医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

うさこちゃんとペネロペを読み比べる会

2008-12-08 04:34:54 | 日記
私の絵本好きは一部の人はご存知かと思うわけだが、今もっとも熱いのは「ペネロペ」シリーズではないだろうか。NHK教育でも「うっかりペネロペ」というアニメ番組の再放送をやっているが、とにかくこのペネロペ(青いコアラなのだが)とてつもなく可愛い。しかしかなりのやり手なのである。かわいくてやり手といえば絵本業界で忘れてはならないのは「うさこちゃん」である。ペネロペVSうさこちゃん、この読み比べなかなか歯ごたえがあってよい。興味のない方も少しお付き合いいただきたい。(出来ればここから先を読む前に本屋へダッシュしていただき、うさこちゃんとうみ、おやすみなさいペネロペを読んでいただきたい)
 うさこちゃんシリーズの最高傑作はいわずと知れた「うさこちゃんとうみ」であるがこの作品についてわが師五味太郎先生の「絵本を読んでみる」という文庫本にあまりに秀逸な解説が述べられているので是非読んでいただきたいし、今回の解説はこの本に準じて進めさせていただきたい。うさこちゃんシリーズ全編で言えることなのだが、どうも背後が寂しさに満ち溢れている。それはもしかしたらうさこちゃんに表情がないからかもしれないし、あまり両親、特に母親が出てこないからかもしれない。「うさこちゃんとうみ」も「うさこちゃんとどうぶつえん」も何故かお父さんと二人っきりでお出かけしているのである。うさこちゃんの年齢は不詳だが4-6歳くらいとしてもまだまだお母さんに甘えたい年頃、お母さんがついていけないことには何か理由があるはずなのである。その理由についてはあえて書かないがこの母親の不在感と寂しさ、そして父親に対する気の使い方にさらに寂しさが強調されるのである。
 対してペネロペシリーズである。こちらはお父さんお母さんがセットで登場し、愛情一杯注がれるシーンがふんだんに認められる。それにしてもやはり背後に寂しさが満ち溢れているのはやはり一人っ子だからだろうか。やけに妄想が多いのも、いたずらが多いことも寂しさからきているような印象を受ける。一見両親とのふれあいも多く満たされているかにみえる主人公ペネロペであるが意外とそうでもないのかもしれない。寂しさのポイントにはペネロペがいつも抱えているウサギの人形「ドゥードゥー」にあるのではないだろうか。なぜいつもドゥードゥーを肌身離さずつれているのか。またよく見ればペネロペの部屋にはおもちゃがふんだんにあるのである。一人遊びも多いところを見ると両親もあまり相手してあげられないところもあるのかもしれない。ペネロペの妄想・行動を両親がとぼけて理解していない(か理解していないフリをしている)ことも結局ペネロペと両親の距離を広げているのだろう。どうやらただのかわいい絵本ではすまない形相を呈してきたようだ。本当のことをいうとペネロペのうっかりキャラクターはあくまで「両親にこびるため」に意識されたものであるということである。どうもペネロペの両親はペネロペの求めていることに答えられていないということである。
 それにつけてすごいのはうさこちゃんである。うさこちゃんは両親にこびるために「しっかりした」キャラクターを演じたわけで、ペネロペとはまったく逆の戦略をとったのである。こんなキャラクターがペネロペの世界に登場したら大変である。この差はどこから生まれてきたのか。うさこちゃんのお父さんを考えてみると、随分厳格なかしこまったしゃべりかたをするのである。いわばうさこちゃん世代は団塊の世代なわけで、団塊の世代の父親はそれなりに子供とうまくコミュニケーションがとれなかった。その子供の苦しみと解決方法がうさこちゃんには表現されているのである。対してペネロペの世代はまさに現代の父親像、優しくてもはや父権という単語の似合わない父親像。結局子供はその時々でそれなりに対処しているのである。それでも根本には親子の断絶と寂しさというのが流れているような気がしてならないのである。

