医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

ドラえもんの権力構造その2 ホリえもんとはよく言ったものだ

2006-01-31 18:15:29 | 日記
前回のび太のドラえもんへの依存の構造について書いた。前回の話はどちらかというと社会的弱者の権力にたかる構造という視点から書いたもので、医療なんかにもはびこる問題であった。今回はまた別の視点から捉えなおすこととする。のび太のドラえもん依存には5つの欲望が絡んでいて、その権力への欲望の解決策としてドラえもんが存在していることは前回書いた通りである。この構造は権力への闘争である。そしてのび太はその権力へのコンプレックスを絶対的価値であるドラえもんの出してくる物質的解決策に頼ることで解決しようとしている。ドラえもんはあくまで物質しか提供できず、あとは後ろで見ているだけ。アラジンの魔法のランプの精のように存在が力になってくれることはないのである。物はやるからあとは自分でなんとかしろと。これは究極の物質である「お金」の提供とほとんど同値である。お金はある程度万能であり自分の持つコンプレックス、権力への意思を解決してくれることは多いのである。そして欲望をみたす資金を集めだすと徐々に手段を選ばなくなってくる。卑劣な手段を使ってでも集めようとする。そして集めた金でありとあらゆる欲望を解決しようとする。欲望はエスカレートしてゆき、破綻のパターンははまり込む。破綻のパターンは2つである。違法な多額の資金に目をつけられると必ず暴きにかかる権力が現れ、大抵は不正をひねり出され裁かれてしまう。もう一つは資金繰りを派手に拡大しすぎて自爆してしまう。どちらも前回どこかでみたような構図である。現実社会でもお目にかかっている。後者はバブルによる没落であり、前者は新興IT企業の経営拡張しすぎによる他の権力からの告発による没落である。そして没落後の彼らが泣きつく先はやはり金なのである。

ではのび太はどうすればよかったのか。権力的基盤を持っていなかった彼はあの町でどう振舞えればよかったのだろうか。のび太はのび太として泣き虫で弱虫でドジでのろまに生きていけばよかったのではないか。秘密道具を手にしたのび太は明らかに行動も思考も異常な変貌を見せた。それは権力を手にしたときの行動適正を表しており、彼にはその適正がないことを示してくれた。権力を適正に扱えない人はやはりそれなりの権力しか手にしてはいけない。大丈夫である、それでもそれなりの幸せというものは存在するはずである。ドラえもんなどに頼るべきではなかった。

しかしだ、実際現実にドラえもんは存在したのだ。ドラえもんの存在のためにあの町はすべての関係が一変しようとした。不思議なことに最初のび太以外は誰もあまり直接ドラえもんとは関わろうとはしなかった。みんな基盤があって、ドラえもんと関係など持たなくても普通に生活ができたのだ。そんな中ドラえもんが登場し、のび太がドラえもんを使ってみんなの基盤を脅かしにかかった。彼には基盤を脅かすなどという意識はなかっただろうが結果的にはそうなった。みながドラえもんの道具の力に翻弄されていった。権力基盤の住み分けが次々と崩されてゆくさま。壊れ行く秩序。ドラえもんの道具はあの町には明らかに異質な力なのである。ただしずかだけがその基盤の侵略にやや肯定的態度を示すことがあったのも興味深い。ドラえもんの道具に頼り手に入れた権力に対して言った「のび太さんすてき」というせりふが印象的である。彼女には他者の権力基盤に乗っかるという道が残されていたのだ。そういえばもとはといえばドラえもんはのび太がしずかと結婚できるように派遣されたロボットであった。ならばこのまま行けばのび太は最終目標であるしずかを嫁にすることを勝ち取るのだろう。見事なものである。しずかが望む権力構造と同じものをドラえもんの道具は所有していたのだ!なんとお似合いのカップルではないか。

