父の日記 昭和17年

昭和17年の日記 
ようやく召集解除 神武屯を発ち東京へ向う

昭和17年3月24日

2005-03-24 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
24日(火) 晴れ 暑し

七時半起床。午前は石原中尉への申送りの為書類
の整理をやる。
昼食を終ってから今井の貨車でΔへ申告に行く。
中隊歓測所は始めて行く。なかなかいゝ所に選定
してある。涯の後に木材を以て屋根を作り敵弾に対して
殆ど絶対に安全のやうになってゐる。命令をみると
三月3日附にて聯隊本部附、兵器掛兼、瓦斯掛
僕の交替が石原中尉、観測掛は相川中尉、連絡
掛は岩本中尉。移動はこれだけ。他の中村、下山、木
村、大野の諸氏の移動は出てゐない。まだ召集解
除の準備ではないのかな。中隊長に申告する。話を聞
くと、僕が此の戦闘が終らない中に本部附にでもしない
と、戦闘間終始小隊長では可哀想だと言ふのだ。
大、中隊長は戦闘が終るまで此の儘でおきたかっ
たらしいが聯隊長の命令でこうなったと。
大隊本部へ行って大隊長に申告。大隊長も同じや
うな事を言って居られた。もう少し中隊におかうと言ったら
聯隊長から統帥権に干犯するかと叱られたなどと
言ってゐた。崎山、窪田に会ふ。30分許り話をする。
本部はManilaへいけないとコボしてゐる。各中隊は
数回Manilaへ行ったらしいとて羨ましがってゐる。
聯隊本部へ行くと今参謀長が来られてゐてR長
が観測所の方へ案内してゐられるので少し待ちなさい
と言はれる。副官に申告する。一時間位待ってから
参謀長は帰られ、聯隊長に申告する。弾薬の事をよく
研究して置けなどと言はれる。
岩本中尉は既に退院して勤務してゐるので兵器
を申受けるのが出来てよかった。誰もゐない所へ来るの
かと心配したが。兵器業務は殆どRstの前
原少尉がやって呉れるらしく本部の兵器掛は大
した事はないらしい。瓦斯掛は敵が瓦斯を使用
せざる限り大した事はないし、今迄岩本中尉が
やってゐた事だから何とか出きるだらう。今日は又方
列へ帰って石原に申送りをしてから本部に来ると断
って又放列に帰る。
石原中尉はまだ中隊へ来ない。一日暇を呉れなん
と言ってR行李へ下がって何をしてゐるのか。早く来な
ければ申送りが出来ないので放列から段列へ下げる
患者があったのでその車に乗って行李まで行ってみる。
明朝早く新陣地の工事を始めると言ふので早く
来なければ申し送りが出来ない。
中隊段列へ行く途中石原中尉が大体本部の乗用
車で来るのに会ふ。今から中隊へ行くのだと言ふ。大隊
長に昨日許可を得て今日一日Rstで休養してゐたのだと。
僕はあとから方列へ帰るから先に行ってゐるやうに言ってst
に行く。患者三名印南、野々川、藤本を段列に
預けそれからRstまで行って此の後兵器関係で世
話になるので挨拶をしておく。新着の軍医が二名
来てゐた。末広中尉と某少尉。Rstはビールなぞを
のんで気焔をあげてゐる。将校が気が揃はず、Rst
長佐藤中尉の所には○野准尉、一門主計だけ。木村
中尉の所に鬼束少尉。長田中尉は只一人。それぞれ
皆別の所に陣取ってお互いに少しも融和しやうとしな
いらしい。佐藤中尉では統制がとれないだらう。
10時頃帰途に着く。もう月齢が八日位なので明る
くて夜道も楽だ。方列へ着くと明朝出発の筈の工事
の人員がゐない。急に変更になって今夕出発したのださ
うだ。新陣地附近は暴露してゐるので敵弾を
受けぬやうに今夕出発せよとの中隊命令に依り
出発したと。第一分隊のみ僕が今井の貨車を使って
ゐたので行けずに残ってゐた。石原中尉が来てゐ
ないのでΔへ電話で呼んだら今夜はΔへ泊り明日
方列へ来て申受けをやると言ふ。新陣地の工事に
は明日は行かないと言ふので僕も陣陣地へ行くの
はやめて第一分隊の工事人員はそのまゝ新陣地へやって
しまふ。方列へ残ったのは各分隊弾薬車長以下
数名。今夜は人員が少なくて寝る所が分散してゐ
るので不寝番を当てない事にする。明日車輌を全
部大砲の傍へ持って来て全部一緒に寝る事に
して不寝番を当てる事にする。
今日聯隊本部へ行ったときに見たノモンハンに
行ったものの功績の発表。僕は瑞六の賜金
230円。丸山中尉は高七級の旭七、2000円
金鵄勲章は大したものだ。僕は殆ど戦闘をして
ゐないので旭が貰へないのだ。僕よりあとから来たもの
は瑞も貰へず、徽章に賜金だけ。木村中尉
などはその組だ。
今度の大東亜戦争の論功には旭が貰へるだらう。

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