな利益をえています。そして同じようにその回路に群がって利益を得ようとする山のような人だかり。

言われたとおりする、ということはその大元にいるやつの得になるように奴隷になる、ということです。なので医療は奴隷です。誰の奴隷かは自分たちで考えましょう。答えは山ほどありますから。街に出てももはや思惑だらけです。思惑に押しつぶされそうになります。そしてその中で生きて、思考するということは山のような思惑の奴隷となりそいつらの為に勤労奉仕するのと同じです。自分の思考は周りによって作られるのですから。お洒落な喫茶店の中で考えついた事などろくなもんじゃありません。完全に客を統制できるように計算され尽くしたあの喫茶店でどんな独創が生まれるというのでしょう。どうせ同じような一連の思考の流れを繰り返すだけです。それならまだ海岸で海を見ながらぼーっとしている方がいい。海には海の思惑があるでしょうが、何せ自然の方が複雑であまり個人勝手でない思惑でしょうから。

思惑だらけのこの街中で押しつぶされないようにする方法、に身体で感じることがあるのではないかと。うつ病っていやな病気だと思いますが、全部この街中の大量の思惑が押し付けた思考でつぶされたのじゃないかと思ってます。そしてそれを完全に受容してきた少し鈍感な我々。何も考えないで誰かを傷つけてしまっている行為、最低ですね、僕ら。自分の身体ってすごく正直だと思います。身体が行きたくない、と思えばそこは異常な場所なのです。不登校が多いのならやはり学校は異常な場所です。そういう中、頭で考えて行く事を合理化するのはどうかと思う。その思考はすでに出来上がりのものに近づけていく、思惑たっぷりの思考です。やはり頭をつかう、ことには基本的に反対のようですね。こういう場所に生きてますから。ただし、国家や一部の人たちの為に作り出された公式、それは知らないうちに私達を縛り続けていますが、に少しでも気づいて抵抗するためには頭をつかわなければならない。そのためにはやつらのトラップの中にいてはいけない。その工夫として自然と接したり自分の身体を見つめるという作業は新しい思考回路を提示してくれる。占いもそうですよね。人知を超えた出来事に対処すべく人間の思考を超えた行動を占いによって提示される。そこに新たな打開、世界を見出そうとした。だからありきたりのことを言う占い師を信じちゃだめですよ。いい事いうなぁ、なんて納得してはだめです。ちょっと理不尽でありえない事を提示してくれる人の方がいい。

記号化する、という行為はパターン化するということである。パターン化する、ということは統制するということである。だからありきたりの流れは基本的に信用ならない。言語化する、という事の危険性。自分の発した単語がどういう意味を持って誰の為の概念なのか。慎重に考えねばならない。

何故試験期間中は別の事をしたくなるのか

2005-02-14 06:29:44 | 日記
試験期間中別の事が急にしたくなる。ご多分に漏れず私もそうである。私だって毎日異常なペースで勉強している。まさか1日でQB2冊やって模試半回分の復習までできるようなペースで出来るとは思ってもみなかった。記憶力も抜群である。第一リズムが非常にいい。ページをぱらっぱらっとめくってQBなる分厚い過去問を4時間ほどかけて終わらせると一べつしかしていない内容も何故か頭に残っているのである。おかげですべてのQBを2週間もかけずに終わらす事ができてしまいそうである。心地よいリズムの勝利である。国家試験の準備など1ヶ月も必要なかったということか。時期がくれば人間やるものである。

さて、試験中別の事が急にしたくなるのは何故か。ちなみにいま私は般若心経を毎日唱え、解釈のお勉強中であり、この1週間で本を10冊ほど読みあさったところである。他には広告と誘惑と催眠について人に及ぼす影響を調べたり、ここのところ感じる春の風を楽しむための自転車放浪、美術館巡りと旺盛である。このくそ忙しい時に何故か。答えはこうだ。
「怠けているから」である
試験勉強ははっきり言って大怠け作業である。与えられた知識をただひたすら吸収していく作業。頭などほとんどつかう余地はない。皮膚線条→Cushing症候群やクリスマスツリー→ジベル薔薇疹などと言ったいったい何の連想ゲームなのかわからないものや、湿疹血小板減少易感染性→Wiskott-Aldrich症候群など他の鑑別を一切考えなくてもいい組み合わせゲームまで頭などつかわなくても与えられた公式を覚えるだけのしょうもない問題のオンパレード。しかし実際の医療でもこういう思考形式は結構多いわけで。こういうのにどっぷりつかってるから「ホスピス」→「延命は悪」みたいな公式が簡単に出来ちゃうんでしょうね。「ホスピス」を学んではいけないです。そうした瞬間「ホスピス」なる単語に縛られてやれ定義だのホスピスではこうですだの存在しないものを考えるはめになってしまいます。私達が出来るのは「ホスピス以前」を想像することだけのはずです。そうでないと「3月3日」→「ひな祭り」→「桃の花」→「そんなの存在しないから温室でつくったももの花」→「日本は四季を大切にする風流な国」なるおかしなことになってくるのですね。なんで桃の花がないのか、ちょっと考えてくださいな。節句についてちゃんと考えれば解るはずです。「今の桃の節句以前」を。