のび太の終焉についても言及せねばならない。パターンは3つしかない。1つは先ほどの破綻のパターンが大きくなりすぎて取り返しがつかない時である。子供のうちはまだかわいいものである。毎回ドラえもんの放送で笑ってすむ程度であるが、大人の世界ではそうもいくまい。2つめはドラえもんがいなくなるか、ドラえもんが想定外の行動をとるようになったときである。突然ドラえもんが言うことを聞かなくなった、ドラえもんがジャイアンをひいきするようになったなど。3つめはみながドラえもんを持つようになったときである。2千何十年かにはみながドラえもんを持つらしいので、そのときにはもとの権力構造がまた力を持つのであろう。そしてのび太の終焉はかなり早い時期に訪れることが想定される。それまでにのび太はしずかをものにできるのか、これがポイントとなろう。ただしものにできるころにはしずかには目も向けなくなっているような気がするが。

さて、のび太をホリえもん、ドラえもんを資本経済に置き換えてよむとことははっきりする。そういうことだったのか。世の中は。ホリえもんとはよくいったものである。

ドラえもんの権力構造

2006-01-30 20:00:53 | 日記
ドラえもんを私はあまり好きにはなれなかった。今でも私にとってあの漫画はどちらかというと子供には見せたくない漫画の部類に入ってしまうのだ。子供のころもポケットから出てくる道具は確かに魅力的ではあったがどうしてか「あの道具を代用すれば十分なのに、もったいない」とひねくれたことを考えていた。また話の構造が常に「のび太がいじめられる→ドラえもんに泣きつく→道具の登場→道具で打ち負かす→道具を悪用する→結局のび太が損をする」のパターンにすぐ飽きてもいた。ただしこの構造に人気の秘密が隠れているには違いないのだ。

のび太が虐げられるパターンにはいくつかあるが、特筆すべきは人と虐げられる理由が一対一対応になっている点である。ジャイアンには体力的権力で、スネオには資本的権力で、しずかには社会的権力で、出来杉には知的権力で、ママには親的権力で虐げられるのである。(ここにパパが入ってこないことは特筆すべきである。またしずかに対しては性的権力ともいえる力で全ての権力をコントロールされている場面も多々もある)これはまさに現代社会が抱える5大権力ともいえる。ドラえもんに泣きつくのび太、これは明らかにこれらに対しての強いコンプレックスの現われでもある。この5人さえいなければのび太はとても平和に幸せに生きることができたのだ。

さて、すべての切り札はドラえもんである。彼に頼めばすべてを解決してくれるのだ。最近ののび太はそのための手段を選ばない。昔は真実の悲しみからドラえもんが哀れんで道具を出してくれるパターンだった。元はといえばドラえもんはふがいないのび太のために未来から派遣されたのであった。がそういうことは毎回は許されず、いつのまにやらのび太のわがまま放題泣き放題、挙句の果てにはドラえもんをだましてまで道具をふんだくる回まで出現をみた。のび太にとって全ての解決の糸口はドラえもんであり、ドラえもんを攻略する方法さえ確立すればあとは何だっていい、という価値観にまである意味成長を見せた。この構図、歴史はどこでもみることができる。いつまでも無償で施しを受け続ける事など本当はできはしない。しかし一度そのシステムを手に入れてしまえば人間はそこから最大限の施しを長期に手に入れる方法を考えそれに完全に依存してしまう。

