医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

実は病気の早期発見の技術は落ちていたりして

2006-02-20 12:45:29 | 医学ネタ
「人は目に見えないものをいかに表現するかということにずっと力をそそいできた。」
確かにそうだ。宗教も、芸術もまさにそう。水木しげる先生のおっしゃる通りです。そして彼もまた妖怪という分野でそれを表現してらっしゃる。目に見えないものの表現と言う意味では医学もまたそうだと言えます。大昔は占いという分野で、祈祷と言う分野で病気を表現し、現代は科学という分野でそれを行っていると言えます。ただ科学の場合は「見えないものを視覚化する」ということに随分こだわっているわけで、そういう意味で水木せんせのおっしゃっているニュアンスとは少しかけ離れているように思われます。
確かに科学は「でかい」腫瘍を視覚化させることに成功しました。いまや、CT、MRI、PETなどその技術の進歩には暇がありません。しかしこれは逆に言えば視覚化できないことは「ないことにする」ということを意味します。多くの場合CTに写っていなければ腫瘍は「ない」と判断されます。見えないものに関する技術と言えばどうでしょうか。全く手もつけないといった感じです。そのために精神疾患や不定愁訴に関しては昔よりも技術は退化しています。腰痛患者が整形外科を受診したとしましょう。大きい病院ならまず腰椎レントゲンをとるでしょう。ある程度高齢なら何らかの異常は見つかることが多い。椎間が狭くなっているだの骨棘をみとめるだの。で「ここが異常の原因」ということでほとんどの場合痛み止めをもらって帰ることになります。ではレントゲンで異常を認めなかった場合はどうでしょう。やはり「写真では異常を認めないのでそれほどたいしたことはないでしょう」と痛み止めをもらって帰ることになります。とってもとらんでもあまり変わらない結果です。もう一つ言えば、先ほどの異常の原因(骨棘だの椎間狭窄だの)は腰痛のない患者でも多数認めます。つまり「本当に痛みの原因がここなのかはわからん」というわけです。医者がいいわけ一つ見つけるために患者は被爆するわけですから結構割に合わないと思うのです。(もちろんレントゲンで見つかる重要な病気もあるので、それを除外するという意味は大きいのですが)因みに整体ではこういう痛みは腰椎や骨盤の本当に微妙なずれやねじれで表現されそれを補正することとなります。他にも仙腸関節に原因を見いだしている人もいます。仙腸関節炎は写真では見えません。だから西洋医学では診断されません。
まぁこうやって見えるモノ神話は浸透しています。いまや現代人は見えるモノしか信用しません。しかしねぇ、見えるモノだって本当にそれが存在しているのかと言われたら怪しいモノも沢山ありますよねぇ。実際そういうテクニックの詐欺も多いですし。見えないモノを感知する能力、そしてそれを何とか表現しようとする力、それを失いつつある今、私は病気に対しても実は発見が遅れることにつながってゆくのではないかと思うのです。機械は発達し早期発見の技術も進んでいる様に見せかけていますが。

何がハロースイスだ

2006-02-19 21:54:30 | 日記
ハロースイスで私たちのかわいいハイジに変なことをしゃべらせないで頂きたい。何が「ネットで予約すれば保険料が最大7000円もおとく」だ。最も資本主義からほど遠いハイジにこんなことをしゃべらせるとなるともはや侵略、奴隷、強姦という単語がふさわしいくらいである。大体外国資本の保険にお金を使うということがどういうことかをもう少し日本人は考えるべきである。アフラ●クに払った保険料はもちろんアメリカの為に運用されるわけで、我々日本人のために運用されるほど奴らはお人好しではない。
しかし、その後のアルムじいさんのセリフが手ごわい。「うちには車もパソコンもないじゃろ」そしてハイジ「あ。。。(しばらくの間)ハロースイス(と椅子の上でくるくるまわる」じいさん「黙って食べなさい」一見必要もないものには興味を示すな、と保険会社としては自虐的なネタになってはいるのですが、まぁよくもこれだけインパクトの強いCMをつくったもんだ。逆に我々は洗脳されてしまったわけなのだから。
最近この手の知的侵略は至ることろで確認できる。酷かったのはやはりディズニーのプーさん買収であった。くまのプーさんといえば一見あほなふりをしながらも無知の知を貫き人間社会のおかしなところをを暴いてゆくという高等なお話であったが、気がつけばただのアホにされてしまった。私はプーさんは大好きなのだがやはりこういう扱いが酷いと悲しくなってくる。ハイジもこれ以上犯されませんように。

