医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

ひきこもりは効率主義の適応者なのか

2009-12-24 01:24:38 | 日記
突然上記タイトルについて頭にふと浮かんだのでそれについて考えてみることにした。

効率主義は小さい頃から徹底してたたきこまれます。現在初等学校で教えられることはほぼすべてこの効率主義に基づいている。そしてその習得方法にまで効率主義が徹底されており、それを専門に扱うのが塾といわれる場所なのである。子どもたちはいかに短い時間で大量に暗記・処理できるかを競う。その勝者が受験の勝者であり、現代社会で「頭がいい」と言われる価値基準をみたした者なのである。彼らは社会人になっても手際よく情報を処理し、仕事の効率化を徹底することで「できるやつ」と言われるようになるのである。ものを覚えるのに時間がかかり、何かを処理するのに時間がかかる人は「頭が悪い」と判断される。現代社会の「頭がいい」基準なんて所詮そんなものである。たとえば、確かに医学や法学の勉強をするには大量の情報を処理する必要がある。効率が悪ければ6年たっても網羅できないだろう。そういう意味で別に効率主義が悪いとは言わないが、ほとんどそれだけで評価されている現在の賢さの基準なんてずいぶん薄っぺらいものである。

効率化はいかにして獲得できるものなのだろうか。一言でいえば適切な「反射」が身についているということである。何らかのインプット、刺激があったときにすぐに期待されるアウトプットができる。そのためにはその間にある回路はとても単純でなければならない。複雑であれば瞬時に反応することができない。記憶も単純化されなければ大量に覚えることはできないし、すぐに必要な記憶が呼び起こされることもない。そしてこの単純化は科学の理論に基づいてなされている。

科学は数々の要素をできるだけ取り除き純粋な状態で起こる出来事を予想する。数学も化学も物理もそうやって発達を遂げた。(確かに今は複雑系なる概念も浸透し頭打ちになりつつあるが)細かな要素を排除すればするほど単純な力学になり、結果の予想がつきやすい。こうやって発展した科学は産業革命以後人間の文明の進歩を加速的にすすめたのは事実である。効率的なエネルギーの抽出、効率的な物質の生成。そのためには他の要素は極力減らしたい、下界の刺激はできるだけ避けたい。純粋な場所が必要になる、それが実験室であったり工場であったりするわけです。

話を学童期の子供たちにもどそう。とにかくそういう効率化を求められて子どもたちは育つ。大量の情報処理を強いられる中、やはり多くの要素はそれを邪魔するのである。横にテレビがあれば勉強が進まないのは当たり前、友人達との人間関係もその人の心をわずらわせたりもする。そんな状態では効率化は達成できるわけもない。そいういう中でも適当にできる子供もいるのですが、人間には能力差が歴然としてあります。どんなに訓練しても100メートルを11秒台で走れる人はそうそういない。それでもよい大学に受かって良い企業にいく、そこでの超効率的な処理を求められる。彼らに残された究極の戦略が引きこもりだろうと思うのです。とにかくすべての刺激をシャットアウトする。現時点で自分の処理できることをとにかく効率的に処理することに躍起になる。目の前のテレビゲームやネットの世界での処理にいそしむわけです。よく考えればテレビゲームなんてのは究極の効率主義です。シューティングもアクション系もとにかく与えられた反射を鍛えるゲームです。ロールプレイングでもかなりの効率性を期待されています。

家の中という純粋な空間・環境では自分の予想通りにほぼことが運ぶ。この中では効率的にふるまえる。せいぜい母親との関係をなんとかすればよい。彼らは効率主義の世界にそうやって適応している。しかしそれでは予想外の刺激、変化は当然受け入れられない。思考回路の硬直とともに、身体の硬直も生むのだろうと。こうして引きこもりは出来上がってしまうのではないかと。効率主義の徹底した形が引きこもりに反映されているのではないかと、思ってしまうのである。