道具を手に入れた後はしばらくのび太の独壇場である。その道具で彼のコンプレックスと欲望を存分に満たすのである。そのときののび太の顔といったらどれだけ悪い顔か。それは虐げられたものの復讐の顔である。さらにいえばその際ののび太は意外とずる賢い。次から次へと悪巧みを思いつく。こういうときだけ頭がよく働くのも何かあるような気がする。つかの間の人生の謳歌である。しかしそれも長くは続かない。破綻のパターンはいくつかあるのだが、大きくは2つしかない。1.相手にドラえもんの道具だとバレる。あの世界ではドラえもんの道具で何かをするのは卑怯、ということになっている。最近では何かことあるごとに「のび太、またドラえもんに何か借りただろ」といわれる始末だ。その挙句道具を分捕られるか仲間はずれにあうかどちらかなのである。2.道具の使い方がわかっておらず制御不能になる。表層的使用法しかわかっていないため、その道具が及ぼす影響がわからず、使用しすぎたり、わからない使い方をしてみたりすることによる。まさに「身の程を知らない」ためである。この2つの結果最後はまたドラえもんに泣きつくのである。彼の道具のために引き起こした不幸であるにもかかわらず、のび太はドラえもんに依存するしかなくなっているのである。ドラえもんが現れてからあのコミュニティーは更に悪化を見せたはずである。のび太はドラえもん登場以前の方が仲間と楽しく過ごせていたと推測できる。回りの人たちからしても今やバックにドラえもんがついているのび太は対等に扱える存在ではない。一見そのほうがのび太は守られているように感じるがコミュニティーの観点から見れば彼は更に孤立を深めているはずである。この孤立はドラえもん依存を更に助長してもいるのである。ドラえもんに頼る限り彼は他の友人には相談できなくなっているのである。のび太周辺の友人関係はかなり微妙ではないか。空き地もある昭和40-50年代を彷彿とさせる設定でありながら信頼関係の築けないあの希薄な関係、まるで今の日本を予言するかのようなありさまである。携帯もない、テレビゲームも普及していない、いびつな繁華街もないあの町でドラえもんの存在のためにああいう関係が起こりうると予想していたことはすごいことではないか。

しかし依存されているドラえもんもそれほど馬鹿ではない。さすがに同じ手助けは2度はしない。そういう場合のび太がとるべき行動は1つである。現在の未解決になってしまった問題はおいておき、新たに問題を提示することである。ドラえもんは毎週その問題に対しては1度は手助けをしてくれるのである。問題といってもそれほどたくさんあるわけではないから、その問題は細分化してゆく。ジャイアンにいじめられた、のではなくジャイアンにこういう理由で、手段でいじめられたと。(ゆえに秘密道具は細分化したものになってゆく)細分化してゆくことでまだまだ道具は引き出せるのである。のび太は不満を次々と細分化させてゆくであろう。しかし本当に解決したい問題は上記5つの欲望くらいなのであり、細分化によって本来解決すべき問題が益々見えなく、かけ離れてゆく。完全な悪循環である。ドラえもんもどうすることもできない、というよりドラえもんも本質がもはや見えなくなっているのである。

ドラえもんとのび太の関係は権力への依存のからくりを見事に表現している。ドラえもんのとるべき行動は限られている。のび太から手を引くか、本質的問題に立ち返るか、のどちらかである。が本質的問題への立ち返りはきわめて難しいであろう。一度くらいは「どうしてそんなにジャイアンより力強くなりたいのかい?」と切り込んで見てもよいのではないだろうか。今度の映画で「ドラえもん、のび太の禅問答」と称してやっていただきたいものである。もしくは新たな価値観を提示したりはできないのだろうか。でもそれはロボットだから無理というものか。そういえばあの映画シリーズはその解決策をチラリと見せてはくれる。映画に限ってあの非日常環境で仲間は仲良く力を取り合い、のび太にも自立が見られるのである。ということは悪いのは日常なのか、あの町の構造なのか。。