NSTという概念に物申したきかな

2008-12-08 00:40:10 | 日記
ここのところ医療ではNSTという概念が流行している。NSTとはnuturition support team、栄養サポートチームである。患者さんの栄養管理について医師・看護師・栄養士など多数の職種がチームを組んで栄養を考えるということです。まぁ表向きの理念はとてもすばらしいと思うのですが、ここのところどうもこのNSTの考え方に懐疑的にならざるを得ません。NSTの考え方を簡単にまとめますと、患者さんの体型や病態によって必要なエネルギー・栄養量が計算でき、これをいかにして採れるようにするかを考えるわけです。場合によっては栄養ドリンクで補ってみたり、経口摂取できない人は点滴で補ったりします。しかし、しかしですよ、必要栄養量を何とか「摂取」すればそれでいい問題なのでしょうか。
 結論から言うと「はたして摂取したものはきちんと吸収され、利用されているのか」という問題だと思うのです。もし同じものを同じように摂取すればきちんと吸収・利用されているのならば横綱と同じものを食べている同部屋の力士は同じような体格になれるのではないでしょうか。大食いタレントの過剰な摂取エネルギーは何に使われているというのでしょうか。同じように食べて太る人と太らない人があなたの周りに沢山いないでしょうか。そもそも同じものを摂取して同じように吸収・利用されているという発想は人間機械論といえます。同じ材料を投与すれば同じだけ商品が出来上がる工場のような発想ではないですか。日常レベルで考えても人間はそうでないことは明白なわけです。それは食べ物の栄養だけではありません。教育の世界でも同じことです。学校で同じように教えればみなが同じように知識を吸収し活用できるのでしょうか。出来ない子、できる子、とある分野だけ突出してできる子、それぞれ違うわけです。試験をしても出来る子は解らない問題が少ないので解らない問題だけ記憶しており、解決してゆきさらに出来る子になります。出来ない子は解らない問題が多すぎて記憶になく、わかった問題ばかり記憶しているために試験で伸びることがありません。解る問題を8割くらい入れておくのが試験で伸びるコツだと思います。また、知識の吸収のためにいかにその問題に興味を示してもらうかに教育者は苦心するはずです。吸収する気がなければ人は吸収しないのです。
 それは栄養摂取でも同じだと思います。永田農法をご存知でしょうか。おいしいトマトを作るためには極限まで水と栄養を制限しなければならないという農法です。水と栄養を必要最低限まで抑えることで植物が栄養を欲しがり、根っこが細くて網の目のように張り巡らされ栄養の吸収力が上がるのです。本当においしいトマトが出来るのですが、手間がかかることなどから商売にはなかなか難しいようです。永田農法は人間にも同じように適応できると思います。栄養の基本はまず人間が栄養を欲し、吸収したいという状態をきちんと作ることからはじめなければならないのです。むやみに栄養を投与していてはいつまでたっても吸収力は伸びません。吸収しても利用されるかわかったもんではありません。コラーゲンを沢山摂取してもお肌は本当につるつるになるでしょうか。摂取したコラーゲンは体内でさまざまな要素に分解され、吸収されます。果たして分解された要素がコラーゲンに再合成されしかもそれが皮膚で利用される保障はどこにあるのでしょうか。むしろ利用力がないから皮膚が悪いのではないでしょうか。大食いの人はほとんど吸収力と利用力が抑制されているわけです。ほとんどの人がやせているでしょう。沢山食べて沢山吸収するのが一番良いなんて嘘ですよ、本当は少なく食べてほとんど吸収してしまう身体が一番に決まっています。それはトマトも証明しているのです。
 とにかくNSTはこういった概念を完全に無視しています。足りなきゃ補えばいいなんて単純な発想に嫌気がさします。消化管はもっと賢くて、偏屈で嫌らしいものです。こんな発想で人間を捉えているからいつまでたっても医療は本質に近づけないのです。