南フランスの
プロヴァンスで生まれた
ダリウス・ミヨーは
1920年代に
斬新な音楽を心みる
若い作曲家として
プーランクらと共に
フランス6人組の
一人でした。
ミヨーは20代半ばに
友人で詩人・外交官の
ポール・クローデルが
ブラジル公使として
赴任した時、
秘書として2年間
同行しました。
この地で生活に密着した
音楽を大いに吸収して
帰ったのです。
スカラムーシュより
「ブラジルの女」
(2’18’’)
1922年には
アメリカに
演奏旅行に出かけて
本物のジャズを
ハーレムで聴き
影響を受けます。
ジャズを用いた
バレエ音楽
「世界の創造」は
ガーシュインの
ラプソディ・イン・ブルー
より早く
ニューヨークで
初演されました。
ベルリン・フィル
サ−・サイモン・ラトル
(2’54’’)
生涯に440曲もの作品を
残したミヨーですが
生まれ育った
地中海地方の
明るくて快活な音楽など
あらゆるジャンルに
わたって書きました。
ユダヤ系であったため
第2次世界大戦中は
アメリカに逃れ、
カリフォルニアで
教鞭をとります。
重症のリウマチを患い
生涯の大半を車椅子で
過ごしながら
旺盛な創作活動を
全うしました。