ガンダム好きへの医療系ハローワーク

2006-01-27 00:30:31 | 日記
現在整形外科を回っている。毎日朝から晩まで手術室でトンカチやっている。まぁなんと大腿骨の骨折は多いことか。ところでガンダムの好きな方、ガンダムプラモデルにはまった方、転じてガンダムを本当に作ってみたいと思った方は是非整形外科に興味をもってもよいのではないかと思います。
モビルスーツとはいったい何なのでしょう?(ガンダムの世界では人間の操縦するロボット達をそのように呼ぶのです。)直訳すれば機動性(可動式)衣装です。さらにモビルスーツは何故か人間の形態が多い。戦う為の機械ならもっと効率的な形があってもよいとは思ったことはないですか。(モビルスーツの役目は戦うだけではなく宇宙空間での作業も含めてだが)この答えは簡単で操縦するのが人間だからです。人間は自分の身体を基準にしかものを考えられません。自分とは全く違う構造のものは想像することすら困難でとっさの操縦などできないのである。それはエヴァンゲリオンの世界でも同様でした。特にメカを脳神経系で動かすとなるとなおさらです。
モビルスーツは人間の延長上なのです。そう考えるとモビルスーツとは人間の機能をより何かに適応させるために高度にもっていくために人間が身につけるもの、ということになります。だとすれば、究極的にはガンダムに行き着くのかもしれませんが、視力を向上させるメガネはモビルスーツです。歩行機能を上げる靴もモビルスーツです。体温保持の服もそう言えるかもしれません。車椅子だって、義足だって、人工関節だってモビルスーツです。整形外科は低下した人間の可動性を上げる技能に秀でています。スポーツ整形ではさらに人間の機能の限界を向上させるような手術も盛んになるでしょう。今ではなんとか歩行できるところまでもってくる脚の人工関節も健康な人間以上にレベルが上がることも考えられます。人間が超薄膜型もビルスーツに包まれそれを操縦して高機能を維持する時代も近いのかもしれません。

愛がなくなったのではない。死が消えてしまったのだ。

2006-01-23 14:25:26 | 日記
なんとなくまた「たそがれ清兵衛」が見たくなった。相変わらず個々の役者の動きのよさが目立つ。最初に子どもと遊ぶ宮沢りえと真田広之が目を合わせるシーン、子ども達のまなざし、下人の歩き方、お上に下手人成敗を命ぜられた時の真田の肩の動きの変化、前後の身体の使い方の変化には脱帽であった。余呉を討ち取りに行く時の宮沢りえが着替えさせる際の動き、田中泯と真田広之の殺陣シーンの腰の使い方、随所にみどころがあった。
あの映画の趣旨は実は清貧、謙虚、安寧のすばらしさではないのではないかと今回思った。清兵衛の武士として再度目覚めたシーンのあまりに大きな変化、そして朋江の清兵衛の家でのあまりのまぶしさ、これは両方ともに美しく圧倒される描写であり肯定されていた。この描写を際立たせるために清貧設定があったのではないかと思うほどに。
あの映画のキモ、それは死、喪失をもってそのものが得られるという虚無、そして死と愛がいつだって隣り合わせにしか存在し得ないという事実。これにつきるのではないか。清兵衛が朋江に抱いていた恋心。これは朋江の兄からの縁談を断って初めて表在化した。そして下手人討ち取りの命令、彼のここで死を覚悟したがゆえに生まれた朋江への告白。そのものを失う(失いかける)ことではじめてそのものが得られてしまうという事実。男性お得意の「恋人と別れて初めて気がつくあなたへの想い」と一緒である。愛とは失いかけているからこそ初めて意識化されて成立するものなのだ。あの映画では全ての登場人物が何かを失っており、その後の変化が明瞭に色分けされていた。本当に失ってしまった人、そうでなかった人。その対比もみごとであった。娘が最後に両親の墓参りをして終わってゆくシーンと途中の娘のナレーター。蛇足との意見も多かったがこう考えれば納得が行く。戊辰戦争で父を亡くしたとき彼女はそれほど大きくなかったはずである。おぼろげながらの父への記憶と母から聞かされた父の話。その思いはそれほど意識化されてはいなかったはずである。母亡き後初めて父についてその想いとともに語ることができた、父への愛。それがあの話なのである。
「たそがれ」とは日が沈みそうでまだ完全には暗くなっていないのである。相手の顔はまだ何とか見える、そのきわが最も美しく切ないのだ。そして一時でもそれをつかんだのが「たそがれ清兵衛」だった。

