医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

家庭問題についての大いなる違和感

2004-11-25 21:06:22 | 日記
私の大切な友人から貴重な話を聞いた。結婚問題で家庭内が大変だそうだ。その人の妹が結婚しようとしている相手が相当いけてなく、家族としては反対。しかし当の本人(女性)は結婚したい様子。でもめていると向こうの母まで出てくる始末。話を聞いていると完全に息子に依存しきった母親。溺愛する息子には結婚して欲しくてしょうがないようであった。基本的に付き合うレベルと結婚するレベルの差は家族を入れないか入れるか、のレベルだという意見には賛成である。「街場の現代思想」内田樹参照。という事は家族が反対するならば付き合うレベルまで、ということであろう。

家族の重要性が言われるようになってしばらく経つ。アメリカでもこのスローガンは大きな有効性を持っているし、日本でも自民党の憲法改正案にこんなくだりが出てきた。憲法改正のポイント4「家族は、一番身近な「小さな公共」」。まぁ内容の是非は置いておいても家族の重要性を扱う事にはかわりがない。そして医学業界でもいま「家庭医学」といわれる分野が注目を集めている。(日本家庭医療学会)私も勉強会やイベントに参加して勉強中である。家庭医、という概念に関しては包括的に、また患者さんの背景まで考えて治療するといったもので、お産まで概念に含めるものもある。私が目指していた居酒屋系医療でもこの概念に非常に近いのでいい勉強をさせてもらっている。ただ、家族とは何ぞや?とか家族の重要性とは?といった問題になると私はいささかの躊躇を禁じえない。なんだか違和感を感じるのである。

提起される問題、というのはその問題に答える事が答えではなく、その問題を包括するある質問を再設定してそれに答える事でその問題自体が消えてしまう(解決される)、という解決方法があることが多い。またアドラーのように原因ではなく、目的を考えることで解決できたり。「アドラー心理学入門」。こういう問題はより抽象的かつ本質的な質問に多い。「何故人を殺してはいけないのか?」や「人の生きる意味とは何か?」といった問題である。また内田先生の本だが、「死と身体」には「何故人を殺してはいけないのか?」という問題に対してはすでに問いの立て方が間違っている、としています。この様な問いは非常に限られた状況、条件においてしか立てることができません。非常に平和な社会であったり、自分が殺す立場でしか考えていなかったり。文明批判につながる上記の問は、「どのような局面でそれを発せられるのか」という問に置き換えることで解決の糸口が見えてきそうです。

同じことが家族問題にもいえるような気がするのです。家族とは何か、家族の役割、家族の重要性。それを発した瞬間にその問題が解決できない構造にあるんじゃないかと。つまり本来家族、などという機能は現在考えられているものよりももっと希薄で、今家族によって解決すべきと考えられている問題は回りの親戚や、近所の人たちによって上手く処理されていたのではないかと。家族は大切で役割や重要性を考えましょう、と言った瞬間、現在の狭い核家族の箱にすべての問題を押し込むことになる。本当にそうだったのかと、そんな役割が今まで家族にあったのかと。家族関係はとても限定的です。親子、兄弟、夫婦。人間同士の距離はいくつかしか作れません。親子は近すぎるけど、近所の人は顔も知らない。ちょっと微妙な近さの距離の人がいれば解決しそうな問題って沢山あるような気がします。

冒頭に出した家庭では、結局その女の子を近くの知り合いの家に預ける事にしたそうです。丁度いい離れた距離の人たちと話をする事で頭を冷やしたりできるのではないかと。とても風通しのいい方法だなぁと思いました。そしてそういう選択枝を沢山持てる関係は素晴らしいなぁと、心から思ったのでした。家庭を大事に、と言った瞬間家庭は崩れてしまう気がします。そもそも家庭、という概念自体が怪しいのですが。こういうスローガンで一体誰が得をするのでしょう。また裏で何かの力が働いている気がしてなりません。考えすぎですか・・・

2 コメント

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家庭か。佐賀のK君だね。 (ダイチデス。)
2004-11-26 14:01:13
相対的な「家庭」の弱体化はあるんじゃないかと、感覚的に思ってる人は多いんじゃないかな。問題解決の方法論としての家庭の弱体化。家庭の楽しい側面はみんなきちんと心の中にとって置くんだけど、いざ困った時の頼りなさは強調されやすいのかもしれません。国試浪人Pスケの論点を、「その相対的な弱体化を補うものがこれまた弱体化してるんだから困ったもんだ。」と言う風に解釈するのは間違った読み方かなぁ?まぁ間違ってないとして、家庭も仕事も友達関係もどれもが弱体化してるんならもはや「相対的」ですらないんじゃないか、って言う人もいるかもしれない。コリンもドパミンもノルアドも下がってますみたいな。でも、相対的にしか評価できないと思うんですよ。「弱体化」というよりは、むしろ一種のパワーバランスだといった方がいいかもしれない。社会の要請によって、暮らし方の形態が変化するのは避けられないし洞穴で暮らしてた時より比べれば随分な変遷を遂げてきたはずですよね。それに応じた問題処理機構と言うのがあって、長らく「家庭」がそのど真ん中に居座ってきた。そこで行われてきた「解決」には今から考えればかなり強引なものもあっただろうと予想するのですが、兎にも角にも機能してきたわけです。それがまぁ、お母さんだって働きたい!とか、働くにしても過労or寡労の2者択一だったりとかして、時間的・精神的余裕が持てない時代になってきているのでしょう。こういう時代は日本ではもう20年ぐらい続いてるはずなんだけど、やっぱりまだまだうまく対応できてないのかなぁ。遺伝子的な変化を待つしかないんでしょうか。因みに、僕自身の周辺?の事例を少し紹介します。長く付き合った恋人がいたのですが、5ヶ月ほど前に別れてしまったのです。といっても全く縁が切れてしまった訳ではなく、ちょくちょく話をすることなどもままあるわけです。付き合っている時は生意気にも「ケッコン」の4文字も側頭部をかすめた事などもありました。まぁ、そこまではよくある話です。それが先日、その元彼女と僕の母親と僕の弟と弟のフィアンセの4人でジャガイモの収穫に行ったそうなのです。僕はその翌々日に実家にお金をせびりに帰った際にその時の話を随分聞かされたのですが、それがことのほか楽しかったと。道中車の中は大変な盛り上がりだったと。汗をかきかき芋を掘ったのも土にまみれて子供の頃に帰ったかのようだったと。帰りに寄ったレストランも非常においしかったと。しらんがな。う~ん、家庭とそれ以外の人間関係のパワーバランスはここでは随分相対的な変化を遂げているようです。こいつらは人一倍ドライなんでしょうか。あるいは極端にウェットなのかもしれません。ま、そんなことは気にせず僕は自由勝手に人を好きになろうと思っているわけですが。
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Unknown (ぴろすけ)
2004-11-30 21:46:39
家庭のウェイトってそれほど大きくなかったと思うんです。少なくとも江戸時代ごろまでは。それがそこに重きを置くようになった。その原因になるアイデアはまたいつか書きます。

僕が違和感を覚えたのは家庭医療において常に解決の糸口を家庭に求めようとする姿勢でした。例えば父親には早く家に帰ってあげなさいとか。母や子供の体調不良の原因をそこに求めたりする姿勢。実は「家族は大事」という概念に乗っかった瞬間それは事実なんです。でもそうじゃない、と考えた瞬間それはそうじゃない。事実ダイチの家族のそのウェットな関係もとても風通しがよくて、いろんなところでいろんなものを充足しあえる感じがします。よっぽど健全な感じがするんです、僕には。イイナァ
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