医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

人間の病態を研究するとはどういうことか

2013-02-13 23:15:06 | 日記
病態を分子生物学的に考えるということは例えるならとある会社や国の問題点を誰か一人の人物、組織のせいであるかのように扱うことです。例えばとある会社が不正融資などをしており、経営破たんを起こした。原因を追求した結果、経理部長が独断で個人的な融資を行なっていることがわかった。よって経理部長をクビにし、また第三者機構をつくって二重チェックシステムにしました、みたいな。クビが、腫瘍などを外科的に取り除き、二重チェックシステムが薬と対応します。薬というものはほとんどが病態の分子生物学的な構造、仕組みの鍵になっている受容体のブロックまたは刺激するものです。そういう意味ではシステム上とあるところに資源を投入して刺激するとかそういうことが当てはまるかもしれません。

何が言いたいかというと、物事が悪い方向へ進んでしまっている時、確かにどこか一箇所が原因で転んでいる場合はこの方法が有効なわけです。先ほどのの経理部長独断の不正などです。では例えば昭和10年頃の日本が、これから戦争へ突き進むようになった歴史をどうすれば止められたでしょうか。このような問題を扱う場合はおそらく原因は一つではないでしょうし、歴史上誰かとある一人や組織を抹殺すれば解決できた問題でもないはずです。歴史学者はこの話題についてもさんざん議論をしていおりますが、決定的なものなど当然ないわけです。

とある優良企業が社会の流れについていけず倒産した場合はどうでしょう。会社内のシステムそれ自体は問題がなく、どの社員もまじめに必死に働いていたとします。この場合はきっと、社会の流れに合わせて社内のシステムを変えたり、作るもの(役割)を変えたりしなければならなかったのでしょう。これを人の身体に当てはめた場合どうでしょう。うつ病などはこのケースに近いのかもしれません。

例えば先ほどの癌の話、どこかの部署に非常に周りの雰囲気を悪くする課長がいて、部下に体罰を繰り返したりすると。その雰囲気が周りまで重苦しくさせ、全体的に会社の機能が悪くなったとします。この場合その課長を排除すれば後遺症は少し残るかもしれませんが根本的に解決できたことになるでしょう。しかし考えてみて下さい。なぜそんなどうしようもない人が課長にまで就任できたのでしょう。会社の構造に何らかの落ち度はなかったのでしょうか。こうなると問題は非常に難解です。システムの問題にしてしまうとこのような問題は選択肢が多岐に渡りすぎるので非常に解決が困難になるのです。だれか優秀な人事課長がいれば少しはましなのでしょうが、人の身体はそうそう優秀ではないのです。一般企業だって、スティーブ・ジョブズがなぜ自分の会社にいないのか嘆いてもしょうがないでしょう。

おそらく人の身体もその場の流れ、雰囲気に流れて動いているのかもしれません。そして細胞も臓器も自分の内部を守るのに必死です。そのためには他者と協力することもあれば、蹴落とすことだってあるのです。このような微妙なネットワークでなんとか維持している人間の身体というものを分子生物学ですべて解決できるわけがないのです。それは先程かいたように社会問題を一個人になすりつけているのと一緒です。確かに会社における人事異動でとある部署を活気づかせるために、ある場所から明るくやり手の係長を配転するみたいな方法で会社全体が回ることはあるのかもしれません。しかしこのやり方でもひずみはでてくるはずです。やり手の係長が去っていった部署は落ち込んでゆくでしょうし。またこの方法は人間の身体には当てはめることができません。

国が豊かになればなるほど、一見そう見える中に犠牲になる一団がいるものです。それは自国内の貧民層であったり、もしかしたら他国での搾取かもしれないのです。今やっている医療はまさにそういうことであり、どこかにエネルギーをつぎ込んで治すということはどこかが必ず犠牲になっているのです。それは体内でもどこかの臓器が犠牲を被っているかもしれませんし、身体の外で何処かの環境が破壊されているのかもしれません。

世界の歴史の中で、バタフライ現象のようになにかが変わることで何かが大きく変わる流れを作ることができることも事実です。とある人物のある執念が大きく歴史を変えたことも確かにあります。人間の身体にそれを求めることは一代では到底難しいことでしょう。しかし例えば垂れ流しになっている工業廃棄物や空気汚染を何とかしようとすることは可能にも見えます。腎臓病を考えてみても、身体のなかでなぜ、腎臓だけが被害に合うようなことが起こったのか、それはきっと腎臓以外の臓器の多くに原因があるかもしれません。

とある病気が遺伝子の問題だとよく言われます。現代の病理はなんでもかんでも遺伝子のせいにしたがります。しかし遺伝子はたかだか蛋白(構成要素)の設計図にすぎないのです。まさに会社の模型であり、会社の規則にすぎません。その遺伝子からできた蛋白達がやいのやいの言いながら自分たちの持ち場を守るためにお互い切磋琢磨したり、競争したり、喧嘩したり、裏切ったりしているのです。それを遺伝子のせいだけで説明できるでしょうか。身体の中に流れる社会の風潮みたいなものも大きく関与しているのではないでしょうか。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」はまさにそういうものをテーマにしていました。一個人など周辺の環境次第で良くもなれば悪くもなるのです。遺伝子などというアイデンティティは存在しないも同然です。

今年4月から何の因果か、研究の道に進むことになってしまいました。うちの研究所はバリバリの分子生物をやっていますが、分子の構造、仕組みそのものには興味がありません。この分子がこの病気に関係していた、など到底言いたくはありません。現代のいじめ問題を誰か個人のせいにしたり、どこかのシステムのせいにしたりするのはセンスがない様に思えるのと同様です。私は上記にあるようにその分子達、臓器達がとある環境でどのように振舞ってしまうのかに興味があるようです。そういう視線を忘れないようにのぞみたいと思います。

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