懐古主義に浸るにはまだ早いはずなのだが。。

2006-01-13 21:48:54 | 日記
当直明けにもかかわらず昨日は友人のライブを見に行ってきた。彼のギターライブも6回目、だいぶんこなれてきたが回を重ねる毎に彼の友人たちの共演が増え、いつのまにやらピアノ、ギター、テナーサックス、ソプラノサックス、ドラムが加わり演奏に厚みが増してきた。そのお蔭か今回は大いに盛り上がりを見せ異様な興奮を作り上げたのだ。そうだった、活きるエネルギーとはこういうものだった。現行の病院には治療する装置はそろっていても、生きる活力を作り出す装置はない。すっかりわすれていたよ、この感覚。

こちらに来てイーグルスの「Desperado」は本当にいい曲だと思うようになった。純粋にメロディーラインがすばらしいのだが、歌詞に関しても今の自分の心境にもぴったりだ。イーグルスは「ホテルカリフォルニア」を始めとして非常に郷愁を漂わせる曲に名曲が多い。70年代のアメリカを彷彿とさせるメロディーライン、それはその時代、その場所、その雰囲気を見事に描写しており肌で感じとれるほどである。日本ではサザンが同じような楽曲イメージであろう。彼らの曲にも夏の茅ヶ崎という海岸、そこでの青春時代の感情の描写がみごとに浮かんでくる。イーグルスがよりいっそう素晴らしいと感じとれるのはそのイメージしている時代が「今や存在していない」ことにもある。まさに「古き良きアメリカ」だからである。懐古主義、消えゆくものへの情。日本人の好きな。(アメリカではこのCDはやや地味な売れ行きだったそうだ。納得である)サザンの場合も帰ってこない青春時代というものが見事なスパイスとなっている。歌詞についてはかたくなにいじけてしまった野郎に心を開くよう教え諭すような歌内容で、これまた地味な訳だがこういう曲にぐっと来るようになると人生に疲れてるのだろうかと心配になってしまう。
そうだったのか。年をとったわけだ、少し。しかし昨日は本当に楽しかった。

負ける事への追求

2006-01-12 02:15:23 | 日記
惻隠の心は日本の宝。負けの美学はワールドカップの宝。我々はいずれ死ぬ。死はけして負けではないのだが、なくなってゆく、消えてゆくものへの美学、日本人はそれを大切にしてきた貴重な民族。負けへの美学を追求した結果思わず勝ってしまったのがあるべき勝ち方のような気がした。「ワールドカップが夢だった。」杉山茂樹著
というよりそういうことを考えてしまう事すらがだめなのであって、私はこのながめのトンネルを抜けるにはまだもうちょっと時間がかかりそうなのであった。

高野山再訪

2006-01-09 04:04:11 | 日記
和歌山という場所はもはや日本でも数少なき神の宿りし自然が残された場所である。私はこの場所が世界遺産になってしまったことを残念に思っている。ここは世界の遺産ではない。ここはあくまで高野山を慕う者達の思念が集う場であり今も活きている。世界遺産という概念がどういうものなのかは諸説あるが保存のための機構であれば、是非ともこの場所がこれ以上経済に巻き込まれぬよう、道路の拡張を防ぎ、規模の拡大を防ぎ、団体観光客の増加を防ぐ方向にお願いしたい。(おそらく逆の方向で経済的支援がなされるのであろうが)つまりはあくまでその場所を慕う人たちの気持ちからの発展を願うばかりなのである。
昨年一年は自分としても大変なことが沢山あり是非ともお払いに行かねばと思っていたのだが、ようやく昨日高野山に出向くことができた。いつもお世話になっている地蔵様の場所へ行ってみる。昨年もここの地蔵様のお蔭でこれだけ軽症で来ることが出来たのだ。お礼参りである。行ってみると、その地蔵様をいつも守りしているおばあちゃん(100才!であり既に生き神様の風格である)に会うことが出来た。最近は守りをしに来ることもだいぶん出来なくなってしまったようで、非常に幸運である。おばあちゃんの有り難いお話を聞かせて頂くと、昨年の苦労など苦労と呼ぶにあまりにふさわしくないと恥じ入るばかりである。相変わらずの細やかな気配りと溢れんばかりの愛情に心洗われる面持ちであった。
高野は雪景色でその姿を一変させていた。雪は奥の院の静寂と荘厳を更に引き立て、それらが何かの存在を圧倒的に訴えかけてくるのだ。雑音、雑景、雑念、これらを取り除いた時に見えるべき世界を垣間見せてくれたのは雪でした。いつも心に雪を、このイメージは結構いいのではないかと思います。
我が色に 請ふやおほえる 雪化粧

