父の日記 昭和17年

昭和17年の日記 
ようやく召集解除 神武屯を発ち東京へ向う

昭和17年11月5日

2005-11-05 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
5日 (木) 晴れ 暖し

九時過ぎに隊に着く。十時に本部に集合、聯隊長に
申告、此れで待望久しかりし召集解除の日が来たわけ
だが、満州にゐるときのやうに嬉しい気持がせぬ。ボーっと
した気持だ。衣料切プを貰ひ、経理室で給料、
移轉料等200円余を貰ふ。思はぬ高額の収入だ。
十一時に隊を出る。木村中尉等と江戸川堤を通っ
て市川駅へ。前の島村で除隊者一同中食を食べて
お別れをする。我々十心会の仲間で今後の会合其の他に
就き相談したが議まとまらず、そのまゝ別れる。木村中尉
と二人で有楽町へ出て映画を見る。日劇の磯川兵助功
名噺。行列を作って入場。白昼から将校が映画をみる
のに行列で全く恥をかいた。夕方六時頃出て、木村と別れ
市ヶ谷の軍服屋へ行く。假縫。出来上がりは二十日、料金
38円。八時頃家へ帰る。
昭和十四年六月二十六日大命を奉じ軍務に服してより、数
へてみれば三年四ヶ月。長期の軍隊生活も此れでやっと
無事終了したのだ。而し乍ら今になってみると何の感慨もない。
東京は相変らず賑やかだし、大東亜戦争は何処でやってゐ
ると言ふやうな風景だ。すっかり気抜けがしてしまった感じ
だ。当分何をするのも嫌になった。

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召集解除となり軍隊生活の終了と共に この日記も終了いたします
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昭和17年11月4日

2005-11-04 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
4日 (水) 晴れ 暖し

今日は故田所大尉以下148柱の慰霊祭。
九時頃隊へ着く。今日は畧帽でなく軍帽と指揮刀を
つけて行く。十時から開始、僕は五中隊について参列した
ら中隊長が委員でゐないので僕が先任、中隊の指
揮をとる。大隊指揮の若い中尉に敬礼してしまった
が、僕の方が先任らしかった。
慰霊祭は内地だけに流石に立派だ。遺族其
の他の参列者数百人。僧侶20数名、立派な
荘厳な式だった。終ってから遺骨は皆遺族に渡し、
遺族は自分の夫、息子、兄等の遺骨を胸に抱いて帰った。
其の胸の中は如何、考へても感慨無量、涙を禁じ
得ぬ。僕の部下にも数十名の戦没者があり、遺
族の方も来てゐられた筈だが会って話をすれば、
必ず泣かれてしまふと思ひ僕などにはうまい口が聞け
ないので遂に遺族には会はずにしまった。卑怯な
フルマヒだったか。中村中尉、下山中尉等は遺族
にアイサツして泣かれてしまって困ったと言ってゐた。
中食時に将校団、両大隊長に召集解除の申告
してしまふ。すぐ帰る。
慰霊祭に来た川代、佐藤両氏が先に帰って
佐藤君の家で待ってゐるから是非来いと言はれ
僕と、大野と行く。下山、木村等は始めは行く
と言って乍ら行かないで帰ってしまった。三時頃
京橋の佐藤君の家へ行く。川代氏は来ない。
途中から下山氏が来る。麻雀を半卓やってから
近所の宮川と言ふうなぎ屋へ案内され御馳
走になる。此の所人の家へ行っては御馳走になるばか
りだ。下山氏、大河原氏等に大変御馳走になって
ゐるのに又佐藤氏から御馳走になる。帰還者だ
とて此んなに迷惑をかけていゝものか。
九時頃家へ帰る。軍服の假縫は今日だったの
だが佐藤君の家へ行ったため行きそこなって
しまった。

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昭和17年11月1日

2005-11-01 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
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第三次 小泉内閣
こんな内閣でいいんだろうか?日本はこれからどうなるんだろう?
こんな不安な気持で内閣改造のニュースを聞くのは初めてだ。

息子や孫を戦場へ送り出すことだけはしたくないという思いがつのる。