医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

横浜の素敵な文化に触れる

2011-10-20 00:06:45 | 日記
最近横浜が楽しい。ここ半年でバーを始め、焼き鳥屋、ピザ屋など名店にめぐりあえている。その中でも印象的な店に今回出会うことができた。たまたま日曜に横浜で用事があったのだが、横浜の名店はほとんどが日曜休みだったのだ。さぁ、どこへ行こうか悩んだ末に前から気になっていた「IG」さんへ。横浜中心からは少し離れているのでタクシーを使わざるを得ない場所のため今まで敬遠していた店であった。ここが大変なお店だった。名店とは、地域とは何かを考えさせる店だったのだ。

20時前にタクシーで本牧(ほんもく)まで行ってみたがなかなか店が見つけられない。本牧は今はいわゆる住宅街で、ぶらぶら散策しているとそのうち雨も降りだした。今日はついていないな、と諦めかけたときぱっとライトがついたところがIGさんだった。カウンターのみの小さなアメリカンな雰囲気のバー。入るとアロハシャツの似あう物腰の柔らかい笑顔のマスターが「ちょっと買い出しにいってて遅くなっちゃったよ」と迎えてくれた。ちなみにこの店も日曜休みでたまたま月曜が祝日なので開けたそうだ、ラッキーである。さらにちなみにマスターというと「やぎちゃんって呼んでくれる?」と。しかしどうみても50代後半の彼をちゃん付けで呼ぶのも抵抗があったが、彼の人柄がその抵抗を取り払ってくれる。

とにかく彼の人柄が素晴らしいので良い人が集まってくるのは間違いがない。彼も「ここに飲みに来る人はみんな立派になっちゃうんだよ」と。隣では若い芸術家達が音楽とCGの融合について模索していた様子。少しでも悪口や仕事モードの話を始めると「ここでは仕事と悪口はやめようよ~」とたしなめている。なんだかやぎちゃんの柔らかい雰囲気に包まれてしまう。元々は外国人が多く住んでいた地域で、今より大きな店で横浜の文化の発信地であったようだ。多くの有名人がここを訪れたり、ここから全国へ出て行ったりしたようだ。それにしても文化の匂いが充満しているこの店、もともと横浜文化のデザイン関連の仕事に従事しておられ、いくつもの素敵なエピソードを聞かせていただいた中で次の話が何だか印象に残った。

ここの名物は四角いピザとホットドック。日本発の「四角い」ピザだそうで、絶品であった。隣の人たちはホットドックを食べていたが、細くて長い真っ赤なソーセージが特徴的であった。ホットドックもやぎちゃん思い入れのある作品で、彼が小さい時に横浜の球場で食べた味が忘れられないほど美味しかったそうで、この店でこの味を再現しようとしたところ今時この様なソーセージはもうどこでも作っていなかったそうだ。そんな話をあちこちでしていると、ある時「それうちの親父がつくってたよ」という人が現れたそうで、家に残っていたレシピを元に作っていただいたそうだ。つまりはこの店のためだけに作ってくれたソーセージなのだ。しかし問題はこれだけではなかった。このソーセージ、長いのでこれを挟めるパンがない。また今のホットドック用のパンは柔らかくするために必ず少し砂糖が入っているのだそうだ。ただ、彼が再現したいパンは甘くなく、柔らかいものだそうで、なおかつそのソーセージを挟める長さのパン。これもどこでも作っていなかったそうで、どの知り合いに頼んでもなかなか難しいとのこと、4件目位でようやくこの店のためだけに作ってくれるところを見つけたそうです。「お陰で思ったより値段があがっちゃったけどね」と。

ホットドック一つとっても地域のみんなの力を借りて完成したことになんだか感動を覚えてしまったのである。普通お店で出す食べ物なんか、おいしいところで取り寄せたりすれば済む話なのに、みんなを巻き込んで何か一つの作品をつくる。きっとこれがここの発想なんだと。何かと何かを融合して新しいものを作ってゆく感覚ってこれなんだろうなぁと。実際このお店から超有名なバンドが出たりしているのだ。彼の一つ一つを愛している感じがひしひしと伝わってくるエピソードの一つではないか。