死に際の環境という自己、そして文化

2006-01-05 23:26:45 | 医学ネタ
前回書いた老人観などは医療現場で沢山の老人とその生き様を見ていると否が応でもしみついてしまう。愚直な私はこういう現場に身をおいて初めてそういったことにようやく思いがいたったわけで、そういう意味ではありがたい職場といえるのかもしれない。本日で救急・ICUローテーション最後の日となったが、この3ヶ月様々な死の形にであってしまった。現代社会は恐ろしい事に人生の最期のほとんどを病院で終える事になる。つまり病院では最期の縮図をみることになる。前にも書いたが私はこの国家システムが非常にきらいである。

人が亡くなる時、周りにはいろんな環境が取り巻いている。必死で看病してくれる人たちがいる時、電話で「亡くなったら連絡下さい」という人しかいない時、看病に疲れ果て結局見殺しのような状態になってしまう時、近所の人がイヤそうに時々現れるだけの時、身よりのまったくない時。人それぞれポテンシャルの環境は様々でしょうが、やっぱり死に至る時に周りの環境がどうであるか、大きな問題となる。それを見据えて生きていかないとなかなか幸せな死は迎えられない。元気なうちにそのための努力というものもやはり必要でしょう。生きると言う事は死に場所を見つける事だと。最期の環境とはその人の生き様であり、そういう意味で自分の置かれている周りの環境はすなわち自分と同値である。あそこの家は家族がみんな冷たくて患者さんがかわいそう、ということもよくあることだがやはり本人が長時間かけてその関係を築いてしまったのだ。

カウントダウン方式の生き方は悪くない。死から逆算して生きてゆくことは恐怖ではなく幸福への掛け橋につながる。だが現代人の多くはそれが出来ない環境におかれている。資本主義はいつだって身勝手さを助長する。「私の好きなように生きたっていいでしょ」「迷惑かけなきゃ何やっていいでしょ」もちろんかまわないが、あなたは亡くなるとき必ず面倒をかけるのである、何らかの形で。その想像力には思い至れないように出来ている。何せ死というものに何の責任も必要のないシステムが構築されてしまっているから。病院、葬儀屋、火葬屋。死へのお世話から始末まで全部他人がやってくれる。死に対して生で接するチャンスは皆無に近い。カウントダウンは大晦日とロケット打ち上げだけの行事となってしまった。

今日も寝たきりとなった老人が「動かなくなった」という理由で運ばれてきた。見ると相当ほったらかされていたようでもうどうしようもない状態。救命は余りに困難でこれを何とかしろというのだろうか、とも思うのだが、本質的にはゴミ捨て場と同じ感覚なのだろうと思う。よく解釈しても彼らには「やばそう→救急車で病院へ」という方程式だけが出来ていて先のことなど考えてもいないのだろう。(この方程式を刷り込んだのは他でもない医療と国家なのだが)もう一つは自分達で死をみとる方法論が完全に廃れてしまったのだろう。(これも医療と国家が奪い去ってしまったのだが)医療の仕事の一つに死を彼らに返してあげるという大事業を加えるべきではないかと思う。ただし向こうはかなり嫌がるだろうが。
「文化とは死の風景である」我が師の教えである。もはや医療は文化事業とも融合してゆくのであろう。