とにかくこの1ヶ月、頭をつかわない。部屋の掃除がしたくなるのも解る。まだ頭をつかうからね。どうやって片付けたら効率いいだろう、とか。それか身体をつかう作業、身体に何かを染み込ませる作業もなかなかいい。お腹をつかって般若心経を唱えてみたり、美術館も身体で感じる行為である。もうね、人間って怠けるの嫌いですよ。たぶん。今人々が何故生き生きしてないかって、簡単ですよ。ちょっと怠けすぎなんですね。会社で働くっていっても頭なんかつかわなくても出来る仕組みになってるでしょう。資本主義の効率ってそういうことですから。で怠けるのになれちゃった。実は退屈でしょうがないのに、ならされちゃったんですね。

実はこの「怠ける」って単語の使い方、五味太郎先生の教えてくれた使い方です。「そういうことなんだ」に載ってます。「ごろごろしたりぼーっとしたりしてるのは、怠けてるのではありません。「春」→「櫻」→「花見」しか考えなかったり、まじめに学校に通ったり、上司に言われた事をそのままやることを「怠ける」といいます。」恐ろしいほど正しい。。。こんな人が絵本作家なんだからまいっちゃうよね。この前京都駅の本屋で五味先生の本をしこたま読んでしまいました。ガキにまじって。まぁ大人を信用してない話のオンパレードだこと。こんな絵本だったとはつゆ知らず、びびりました。大人の皆さんにもオススメです。我が身を反省する意味で。

不感症の女を見たらどうすればいいのか

2005-02-12 03:56:12 | 医学ネタ
不感症の女がいたとしよう。(あなたが女性なら不感症の男でも構わない。ただ不感症の男の場合は致命的である。ことが進まないのだから。)どう対応するのがいいだろうか。自分だけ楽しかったらそれでいだろうか?そういう訳にはいかない。セックスなどというものは基本は自分の欲望に忠実でなければならないし、自己を見つめる事で相手を見るという高度な作業も必要になるのだから最初は自分だけ楽しくてもいいのかもしれない。しかし明らかに相手も楽しくなければ自分も楽しくない、という微妙な境界問題を提示される。相手が感じていなければ結局こちらも燃えないのである。ゆえに不感症でもずるくて魅力的な女は「ふり」をする。それで構わないという男は今回は対象ではない。こういう問題もある。お互い不感症だったらどうだろう。その場合は一見平和である。お互い興味もないのだから。しかしセックスで繋がるというチャンスは失われている。一つ共感性を失ったのと同義である。

スピリッツに連載されている名越先生の「ホムンクルス」でも同じ問題が扱われていた。キーワードは身体感覚の喪失である。全く身体感覚を失った女子高生が簡単にレイプに応じてしまうのだが突然身体感覚を取り戻し、セックスを拒否しだすのである。ではそれを奪っていたものは何か。記号である。すべての物事を記号でレッテル化しそれを記号で処理していく。「この男とヤレば~してもらえるから」「どうせセックスって~なんでしょ」そこには身体がない。そして私達の生活はほとんどこの作業で埋め尽くされている。「記号処理」である。私の知り合いに好きでもない男と簡単に寝てしまう女達がいるが、完全に2つの種族に分けることが出来る。記号処理の得意なやつとそうでないやつ。記号処理が得意な種族は「ぜんぜん平気だよ。みんなそんなに変わらないし」などといってはいるもののよくよく聞いてみればそろって不感症であった。彼女達にとって快楽もまた記号なのである。そうでないやつはびっくりするくらい身体の感覚が研ぎ澄まされていて本当にセックスが好きな種族である。そういう女性はそろって自分の身体のことを本当によく知っている。嗅覚も何故か優れている。

では不感症の女、記号に縛られた女を見つけたらどうすればいいのか。丹念に前儀をすればいいだろうか?テクニック、と呼ばれるものでカバーできるものなのか?おそらくそれら以前の問題が横たわっているわけで、最も大切なのは「感じる」ことにただひたすら集中してもらうしかない。身体感覚を取り戻すしかないわけだ。がそうは簡単に言うが果たしてうまくいくものなのだろうか。記号化された思考を解放し、身体に耳をすます。今までやってこなければ突然言われても非常に難しい作業である。おそらくは感じることへの集中を妨げる様々な記号もあるだろう。コンプレックスであったり、いやな思い出であったり。これらの現代の解決策は記号でやり込める作業がほとんどなのだが、私は感心しない。負のエネルギーを負の力で解決させるのは戦争を戦争で解決させたりするのと同じである。負の渦に巻き込まれている人に必要なのは外から浮き輪を投げてあげる事であり、その渦に一緒に飛び込む事ではない。ゆえに記号で覆われた問題は記号で解決させるのではなく、やはり感覚で解決させるべきなのではないかと。

