父の日記 昭和17年

昭和17年の日記 
ようやく召集解除 神武屯を発ち東京へ向う

昭和17年3月15日

2005-03-15 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
15日 (日) 晴れ 暑し

今日は日頃の退屈を破って久しぶりに射撃をした。
午前中は例の如く退屈にすごす。段列へ被服の修理
を運搬其の他の連絡に長沢伍長と今井をやる。
昨日、中隊長が来た時に乗用車が故障してしまって
放列の進入路の所へ置いて帰ってしまったのを今朝
段列への連絡車で牽引して行く。被服の修理に
は僕の砲弾にやられた夏衣袴を一緒に出す。うま
く修理して呉れゝばまだ結構着られるのだ。
午后はあまり退屈なので隣の第二中隊の方
列へあそびに行く。石井少尉は今日はマニラへ行っ
たとか。白鳥少尉がもうマラリアもなほって元気で
ゐる。二、三時間話をする。第二中隊長家形大尉
の名中隊長の事や、台湾の病院に入院してゐた
時の事なぞ、色々話は畫きぬ。第二中隊は稀に
見る名中隊長と将校の編成も団結力のある優
秀編成で当聯隊中一番いゝ中隊だ、と話し
合ふ。戦砲隊の小隊長が二人共同じ出身であ
るのが全く羨ましい。
四時半頃第三中隊の方列へ帰ると、18:00から
射撃をするから17:00迄に準備をしておけと。
患者が多くて四門の射撃は出来ないと古江
准尉が言ったらしく右小隊だけ射撃するよう
になる。左小隊の砲手が応援に来る。各分
隊砲手が五名ゐればあとは弾薬砲手や自
動車手を使っても射撃は出来るんだが古江准
尉は少し砲手が足りないとすぐ射撃が出来ない
と言ふ。
今日の射撃は我々の担任方面の歩兵が敵の警
戒陣地を奪取して前進するのを掩護するのだ。
18時半頃から試射開始。19時半頃突撃支
援射撃を実施。歩兵の突撃が少しおくれたら
しく、あとから又敵MGの射撃があって突撃出
来ないからもう少し撃って呉れとて又射撃する。
此の時あまり急がせられたので慌てゝ、一、二分隊
共砲口覆をしたまゝ発射して何処かへ吹飛ば
してしまた。もう暗くて分らないので明朝探し
に行くつもりだがどの位吹飛んでゐるか、うまく見
つかればいゝが。此の歩兵は松沢とか松永
大隊とか言った。やっと前進に成功したやうだ。
夜、122iの兵が五名許り迷って来る。まだ昨日着
いた許りださうで前線へ行くのに道に迷ってしまったと。
今夜方列へ泊めてやる。まだ召集になった許りの補
充兵と下士官一名で始めての戦争らしく敵弾の音
に驚いてゐたやうだった。
就床十一時。