なんだってかわいい方がいいに決まっている

2006-01-03 06:27:32 | 日記
わけだ。そんなことはみんなわかってるって?子供だってかわいい方がいい。女だってかわいい方が得をする。でもね、きっと「かわいい」を最も武器に出来るのは「老人」に間違いない。病棟のアイドルを見ればだれだってわかる。かわいい老人はやっぱり愛される。そういう人は「ボケ」症状ですらいいアクセントになってしまう。どんなに頑固でもそれすらがかわいく見えてしまう。老人のかわいさ、はその人の一生の生き方の凝縮。そこが女子供の生まれついた「かわいさ」とはひと味違うところ。
「将来どんな人になりたいですか?」「かわいい老人」
素敵なフレーズだ。是非幼稚園児からこんなせりふを聞いてみたいものだ。
「将来どんな人と結婚したいですか?」「介護しやすそうな老人」
こう書くとちょっとダーク・・・しかし私の知る女性でこういった者がいたので。

老人のかわいいに共通している要素を並べてみよう。(その時にはかわいくない老人も頭に浮かべるのだが)やや頑固なところもあるが、ややボケており、あまりはっきり・素早く話をせず、テンポは遅め、主張はあっても押しつけず、必死な感じがなくひょうひょうとしている。私が生きているうちに獲得したこの生き方をもはや無意識のうちに実践し、生きていけることが無意識のうちに分かっているような状態。一言でまとめれば自我が消失している、かもしくは本能で生きている。
動物の本能とは産まれながらの生活のためのプログラムであり、だからこそ産まれてすぐに立って歩いたり、えさを食べようとしたりができるわけだが、人間は本能を獲得する以前に生み出されてしまう為に生活プログラムが完成されていない。それは教育、によって獲得されなければならない。さらに20世紀風に解釈すれば「意識」がキーワードであり獲得には意識化が一度必要で、獲得後再度無意識化させなければプログラミング化されない、というわけである。そういう意味で人間は生きるためのプログラム構築に対しては広範な可能性を持った生き物だが、動物より退化した状態で産まれてきたとも言える。たとえれば動物は完成されたOS「ウィンドウズXp」であり、人間は「C言語」みたいなもので、その言語からウィンドウズみたいな便利な物を作ろうと思えば作れるのに大変なわけ、でもウィンドウズ以上のものを作る可能性も秘めていると。
まぁ何が言いたいかと言えば、人間はそうやって生きるためのプログラムが未完成なままで産まれてきたわけで、成人の内にプログラムを構築しそれを無意識化して本能で生きられるようになるのが目標なのではないか。動物になるために生きているのだと。その無意識化がうまくいっている例が「かわいい老人」なのではないかと思った今日この頃。

私を形づくりしあなたへ

2006-01-01 05:32:26 | 日記
去年1年は大きな変化の年でした。取り巻く環境が変わりました。出会うべき人種がかわりました。担うべき役割がかわりました。動きが少し俊敏になりました。ものの見え方が少し彩りを持ちました。絶え間ない絶望は相変わらず横たわっていました。しかし希望もころがっていました。大切な多くの出会いと、少しの別れがありました。心が大分ぶれなくなってきました。
去年の今頃はまだ浪人生活だったわけで、当時と今とではミジンコと人間くらい違うようです。ミジンコと人間はその外見の差ゆえお互い何を考えているか分からない。一見大きな差にみえますが、おそらく考えていることはそれほど差はない気がします。ただミジンコに比べて人間はぱっとみの出来ることが少し多いに過ぎません。そう考えるとあまり大きな違いではないのでしょうか。

私というものに本来実体などありません。ただ、私という輪郭を与えてくれたのは大切なあなたでした。輪郭に力と感情を吹き込んでくれたのは愛するあなたでした。あなたのおかげで私は実体を持った人間として生きてこれました。去年1年間何とか人間としてやってこれたのはあなたのおかげでした。本当にありがとう。今年1年、あなたの見つめる方向に少しでも道筋が見いだせますように。そして少しでもそこを照らす光となれますように。