感じるという行為は根本的に「考えてはならない」という思想につながる何かがある。考える、という行為は現象を記号化することに近い。考える行為は身体感覚を奪う作業になりがちである。うつ病という概念は身体感覚を失い世界を記号化しすぎたあまりそれに処理が出来なくなってひいてしまう心の風邪なのではないか、と思う事がよくある。現代社会は考える事、を強制してきた。しかしそれは取りも直さず「記号化する」ということだったのだ。そしてそれは身体と心を分離する作業でもあった。それは国家にとって都合もよかった。そしてそのおかげで我々は苦しんでいる。ほとんどの人がその構造に気づかずに。。。

以上の不感症の話、実は別にセックスの話をしているわけではない。これは「喪」の話でもある。我々は今や、死に対して不感症です。医療側、葬儀側も不感症なのでセックスレスで一見平和です。それでいいのなら別に構いません。一つの身体感覚の共感、共鳴を失ってしまう悲しみは私には絶えられないものですが、もはや時代遅れなのかもしれません。が、私は喪に対して微妙な抵抗を続けていきたい。喪に対して「考えてはいけない」。まず違和感をもって「感ずる」事。多くの問題を敏感に感じ取り気づいてゆく。あんな葬儀おかしいよ、あんな死のみとりかたおかしいよ、と。身体に聞かなければならない。そして身体がすっと入ってゆける形、それを追っていくことが喪の問題にとって大切であろうと思う。我々は諸問題に対して脅迫的なまでに考える事を強要されてきた。が考えては解決できない問題は山のようにあるのである。というよりそういう問題ばかりが残されているのである。

今日も立ち止まったとある試験問題

2005-02-09 01:18:58 | 医学ネタ
98回E47問
誤っているのはどれか
a たばこの包装の注意書きは健康リスクへの認識を高める内容が望ましい。
b 未成年者の健康リスクを避けるための禁煙対策は必要不可欠である。
c 公共の場所や建物では健康リスクを避けるための禁煙が望ましい。
d 受動喫煙による肺癌罹患リスクの増加はゼロである。
e 妊娠中の喫煙により流産のリスクは増加する。

うーむ。私の中では答えが複数ある上意味のわからない選択枝も。これをいかにも簡単と答えを作ってくれたメディックスメディア社の社員達に脱帽である。

まずd,eは最近医療で流行りのエビデンスがきっとあるのだろうからd×、e○なのはよいとしよう。問題は最初の3つである。まずbだが、必要不可欠、といわれれば分煙で十分なのじゃないかといいたくなる。だいたいうちの親父も私が子供の頃は随分タバコを吸っていたが私はこうやって健康にそだってはいる。50くらいまで生きられれば仮に肺癌になっても親父のせいにはできないなぁ。それともこの禁煙対策は未成年が対象なのかい?いっとくけど対策なんて講じれば講じるほど吸いたくなるのが嗜好品ってもんだ。東京で施行されるかもしれない淫行条例なんかもう明らかに中高生にセックスしてくださいって言っている様なもんで、きっと燃えるだろうね、彼ら。てなわけでbの問題文それ自体がパラドックスになってるわけ。意味がわかんないね。

次はcですが、お、こっちは控えめに「望ましい」になってるがだいたい健康リスクを気にするのなら公共の場所や建物でなくても禁煙した方がいいわけだろ。あぁこれも健康リスクの対象は受動喫煙のほうですか。目的語ははっきり書いた方がいいね。国家試験なんだから。健康増進法にのっとって出した問題のようですがこれも随分酷い国家暴力ですよ。「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁、施設、飲食店その他多数の者が利用する施設を管理するものは、これらを利用する者について、受動喫煙を防止するために必要な措置を講ずるよう努めなければならない」タバコオッケーの飲食店があってだめなんでしょうかね。ある意味タバコオッケーな病院だっていいと思わない?タバコがいやな人はそこをつかわなければいいんだから。賢い消費者なんていうのはそういうことじゃない。タバコを吸うやつしかとらん!みたいな会社があったっていいじゃない。まぁ今なら雇用違反だ、などと訴えられるか。試験と面接の得意なやつしかとらないよりよっぽどいろんなやつが集まると思うんだけど。