新研修医制度は医者人生に改革をもたらすか

2006-02-12 19:37:50 | 日記
今回の研修医制度と言うのは、つまりは中途半端な権限をもった医師を2年間病院にのさばらせるということでした。責任もあまりない、ということです。ただ程度は病院の方針によって随分格差もあります。私はこの非責任性をあまり悲観的に考えないようにしました。むしろこの無責任性を最大限に「利用」してやろうと過ごしました。自分の考える医療に必要な知識、技術を獲得するために少々無茶をして病院業務をサボってもとある勉強会に顔を出したり、とある集まりに加わったりしたのでした。はたして病院の人たちからは「適当な研修医」と思われているのでしょうが、研修医という立ち位置が適当な存在を可能にしています。積極的にやれと言われますが、やはり責任のないところに積極性はなかなか生まれません。積極的でないから責任を持たせられないという考え方もあるでしょうが、責任を持たせないから積極的でないということも出来ます。まともな人間なら与えられた責任は果たすと言うものです。
ところがこの非責任性を最大限にいかした「非積極性に積極的な人たち」は私だけではありませんでした。色々な形でそれを実践する人たちを目の当たりにすることになったのです。私の知る研修医同士が結婚する話は前回書きましたが、やはり同じようによく知る研修医同士がこの1年で知り合い結婚したのです。このケースもかなり思い切った選択に見えますが、そうともいえませんでした。
今までの研修医制度でこれはありえない話でした。医療人の考えられる最初の結婚のチャンスは大学の最後でした(これを選択した友人も多数います)。この次はどうしてもある程度医療になじんできた頃ということになり、最低でも5年後からというスパンがうまれます。しかもこのスパンで知り合った人たちは5年という長さとそのハードスケジュールからバタバタと破局を迎えます。そうなると交友関係はすでに荒れ野原、次のチャンスは砂上の楼閣。それを考えるとこの研修医期間中というのは結婚相手を吟味する最高の時期といえます。ある程度仕事にもなれてきた、しかも責任は薄い、自由な時間も捻出しやすい、この3つがそろった瞬間です。
今まで医者同士の結婚はなかなか難しいとされてきました。それは上述の理由からある程度キャリアを経てきた2人が同じ道を歩む構造になってしまい、どちらかがそれまでのキャリアの犠牲になりがちだったのです。しかし、今回の研修医制度を利用してできた医者同士カップルはまだキャリアを全く経ておらず、結婚してからキャリアを選択できるというおいしい状態なのです。つまりは子どもが出来たから考えもしていなかった眼科でゆったりやって子育てに比重をおこうとか、結婚するから同じような科でいこうとか、2人で開業する方向で話をつけるとか、私のような貧困な発想はさておきその手のプロに聞けば様々なアイデアが出るのでしょう。これはかなり画期的なことだと思われます。むろん医者同士だけではありません。医師看護師パターンも若年化が進んでいます。知るだけで何組ものカップルが研修医中に結婚、妊娠を迎えています。新研修医制度は時代に逆行し早婚化が進んでいるのです。

この仕組みは研修医以降想定される社会の歯車となった多忙な人生を見越してのことでした。自己の死を目の当たりにしての結婚ということです。学生の間はなかなかその「自己の死」を目の当たりにするチャンスはなく、実感に乏しかった。しかしそれを見せ付けられてのモラトリアムは早婚化を加速させる結果となったのです。これは戦中の構造と同じです。となると晩婚化を食い止める秘策もここにヒントがあるということです。三砂ちづるも賛同していた早期に子どもを産んでさっさと育て上げ40前から生き生きと好きな事をする、こういう人生を送る人も増えてくるのかもしれません。私の住む町はそういう女性が結構多いのですが、皆40過ぎて生き生きと若く美人が多い。かなりお得な人生だと個人的に思うのですが。