効率主義は常に競争をベースに持ち込まれます。他よりいかに早く処理をしてこちらに勝利と利益を呼び込むか。そして適切なすばやい反射は戦争にも応用されるわけです。現在効率主義が資本主義を引っ張っています。処理の遅い人、反射の遅い人は社会にとって使い物にならないと評価されます。ひきこもりは資本主義の究極の適応者であり犠牲者です。そして資本主義を容認している我々は加害者に他なりません。仕事ができることを誇るのはもうやめたいものです。そういう意味で健康を誇るのも長寿を誇るのも全部やめたいものです。

月をめでる感受性

2009-12-03 00:37:17 | 日記
今日の月は奇麗でした。その月を見ていると本当に吸い込まれていきそうになるくらい。その月を通して一体何を見ていたのでしょうかね。豊かな時間。しばらく見ていると透きとおった空気の存在を感じてきます。どうやら月影が空間を照らしていたのですね。自分と月との間にある何かを。

もしかしたらこの瞬間、自分の身体には何らかの変化が起こっていた可能性があります。鈍感なので気づいていないだけかもしれません。でも何らかに感動したり、安心したり、勇気づけられたりした瞬間、その人の身体には変化が起こっていると考えてよいと思います。身体に変化を起こす、これを医学用語では治療すると呼びます。何らかの薬を使ったり、手術をしたりすることで身体に変化を引き起こし以前とは違う状態にもっていくわけですから。その変化が前より心地よい状態、良い状態であればそれは治療と呼べるわけです。

究極の治療はその人の価値観まで変えてしまうような変化だと思います。たとえば末期癌の人で、自分の不幸をうれいて嘆いている毎日。抗がん剤・放射線治療で少し進行を遅らせて長生きできるようにするのも治療のひとつでしょうが、その間にその人に何らかの身体の変化が感じられて、人生を受け入れられたり、喜びを見つけられたりできたときに治療の甲斐があったなぁと思えます。そうであれば月をめでることは素晴らしい治療足りえると思えるのです。

医療業界はエビデンスでいっぱいです。血圧を下げれば脳卒中の死亡率が下げられるだのなんだのをたくさんの人体実験(言い方は悪いですが)で証明するわけです。血圧を下げない人たちと下げる人たちに分けて。でもその差は結構微々たるもので、もしかしたら月をめでている方が良い効果があるかもしれない。それは誰も証明していないだけで、また証明するのも今の実験方法ではかなり困難なだけで。というのは実験では多くの寿命に関わりそうな考えうる要素をできるだけ排除しないと証明にならないからです。そもそも月をみて「ああ、いいなぁ」と思える人にも個人差がかなりあります。ヨーロッパ人にはそのような習慣があまりないと聞いていますし、どちらかというと不吉で恐ろしい対象に感じる人たちもいるようです。

結局人間の身体感覚はかなり個人差があります。降圧剤ひとつとっても現れる副作用も多様で、その効果も多様です。もしかしたら、降圧剤を飲み始めてちょっと動悸がするから重い荷物を持たなくなったことが脳卒中を減らしたかもしれない。その薬を飲み始めて行動様式がほんの少し変わったことが影響を及ぼしているかもしれないのです。だから医学のエビデンスは相当微妙なところだと思います。なので私はあまり信用はしていません。月をめでて感じることが人それぞれ全く違うであろう位に治療の効果も違うのだろうと思うのです。その平均をとったらたまたま少し有意に出ただけだろうと。

また今日、あの満月を眺めた時間が長い人ほど身体によい変化があったからと言って、長い時間月を眺めていればいいというわけでもありません。その人はおそらく何か感じるものがあったから長い時間眺めていただけであって、眺めるほど健康になれるわけでもないのです。あの満月をいいなぁと思える感受性をどこかで身につけなければならない。そう、そういう意味での「感受性」がどうも治療に大きな影響を及ぼしている気がします。(決して僕らが普段医学で使う「抗菌薬の感受性」のような意味ではなく)