最後にa、もう読んだ瞬間誤りとわかる。あのねぇ、これを書いてる人、タバコのパッケージに「タバコは吸いすぎると死に至ります」と書かせているお役人さんがどういう意図で書かせてるか全くわかってないねぇ。これだから目先の事にだまされる医者が増えるんだよ。アメリカではいち早くタバコのパッケージの広範囲に命の危険を書くよう通達があったのだが、あれはタバコを減らすためじゃぁないよね。逆だよ。広告のテクニックとしては超有名なのだが、酒やタバコなどちょっと身体に悪い嗜好品の広告には必ず「ドクロ」や「死」をモチーフとした記号が埋め込まれている。ビフィータージンの広告に包装紙にデスマスクの模様が書き込まれていたり、酷いものになるとあるタバコの広告に微妙なところに「cancer」の文字が、まだ義務づけられるずっと昔から書き込まれていたり。こういった商品を売るために「死のシンボル」はどうしても欠かせないんだよ。何故かをあまり細かに言う事は控えておくけど、人間てそういう生き物なんだ。で、政府はなぜそれを書かせたか。タバコの売上を維持するためにきまってるじゃないか。この禁煙「ブーム」のなか貴重なまとまった収入源でもあるタバコ税は絶対に減らす事などできないもの。二つの折り合いをつけ、無知な消費者を見事にだました見事な政策だ。注意書きが過激な内容なのも「死のシンボル」を意識させればさせるほど買いにはしるようになるからだ。タバコの消費量のほとんどが一部の超ヘビースモーカーによるものなんだ。いいかい、喫煙人口は減ったと言いながらタバコの収入は激減などしてないだろ?若年のタバコ人口はやや増えている印象もある。結局タバコ減らしたかったら政府の言う事なんか聞いちゃだめってことだ。

え、aの解釈「政府にとって望ましい」?なるほど、それならあってるな。そういえばこれは国家試験。結局患者のためより政府のための答えが正解なんだっけ。(こわ~)ん?そうなると残りのb,cも政府にとって必要不可欠、政府にとって望ましいととればあってるな。ちょっとコツをつかんだ気がします。

今年一年を反省する会2

2005-02-08 01:51:24 | 日記
というわけで前回あまり1年を振り返ってない事に気づいたのでもう一度。
この1年でやったこと。ぶっちゃけ医学部内で初めて強固な居場所ができました。私がこの業界に帰ってきてはや3年(私は5回生まで医学部にコミュニティがほとんどなかったのだ)、こんなに時間がかかるとは思ってもみなかったです。そしてもう一つ医学部外でも新たないい居場所を一つ見つけました。とある居酒屋です。結局人って自分の居場所を見つける、作る旅を続けるわけじゃないですか。そして最後は自分の死に場所を見つける旅。私の愛するキャプテンハーロックも言っています。アニメ版の方のエピソードですが、アルカディア号のクルーが亡くなったときのハーロックのセリフに「男の本懐は自分の死に場所を見つけることだ、そして誰もそれを邪魔する事などできない」というセリフがあり身震いしたのを覚えています。

(キャプテンハ-ロックは本当にすごいマンガなんですよ。でアニメ版では違う展開を見せるのですがこれもすばらしい。がこれ以上の話は絶対長くなるのでやめましょう。しかも今気がついたのだが私が今いるグループってアルカディア号のクルーににてないか?台場正が初めて艦に乗り込んだときハーロックから聞いていた信念とクルーの一見適当な雰囲気に愕然としたエピソードがあったが、私が思う理想の集団と近いではないか。普段は超適当脱力系みんな個人で好き勝手の超個性派ぞろい、なのにやるべき時には各々の確固たる信念でもって何故かうまく機能して目的遂行を目指している艦。しかもみんな酒飲みだし。私もあっこのドクターみたいになりたいのかもしれん。

ハーロックは私が2回生のころ深夜再放送をやっていて毎週友人と欠かさず見ていた。今でも我人生の指針である。あのアニメのすごいところは最初はもちろんハーロックを応援するわけで敵であるマゾーンなる宇宙人は地球を侵略する悪いやつなのだけど、これが回を重ねるごとにマゾーンには彼らの事情があり同情を向けるようになる。そして腑抜けになってしまった人間が最も憎き存在と映るようになる。最後などマゾーンを束ねる女王ラフレシアにも同様の愛情を注げるくらいになってしまい、最後のハーロックとの対決で何と!彼女はマゾーンの長でありながら・・・・あぁすごいアニメです。かつてのアニメはこうやって「子供向け」みたいな妥協は一切ありませんでした。本質だけをつたえるのがアニメでした。子供を馬鹿にしていませんでした。)

話を戻すと、結局私がこの1年でしたことってそれだけなんちゃうんかと。いや、確かに医学の勉強相当したはずなんやけどなぁ。しかし今回のブログも反省する内容より「ハーロックの話」の方が断然多いじゃないか!