幸せは歩いてこないが突然に

2006-02-08 02:00:59 | 日記
昨日夜、突然我ら研修医の内輪では衝撃的なメールが。
「私達結婚します」
それは我らの仲間、研修医同士の結婚であった。
付き合い始めて半年すぎ。短いのかそうでないのかは当事者しか判断できぬこと。
さらには
「お腹の中には新しい命が」
できちゃった結婚という単語がはやって久しいが、彼らにはそういう単語が似合わなかった。まるでそれが自然の流かのように感じさせるほど当たり前に受け入れることができた。「できちゃった結婚」という単語はまさに当たり前の流れが当たり前でなくなっていることを意味したのだ。今更そういうことに気づいた。
私はこの二人の勇気(こう呼ぶにはふさわしくないのだろうが)に心からの乾杯を送りたい。回りに流されず自分達の幸せを追求できていることに。彼らの「できちゃった」にはそういう意思と決意を強く感じたのだ。
そういえば昨日は秋篠宮紀子様も懐妊されたとか。こちらは本当に「できちゃった」であることを祈るばかりである。

社会も身体もJIS規格

2006-02-03 21:55:55 | 日記
チャップリンのモダンタイムズをバーでやっていて思わず見入ってしまいました。本当に素晴らしい!現代社会の問題を戦前にこんなに皮肉に描いているなんて。また出てた女優さん(マスターの話では当時の女優さんはバレエダンサーとかが多かったとか)は現在では見かけないような魅力を持っていてこれまたいいんです。テーマはいくつか感じましたが、今回は効率化と規格化について。

物事の効率化には標準化が必須です。大量生産はそのおかげで成立しました。社会の効率化とはすなわち人間を標準化することから始まりました。人間を標準化し、規格化することによって初めて効率的社会構造を形成できるのです。バラバラは非効率です。そこで人間の規格を作る必要に迫られました。規格の発端は日本の場合明治維新と思われます。当時軍事政策として血税という言葉にも代表される国民徴兵制がとられました。その際必要になったのが兵隊として必要な最低限の規格でした。そこで手っ取り早くそれを知る方法が「健康診断」だったのです。兵隊として活躍できる身体を健康と診断し、そうでない人は病気として治療の対象とされました。治癒の条件はもちろん戦争に出られる身体であることはいうまでもありません。現代医療の発生です。戦後はこの国をより効率的に、経済的に発展させるために働ける身体かどうか、が焦点となりました。そのためには社会を、身体を標準化し、効率化を加速させる必要がありました。医療とはこの標準化した社会に適応できる身体を健康と呼ぶことにしました。逆に言えば何らかの症状があっても、標準化を規定する検査で異常がなければ「正常です」と片付けることにしました。その症状がどんなに苦痛であっても。

身体の不自由な方はその標準化された社会のなかでは生活に困るようになりました。バリアフリーという単語がありますが、おかしな単語ではありませんか。この単語は明らかに標準化された身体、そのための社会様式をバックにしてはじめて生まれうる単語です。バリアフリーは健康な標準化された身体至上主義の中にあります。はっきりいって社会が標準化をやめれば身体に不自由な方もそれなりに生きることができる環境になるでしょう。というより「身体の不自由」という概念自体が薄れるはずです。そして標準化をやめるということは効率化をやめるということです。本当のバリアフリーとはそういうことでなければならないはずです。今のバリアフリーはあくまで「おれたちは標準化をやめはしないし、規格化された人間のための社会をつくり続ける」という前提のもと行われているために、バリアフリー自体も規格化された「車椅子のための~」「目の不自由な人のための~」という発想になってしまいます。ではそこから零れ落ちたひとはどうなるのでしょうか?

別段社会の効率化の流れは仕方がないものと思います。グローバリゼーション(アメリカ資本主義)の名の下随分な暴力でそれを押し付けられている世紀なのです。ただ、いくつかのコミュニティで効率化を完全に無視した街があってもよいのではないかと思うのです。そのためには今や外圧から守るための国家の保護も必要になるかもしれません。ヨーロッパにはそれに近い田舎町が随分見られるような気がします。日本は国土の狭さゆえか、これほどまでに隅々まで都会の効率主義が行き届いた国は珍しいのではないでしょうか。これからは人口も減ってきます。なのにいわゆる「規格外」は増えてきます。そのことを認識した政策は必要です。いや、政策はいらないですが、せめて保護さえしていただければ。そうでなければこれから「病人」はますます増えてゆくでしょう。身体的疾患だけではありません。精神疾患、特にうつ病などはやはり規格外疾患です。精神疾患は現代社会によってつくられたものですから。社会の仕組みと街の構造と身体の構造は常にリンクしています。現代社会の病巣を許容しているのはこの社会の仕組みを許容している私たちです。精神的疾患を許容しているのも同時に私たちということになります。