急に話は変わるが、最近読んだ現代の空海と言われる中村公隆さんの本の中に、京都の街が数々の災害・人災から守られ発展できているのは空海が命がけで結界をはってくれていたからでそれが伝わってくる、というのを読んだ。しかしそれは空海その街を愛し、その街のことを強く強く思っていることの証である。街の人達が皆でその思いを寄せ集めることがその街を守り発展させることの力になるのだということだ。もちろんその方法論に関してはいい悪いが色々あるのだろうが。IGさんで聞かせていただいた話は、その一つの素敵な方法なのだろうと肌で実感したのだ。

Macintoshとの思い出

2011-10-06 19:04:02 | 日記
スティーブ・ジョブスが亡くなった。昼前それを知った時思いもよらず込み上げるものがあった。私とMAC、いやMacintoshの出会いは長い。当時中学1年(もう20年も前になるが)だった私はとある人の家で初めてそれを触った。確かMacintosh IIであった。パソコンといえばNECの98、ゲームもやっとスーパーファミコンが登場したころであった。マウスで操作できることの驚きと、クラリスワークスで色々なものが作成できたこと、adobe photoshopなんかも当時から入っていて落書きの楽しかったこと、どれも強烈なインパクトを与えてくれた。その人の家ではインターネットもかなり初期の段階で導入しており、初期の頃はホームページ作りの仕事もさせてもらっていたものだ。
 大学に入ると作業の面やソフトが高いことからしばらくWindowsに乗り換える失態を犯してしまった。Windowsは98、2000、Xpまで8年ほどつかっただろうか。私にMachintoshを教えてくれた方はその間、独特の認識システムの開発を夢みられ、住んでいた家を売り払い東京へ出ていかれた。そしてある時突然転倒して入院したと連絡を頂く。本当はこの時に見舞いに行くべきであったのだが、忙しさにかまけていくことが出来なかった。彼は認識システムの表面のデザイン(マスコットのようなものだが)を私に作って欲しいと話してくれていた。しかしその数カ月後連絡が来たときはなんと声がしどろもどろになっており、その時に初めて彼がALSという難病になっていたことがわかったのである。体の運動神経がやられ動けなくなり、最後は呼吸の筋肉もやられてしまう病気である。そしてその後連絡がとれなくなり、彼の足取りを追ったもののもはやどこにいるかもわからなくなってしまったのである。
 その方はどちらかと言うと少し変わり者だった。面白い事を考えてはみんなでするのが好きな人だった。大人はきっと誰も相手してくれず、相手してくれたのは子供ばかりだったのだろう。ただ本当に物知りでいろんなことを教えてくれた。今の私がいるのは明らかにその方のお陰であった。そして彼のお陰で惹きつけられたMacintoshだったのである。物事には面白さやデザインが大事なこと。つまんないことばかり考えていた自分をそっと伸ばしてくれたこと。Macは確かに今も私の仕事を支えてくれているが、今でのその気持ちは大切に頑張れている。ジョブスの死に対し急に感傷的になってしまったのはこの方のことがかぶってきたからだと思う。改めて当時伝えられなかった感謝の気持ちを記したい。
 突然おもむろに彼の名前をgoogleで検索してみた。すると1件だけ、特許欄で引っかかった。その内容を見た時私は衝撃を受けてしまった。その特許はなんと、かつて僕がその人と面白がって発明コンクールに出した食器だったのである。そのコンクールは一次審査は通ったものの二次審査で賞を逃したものであった。私は今までこの思い出深いガラクタが特許になっていたなんて知らなかった。しかも彼の名前でヒットするのはこれのみなのである。ネット上で唯一の情報がこの私との思い出だけ、というのも悲しいと同時に少しでもつながりの歴史が残されていたことに感謝の気持ちでいっぱいになった。