私の絵本好きは一部の人はご存知かと思うわけだが、今もっとも熱いのは「ペネロペ」シリーズではないだろうか。NHK教育でも「うっかりペネロペ」というアニメ番組の再放送をやっているが、とにかくこのペネロペ(青いコアラなのだが)とてつもなく可愛い。しかしかなりのやり手なのである。かわいくてやり手といえば絵本業界で忘れてはならないのは「うさこちゃん」である。ペネロペVSうさこちゃん、この読み比べなかなか歯ごたえがあってよい。興味のない方も少しお付き合いいただきたい。(出来ればここから先を読む前に本屋へダッシュしていただき、うさこちゃんとうみ、おやすみなさいペネロペを読んでいただきたい)
うさこちゃんシリーズの最高傑作はいわずと知れた「うさこちゃんとうみ」であるがこの作品についてわが師五味太郎先生の「絵本を読んでみる」という文庫本にあまりに秀逸な解説が述べられているので是非読んでいただきたいし、今回の解説はこの本に準じて進めさせていただきたい。うさこちゃんシリーズ全編で言えることなのだが、どうも背後が寂しさに満ち溢れている。それはもしかしたらうさこちゃんに表情がないからかもしれないし、あまり両親、特に母親が出てこないからかもしれない。「うさこちゃんとうみ」も「うさこちゃんとどうぶつえん」も何故かお父さんと二人っきりでお出かけしているのである。うさこちゃんの年齢は不詳だが4-6歳くらいとしてもまだまだお母さんに甘えたい年頃、お母さんがついていけないことには何か理由があるはずなのである。その理由についてはあえて書かないがこの母親の不在感と寂しさ、そして父親に対する気の使い方にさらに寂しさが強調されるのである。
対してペネロペシリーズである。こちらはお父さんお母さんがセットで登場し、愛情一杯注がれるシーンがふんだんに認められる。それにしてもやはり背後に寂しさが満ち溢れているのはやはり一人っ子だからだろうか。やけに妄想が多いのも、いたずらが多いことも寂しさからきているような印象を受ける。一見両親とのふれあいも多く満たされているかにみえる主人公ペネロペであるが意外とそうでもないのかもしれない。寂しさのポイントにはペネロペがいつも抱えているウサギの人形「ドゥードゥー」にあるのではないだろうか。なぜいつもドゥードゥーを肌身離さずつれているのか。またよく見ればペネロペの部屋にはおもちゃがふんだんにあるのである。一人遊びも多いところを見ると両親もあまり相手してあげられないところもあるのかもしれない。ペネロペの妄想・行動を両親がとぼけて理解していない(か理解していないフリをしている)ことも結局ペネロペと両親の距離を広げているのだろう。どうやらただのかわいい絵本ではすまない形相を呈してきたようだ。本当のことをいうとペネロペのうっかりキャラクターはあくまで「両親にこびるため」に意識されたものであるということである。どうもペネロペの両親はペネロペの求めていることに答えられていないということである。
それにつけてすごいのはうさこちゃんである。うさこちゃんは両親にこびるために「しっかりした」キャラクターを演じたわけで、ペネロペとはまったく逆の戦略をとったのである。こんなキャラクターがペネロペの世界に登場したら大変である。この差はどこから生まれてきたのか。うさこちゃんのお父さんを考えてみると、随分厳格なかしこまったしゃべりかたをするのである。いわばうさこちゃん世代は団塊の世代なわけで、団塊の世代の父親はそれなりに子供とうまくコミュニケーションがとれなかった。その子供の苦しみと解決方法がうさこちゃんには表現されているのである。対してペネロペの世代はまさに現代の父親像、優しくてもはや父権という単語の似合わない父親像。結局子供はその時々でそれなりに対処しているのである。それでも根本には親子の断絶と寂しさというのが流れているような気がしてならないのである。
うさこちゃんシリーズの最高傑作はいわずと知れた「うさこちゃんとうみ」であるがこの作品についてわが師五味太郎先生の「絵本を読んでみる」という文庫本にあまりに秀逸な解説が述べられているので是非読んでいただきたいし、今回の解説はこの本に準じて進めさせていただきたい。うさこちゃんシリーズ全編で言えることなのだが、どうも背後が寂しさに満ち溢れている。それはもしかしたらうさこちゃんに表情がないからかもしれないし、あまり両親、特に母親が出てこないからかもしれない。「うさこちゃんとうみ」も「うさこちゃんとどうぶつえん」も何故かお父さんと二人っきりでお出かけしているのである。うさこちゃんの年齢は不詳だが4-6歳くらいとしてもまだまだお母さんに甘えたい年頃、お母さんがついていけないことには何か理由があるはずなのである。その理由についてはあえて書かないがこの母親の不在感と寂しさ、そして父親に対する気の使い方にさらに寂しさが強調されるのである。
対してペネロペシリーズである。こちらはお父さんお母さんがセットで登場し、愛情一杯注がれるシーンがふんだんに認められる。それにしてもやはり背後に寂しさが満ち溢れているのはやはり一人っ子だからだろうか。やけに妄想が多いのも、いたずらが多いことも寂しさからきているような印象を受ける。一見両親とのふれあいも多く満たされているかにみえる主人公ペネロペであるが意外とそうでもないのかもしれない。寂しさのポイントにはペネロペがいつも抱えているウサギの人形「ドゥードゥー」にあるのではないだろうか。なぜいつもドゥードゥーを肌身離さずつれているのか。またよく見ればペネロペの部屋にはおもちゃがふんだんにあるのである。一人遊びも多いところを見ると両親もあまり相手してあげられないところもあるのかもしれない。ペネロペの妄想・行動を両親がとぼけて理解していない(か理解していないフリをしている)ことも結局ペネロペと両親の距離を広げているのだろう。どうやらただのかわいい絵本ではすまない形相を呈してきたようだ。本当のことをいうとペネロペのうっかりキャラクターはあくまで「両親にこびるため」に意識されたものであるということである。どうもペネロペの両親はペネロペの求めていることに答えられていないということである。
それにつけてすごいのはうさこちゃんである。うさこちゃんは両親にこびるために「しっかりした」キャラクターを演じたわけで、ペネロペとはまったく逆の戦略をとったのである。こんなキャラクターがペネロペの世界に登場したら大変である。この差はどこから生まれてきたのか。うさこちゃんのお父さんを考えてみると、随分厳格なかしこまったしゃべりかたをするのである。いわばうさこちゃん世代は団塊の世代なわけで、団塊の世代の父親はそれなりに子供とうまくコミュニケーションがとれなかった。その子供の苦しみと解決方法がうさこちゃんには表現されているのである。対してペネロペの世代はまさに現代の父親像、優しくてもはや父権という単語の似合わない父親像。結局子供はその時々でそれなりに対処しているのである。それでも根本には親子の断絶と寂しさというのが流れているような気がしてならないのである。